アイ・ソー・ザ・ライト〜悲しみを歌い続けた真のスーパースター、ハンク・ウィリアムス
ロックンロールの登場によってすべてが塗り替えられてしまう前夜、1953年1月1日のこと。これからの活躍が最も期待されていた29歳のカントリー・シンガーが他界した──その名はハンク・ウィリアムス。エルヴィス・プレスリーがまだ南部の名もなき青年だった頃、ハンクこそがスーパースターの未来だった。
誰もが闇を抱えて生きている。
やりきれない怒り、悲しみ、後悔……。
僕がすべて歌にするよ。
そうすれば、みんなが辛いことを忘れられるだろ。
辛さは全部引き受ける。
アラバマ州の母子家庭で育った幼少時代のハンクは、貧しい生活の中で音楽という光を見る。8歳の時に母親にギターを買ってもらうと、路上で黒人の流し歌手にギターを習った。多感なハンクは路上演奏者から技巧や歌唱を吸収していった。そしてブルーズやゴスペルといった黒人音楽、カーター・ファミリー、ビル・モンロー、ロイ・エイカフといったカントリー音楽の先駆者たちにも耳を傾けた。
才能はすぐに開花して、地元のコンテストで優勝したり、ラジオ局で自分の番組を持つようになった。まだ10代半ばのことだ。その後、自身のバンドであるドリフティング・カウボーイズを結成し、母親がマネージメントを買って出た。学校、ダンスパーティ、酒場などで演奏する日々を送っていく。第二次世界大戦の影響でバンド稼業を休止して、造船会社で働いたこともあった。
1947年にレコード・デビュー。「ムーヴ・イット・オン・オーバー」がカントリー・チャートの4位を記録する。1949年には初のナンバーワン・ヒット「ラヴシック・ブルーズ」を放つと、念願のグランド・オール・オプリ(カントリーの音楽の聖地)の出演を果たしてレギュラーメンバーとなる。スターに登りつめたのだ。
彼はカウボーイ・ハットとウエスタン・ファッションという見た目でも有名になった。南部育ちの男に西部とのつながりは最初からなかったが、自身のバンド名に象徴されるように“古き良き西部”への憧れが強くあったようだ。
それからのハンクは来る年も来る年も、カントリーのアウトローとして後にスタンダードとなる名曲を作ってヒットさせ続けた。「ロング・ゴーン・ロンサム・ブルーズ」「なぜ愛してくれないの」「コールド・コールド・ハート」「ヘイ・グッド・ルッキン」「ジャンバラヤ」「泣きたいほどの淋しさだ」「ユア・チーティン・ハート」など、たった6..