2021-10

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愛と呼ばれるもの〜23歳で逝ったリバー・フェニックスの遺作

若くして亡くなった映画スターたちと言えば、真っ先に思い浮かぶのがジェームズ・ディーン(享年24)。彼がもっと生きていれば、一体どんな作品を届けてくれていたのだろうか? ヒース・レジャー(享年28)やブルース・リー(享年32)、ジョン・ベルーシ(享年33)などにも同じことを想う。1980年に50歳で逝ったスティーブ・マックイーンなんて、きっと今頃は世界最高の名優として君臨しているはずだ。 そんな中、1993年10月にわずか23歳という若さでドラッグが原因で命を落としたリバー・フェニックスのことが忘れられない。この若者がもし生きていれば50歳。キャリア最高の作品に出演して、我々を楽しませたり感動させてくれていると思うと、本当に残念でたまらない。 リバーの遺作として知られる『愛と呼ばれるもの』(The Thing Called Love/1993)は、カントリー音楽の聖地ナッシュヴィルを舞台にした物語だった。監督は『ラスト・ショー』や『ペーパー・ムーン』といった作品で、スモールタウンの詩的な風景を映画史に永遠に刻んだピーター・ボグダノヴィッチ。悪いわけがない。 だが、この映画は興行収入的には失敗して赤字となり、日本では劇場公開さえされなかった。最近になってようやくDVDが奇跡的に再発されたので、改めてこの封印された佳作を紹介したい。 音楽の都と呼ばれるテネシー州ナッシュヴィル。黒人のブルースやゴスペルやジャズと並ぶ偉大なるルーツ音楽である、貧しいアイルランド移民たちによるマウンテン・ミュージックやヒルビリーを原点とするカントリー音楽の聖地。現在大人気のテイラー・スウィフトも、ナッシュヴィルに自作の曲を売り込むことからすべてが始まった。今日もどこかでひっそりと名曲が育まれている、そんな街だ。 1920年代後半、カーター・ファミリーやジミー・ロジャースの歴史的録音によって世に広まったこの種の音楽は、その後30〜40年代には、ジーン・オートリー、ロイ・エイカフ、ボブ・ウィルス、ビル・モンロー、アーネスト・タブ、エディ・アーノルドといったスターの出現で、アメリカの大衆音楽として絶対的な影響を持つに至る。 アーティストと聴衆のパイプ役となったのは、1925年にナッシュヴィルで始まった『グランド・オール・オプリー』という名の伝説的なラジオ番組だった。50年代にはハンク・ウィリアムスと..
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エリック・クラプトンとブラッキー〜ドラッグと酒に溺れた“失われた数年間”から彼を支え続けた相棒

「私はそのギターに“ブラッキー”という愛称をつけた。1956年製の黒のフェンダー・ストラトキャスターだった。デレク&ザ・ドミノスとのツアー中だったある日、白いストラトを持っているスティーヴ・ウィンウッドを見た。彼に触発されてナッシュビルのギターショップに行くと、店の奥にストラトがたくさんあった。当時ストラトの人気はすっかりすたれていて、私は一本100ドルそこそこの安い値段で6本のストラトを買った。イギリスに戻った時に、ジョージ・ハリスンとピート・タウンゼントとスティーヴに1本ずつあげて、残りの3本の一番いい部分を組み合わせて一本のギターを作った。本当はもう1本、あげるべき友がいたんだけれど…それは叶わなかった。」 1970年、エリック・クラプトンはデレク&ザ・ドミノスのメンバーとしてアルバム『Layla and Other Assorted Love Songs(いとしのレイラ)』のレコーディングを終えてすぐにツアーをスタートさせようとしていた。 記録によれば9月20日のロンドン公演が初日となっている。 その二日前の18日…クラプトンにとって大きなショックとなる訃報が飛び込んでくる。 ジミ・ヘンドリックスの急死。 友人でもあったジミがライブパフォーマンスでよくギターを壊すことから、クラプトンはジミへのプレゼントとして、ツアー先で楽器店に立ち寄る都度に程度の良いストラトキャスターを見つけては購入していたという。 しかし…ナッシュビルで買い求めたストラトをプレゼントする直前に、ジミがオーバードーズで急死してしまったため、結局プレゼントするにはいたらなかったのだ。 マイアミにあるクライテリアスタジオでデレク&ザ・ドミノスがジミの曲「Little Wing」をレコーディングしたのは9月8日のことだった。 ジミはデレク&ザ・ドミノスのバージョンを耳にすることなく逝ってしまったのだ。 「もともと私はストラトを弾くプレイヤーだったバディ・ホリーとバディ・ガイに憧れていたにも関わらず、初期の私は主にギブソン・レスポールを使っていた。」 同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交友もあったジミの死は、クラプトンに打撃を与えた。 親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドとの“報われぬ愛”の結末。 さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面して、精神的な支え..
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マイ・プライベート・アイダホ〜23歳で逝ったリバー・フェニックスのロードムービー

