2022-08

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ヴァン・モリソン〜孤高の歩みを続ける偉大なるアイリッシュ・ソウルマン

孤高のアイリッシュ・ソウルマン、ヴァン・モリソンの偉大なる歩み さらに西へ向かっていくと、僻地性はより増していった。見渡す限り芝と岩だけで、風が強く、その風の音以外は、何も聞こえて来なかった。こんな荒涼とした風景の中に人が住んでいるとは、ちょっと想像がつきにくかった。横から吹いてくる風は、秋だというのに骨にしみるほど冷たく、どこか「あの世」のような感じなのだ。 2012年に亡くなった駒沢敏器氏の著書『ミシシッピは月まで狂っている』の第3章「酒と音楽しかない」は、どんなに分厚くて偉そうな文献よりも、アイルランドの時間的・音楽的風景を切ないほどに描き出していた。 このような、人知とは違う次元での何かが支配的な場所では、そこから生まれてくる音楽も違うものになるのは、当然のことかもしれない、と僕は実感した。人が人として音楽を作るのではなく、風景の中に宿っている何かに感応するように、人を通じて音が生まれてくるのだ。つまり人は作り手ではなく、神と音の間にたった媒介にすぎない。 この文章を読むと、いつも一人のアーティストの歌声がどこからともなく聴こえてくる。 ──その人の名はヴァン・モリソン。歌うために生まれた男。1964年にゼムのフロントマンとしてデビューして以来、孤高の歩みを続けてきたアイリッシュ・ソウルマン。一度も来日公演がないリビング・レジェンド。 しかし、ヴァンは自らの伝説やスター扱い、セレブ志向を嫌う。ロックンロールの殿堂入りをした1994年の式典にも出席を拒否した。「僕が何者であるかと言えば、ブルースやソウル、ジャズ等を歌うシンガーでソングライターだ」。彼を語るには短い言葉で十分らしい。 そのせいで、彼にはずっと“無愛想” “手に負えない” “気難しい” といったイメージがつきまとってきた。だがそれは本当なのだろうか? ただ曲を書き、レコードを作ったりステージに立ったりしているだけなのに、なぜライフスタイルや性格まで掘り起こされなくてはならないのか? ヴァンの信念や美学に揺るぎはない。 俺はショウビジネスに関して、何も知らないまま今に至っている。ハウリン・ウルフだってショウビジネスじゃなかった。彼もTOP10を狙っていたわけじゃない。今は若いポップアクトを売ることがすべての世界だ。 俺は60年代のノスタルジア列車にも飛び乗るつもりはないよ。今も新作を発表し..
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手紙〜親愛なる子供たちへ〜“老い”をテーマにした感動の名曲はこうして生まれた

この「手紙〜親愛なる子供たちへ〜」は、熊本県出身のシンガーソングライター樋口了一の15thシングルとして2008年に発表された楽曲である。 その歌詞の内容が大きな反響を呼び、翌年の日本レコード大賞優秀作品賞と日本有線大賞有線音楽優秀賞を受賞している。 クレジットには原作詞:不詳、訳詞:角智織(すみともお)、補足詞・作曲:樋口了一と記されているが…この名曲には少し変わった誕生エピソードがあるという。 今尚、多くの人たちを感動させ、広い世代から共感を得ているこの歌にはどんな物語があるというのだろう? ──それは樋口の友人でもある角の元に偶然届いた一通のチェーンメールから始まった。 そのメールには、作者不詳の詩がポルトガル語で綴られていたという。 角は当時のことを鮮明に憶えていた。 「一通の差出人不明のメールが私の元に届いたんです。その時なぜかメールを消してはいけない気がしたんです。一読しただけで心が揺さぶられました。」 角が日本語に訳した詩に曲をつけ、補訳を施した樋口は当時のことをこう語る。 「最初に角さんにこの詩を見せてもらう数日前に、僕は4歳になる子供と喧嘩をして顔を引っ掻かれていたんですよ(苦笑)どこか苛立った感情が残っていたのに、この詩を読んだら嘘のように優しい気持ちになったんです。歌にしようと思ったきっかけには、すべての人にそういう“優しい気持ち”にたどり着いて欲しいという想いもありました。」 悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に  祝福の祈りを捧げて欲しい 樋口はこの詩を歌にするときに“悲しいことではないんだ”という言葉を二カ所に加筆している。 その理由について樋口はこう語る。 「死生観はそれぞれですが…命は永遠に続くという輪廻転生のようなものを、誰もが心の底で願っていると思うんです。だがら、肉体的に死に別れることは寂しいことではあるけれど、決して“悲しい”ことでではないと伝えたかったのです。」 老いと向き合うこと。 親から我が子へ向けた“最後”のメッセージ。 その内容からこの歌は“介護の歌”とも呼ばれ、介護や看護の現場に身を置く人々の心の支えとなっているという。 元詩を日本語に訳した角は、樋口との対談でこんな言葉をのこしている。 「この詩は、現在色んな人がホームページ等で紹介して下さったりして、世界中に色んな言語で広がっています。それは..
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Alison〜ウディ・アレンの映画のような傑作ラブソング

