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オーティス・レディング〜フェードアウトしていく口笛に残された「未来」

1967年12月10日、バーケイズのメンバーとともにツアー中だったオーティス・レディングは、次の公演地であるウィスコンシン州マディソンへと向かう途中、自家用飛行機の墜落事故により還らぬ人となった。享年26。同年6月に出演した〈モントレー・ポップ・フェスティヴァル〉でのパフォーマンスが高い評価を得て、人種の壁を越え、今まさにスターダムへとのし上がろうという矢先の悲劇だった。 彼の死から6週間後に発表され、自身にとっても初の全米ポップ・チャート1位を記録した「(Sittin’ On) The Dock Of The Bay」。ツアー先のサンフランシスコでボートハウスに滞在中、サンフランシスコ湾をぼんやりと眺めている時に生まれたこの曲は、これまで多くの作品を一緒に作り上げてきたスティーヴ・クロッパーとの共作としてクレジットされている。レコーディングが行われたのは、事故の3日前のことだったという。 「オーティスが空港から電話をかけてきて、『これから直接スタジオに行く! ヒット曲が出来たんだ!』とまくし立てるように言ったんだ。長い付き合いの中で、彼がこんなことを言うなんて初めてのことだった」(スティーブ・クロッパー) 「(Sittin’ On) The Dock Of The Bay」は、オーティスがこれまでに発表したものとは異質の楽曲だった。彼の真骨頂といえよう魂がほとばしる熱唱と、この曲で聴ける歌声の印象が異なるのは、モントレーでのフェスティヴァル出演後にポリープの手術を受けた影響から。哀愁を漂わせながらも、どこか悟りきったようなおだやかな歌い方が心に沁み入ってくる。 ここに座って、心の重荷を降ろすんだ この孤独は僕を置き去りにしないだろう 2000マイルも放浪して やっとこの波止場を故郷にできたんだ 波止場に座って 船が旅立つのを眺めている 波止場に座って ぼんやりと時間をつぶしている ツアーで各地を飛び回っては全身全霊をぶつけてステージに上っていたオーティスが、ぼんやりと水面を眺めながらもう一度〈歌〉と向き合い、これからの道を見出した「(Sittin’ On) The Dock Of The Bay」。オーティス・レディングにとってまさしく新境地となる曲であり、彼にとっての27歳はシンガーとして新たな評価を獲得する一年となるはずだった。 「僕がオーティスと最後に会..
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オノ・ヨーコ少女時代〜大財閥のお嬢様が受けた英才教育

1933年2月18日AM8:30、安田財閥が所有する東京の大きな屋敷で彼女は雪の降る朝に生まれたという。 小野英輔・磯子の間に生まれた三人の姉弟の長女だった。 父親は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。 母親の祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎だった。 安田財閥といえば、金融部門で他の財閥の追随を許さないほど潤沢な金融資本をもつ日本四大財閥の一つ。 つまり彼女は、安田財閥直系のお嬢様だった。 「魚座生まれの私に、両親は“海の子”を意味する“洋子”という名前をつけました。」 幼児期に父親が遠く離れた存在だった上、母性よりも義務感に満ち溢れた母親は、お行儀よく躾けられた娘(彼女)に対してめったに感情を表したりスキンシップをはかろうとしなかった。 母親は家事に加えて、娘のオムツ替えや授乳など日常的な育児を、30人前後いた使用人に任せきりにした。 彼女たちは宮廷の使用人と同じ作法・習慣を身につけており、主人(つまり彼女の母親)がお目見えする際は、ひざまずいてお辞儀をしたという。 母親はオムツ交換をしないくせに、娘に対して異常なくらい潔癖な生活習慣を要求した。 お付きの人には必ずアルコールを浸した脱脂綿を持ち歩かせ、浮浪児がいそうな公の場では、娘(洋子)が触れるだろうと思われる場所を徹底的に消毒させたという。 「自分が孤独な子供だとは思いませんでした。だってそんな生活しか知らなかったんですから。」 彼女が生まれる4年前に起こったウォール街崩壊の後遺症で、アメリカでは数多くの企業が破綻し、大量の失業者が生まれた時代だった。 その反面、日本では第一次世界大戦以来の急速な産業発展のおかげで、諸外国よりもましな状況で1930年代を終えることになる。 彼女が3歳を迎えた1936年、母親は子供たちを連れて夫の暮らすサンフランシスコへ転居したが、2年後には日本へ帰国し、安田家の鎌倉の別荘で暮らしたという。 サンフランシスコで暮らした短い期間、彼女は父親の勧めでピアノを習っていた。 熱心に練習した彼女は、日本に帰国する頃には、4歳にして訪問客をなど前にして演奏を披露できる腕前になっていたという。 母親はまた別の方面でも彼女の才能を伸ばそうとした。 1939年、6歳になった彼女を..
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レッド・ベリーを偲んで〜フォークミュージックの源流“生けるジュークボックス”と呼ばれた男の数奇な人生と偉大な功績

