2021-12

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ストレンジ・デイズ〜1999年12月31日の世紀末パーティと電子ドラッグ「スクイッド」

「世紀末」「ミレニアム」と盛んに騒がれた1999〜2000年頃。20世紀の終わりに漂っていた倦怠感のようなものと、来たるべきまだ見ぬ21世紀への期待感のようなものが混ざり合って、何か異様とも思える空気が巨大なビル群や人々を覆っていた。 また、インターネット普及によるサイバースペース(電脳空間)感覚が身近になり、日本でもiモードの登場によってバッグやポケットに入れて持ち歩いていた携帯電話にその世界観が組み込まれた。 映画『ストレンジ・デイズ』(Strange Days/1995)はサブタイトルに「1999年12月31日」とあるように、まさにそんな時代の喧騒ぶりを描いた作品だった。製作・脚本を担当したのはジェームズ・キャメロン。『ターミネーター』シリーズや『エイリアン2』で勢いのあったキャメロンが長年温めてきた企画で、自身の製作会社ライトストーム・エンターテイメントによる『トゥルー・ライズ』に続く第2弾作品にあたる。 舞台は1999年の大晦日寸前のロサンゼルス。モラルが後退して街の至る所で犯罪が多発し、人種差別をきっかけとする暴動ムードも高まりつつある。人々はそんな崩壊寸前の社会でメガパーティを祝福することに心奪われている。 キャメロンはこうした描写を軸に、もう一つ強烈な仕掛けを用意した。それは「スクイッド」と呼ばれる超電導量子干渉装置で、他人の体験を五感や感情とともに再生できるデジタル・ディスク。作家ウィリアム・ギブソンの原作による映画『JM』でも登場したガジェットで、非合法電子ドラッグだ。 セックスやスリルを扱う「スクイッド」の売人として退廃的な暮らしをしているレニーは、警官時代に知り合った売春婦フェイスとの想い出の中に生きている。フェイスは今は音楽業界のドンであるガントの女となり、ロサンゼルスのクラブで歌手活動をしている。 ある夜、売春婦のアイリスが助けを求めてレニーのもとにやって来る。「フェイスも危ない」と一言残して。一方、TVニュースは若い黒人たちの指導者的存在である人気ラッパー・ジェリコが何者かに射殺されたことを伝えていた。 後日、レニーのもとにあるディスクが届けられる。「スクイッド」で体感するレニーだが、それはホテルでアイリスが殺害されるという残虐なものだった。異常事態を感じたレニーは、友人であるシングルマザーで美しいメイスや探偵のマックスの力を借りて事件..
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人の心を動かす歌〜ヨイトマケの唄

今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄 工事現場の昼休み たばこふかして 目を閉じりゃ 聞こえてくるよ あの唄が 働く土方の あの唄が 貧しい土方の あの唄が “ヨイトマケ”とは、「重い物を滑車で上げ下げしたり、網で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。(広辞苑)」とある。 1965年7月、丸山明宏(現:美輪明宏)が作った名曲「ヨイトマケの唄」がキングレコードから発売され翌年(1966年)のヒット曲となった。 しかし、程なくしてこの歌は放送禁止となる。 歌詞の中にある “土方”という言葉がいけないという理由からだった。 1966年(昭和41年)といえば石炭産業のスクラップ・アンド・ビルド政策(閉山合理化)が進められていた時代であり、その国策により多数の炭鉱労働者が職を失った。 そして、旧産炭地の救済処置として道路や公園の整備など公共事業に失対の土木作業員として元炭鉱労働者等が従事した。 「自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだ」という内容のこの名曲がなぜ当時理解されなかったのか? 一部の大人たちの身勝手な言葉の解釈が、かえって差別を生みだしたようにも思える。 1964年(昭和39年)に、この歌は誕生した。 美輪は作曲当時のことをこんな風に振り返る。 「曲を作る時の伴奏には、幼い頃うちの(近所の)お風呂屋があった遊郭辺りを、夕方になると流していた豆売りの大正琴や竪琴の音色を使いたいと思った。」 作ってはみたものの…彼はこの歌をすぐに人前で歌うことはなかったという。 しばらく経って、自身の自宅で開いたささやかな誕生日パーティーの場で、彼はこの歌を初めて弾き語りした。 そこに集まっていた親しい友人達は口々にこう言ったという。 「どうして今まで歌わなかったの?」 「こんな良い歌、もっといろんな所で歌って、大勢の人達に聴かせてあげなきゃ駄目じゃないの!」 彼はまず手始めに、シャンソン喫茶などで歌い始めた。 冒頭の田舎っぽい掛け声に、皆はじめはコミックな歌かと思って笑い出した。 その笑いの中に“ヨイトマケ”、つまり土方仕事というものに対する色眼鏡が感じられた。 その職業に携わる若者達への軽蔑と優越感、それらが吹き出したその人達の笑いを卑しいものにしていた。 歌い進..
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歓喜の歌〜大晦日の大定番「第九」にまつわる3分読み切り豆知識