1993年秋、映画界で最も期待されていた若手俳優がドラッグの過剰摂取による心不全でハリウッドで亡くなった。その名はリバー・フェニックス。 86年の『スタンド・バイ・ミー』で注目され、88年の『旅立ちの時』では17歳でアカデミー助演男優賞にノミネート。その後は決して大ヒット作ではないものの良質な作品に出演し続け、これからと言う矢先の悲劇だった。まだ23歳だったスターのあまりにも早すぎる死は、世界中の若者たちに衝撃を与えた。リバーにはミュージシャンとしての一面もあったので、音楽ファンにも受け入れられていたヒップな役者だった。 そんなリバーの代表作と言われるのが『マイ・プライベート・アイダホ』(MY OWN PRIVATE IDAHO/1991)だ。ヒッピーの両親に育てられ、幼い頃から各地を貧しく放浪する人生経験を積んでいた彼にとって、この作品に漂う哀切なムードはすぐに心の風景として描けたに違いない。そして実際にリバーは素晴らしい演技をした。それは50年代にジェームズ・ディーンが『エデンの東』で演じた孤独な魂の彷徨いを思い出させた。 男娼という役を演じることには当初は抵抗があったという。しかし、『ドラッグストア・カウボーイ』を撮っていた監督のガス・ヴァン・サントが決して麻薬やホモセクシャルをセンセーショナルに扱うことはなく、“ただそこに生きている人間”として淡々と描くことを知って共感した。また、仲が良かったキアヌ・リーブスとの共演も引き受けた要因のようだ(リバーの最期を看取った親友のレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーも出演している)。 監督曰く「二人はコインの表裏のように違う。リバーはワイルドに即興に近い演技をするし、キアヌはリハーサルの演技をより洗練させる。それでもトーンは揃ってた……この映画では、家は家族や愛、道路は人生という旅、地平線は未来を象徴しているんだ」 ナルコレプシー(発作性睡眠) 発作的に意識をなくして深い眠りに襲われる病気。心のストレスが引き金となる。 物語はアイダホ、シアトル、ポートランド、ローマなどを舞台に綴られていく。マイク(リバー・フェニックス)は、男娼として身体を売りながら日銭を稼ぐ日々を送っている。ナルコレプシーによって眠りに落ちたマイクが見る夢は、何もないアイダホの田園風景に建つ小さな家や、そこにいる「心配しないで。すべてうまくい..
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スタンド・バイ・ミー〜少年時代のイノセンスと友情を描いた心からの名作

