2022-05

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ストリート・オブ・ファイヤー〜流れ者の美学とロックンロールの寓話

『ストリート・オブ・ファイヤー』(STREETS OF FIRE/1984) 1980年代ほど良質な青春映画が量産された時代はないだろう。このコーナー「TAP the SCENE」で今まで取り上げたものだけでも、その金字塔『アウトサイダー』をはじめ、『ダーティ・ダンシング』『プリティ・イン・ピンク』『初体験リッジモント・ハイ』『レス・ザン・ゼロ』『ビギナーズ』など、硬派なストリートものから恋とファッションに富んだ学園ものまで、様々な表情を持った青春映画が製作されていた。そしてその多くが音楽の力によって、より魅力的な物語にもなった。 忘れていたことを思い出させる映画が好きだ。だから僕自身が映画少年に戻って、自分が10代の頃に見たら最高だと思うような映画を作りたかった。 ウォルター・ヒル監督はそんな想いで『ストリート・オブ・ファイヤー』(STREETS OF FIRE/1984)を撮ったという。冒頭のクレジットに現れる“A ROCK&ROLL FABLE”と“ANOTHER TIME,ANOTHER PLACE”の文字。今から始まる物語は「ロックンロールの寓話」であって、それは「どこかの物語」だという宣言に、監督の青春映画作りに対する情熱を感じずにはいられない。 夜の光景と若さが軸にありながらも、そこにタフでクールな流れ者の美学を漂わせた『ストリート・オブ・ファイヤー』は、80年代だからこそ生まれた“ひと味違う青春映画の傑作”だった。 50年代のロックンロールの躍動感と、60年代にセルジオ・レオーネたちが築いたマカロニ・ウェスタンの復讐劇の融合とも言えるその独特の世界観は、「悪を裁くのは正義でもヒーローでもなく、悪を始末するのは“流れ者”だ」ということを教えてくれる。しかし、この映画では人は一人も死なないし、殺されもしない。それがまた新しかった。 ネオンと高架に覆われたどこかの街。故郷に帰って来たロックンロールの女王エレン・エイム(ダイアン・レイン)の公演中、レイヴェン(ウィレム・デフォー)率いるバイクと革ジャンで武装したギャング団が彼女を連れ去るという事件が発生。 正義であるはずの警察が何も動かない状況の中、一人の男が電報で知らされて街に戻って来る。その名はトム・コーディ(マイケル・パレ)。かつてエレンと愛し合った男であるが、音楽を選択した彼女のもとを去って軍隊に..
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ビッグ・ウェンズデー〜人生で大切なものを失ったことがある人たちへ

『ビッグ・ウェンズデー』(Big Wednesday/1978) 生きていれば誰もに十代という日々があるように、生きていれば誰もが年を重ねながらその意味を少しずつ知っていく。何か大切なものを失いながら。避けがたい何かと直面しながら。それでも人は耐え、現実と向かい合って懸命に生きていこうとする。 『ビッグ・ウェンズデー』(Big Wednesday/1978)は、そんなことを教えてくれる素晴らしい物語だった。青春から人生へ。そして世代から個人へ。出逢いと別れを織り交ぜながら、一貫した友情を支えにイノセンスと美学を保とうとする登場人物たちに静かに心打たれる。これは間違ってもそのへんにあるサーフィン映画ではない。 監督/脚本のジョン・ミリアスにとって、この映画を作ることは長年の夢だった。自分が書いた脚本を勝手に変更する心ない連中から守るために監督業を始めたという彼は、サーフィンに情熱を捧げる青春ストーリーのアイデアを10年近くも温め続けた。それは自分自身の物語であり、友人たちの物語だった。『ビッグ・ウェンズデー』で描かれる出来事は実話なのだ。 主演した3人の俳優=ジャン・マイケル・ヴィンセントとウィリアム・カットとゲイリー・ビジーは子供の頃からサーフィンをしていたし、サーフィンのシーンで登場するジェリー・ロペスら現役プロサーファーたちは、プロ大会の出場を断念してまで撮影に取り組んだ。映画が素晴らしい出来栄えになることを知っていたからだろう。 1962年、夏。 西海岸カリフォルニア。とあるビーチのポイントでサーフィンに明け暮れる3人の若者たち。マット(ジャン・マイケル・ヴィンセント)、ジャック(ウィリアム・カット)、リロイ(ゲイリー・ビジー)。地元では有名な彼らは、パーティや馬鹿騒ぎには必要不可欠な存在。“今ここにいること”がすべてのように、ひと夏の青春とロマンスは綴られる。十数年に一度だけ訪れる伝説の波。何もかも押し流す壮絶な波、ビッグ・ウェンズデーを待ちわびながら。 この章で聴こえて来るのは、リトル・エヴァの「Locomotion」やシュレルズの「Will You Love Me Tomorrow」といった快適なガールポップ・ナンバーばかり(両曲ともジェリー・ゴフィン&キャロル・キングの作詞作曲)。英国のビートルズが登場する前夜だった。 1965年、秋。 そんな彼らに..
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遠藤賢司の名曲カレーライス〜日常の中に描かれた三島由紀夫の切腹自殺