日本の大晦日の“定番”と言えば… 世代によっては、その過ごし方も違ってくるので、今では「これ!」と言い切るのは難しい。 それでもやはり12月31日〜元旦の午前0時過ぎに“耳にするもの”と言えば「除夜の鐘」「蛍の光」そして…この「第九」ではないだろうか。 除夜の鐘のルーツは、寺=仏教(釈迦)なだけに大元を辿ればインドとなる。 蛍の光のルーツはスコットランドにある。 ベートーヴェンの第九は、言わずもがなドイツである。 日本という国に定着している文化や風習は、良くも悪くも多くのものがミクスチャーなのだ。 この「第九」が日本で初めて演奏されたのは、1918年(大正7年)のことだった。 当時、中国の青島はドイツの租借地であり、日本は第一次世界大戦に連合軍側に立って参戦すると、ここを占領しドイツ兵を捕虜として日本に連行し、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所に収容した。 ドイツ人捕虜たちは、収容所長の松江豊寿大佐の人道的扱いによって自由に音楽を楽しんでおり、同年の6月1日に「第九」を皆で演奏・合唱したという記録が残っている。 交響曲第九番ニ短調作品125(通称・第九)は、ベートーヴェンが作曲した最後の交響曲といわれている。 彼が晩年(1824年)に完成させたこの作品の最大の特徴は、合唱を取り入れていることだ。 当時は「声楽と交響曲は交わらないもの」と考えられいたのだが、その定説が一人の“型破りな音楽家”の手によって見事に覆されたのだ。 この歌詞がつけられた第4楽章のクライマックス部分のことを、我々は日本人は一般的に「歓喜の歌」または「歓びの歌」と呼んでいる。 しかし「歓喜の歌」の歌詞は、全編ベートーヴェンが手掛けたものではない。 ドイツを代表する作家フリードリヒ・フォン・シラーによって書かれた『歓喜に寄す』という詩を基にして、ベートーヴェンが編集したものだという。 フランス革命からわずか3年後の1792年、当時22歳のベートーヴェンは、シラーが書いたこの詩と出合い、深く感動したという。 「いつかこの詩に曲を付けたい!」と心に秘め…32年後、54歳になった彼は難聴に苦しみながらもこの大作を完成させたのだ。 一説では、ベートーヴェンが歌詞を書いたのは冒頭部分の「おお友よ、このような音ではなく心地よい歓喜に満ちた歌を歌おう」という一行だけだったとも言われている。 若き日..
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音故知新①〜カントリーミュージックが生まれた場所

「カントリーミュージックのルーツをさかのぼると、アイルランドやスコットランドからアメリカ東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した移民たちの歴史に辿り着く…」 まず、「カントリーミュージック」という呼び名は1940年代に入ってから用いられるようになったという。 日本が敗戦した第二次世界大戦後にアメリカの音楽産業は再編成され、ヒルビリーなどのマイナーな音楽もこれまで以上に全米のラジオ番組で放送されるようになる。 ところが、もともとアパラチア山脈周辺に住む山岳民に対する蔑称(差別用語)だった「ヒルビリー」という呼び方を嫌う演出家やメディアも現れ、当時はこのジャンル名をめぐる混乱がおきていた。 アパラチアンミュージック、マウンテンミュージック、カントリー&ウエスタン…その呼び方は様々だった。 カントリーミュージックの最初の商業録音(レコード作品)といえば、1923年にフィドリン・ジョン・カーソンという音楽家による「The Little Old Log Cabin In The Lane」という楽曲だと言われている。 フィドリン・ジョン・カーソンといえば、ブルースの最初のレコード作品をリリースしたオーケー・レーベルとも深く関わりのある人物である。 このカントリーミュージックとブルースの“初のレコード作品”に関しては、同レーベルのプロデューサー、ラルフ・ピアというと男が重要な役割を果たしたと言われている。 またカントリーミュージックの中心的都市といえば、一般的にテネシー州のナッシュビルを思い浮かべる人が大多数だと思うが、実は発祥地は同じテネシー州にあるブリストルという小さな町なのだ。 1927年にジミー・ロジャースやカーターファミリーが、この町にあったスタジオで録音したことをきっかけに、現在もブリストルの町はbirthplace of country music(カントリーミュージック発祥の地)と呼ばれており、今では“カントリーミュージック発祥の地同盟”なる組織も存在している。 では、何故ナッシュビルがカントリーミュージックの聖地などと言われるようになったか? それはWSMという小さなラジオ局がこの町にあったことに端を発する。 開局は1925年、このラジオ局で毎週末に生放送された『バーンダンス・ショウ』という番組の登場がカントリーミュージックをアメリカ全土に広げるきっかけをつく..
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あのスティッフレコードから最強ポップチューンを放ったコメディエンヌの華麗な足跡