子供の頃の想い出を一つの物語にまとめられないかと、ずっと考えていた。そこには愉快な話もたくさんあるけど、悲しい出来事もある。一緒に過ごした仲間たちは目的もなく、手探りで生きていた。 モダンホラー小説家でありベストセラー作家でもあるスティーヴン・キングは、自らの短編集用の1本にそんな構想を立てていた。そして目的を持たせることを思いつき、少年たちが線路づたいに死体を探すアイデアが生まれたという。 この少年らしい冒険を経験した人はいると思う。どこまでも延びている電車の線路は未知の遠い世界へ繋がっているように思えて、子供にとっては好奇心だった。ただそこを歩きたいのだ。 このスティーヴン・キングのホラーとは縁のない短編「The Body」を、『スタンド・バイ・ミー』(STAND BY ME/1986)として映画化したのが俳優/監督のロブ・ライナーだった。ロブは自分自身の子供時代の想い出を重ねながら、この物語に新しい命を吹き込むことに成功。 名優リチャード・ドレイファスとは15歳の頃からの親友関係だったことから、映画出演をオファー。リチャードは友人からの依頼という理由だけで快諾した。結果、リチャードのナレーションは映画にドラマチックな心情を与え、味わい深い余韻を残すことになった。 そして、後にハリウッドで最も将来を有望されることになるリバー・フェニックスがキャスティングされる。ロブは他の3人の少年たちと2週間の合宿を共にすることを提案。演技の指導だけでなく、見知らぬ者同士を仲良くさせるためのコミュニケーションが一番の目的だった。映画の最後にはリバーが去って消えて行くシーンがあるが、リバーが若くして亡くなったことから、今ではとても意味深なカットとして語られることが多い。 そんなリバーの非凡さを物語るエピソードがある。映画の中でリバー演じるクリスという貧しい家庭に育つ少年が、冒険の途中の夜に親友の少年だけに告白するシーン。給食費を盗んだ犯人にされた挙げ句、実はその金で教師が自分の服を買っていたことを知って泣き崩れるところ。 リバーは最初は感情が入らなかった。そこで俳優の気持ちが分かるロブは「それが何かを私に話す必要はないけど、大人たちに裏切られたことを思い出して芝居するんだ」とアドバイス。すると、次のテイクでリバーの演技は完璧になった。彼は本気で辛い出来事を思い出したので、立ち直..
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ディパーテッド〜男たちの“甘い夢”が聞こえてくる完璧な映画

「完璧な作品」と呼ばれるものがある。例えば音楽の世界では、ヴァン・モリソンの『アストラル・ウィークス』やジョニ・ミッチェルの『ブルー』といったアルバムがそう評価されている。一方、映画の世界ではキューブリックやコッポラ監督の代表作などが挙げられるが、ここ10年くらいの話に限定すると、真っ先に思い浮かぶのが『ディパーテッド』(The Departed/2006)だ。 監督はマーティン・スコセッシ、脚本はウィリアム・モナハン、製作陣にブラッド・ピット(当初は俳優としての出演を希望したが、主役を演じるには年齢差が生じたため裏方に回った)。そして出演は、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン、ジャック・ニコルソン、マーク・ウォールバーグ、マーティン・シーン、アレック・ボールドウィンといった錚々たる顔ぶれ。 オールスター・キャスト作品は大抵の場合、俳優たちのエゴ(あるいは強引なミスキャスト)がぶつかって退屈と違和感に覆われてしまうのが定説だが、この作品は違う。どの俳優たちも必要不可欠な存在となって、作品世界が醸し出すムードと色気を見事に捉えた演技を披露してくれる。 『ディパーテッド』はキャラクター設定や演技だけでなく、映像、ストーリー(意味合いも)、編集、ロケ、小道具(特に封筒)の使い方に至るまですべてが「完璧な作品」で、最初から最後の151分間、観る者は映画の持つ圧倒的な力を体験することができる。 多くの映画監督は年を重ねるに従って保守的になっていくものなんだ。が、マーティ(マーティン・スコセッシ)は未だにオープンで何もかもが流動的なんだ。常にマジックが起きる余地をいつも残している。 ──ジャック・ニコルソン 偽りの人生がどんな悲劇を招くことになるか、そこに焦点を絞った。 ──ウィリアム・モナハン 潜入捜査をする二人という点に強く魅かれて映画を作った。まったく別のような作品に仕上がった。 ──マーティン・スコセッシ 香港映画『インファナル・アフェア』がベースとなっているが、スコセッシの言うように作品は実在したアイルランド系やイタリア系マフィアをモデルに“新生”した。アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚色賞、編集賞を受賞。なお、「ディパーテッド」には「この世を去りし者」「本筋から外れた者」という意味がある。モラルが崩壊してしまった現在の社会。『ディパーテッド』は神のいない..
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エリザベスタウン〜絶望して生きる気力を失いかけた時はこの映画を観よう