君も猫も僕も みんな好きだよ カレーライスが 君はトントン じゃがいもにんじん切って 涙を浮かべて たまねぎを切って バカだな バカだな ついでに自分の手も切って 僕は座ってギターを弾いてるよ カレーライス これは伝説の純音楽家“エンケン”こと遠藤賢司が1972年に発表した楽曲だ。 70年代、日本においてのフォークソングはいわゆる“四畳半フォーク”と呼ばれるものが主流だった。 60年代から70年代にかけてアメリカでウッディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディラン、ジョーン・バエズ等が歌った“プロテストソング”に影響を受けた日本のフォークシンガー達もいたのだが…時代と共に歌も変化してゆく。 彼らは身の回りの限られた空間、社会、恋愛、人間関係への思いを歌に込め、私小説的な色合いが濃い歌を唄うようになる。 そんな変遷の中で、このエンケンの「カレーライス」は精彩を放ちながらヒットした曲だった。 エンケンと言えば吉田拓郎と並んで“フォーク界のプリンス”と呼ばれることもあるほど有望な存在だったという。 それは当時フォーライフレコードを立ち上げてゆく、拓郎や泉谷しげる、小室等、井上陽水等が持っていた才能とは別の次元にある“異質な個性”だった。 当時、エンケンをポリドールレコードにスカウトしたディレクター、金子章平はこんな風に語る。 「僕が学生時代に六本木の自由劇場で初めて彼のステージを観たんですが、びっくりしたというか…とにかく“感じる歌”でした。とにかくそれまでに聴いたことのないような歌でした。だから自分で担当したいと思ったんです。」 当時、ポリドールにはフォークの土壌がまったくなく…どんな歌手でもアルバムの初回プレスが5,000枚だったところ、エンケンは2,000枚だったという。 営業担当だった田中裕は当時のことをこう述懐する。 「何が困ったかというと…曲を取り上げてくれるメディアがなかったことです。唯一ラジオの深夜放送がかけてくれるくらいかぁ。そんな逆境の中でシングルカットしたこの曲は10万枚も売れたんです!彼がコンサートで地道に歌って事前プロモーションができていたことと…やはり歌詞で三島由紀夫の割腹自殺のことをさりげなく歌っていたことへの話題性もあったのでしょう。」 僕は寝転んでテレビを見てる 誰かがお腹を切っちゃったって うーん とっても痛いだろうにねえ ..
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伝説の白鯨になった男〜稀代のドラマー“ボンゾ”の神がかったプレイに酔いしれて

ロックファンの間では“ボンゾ”の愛称で広く親しまれているレッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム。 ロック黄金期(60〜70年代)の音楽をかじった経験のある人間なら必ず知っていると言っても過言ではない“伝説のドラマー”である。 ロックミュージックにおいて考えられるドラムパターンは「彼が生前に叩き尽くした」とまで言われ、ミュージシャンの間では今でも崇拝されている存在だ。 Led Zeppelin(レッド・ツェッペリン)というバンド名を冠したデビューアルバムのオープニング曲「Good Times Bad Times」(1969年)で鮮烈な印象を残し、名盤といわれた『Led Zeppelin IV』(1971年)の「Black Dog」などで聴くことのできる、卓越したタイム感や変拍子を駆使したワイルドかつパワフルなドラムプレイで“唯一無二”の存在感と実力を見せつけた彼。 体格にものをいわせて力任せに叩くのではなく、ジャズの技術に忠実に“柔と剛”を自在に使いこなしているところが、彼のドラミングの凄さといわれている。 ♪「Moby Dick」/レッド・ツェッペリン(LIVE) 彼が叩いた数ある名曲の中でも、その神がかったドラムプレイをたっぷり堪能できるインストゥルメンタル曲がある。 それは、1969年にリリースされたレッド・ツェッペリンの2ndアルバム『Led Zeppelin II』に収録されている「Moby Dick」という“伝説の白鯨”をテーマにしたもの。 序盤1分くらいはバンド全体で演奏されるグルーヴィーなテーマがひとしきり…そして、おもむろにボンゾのソロに切り替わる。 そのステックさばきはもちろんのこと、目を見張るドラムテクニックの数々が披露される中、驚きの!素手で叩くプレイまで飛び出す“ボンゾ独壇場”の世界が永遠と続き…最後にちょこっとしたエンディングテーマで〆る!!! インストゥルメンタル曲とはいえ、そのほとんどがドラムソロといったまさに前代未聞の楽曲なのだ。 初期のツェッペリンのコンサートでは、この曲がハイライトの一つになっていたという。 曲名は、1851年にハーマン・メルヴェルが発表した世界的に有名な長編冒険小説『白鯨(モビィ・ディック)』から付けられており、ボンゾの力強いドラミングが白鯨=荒くれ者を連想させるところから由来している。 デビュー前..
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あのIT起業家が約50億円を自腹で投じて開催した夢のロックフェス