トレイシー・ウルマン、62歳。 アメリカで成功した最初のイギリス人コメディエンヌとして知られている才女である。 彼女は、歌手、映画女優、テレビショーの司会という顔も持ち、その鋭い人間観察と巧みな形態模写によって様々なキャラクターを演じ分ける稀代のエンターテイナーなのだ。 現在はアメリカでの市民権を取得しており、ハリウッドでも活躍するイギリスの大物テレビ・プロデューサーの夫と共にロサンゼルスで暮らしている。 「昔のイギリスでは、テレビに出てくる女性に笑いなど求められていなかった。アメリカにはルシール・ボールやキャロル・バーネット、ギルダ・ラドナー、リリー・トムリンがいたけど、私の国ではお手本となるような存在がいなかったのよ。」 1959年12月30日、彼女はイギリスのバークシャー州スラウで生まれた。 父親の家系はカトリックを信仰するポーランド人で、母親の家系はジプシーの血を引くイギリス人だった。 彼女が6歳の時に父親が心臓発作で急逝する。 「父は子供たちを寝かしつけるために本を読んでくれている最中に亡くなったの。母がショックでふさぎ込んでしまって…私は姉と一緒になって歌や寸劇を披露して母を励まそうとしたの。」 当時の人気歌手や映画スターや近所の知り合いなどの物まねをすることが彼女の十八番で、これが後のコメディエンヌとしての原点となったのだ。 その後、母親は新しい相手と再婚するが…その男には酒乱という悪癖があり、彼女たち姉妹は喧嘩が絶えない家庭の中で辛い少女時代を過ごしたという。 1962年、彼女は12歳の時に転機を迎える。 当時通っていた学校の校長先生が彼女の演技力や歌の才能を見抜き、ロンドンでも有名な演劇学校イタリア・コンティ学院を推薦してくれたのだ。 彼女はそこで4年間に渡って本格的に演技や歌、そしてダンスの訓練を積むこととなる。 将来エンターテイメントの世界で活躍することを夢見て、数多くのオーディションを受けていた彼女はミュージカル『ジジ』の役を獲得し、16歳の時に念願の初舞台を踏む。 その後ロンドンで『ロッキー・ホラー・ショー』など様々なミュージカルに出演する傍ら、 ロイヤル・コート劇場の寸劇の舞台に立つようになる。 寸劇で演じたナイトクラブ歌手のキャラクターが大ウケした彼女(当時21歳)は、1981年度ロンドン演劇批評家賞の最優秀新人賞を獲得。 その才..
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恋人たちの予感〜大晦日のカウントダウンで結ばれる男と女の物語