人生には失敗なんてつきものだし、その経験が成長の糧となっていくことは言うまでもないが、もしスケールの違う“大失敗”をやらかしてしまった時、人は一体どうなるのだろう? 生きている実感を失いそうになった時、人はどんな行動に出るのだろう? 大失敗には質の悪い弊害も伴う。愛の喪失、お金の心配、健康の不調、精神の崩壊、そして世間からの孤立……。 映画『エリザベスタウン』(ELIZABETHTOWN/2005)は、そんな大失敗した者を主人公にした一本。失意の中で様々な出来事と向き合いながら、人は決して独りで生きているのではなく、大失敗しても次があることを教えてくれる、力強くも優しい物語だ。この作品と巡りあった人は幸運だと思う。 監督・脚本は『あの頃ペニー・レインと』『ザ・エージェント』などで知られるキャメロン・クロウ。脚本作りに数年も費やすことで有名で、ストーリーや台詞の組み立て方に評価が高い映画作家。本作では自身の父とのエピソードを織り交ぜた。 もともと音楽ジャーナリストだけあって曲の使い方も秀逸。本作にも抜群の選曲がここぞというタイミングで鳴り響く。当時、クロウと夫婦だったナンシー・ウィルソン(ハート)のアコースティック・スコアも心地いい。アメリカ横断のバス旅行に一緒に出かけたことも映画作りにインスピレーションを与えたという。 失敗とは成功しないこと 失敗は誰にでもある だが“大失敗”は神話的なスケールの災厄を意味する それは人々の噂の種となり 聞く人に生きる歓びを与える “自分じゃなくて良かった”と (以下ストーリー。ネタバレあり) 物語はオレゴン州の大企業で新しいスニーカーの開発デザインのプロジェクトリーダーを担当するドリュー(オーランド・ブルーム)が、会社に大損失を与えるところから始まる。その額は前代未聞の約10億ドル。その大醜態が自分の責任として世間に公表されるのは1週間後。こうして8年間も身を捧げてきた夢が最悪の状態で終えることが決まった。 オフィスに戻ると社長(アレック・ボールドウィン)からも恋人(ジェシカ・ビール)からも“最後の目線”を送られ、解雇されたドリューは自殺を決意。しかしそんな時に限って父の死の知らせが妹(ジュディ・グリア)の電話で判明。つまり、自分が死ぬのは親父の葬儀が終わってからでいい。 父ミッチの故郷であるエリザベスタウンへ飛び立つドリュー..
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オリビアを聴きながら〜六本木・芋洗坂での一人暮らしから生まれた珠玉のメロディー

お気に入りの歌 一人聴いてみるの オリビアは淋しい心 なぐさめてくれるから ジャスミンティーは 眠り誘う薬 私らしく一日を 終えたいこんな夜 この歌は京都出身のシンガーソングライターの尾崎亜美が、17歳で歌手デビューのチャンスを手にした杏里のために書き下ろした楽曲だ。 神奈川県立希望ヶ丘高等学校(定時制)に通っていたの美しい少女のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は1978年11月5日にリリースされた。 尾崎と杏里が初めて会ったのは、その年の春だった。 方や当時16歳の人気モデル、方や21歳にして既に“ヒットメーカー”として注目され始めていた実力派ソングライター。 「創作に取りかかる前に彼女と会って打ち解けて話したい。」と、尾崎は担当者にリクエストをだした。 その頃、尾崎は上京以来“間借り”して暮していた街・六本木から白金台にあるマンションに引っ越したばかりだった。 尾崎は杏里を新居に招待し、16歳の少女がリラックスできるように手料理をふるまったという。 「普段はどんな音楽を聴いているの?」 「オリビア・ニュートン・ジョンが好きです。」 趣味の話、恋愛の話、将来の夢の話…二人の会話は弾んだ。 その後、尾崎はすぐに作曲にとりかかる。 年齢よりも大人っぽくみえた杏里が時折見せた年相応のあどけなさと、自然体でやわらない表情。 その印象から尾崎は、ある女性の姿を想像し、歌を作り上げてゆく。 一人暮らす部屋で、オリビアの曲を聴きながら自分を見つめ直す。 少し前に別れたばかりの恋人を強く拒絶している…。 尾崎は作曲当時のことをこんな風に振り返る。 「歌詞のハイライトで使っている“二度とかけてこないで”という強い言葉も、彼女の柔らかい空気感があれば、とんがった印象は残さない。彼女の笑顔が、逆に強い女性を描く勇気を与えてくれたんです。」 女性が男性を“振る”という設定の歌詞自体が珍しかった当時、10代の女性歌手のデビュー曲としては異例の作品となった。 杏里自身も、この歌を受け取った時は少し戸惑ったという。 いわゆる“箱入り娘”だった彼女は、当時帰宅が遅くなると仕事の現場や遊び場まで、わざわざ兄が迎えにきていたという。 歌詞の内容は何となくイメージできるが、深く感情移入してまでは歌えなかったという。 「まだ10代で、ちゃんとした恋愛経験がなかったこともありますが、詞の意味が深..
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伝説のカントリー歌手ロレッタ・リン〜炭坑夫の娘として生まれて