エルヴィス・コステロ。 彼の本名はデクラン・パトリック・アロイシャス・マクマナスという。 1954年8月25日、ロンドンで生まれた彼のステージネームは、憧れのエルヴィス・プレスリーと父方の祖母の旧姓に由来している。 彼の血統(ルーツ)でもあるコステロの姓は、アイルランド系に多い苗字。 ミュージシャンだった父親がもらってくる大量の試聴用レコードに囲まれて育った彼は、幼少から音楽に慣れ親しんでいたという。 1977年、当時23歳だった彼はアルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー(My Aim Is True)』でデビューを果たす。 そのアルバムジャケットには“KING ELVIS”という文字が市松模様の中に小さく散りばめられている。 当時のコステロは“怒れる若者の代表”として音楽シーンに姿を現し、小気味いいビートと良質なメロディーで、パンク全盛期を迎えようとしていたロンドンに新風を吹かせたのだ。 君と再会するなんて可笑しいね ずいぶん久しぶりじゃないか 僕にはわかるよ…君は何とも思っていないってね でも聞いたよ…あいつが君のパーティードレスを脱がしたんだってね 君が誰を愛しているかなんて知ったことじゃないさ 僕は未練がましい元恋人のように感傷的になったりはしない だって、君が誰かを愛しているとしても… それが僕じゃないってことだけははっきりしてるからね そんな彼のデビューアルバムに収録された曲の中でも“白眉”と言われているのが「アリソン(Alison)」というラブソングである。 その歌詞の中には、アルバムタイトルでもある“My Aim Is True(僕は真実を求めているだけだ)”というフレーズがくり返し使われている。 一部のファンの間では「ダブルミーニングなどが含まれていて詞が難解だ」と言われるが…その真相は謎のままである。 コステロの歌詞は、日常を生きる人たちの“ある情景”を切りとったものが多い。 この「アリソン」は、ある男がパーティ会場のような場所でばったり昔の恋人に再会した場面からはじまる。 彼女は彼と別れた後(よりによって)彼の友人とくっつき…結婚をする。 一方、彼の方は未練タラタラで、久しぶりの再会なのにネチネチと嫌みを言いはじめる…。 どうしょうもなく情けない男と、そんな彼にうんざりしている元恋人との寸劇はまるでウディ・アレンの映画の一場面のようで…ある..
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白いドレスの女〜一度観たら忘れられなくなるフィルム・ノワールの傑作