男と女に友情は成立するか? セックスは友情の妨げになるのか?──これは昔から恋愛コラムなどで定期的に取り上げられてきたお題だが、答えはYESでありNOだ。どちらかが恋愛感情を抑えているだけの場合もあるし、お互いに恋愛発展などどう転んでも考えられないケースだってある。 『恋人たちの予感』(WHEN HARRY MET SALLY/1989)は、そんな男女間における永遠の未解決テーマを描いた、大晦日にぴったりの映画だ。監督はロブ・ライナー。彼自身が10年間の結婚生活が破綻して再び独身生活を送っていた頃、このテーマを取り入れた映画を撮ろうと思いついたという。女性脚本家のノーラ・エフロンに相談して話し合っているうちに、お互いの会話や考え方の違いが面白くなって、それがそのまま脚本作りに活かされていった。 この作品がロマンチック・コメディの傑作となることは明らかだった。1970年代にウディ・アレンが築き上げたマンハッタンの恋愛美学が全編に渡って漂いつつ、ロケーションやファッションや音楽がたまらなく洗練されていて、観る者を温かく優しい気持ちにしてくれる。そして主演したメグ・ライアンのチャーミングな魅力も大きく、彼女はこの作品でスターになった。 物語はシカゴ大学を卒業したサリー(メグ・ライアン)が親友の彼氏ハリー(ビリー・クリスタル)をニューヨークまで車で送って行くところから始まる。二人は例のテーマについて話し合うが、ハリーはセックスが邪魔をする、一方のサリーはそんなことないと、あまりウマが合わずに、おまけにサリーはハリーが自分を口説いていると妄想したまま別れる。 5年後。空港。サリーが彼氏と熱い抱擁を交わしているところに、偶然ハリーが通り掛る。サリーは記者、ハリーはコンサルタントになっていた。飛行機で隣同士の席になるものの、やはり話は合わない。 さらに5年後。彼と別れたばかりのサリーは31歳になっている。ハリーは離婚が決まって落ち込んでいる。本屋でまたも再会する二人。今度はお互いの近況を話し合ううちに友達になった。以来、マンハッタンのシングルライフの中で友情関係を深める二人。レストランで食事したり、公園を歩いたり、休日を美術館で過ごしたり、クリスマスにはツリーの木を一緒に運んだり。大晦日のパーティでチークダンスをしていると思わず意識せずにはいられないが、笑ってごまかす二人だった。..
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【クイズ】おしりだけで動物を当てられる?

ラクダのおしりってどれ… あなたは全問正解なるか? View Entire Post ›
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ブルーバレンタイン〜多くの夫婦やカップルがいつか必ず直面する現実について

『ブルーバレンタイン』(Blue Valentine/2010)を初めて劇場で観た時、そのリアルさに胸が締め付けられるようになり、どうしようもない気持ちになった。そこには愛の始まりだけでなく、終わりも描かれていたからだ。 ネットでこの映画を検索すると、「これから結婚する人や結婚したばかりの夫婦は絶対に一緒に観てはいけない」と警告する人も結構いるほど。でもこれだけは言える。夫婦生活はいつまでもロマンチック・コメディとはいかない。誰にでも平等に試練やその瞬間は訪れる。 世の中には、若い男女が紆余曲折を経て結ばれるまでを描いたストーリーで溢れ返っているが、その後の続きを誰も知ろうとしない。SNSで結婚報告する人はたくさんいても、離婚報告する人は滅多にいない。だが、この映画は続きを描く。多くの夫婦が直面する現実をこれでもかと伝えてくる。 特に離婚したことのある人、あるいは大恋愛の末に別れたことのある人なら、この映画のどこかに必ず自分の姿を見つけるはずだ。カッコつけることは誰にでもできる。でもみっともないくらいカッコ悪いことは、とことん人を好きにならなきゃできないとも思う。 縮めようとすればするほど、離れていく心。 埋めようとすればするほど、深まっていく溝。 そう、あの惨めな気持ちを経験したことがあるなら、あの自己嫌悪と後悔に覆われた夜を過ごしたことがあるなら、『ブルーバレンタイン』はとっておきの映画になる。 ドキュメンタリー畑出身のデレク・シアンフランス監督は、このインディーズ映画を完成させるのに12年も費やした。その間、66回も脚本を書き直し、1224枚も絵コンテを描いたそうだ。 撮影は結婚前〜結婚後の順に進めたが、主演した二人=ライアン・ゴズリングは役のために額の毛を抜き、ミシェル・ウィリアムズはだらしなく太ってみせた。しかも監督は夫婦役の二人には「共通の想い出」が必要だと考え、実際に一ヶ月同じ家で暮らしてリアルを追求した。 物語はディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)の出逢い/喜び、別れ/苦しみが同時進行しながら交錯する。その対比が切なく、そのどちらの描写も静かに胸を打つ。 流れる音楽もパット・ベネターの「We Belong」やペニー&ザ・クォーターズの「You and Me」といった今どきこんな選曲あるか的なのもいい。ちなみにゴズリング..
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ラ・ラ・ランド〜“誰も知らない音楽”だからこそミュージカル映画の新たな指標になった