史上最大規模のロックフェス『US FESTIVAL』(アース・フェスティバル) もし自分の好きな音楽のアーティストだけを集めて、大規模なライブやコンサートを開けたなら。会話レベルでも十分楽しそうな妄想だが、そんなことを自らの私財を投げ打ってまで本当に実現してしまったら……それはとてつもなくクレイジーで、とんでもなく素敵なことだ。 そのクレイジーな男の名は、スティーヴ・ウォズニアック。 Mac/iPhone/iPod/iTunesなどで世界中の誰もが知っているアップル社設立メンバーの一人であり(社員番号は1番)、1977年のスタート当初から故スティーヴ・ジョブズの良き相棒として同社の知的良心を担ったエンジニア。技術力の高さと温厚でユーモア溢れる性格から、有名なお伽噺にちなんで「ウォズの魔法使い」と呼ばれる。 ことの発端は1981年。前年のアップル社の株式公開で1億ドル以上(当時のレートで約200億円以上)にも及ぶ莫大な資産を得ていた30歳のウォズニアックは、車の中でよく聴いていたラジオ局のカントリー音楽がきっかけで、大規模なコンサート開催を企てることを思いつく。 巨大なパーティにしたかった。みんなで楽しむために……名もない場所で最高のコンサートをやりたくなって。 しかし、エンターテインメントや興行のノウハウを持たないウォズは、「どうやって進めるか最低限のことさえまったく分からなかった」のでコネのある仲間に相談。ピート・エリスをはじめとした協力者の賛同を得ながら、何が何でも実現させるという情熱へと変わっていく。結婚したばかりの妻はこのアイデアを気に入ってくれたので、お金も儲かるからとつけ加えた。 準備金として200万ドルの小切手(運営会社を設立)を仲間に手渡した2週間後──。 ウォズは1969年に開催された伝説的なウッドストック・フェスティバルに関する本を開く。そこにはスタッフの確保、数十万人を収容する必要がある広大な場所探し、気まぐれなアーティストサイドとの交渉、面倒な広報の件。さらには想像以上の費用が掛かること、そして絶対的に儲からない件……のちにウォズ自身が直面することになる出来事が書きつらねてあった。 ページをめくるにつれ、自分が今どれだけ大変なことに手を出してしまったか、思わず息をのんで後悔したという。しかも助けを求めた当時の関係者からは、あんなことはもう..
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イージー・ライダー~少年たちの閉ざされた心を解放した自由への疾走