『白いドレスの女』(BODY HEAT/1981) 1940〜50年代には低予算で退廃的な犯罪映画が作られていたが、それらは「フィルム・ノワール」と呼ばれるようになり、映画ファンから根強い支持が集まるようになった。主人公の破滅やそれを誘う魔性の女(ファム・ファタール)といったプロットやキャラクター、あるいは独特のセリフの言い回しや暗めの映像美など、このムードに取り憑かれる人は少なくない。 「暑さ以外の話ならお相手するよ」 「夫がいるの」 「それで?」 「相手は要らない」 「幸せならね」 「あなたには関係ないわ」 そんな見知らぬ同士の男と女の会話で始まる『白いドレスの女』(BODY HEAT/1981)は、まさに「フィルム・ノワール」の永遠の名作の一つ。この作品には色気と体臭が全編に漂う。暑さ、気怠さ、堕落、感情の爆発、官能的な関係に至るまで、すべてにそれらが強烈に漂う。 これが初監督作となったローレンス・カスダンは、古いフィルム・ノワールの傑作中の傑作『過去を逃れて』や『深夜の告白』などの世界観を自身の作品に取り入れた。もともとは脚本家としてジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズを担当していただけに、脚本作りには絶対的な自信があったのかもしれない(ちなみに大ヒットした『ボディガード』もカスダンが70年代に書いた脚本作品)。 主演はウィリアム・ハートとキャスリーン・ターナー。ウィリアムは舞台役者として才能が知れ渡っていたが、本作は3本目の映画出演でまだ無名に近い存在。キャスリーンも同じく舞台の経験はあるものの、映画出演は何とこれが初めて。カスダンはあえてこの二人を起用したが、その理由は「より現実味が帯びる」こと、そしてキャスリーンの声がローレン・バコールに似ていて「脚が綺麗だったから」だそうだ。 撮影は暑さを重視するために当初のニュージャージーからフロリダの海辺の町に変更。しかし、撮影中は異常気象の影響もあり、まさかの寒波に覆われ、俳優たちが喋る度に白い息が出る始末(キャスリーンは撮影シーンの直前まで口に氷を含んでいたという。そうすれば白い息が出ないからだ)。ウィリアムが着るシャツには、毎回スプレーの水を脇や背中に吹きかけなければならなかった。また、映画には後に大スターとなる無名時代のミッキー・ロークも登場している。 物語は、弁護士のネッド(ウィリアム・..
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謎の?!地名にまつわるブルース〜Sweet Home Chicago

♪「Sweet Home Chicago」/ロバート・ジョンソン 1937年にロバート・ジョンソンが発表した「Sweet Home Chicago」という歌がある。 ちょっとブルースを聴きかじったことがある人なら、たいがい演奏したことのある“最も有名なブルースナンバー”の一つだ。 エリック・クラプトン、ブルース・ブラザース、マジック・サム、フレディ・キングなどのカヴァーでも知られているこの名曲は、古今東西、数多のステージでセッションされ、様々なミュージシャン達から愛されてきた。 その曲の歌詞で繰り返される“ある部分”にまつわる謎がある。 現在では、ほとんど「Back to the same old place, Sweet Home Chicago」と歌われている部分が、ロバート・ジョンソンのオリジナルバージョンでは「Back to the land of California, To my sweet home Chicago」となっているのだ。 オリジナルを訳すと「カリフォルニアにある、懐かしのシカゴへ帰ろう」となる。 何で?と不思議に思う人も少なくはないだろう。 知ってのとおりシカゴはイリノイ州であって、カリフォルニア州ではない。 この曲を歌おうとしたブルースマン達はみんな困ってしまったという。 オリジナルのままの歌詞で歌ってしまえば、矛盾を抱えたまま歌うと同時に、もしかしたら歌っている自分が観客から無知だと思われかねない。 そこで「the land of California」を「the same old place(昔と変わらぬあの場所)」に変えて歌ったという説がある。 ちなみに近年のエリック・クラプトンは「the land of California」の方で歌っている。 もちろんクラプトンは“この矛盾”を承知の上で、オリジナルのロバート・ジョンソンに敬意を払って歌っているのだ。 では、ロバート・ジョンソンは何でこんな矛盾した歌詞を歌ったのか? 彼は無知でシカゴがカリフォルニアにあると本当に信じていたのか? それとも単なるジョークだったのか? 答えは「無知」でも「ジョーク」でもない。 実は、カリフォルニア州にもシカゴと言う町があるのだ。 正確にはポート・シカゴ(Port Chicago)という。 地名が示している通りの港町で、サンフランシスコの北東約3..
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ララ・アンデルセンを偲んで〜戦火の下、敵味方を超えて愛された「リリー・マルレーン」の歌物語