アメリカでは2016年末、日本では2017年2月に公開された『ラ・ラ・ランド』(LA LA LAND/2016)は、ミュージカル映画としては珍しく幅広い世代の間で話題になった。映画界に一筋の希望を与え、何の興味もなかった(敬遠や偏見含む)人々にミュージカル自体に関心を持たせ、SNSで世界へ拡散させたという意味でも「ミュージカル映画の新たな指標」的作品と呼んでもいい。 とは言え、ゼロ年代以降、スクリーンの中でのミュージカルは別に死に絶えたわけではなかった。我々はそれなりに楽しみ、感動していたはずだ。例えば、『レ・ミゼラブル』のような誰もが知る人間ドラマから、『ムーラン・ルージュ』(2001)や『マンマ・ミーア!』(2008)のような恋愛もの。さらには『ドリームガールズ』(2007)や『ロック・オブ・エイジズ』(2012)といった音楽もの。 それでも『ラ・ラ・ランド』がこんなにも騒がれたのは、この作品が過去の名作のリメイクでもなく、既存のヒット曲で綴られるジュークボックス・ミュージカルでもなく、ブロードウェイの舞台での実績が一切ない“オリジナルの曲と歌”を使用して大ヒットしたからだ。「誰も知らない音楽でいきなりミュージカル映画を作る」のは、無謀な賭けすぎる。 この死にかけたクリエイティヴを復権させたのは、自ら脚本も手掛けたデイミアン・チャゼル監督。もともと大学の卒業制作で低予算のミュージカル映画を製作したほどの愛情の持ち主。『ラ・ラ・ランド』の企画は無名時代から温めていたものの、当然無視された。ところがデビュー作『セッション』が思わぬ成功を収めて実績ができた。今度は断られる理由はなかった。作曲は学生時代からの友人ジャスティン・ハーウィッツが担当。 重要なのは、夢を追う者たちの映画を作ることだった。大きな夢を持つ二人。その夢が彼らを突き動かし、一緒にし、そして別れさせもする。 この作品の本当の素晴らしさは、「夢への挑戦とそこから生まれるロマンス」を描き出した点に尽きる。そして「二人が幸せに結ばれました」ではないリアルな結末が、多くの人々の心を打って共感を呼んだ。 現在進行形の時代を描いているのに、観る人によってはどこか懐かしさを感じられるのもいい。往年のMGMミュージカル映画の洗練さが漂う場面もあれば、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのように伝説のカップルが..
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音故知新③〜こうしてR&Bが誕生した

今回の音故知新は、R&B(リズム・アンド・ブルース)のルーツに迫ります。 このジャンルは時代と共に洗練され、進化も著しく、その特徴を一言で言い表すのは難しい。 R&Bといえば、後に発展するロックンロールなどにも多大な影響を与え、現代でも様々なアーティスト達が“表現(パフォーマンス)の基礎”としている音楽ジャンルである。 黒人系大衆音楽として今や世界中で愛されているこの「R&B」という呼称は、ビルボード誌の編集者だったジェリー・ウェクスラーというユダヤ系白人の男によって作り出されたといわれている。 後にアトランティックレコードの経営者となるウェクスラーがこの呼称をつけるまでは、一切の黒人音楽は「レイスミュージック」と呼ばれていた。 1920年代のブルースのレコードにはレイスミュージックと記されており、その他ジャズやゴスペルなども含めてあらゆる黒人音楽がそのように呼ばれていたのである。 それまではビルボード誌でも黒人音楽のチャートを“レイスミュージック・チャート”として発表していたという。 しかし1947年の或る週末「もう、こういう名前で呼ぶ時代ではないだろう」「何か違う名前で呼ぼう、週末の間に皆で考えよう」と、ビルボード誌編集部で話が出たのをきっかけに、次の火曜日にウェクスラーが「R&B(リズム・アンド・ブルース)っていうのはどうだろうか?」と提案し、それが採用されたというのだ。 それともう一つ、このR&Bというジャンルの誕生にはラジオの存在が深く関わっていた。 第二次世界大戦後、全米に白人経営による黒人音楽を流すラジオ局が爆発的に増加したという。 連邦通信委員会によってそれまで規制されていたラジオ局の数が緩和されたのだ。 テレビの普及と共に、中流階級の白人を中心に“ラジオ離れ”が進む。 ラジオは少しずつマイノリティーに特化したメディアとして生き残りをかけるようになる。 小規模なラジオ局はレコードを用いた番組編成に慣れており、DJ(ディスクジョッキー)の重要性が高まっていったという。 リスナーの趣向を見極めつつ強烈な個性で番組を率いるDJが、レコードのセールスマンでありヒットを作り出すキーパーソンとなっていた。 ──それは1951年の夏の出来事だった。 オハイオ州クリーブランドで『レコード・ランデヴー』というクラシックレコード専門番組を担当していたDJアラン・フリー..
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