『イージー・ライダー』(EASY RIDER/1969) 「これ観たら、変わるよ」──まだ15歳だった1983年のある夜、35歳になるグラフィック・デザイナーの叔父がそう言って1本のVHSを差し出してきた。パッケージ写真にはバイクに跨がった2人の悪そうな男。荒野と道と青い空。『イージー・ライダー』というタイトルの映画が目の前にある。 それから少年と叔父はリビングのソファーに並んで座り、95分間を黙って見つめ続けた。「何だよ、これ」……物語も映像も音楽もすべてが衝撃で、何一つ言葉が出なかった。受験勉強の合間に親の目を盗んで、MTVやFMから流れてくるマイケル・ジャクソンやマドンナといった洋楽ヒットチャートを聴き入ることを楽しみにしていた住宅街の少年にとって、それは余りにも違いすぎた世界だった。叔父はそんな様子を見て黙って微笑んでいた。 今から思えば叔父はきっと、悶々とした気持ちで毎日を追い込まれている哀れな中学3年生の閉ざされた心をどうにかしたかったのだろう。型にはまった思春期の中に彼は突然、強烈な世界観を投げ込んできたのだ。TVニュースでは決して報道されない青春革命が凄まじいスピードで起こり始めた。 やがて少年は高校生になると、クラスメイトとファッション雑誌を回し読みしたり、放課後のファーストフード店で女の子について喋ったりする傍ら、ロックに魅せられて、タワーレコードでストーンズのレコードを買い、音楽雑誌を学生鞄に入れるようになった。ギターを覚え、ダークな服を買い漁っては、年上の怖い連中とバンドを組むようにもなった。 みんながTVから提供されるアイドルや青春ドラマや歌番組に夢中になっている頃、人知れず『ライ麦畑でつかまえて』や『路上』をめくったり、レンタルビデオ店にヴェンダースやスコセッシの映画を借りに行ったり、ロバート・ジョンソンやチャーリー・パーカーに辿り着いたりした。その方が遥かに世界が広がったからだ。 ──あれから30年以上が経ち、その間に人生の苦悩や喪失、愚かな失敗や後悔を積み重ねてきた。ビジネスやお金、医療や税務や法律といった最大公約数的な問題と向き合う時は、「音楽や映画や小説を詳しく知っていたからといってどうなる?」と自問自答することもあるが、結構役に立つし、時には孤独な魂を救済してくれる。そして今でも数年に1度は『イージー・ライダー』がむしょうに観..
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【ピクサークイズ】ファンじゃなくても、知らないとマズイかも…

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パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト〜悪魔と取引して超絶技巧と名声を手にした男

『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(Der Teufelsgeiger/2013) この世には特定の分野で、圧倒的な才能で人々を魅了する者がいる。だが本当のことを言うと、あらかじめ兼ね備えた天才でさえ、努力や屈辱や孤独の積み重ね、それを知らしめる手段があって、はじめてその領域に達するのが事実。我々が愛する音楽の世界も例外ではない。 しかし、その登場の仕方や技巧があまりにも驚異的だった場合、人々はこんな噂を流してきた。「あいつは悪魔と取引をしたに違いない」。こう聞いて真っ先に出てくるのが、デルタ・ブルーズマンのロバート・ジョンソンだろう。クロスロードで魂を売って云々という有名な伝説の持ち主だ。 熱心な音楽ファンなら、実はその100年以上も前に“取引”をした人物がいたことを思い出すかもしれない。映画『クロスロード』のクライマックスのギター合戦では、奇しくもその男の音楽が取り上げられていた。人間離れした超絶技巧で、19世紀前半のヨーロッパでスーパースターとして君臨したヴァイオリニストのニコロ・パガニーニ。 「超自然的なものにならない限り、あれだけの技を身につけることは不可能だ」と人々はざわついた。演奏時のパガニーニは激しく表情をゆがませ、まるで異次元の力に取り憑かれているようにも見えた。中には「彼のそばには悪魔が見える。両足が浮いている」と言いだす者もいた。コンサートでは気絶したり、泣き出す観客が後を絶たなかった。それほど大きな影響力を持っていた。シューベルトやリストはパガニーニを崇拝した。 『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(Der Teufelsgeiger/2013)を監督したバーナード・ローズは言う。 ニコロ・パガニーニは19世紀前半の最も有名な演奏家だった。ベートーヴェンやシューベルトより有名だったかもしれない。ヴァイオリンの早弾きの妙技は聴衆を驚嘆させ、人間離れした音を出せるのは「悪魔に魂を売ったからだ」とまで言われた。ヨーロッパ中で大衆を熱狂させた最初のツアー演奏家となって富を得たが、最後は借金と病気に苦しんだ。つまり世界初のロックスターであり、現在まで音楽家たちを魅了し続けている人物なのだ。 ちなみに、パガニーニを演じたのはデヴィッド・ギャレット。現代のパガニーニとも称されるヴァイオリニスト。史上最年少の13歳で名門レーベルと契約。17..
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デッドマン〜ニール・ヤングの即興演奏で“特別な域”に達した詩的なロードムービー