1938年に作曲されたドイツの歌謡曲が、一人の女性の運命を変えた。 ララ・アンデルセン。 彼女は、第二次世界大戦中に「リリー・マルレーン」という曲を歌って世界的に注目を浴びた歌手・女優である。 1972年8月29日、彼女はオーストリアのウィーンで静かに息を引き取ったという。 死因は心臓発作(一説では肝臓癌)とされている。享年67。 現在、彼女の遺骨は北海に浮かぶランゲオーク島(ドイツ)に埋葬されている。 今日はララ・アンデルセンの足跡と共に、「リリー・マルレーン」という曲の持つ不思議な魅力、その歌物語に迫ります。 ララ・アンデルセン(本名リーゼロッテ・ヘレネ・ベルタ・ボイル)は、1905年3月23日に北ドイツの港町ブレーマーハーフェンで生まれた。 彼女は17歳で同郷出身の画家ポール・アーンスト・ウィルクと結婚し、若くして3人の子供を出産する。 しかし結婚生活はすぐに破綻し、当時24歳だった彼女は子育てをしながらベルリンに移住し、俳優養成学校に入学する。 26歳の時に正式に離婚した彼女は、ベルリンのキャバレーなどのステージに立つようになる。 当時の芸名は“リゼロット・ヴィルケ”だった。 30代の前半で芸名を“ララ・アンデルセン”と改め、ドイツ民謡やシャンソン、流行曲などを歌いながらドイツ国内で下積みを経験する。 そして1939年(当時34歳)、ミュンヘンのキャバレーに出演していた彼女は運命の歌に出会う。 兵舎の大きな門の前に 街灯が立っていたね 今もあるのならまたそこで会おう 街灯のそば…僕らは一つ 昔みたいに リリー・マルレーン 二人の影が重なり一つに溶けていく 僕らは愛しあっていたんだ ひと目見れば分かるほどに 街灯のそば…僕らは一つ 昔みたいに リリー・マルレーン その楽曲は“リリー・マルレーン”という女性の名前をタイトルにした不思議な魅力を持つ歌だった。 さかのぼること二十数年…第一次世界大戦の最中、ハンブルクで教師をしていたハンス・ライプ(作詞者)はドイツ軍に召集され、ロシアと対峙する東部戦線へ出征した。 当時、彼にはリリーという名の彼女(食料品店勤務)がいた。 1915年、彼は戦場へ出兵する前に一篇の詩をしたためていたという。 そこには、恋人を想う兵士のやるせない心情が綴られていた。 もう門限の時間がやってきた 「ラッバが鳴っているぞ!遅れたら懲罰..
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ルード・ボーイ〜ザ・クラッシュの熱いガレージサウンドと心に響く「Stay Free」

『ルード・ボーイ』(Rude Boy/1980) ザ・クラッシュが“出演”あるいはメンバーが“演技”した最初の映画として知られる『ルード・ボーイ』(Rude Boy/1980)は、1978年に撮影されて1980年に公開された。日本では1987年8月29日から短期間、東京・新宿の映画館でようやく上映されたので、幸運にも観に行けた人もいるかもしれない。 バンドの面々は当時、自分たちが出演したこの映画を余りよく思わなかったようだ。監督/制作スタッフ陣のパンクや音楽に対する理解不足が原因だったらしいが、何よりも劇場向け映画としての完成度の低さが彼らを失望させたのだろう。 しかし、ドキュメンタリー色が強く全編に漂うこの作品は時代とともに再評価され、いつしかザ・クラッシュの貴重なライヴシーンやリハーサル、レコーディング風景を収録した、どうしようもない時代の英国の空気を詰め込んだ“ストレート・クライ・シネマ”として昇華した。言葉に表すことのできない不安や不満が描写されたカルトムービーだ。事実、彼らもマネージャーとほぼ決裂していて極度の金欠状態にあった。 映画は3つの要素で構成される。まずはレイ・ゲンジの物語。失業手当を受けながら暇そうなポルノ・ショップで働くレイは、典型的な労働者階級の若者。リッチになりたいとぼんやりとした夢を描いているが、現実は社会の底辺を生きながら努力もせずに酒を飲んでるだけ。 次はサッチャー政権から犯罪の温床として目をつけられている移民の若者たち。特に人種差別主義者や警察権力から槍玉にあげられるジャマイカ系のルード・ボーイたちは、貧困のために犯罪に走る日々を送っている。 最後はザ・クラッシュ。英国に蔓延る失業問題、人種差別、裁判沙汰、警察や国家権力に真っ直ぐに立ち向かう彼らの、聴衆と一体化した熱く汗にまみれたガレージサウンドと言葉の数々。78年4月ヴィクトリア・パークで行われた反ファシズム集会でのステージはこの映画のハイライトの一つ。 物語はどん底の日々の中で唯一ザ・クラッシュの音楽を救いとしているレイが、彼らのローディの仕事に就き、ツアーに同行していくというもの。しかし、レイは結局使いものにならずにクビになってしまう。その頃、ルーディたちは警察に逮捕されるのだった。そして「しくじるなよ、ルーディ」が聴こえる……。 映画にはザ・クラッシュの楽曲やスカ/レゲ..
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スティーヴィー・レイ・ヴォーン〜最悪な一夜を人生の転機にしたSRV