1949年 12月 6日、アメリカのフォークミュージックの源流とも言える男レッドベリー(享年61)がニューヨーク市内でこの世を去った。 死因は筋萎縮症側索硬化症とされている。 彼の亡骸は、故郷ルイジアナ州ムアリングスポートのシロー・バプテスト教会墓地に埋葬された。 翌1950年、彼の弟子の一人だったピート・シーガー率いるウィーバースが「Goodnight Irene」をカヴァーして全米ナンバー1に輝く。 作者である彼はその吉報を生きて聞くことはなかった… その後、アメリカではウディ・ガスリーなど彼から影響を受けたアーティストたちによるフォークブームが巻き起こり、さらに60年代にはボブ・ディランが活躍することで世界中にフォークリヴァイバルのブームが広がってゆく。 12弦ギター、ピアノ、マンドリン、ハーモニカ、ヴァイオリン、コンサーティーナ、そしてアコーディオンを巧みに奏でながら、数多くのトラディショナルソングやブルース、ゴスペル、そしてフォークソングを歌うそのスタイルは“生けるジュークボックス”とも呼ばれていた。 彼のギター演奏テクニックは、エリック・クラプトンやライ・クーダーといった後進達を大いに魅了したという。 彼が歌う曲には、男と女、酒、労働、友情、差別、船乗り、カウボーイ、刑務所など…あらゆる人物や風景、暮らしが描かれており、そのリアリティも魅力の一つだった。 また、彼はフランクリン・ルーズベルト大統領やアドルフ・ヒトラー、公民権運動に火をつけたスコッツボロ・ボーイズ事件、ウォーターゲート事件にも絡む億万長者ハワード・ヒューズなど、当時の“時の人”に関する曲も書いた。 前出の「Goodnight Irene」、そして「Rock Island Line」、「The Midnight Special」といった彼の十八番は、当時のフォーク歌手に欠かせないレパートリーとなっていた。 一般的に12弦ギターの名手として知られている彼の演奏ルーツを辿ると… 1906年(当時18歳)、地元ルイジアナ州の安酒場で聴いたブギウギピアノに惹かれ、ウォーキングベース奏法を自分のギタープレイに取り入れたことが原点だったという。 その後、20代の頃にダラスの街で盲目のブルースマン、ブラインド・レモン・ジェファーソンと出会い、本格的にブルースを教わることとなる。 音楽的には才能豊かな男..
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【5 PICS・音楽⑨】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年12月2日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑨】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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無縁坂〜母の人生を坂道に喩えながら綴ったさだまさしの名曲