『デッドマン』(DEAD MAN/1995) 僕は自己分析する人間でも計算して何かを創るタイプでもない。自分の中から出てきたシンボルがどんな意味を持っているのか分からないし、分かりたくもない。脚本を書く時、僕は意味を考えすぎないようにしている。考えすぎると、そこにある詩が零れ落ちてしまうから。詩の儚さを大切にしたいんだ。 ジム・ジャームッシュの長編第6作にあたる『デッドマン』(DEAD MAN/1995)は、構想から7年の歳月をかけて完成させた傑作だった。ジャームッシュ映画にしては珍しく予算をかけて製作されたそうだが、役者を想定してから脚本作りに入るやり方は変わらなかった。主役のジョニー・デップと、ネイティブ・アメリカン(インディアン)のゲーリー・ファーマーをイメージしながら書いたのだ。ジョニーはジャームッシュの大ファンだったので、ろくに脚本も読まずに出演を決めた。悪いはずがない。 設定した時代との距離感を得るため、そしてウエスタンと言えばお決まりの色調から外れるために、あえてモノクロで撮った。撮影したのは長年のパートナーであるロビー・ミュラー。この作品に漂う詩的な輝きはこの撮影監督によるところが大きいと、ジャームッシュも認めている。 脚本はずっとニール・ヤングとクレイジー・ホースを聴きながら書いた。撮影に入ってからも移動している時もひたすら聴き続けた。ニールに音楽を頼むことになり、倉庫を改造したスタジオのあらゆる方向にスクリーンを設置した。 ニールは撮られたラフ映像に囲まれながら即興でほとんどエレキギターだけで演奏を行った。まるで『死刑台のエレベーター』のマイルス・デイヴィスや『パリ、テキサス』のライ・クーダーのように。その甲斐あって『デッドマン』はストーリーと音楽が絡み合う“特別な域”に達することに成功した。ニールは帰り際、「気に入ったところを使えばいいよ」と言い残してその場を去って行ったという。 『夕陽のガンマン』と同じ、汽車に揺られるシーンから始まるこの物語は、迫り来る死の中で新たな生を予感する旅路を描いたロードムービー。イギリスの詩人/画家のウィリアム・ブレイクと同じ名前を持つ一人の若者が、さすらいのネイティブ・アメリカンとの出逢いをきっかけに、19世紀後半のアメリカ西部フロンティアの果てを行く。 1870年頃。東部から西部の田舎町に仕事を求めてやって..
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ジミー・ロジャースを偲んで〜カントリーミュージックの父と呼ばれた男の功績と、その音楽のルーツ

1933年5月26日、カントリーミュージックの父と呼ばれたジミー・ロジャース(享年35)がニューヨーク市内のホテルで急逝した。 死因は結核による肺出血だった。 カーターファミリーと共にカントリーミュージックの原点の双璧をなす彼の音楽は、その後に発展していくアメリカのロックやポップスに大きな影響を与えている。 全盛期は1927年からのわずか5年半程だったが、その短い期間に(当時としては記録的だとも言える)1千万枚ものシングル盤を売り上げた。 黒人の音楽だったブルースとスイスのヨーデルを組み合わせた“ブルーヨーデル”と呼ばれる独特の歌唱法と、日々の暮らしや労働に関する内容を普通の言葉でストレートに歌うスタイルが革新的だった。 彼の音楽はアイルランドやイギリス系民謡の伝統に根付いた保守的なカーター・ファミリーの音楽とは対照的に、ブルースやボードビルショーなどの影響を強く受けていた。  彼は29歳で初録音する以前、鉄道工夫として黒人達と働きながらブルースを学び、ボードビルショーでの体験や放浪者(ホーボー)との交流から、種々雑多な音楽文化に接してきたという。 黒人や白人ジャズバンド、ポップバンド、ハワイアンアーティスト達との共演を通じて、独自のスタイルを築き上げていった。 この“カントリーミュージック”という呼び名は1940年代に入ってから用いられるようになったという。 日本が敗戦した第二次世界大戦後にアメリカの音楽産業は再編成され、ヒルビリーなどのマイナーな音楽もこれまで以上に全米のラジオ番組で放送されるようになる。 ところが、もともとアパラチア山脈周辺に住む山岳民に対する蔑称(差別用語)だった“ヒルビリー”という呼び方を嫌う演出家やメディアも現れ、当時はこのジャンル名をめぐる混乱がおきていた。 アパラチアンミュージック、マウンテンミュージック、カントリー&ウエスタン…その呼び方は様々だった。 カントリーミュージックの最初の商業録音(レコード作品)といえば、1923年にフィドリン・ジョン・カーソンという音楽家による「The Little Old Log Cabin In The Lane」という楽曲だと言われている。 フィドリン・ジョン・カーソンといえば、ブルースの最初のレコード作品をリリースしたオーケー・レーベルとも深く関わりのある人物である。 このカントリーミュージッ..
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