「Coal Miner’s Daughter(炭坑夫の娘)」/ロレッタ・リン 私は炭坑夫の娘として生まれたの ブッチャーホラーの丘の上のキャビンで 私たちは貧しかったけれど愛があったわ 父さんは貧しい暮らしを支えるために シャベルで石炭を掘ってくれたわ カントリーミュージック。 それは、アメリカ合衆国南部で発祥した音楽である。 「アパラチアンミュージック」、「マウンテンミュージック」、「ヒルビリー」、「カントリー&ウエスタン」などと呼ばれた時期を経て、現在の名称となった。 ヨーロッパの伝統的な民謡やケルト音楽が、ゴスペルなど霊歌・賛美歌の影響を受けて1930年代に誕生したものと云われている─── ロレッタ・リンはそんなアメリカの音楽=カントリーの代表的な女性歌手の一人だ。 今から80年前…1935年にケンタッキー州の小さな炭鉱町ブッチャーホラーで、彼女は炭坑夫の娘として生まれた。 8人兄弟の2番目(次女)という大家族の中、貧しい環境で育つ。 母方からは、スコットランド人、アイルランド人、そしてチェロキーの血を引いているという。 (※現在ブッチャーホラーにあった彼女の生家は、ケンタッキーの観光名所となっている) 1949年、わずか13歳にして結婚。 18歳にして、すでに4人の子供の母となっていた。 幼い頃の彼女は、教会や地域のコンサートで歌う音楽好きな女の子だった。 結婚後は苦難の生活の中、その情熱は家族に向けられるように。 そんな中、5回目の結婚記念日に夫から安物の古いギターをプレゼントされる。 独学でギターを練習しながら二十代から歌い始めた彼女は、やがて歌手になる夢を抱くようになる。 夫と二人三脚で地道な売り込み活動や、ローカルクラブへの出演を続けていると、彼女の歌は次第に認められるようになってゆく。 そんなある日、彼女はテレビのコンテストに出演した。 その放送を見たレコード会社(Zero Records) の社長の目に留まって、ハリウッドでのレコーディングのチャンスを得る。 25歳を目前にした1960年3月に、その音源が1stシングルとしてリリースされる。 その2年後、大手レコード会社のデッカとの契約を手にし、60年代前半にはスター歌手の仲間入りを果たす。 60年代後半になると、彼女はそれまでカントリーの世界で聴かれることのなかった“女性ならではの視点”から..
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伝説の起業家リチャード・ブランソン②〜ヴァージンを一新させたピストルズとの契約と悪評