スティーヴィー・レイ・ヴォーンと1982年のモントルー伝説 1982年7月17日。毎年恒例のモントルー・ジャズ・フェスティバルが、スイスのレマン湖畔の町で行われていた。その日のブルーズ・ナイトでは、27歳のスティーヴィー・レイ・ヴォーン率いるダブル・トラブルのステージが始まろうとしていた。 当時すでにこの3人組は、テキサスを中心とするアメリカ南部のブルーズ・サーキットでは誰もが認める存在となっていた。レコード契約はまだなかったものの、ローリング・ストーンズのパーティに呼ばれて演奏したり、ザ・クラッシュの前座としてステージに立ったりと、いつその存在にスポットライトが当てられても不思議ではない状況。彼らにとってその夜は、世界へ向けての華々しい出発点になるはずだった。 ブルーズ・スタンダードの「Hide Away」で幕開けるステージ。くわえ煙草の堂々とした佇まいで、ブルーズに身を捧げたとしか言い様のない凄まじいプレイを繰り広げるスティーヴィーのギター。「Pride and Joy」や「Texas Flood」と圧巻の演奏は続く……。 しかし、客席の反応は鈍い。曲を追うごとに大きくなるブーイング。彼らがまだ無名だから? 余りにも自信に溢れているから? この夜のアクトは座って演奏する静かなアコースティックが中心だったこともあった。だが怯むことなく途中退場はせず、彼らはテキサスにいるかの如く(*注)自分たちの演奏を貫き通した。 そして多くの保守的なブルーズ・ファンたちから浴びせられる激しいブーイングの中、怒りと悲しみの狭間でスティーヴィーはステージを降りた。この時、彼はメンバーに「傷ついたよ。いい演奏なのに」と零したという。 最悪な夜だったが、一方で実りもあった。 彼らのステージに感銘を受けたデヴィッド・ボウイが楽屋に呼びに来たり(スティーヴィーはボウイの1983年のアルバム『Let’s Dance』に参加。脇役に徹さなければならないワールド・ツアーへの参加は悩んだ末に断った)、翌晩にはジャクソン・ブラウンと会場のバーで自由なセッションを楽しんだ(これが縁でブラウン所有のスタジオを無料で使用させてもらうことになり、翌年のデビュー・アルバム『Texas Flood』を録音したのは有名な話だ。お礼に子馬を贈った)。 さらにボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンなどを手掛け..
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アウトサイダー〜渋谷で公開された青春映画が若い世代の間で伝説になった