リチャード・ブランソン──音楽ファンでこの名を知らない人はいないだろう。1970年代のレコード店やレコード会社を出発点に、80年代以降は航空、鉄道、金融、通信、飲料、化粧品、健康、映画、放送、出版、そして宇宙旅行といった分野へと事業を拡大。巨大企業集団ヴァージン・グループの会長としてビジネスや社会貢献活動に取り組むだけでなく、時には熱気球による冒険家として世界に旅立つことでも有名だ。その原点にはどのような風景があったのか。 前回 「伝説の起業家リチャード・ブランソン〜ヴァージン・レコード設立と『チューブラー・ベルズ』」では、ヴァージン誕生秘話とマイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』の成功によって飛躍する経緯を描いたが、その後どうなったのだろう? 1975年。ブランソン率いるヴァージンはより多くのアーティストと契約しようと躍起になっていた。しかし、ピンク・フロイド、ザ・フーといったビッグネームとの相次ぐ契約の失敗は、新興のレコード会社がまだ「二番目の候補」にしか過ぎないことを証明する結果となってしまった。それでは何の意味もないのだ。 「いくらだったら話にのっていただけますか」と、ローリング・ストーンズのマネージャーであるプリンス・ルパートにもアプローチをかけたことがある。「君たちに払うのは無理だろうよ。少なくとも300万ドルだね。とにかくヴァージンじゃ小さすぎるんだよ」と同情された。 そこでブランソンは注意を引くために「400万ドル出しましょう」と打って出た。すると、週明けの月曜に小切手を持参すれば真剣に検討すると言う。その日は金曜だった。時間がない中で何とか資金を調達して相手を仰天させたが、今度は「君たちは競売に参加したばかりなんだ」と告げられる。結局、このゲームに競り勝ったのはヴァージンではなくEMIだった。 私はそれ以上のお金を集めることはできなかった。失敗したことに失望したが、ルパートが喜んで受け入れたであろう300万ドルを500万ドルに増やしてあげたことで、私はストーンズにいいことをしてやったのだ。 翌年になると、本当に利益を生み出してくれるバンドと契約しなければと焦るようになった。マイク・オールドフィールド以外のアーティストは、すべて赤字だったのだ。そこでヴァージンは二つの選択に迫られる。一つはリスクを取らずに今のお金で生き長らえて小さな会..
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バベル〜菊地凛子の演技は息ができなくなるくらい哀切極まりなかった

東京には100m以上の高層ビルが約500棟も建ち並ぶ(2016年現在)。うち約70%はここ15年間で大資本によって竣工されたもの。特に都心5区と呼ばれる千代田、中央区、港区、新宿区、渋谷区には約65%が集中している。背の高い建築物が紡ぎ出す風景こそ東京最大の特徴と言えるが、何か異様なパワーが渦巻いているような世界観を漂わせる都心は、さながらパラレルワールド(同時並行世界)のようだ。 都心のタワーマンションの高層階に居住したことがあるなら人なら誰もが知っている。窓の外に広がっているのは、いつもと同じ場所からいつもと同じ輝きを放つ東京タワーやスカイツリーやレインボーブリッジであり、動きがあるのは首都高を流れるミニカーの群れ、線路を進む蛇のような新幹線、星を望めない夜空に時々過ぎ去っていく飛行機くらい。舗道を歩く蟻のように見える人々がどんな服を着ているのか、雨がどれくらい降っているのか、そこからは何も感じない。 実際に街へ出ても、それらをクリックして中へ入っていく感覚はすでになく、スマホの画面をタップしてSNSの投稿を次々とフリックしているような、上滑りしていく浮遊感だけが強く残る。こんな場所で普遍的な愛や絆、心の体温を感じることは難しい。 映画『バベル』(Babel/2006)には、まさに“現代のバベルの塔”とでも云うべきタワーマンション群や都心の街が出てくる。そこに住む父と娘は心を通わせることができないまま、孤独と葛藤の中に生きていた。 遠い昔、言葉は一つだった。 神に近づこうと 人間たちは天まで届く塔を建てようとした。 神は怒り、言われた。 「言葉を乱し、世界をバラバラにしよう」 やがてその街は、バベルと呼ばれた。 (旧約聖書 創世記11章より) 神の怒りを買ったノアの子孫たちのエピソードにインスピレーションを得たこの作品は、愛の不足ゆえに悲劇が世界の至る場所で連鎖し、そこにいる人間たちが混乱していく姿を描き出していた。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督は言う。「人を隔てる壁について映画を撮り始めたのに、次第に人と人を結びつけるものについての映画に変わっていった」 舞台となるのはモロッコ、アメリカ、メキシコ、そして東京。4つの人間模様が交錯しながら、4つの言語で物語が進んでいく。ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといったハリウッドスターたちのスター..
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