『アウトサイダー』(The Outsiders/1983) 映画館の暗闇から明るい陽射しの中へ踏み出した時、俺は二つのことを考えていた…… 真っ白なノートに主人公ポニーボーイがそんな言葉を綴り、夕陽に染まったスクリーンから「Stay Gold」が流れ始めた時の感動を今でも覚えている。ティーン主役映画=脳天気なコメディ路線が主流だった時代に、「硬派でまともな青春」が突然目の前に映し出されたのだから。1983年8月、夏の終わりのことだった。 その年の一番の話題は、春に開園したばかりの東京ディズニーランド。まさにアメリカ文化の象徴と言えたこの空間に、大人から子供まで誰もが夢中になっていた。しかし、80年代という新しい時代の中で呼吸する当時のティーンたちが本当に求めていたのは、純真無垢なファンタジーよりも「そこにあるリアル」だった。 本国アメリカでは、社会の矛盾やどうしようもない生活環境に戸惑いながら生きる自分たちの気持ちをストレートに表現するムーヴメント、“YA(ヤング・アダルト)”が台頭していたが、それは似たような環境におかれていた日本の都市部の中高生たちの心情にも当然シンクロした。 この映画『アウトサイダー』(The Outsiders/フランシス・フォード・コッポラ監督/1983)に登場するのは、すべて10代。ダラス(マット・ディロン)やチェリー(ダイアン・レイン)以外は、当時ほとんどは無名役者(アウトサイダー)たち。その中にはエミリオ・エステベスやラルフ・マッチオ、ロブ・ロウやトーマス・ハウエル、そしてトム・クルーズも出演していた。 舞台はアメリカのスモールタウン。恵まれない環境で生きつつも、仲間たちと明日の希望を信じて生きている“グリース”の少年たち。敵対する金持ちチーム“ソッシュ”(レイフ・ギャレット他)たちとのトラブルが原因で、物語は思わぬ方向に。主人公ポニーボーイたちは身を隠すのだが……青春は儚く過ぎていく。 彼らはこの映画を機に“YAスター”となり、映画雑誌の人気投票は彼らで独占され、『アウトサイダー』は日本でもこの年最も支持された作品となった。 そして、スティービー・ワンダーが歌った余りにも美しく、聴く者すべての心を打つ主題歌「Stay Gold」は、レコード化がされないという異例のままラジオ局にリクエストが殺到して(今では彼のベスト盤に無事収録。..
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ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ〜スティングも出資した英国映画の傑作

『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(Lock, Stock and Two Smoking Barrels/1998) 寝る前に10分だけ脚本を読もうと思って手にしたら、結局朝まで読み耽ってしまった。リッチーに電話するのが待ち遠しかったよ。とにかくカラフルでオリジナリティのある脚本で、ジェットコースターに乗っているような気分になった 1996年、企画は動き始めた。音楽ビデオやCMで生計を立てながら、稼いだ金で短編映画を撮っていたガイ・リッチーは、同世代のアメリカ帰りの若手プロデューサーであるマシュー・ボーンと意気投合。温めていた映画の脚本作りに一緒に没頭する。当初は250ページもあった脚本から贅肉が省かれたのち、マシューは制作資金集めに乗り出した。 そんな中、興味を持った一人にあのスティングがいた。「暴力を直接描かないが、エネルギッシュな映画作りをする」リッチーの短編映画に非凡な才能を感じていたのだ。自分も出演させることを条件に出資を引き受けたらしい。 撮影はロンドンの下町イースト・エンドで行われた。労働者階級が多く、実際にギャングが多いエリアとして知られている場所。地域特有の独特のアクセントによるコックニー訛りも有名で、出演者の中にはこの下町で育った者たちが何人か起用された。 こうしてできあがったのが、29歳の監督と26歳の製作者が組んだ『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(Lock, Stock and Two Smoking Barrels/1998)だ。この青春クライム・ストーリーはイギリスでたちまち記録的な大ヒット。英国版タランティーノと称されながらも、英国的な色気と体臭、ユーモアが充満する作品は日本のポップカルチャー・シーンでも話題になった。 (以下ストーリー) ロンドンの下町で暮らしながら一攫千金を夢見る4人組──エディはハスラー、腕力に自慢のベーコン、盗品の裏商売をしているトム、真面目にシェフとして働くソープ。 エディは仲間たちに儲け話を持ち掛ける。ポルノ界の帝王で街の顔役的なギャングのボス、ハチェットとのカードゲームに勝って、かき集めた金を倍増させるつもりなのだ。4人はそれぞれ2万5千ポンドを出し合い、エディは一世一代の勝負をする。 しかし、順調だった勝負も最後に運に見放され、エディは逆に50万ポンドの大借金を..
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