この「無縁坂」は、さだまさしが23歳の時(1975年)にグレープの6枚目のシングルとして発表した楽曲である。 東京都文京区湯島4丁目に実在する坂を舞台に、年老いた母に対する息子の想いが歌詞に綴られている。 この何か意味ありげな名前を持つ坂。 一体どんな坂なのだろう?そして、この歌はどんな経緯で紡がれた歌なのだろう? ──東京・上野の不忍池(しのばずのいけ)を背に、本郷方面へと歩くと東西に延びた200mほどの坂道がある。 南側には三菱財閥の創設者である岩崎家の石垣が続く。 北側には火事の多かった江戸の町から今なお現存している防火建築漆喰(しっくい)造りの講安寺や、東大医学部が広がっている。 その坂はかつてここにあった寺の名前(無縁寺)に由来して“無縁坂”と名付けられたという。 江戸時代の地図にもその名が残っている坂である。 明治の文豪・森鷗外の小説『雁』は、この界隈を舞台にしていて、主人公の青年は、無縁坂を散歩道としてよく歩いていたとされている。 時を経て…昭和の時代になって、再びこの坂を有名にしたのが、さだまさしが書いた「無縁坂」だった。 まだ若かった頃のさだの母が、幼い僕=さだの手を引いて「この坂を登るたび いつもため息をついた」というフレーズから始まるこの歌は、不遇だった自分の母親のことを大人になってから想い起すという設定の歌である。 この「母」と「僕」の二人はなぜこの坂を登ったのだろう? さだ自身の“人生の軌跡”に誕生秘話があったという。 彼は1952年に長崎県長崎市で生まれた。 長崎は平らな道が少なく、道の多くは坂道か階段だという。 坂の下には長崎湾が広がる風景が、少年の頃から彼の脳裏に焼きついていた。 彼は幼年期から恵まれた家庭に育ち、バイオリンに熱中した。 照れ屋だったため、母とも手を繋いで歩いたことがなかったという。 バイオリン教室に通う時は、いつも母が付き添ってくれた。 その“腕”を磨くために、彼は中学一年から単身で上京することとなる。 12歳から一人で暮した街で、彼は寂しさを紛らわすように歴史を訪ねる散歩を重ねたという。 鷗外に魅せられて、この坂道を何度も歩いたという。 高校に入学すると音楽以外に小説にも興味を抱き、ペンを走らせるようになる。 歌の出だしとなる言葉は、彼が当時書いた小説の一節だった。 彼は、この短い詩を自分の心の引き出しにしまったま..
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マンハッタンの哀愁〜都会の孤独とマル・ウォルドロンの「オール・アローン」

『マンハッタンの哀愁』(Trois chambres à Manhattan/1965) ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』を初めて観た時、衝撃というよりは全編に漂うそのムードに完全にやられてしまった。モノクロフィルムにとらえられたパリの街並み、夜を彷徨う男と女の姿、マイルスのトランペット……すべてが混ざり合ったそのムードがどこまでも心地良かった。 これまでTAP the SCENEで取り上げた映画の中には、実はそんなムードを重視した作品がたくさんある。練られたストーリー、映像の凄さ、俳優の存在感で魅了するだけが映画ではないのだ。 今回の『マンハッタンの哀愁』(Trois chambres à Manhattan/1965)もそんな作品の一つ。フランス映画の巨匠マルセル・カルネがマンハッタンの街を舞台に喪失感に包まれた男と女を静かに描いていく。そこには煙草と酒、モダンジャズといった夜の文化があり、都会でしか生きられない者の愛と孤独が鼓動する。 また、モノクロの中のマンハッタンは切ないほどに美しく、例えばウディ・アレンなどは間違いなくこの映画に心を奪われたに違いない。当時60歳近かったカルネ流のヌーヴェルヴァーグ。そんな印象を受けた。 原作はフランスの推理作家ジョルジュ・シムノンの小説『マンハッタンの三つの部屋』。音楽を担当したのはチャールズ・ミンガスとの仕事や晩年のビリー・ホリデイの伴奏者を務めたことでも有名なマル・ウォルドロン。男女の感情の起伏を盛り上げるサウンドトラックには聴きどころが多く、中でも映画のテーマ曲である「All Alone」は今も日本のジャズファンに人気が高い。 主演はフランス映画と言えばこの人的な名優の一人、モーリス・ロネ。そして映画をよく観ると大発見がある。何とロバート・デ・ニーロが出ているのだ。と言ってもこの頃は彼も駆け出しの無名役者。エキストラでレストランの客役でセリフもない。パリにいた頃、たまたま舞い込んだのがこの仕事だった。もらったギャラはすぐに消えたそうだ。 パリの安宿に泊まり、街の芸術家たちと仲良くなった。でも金がなく、食費にも事欠く始末。一ヶ月くらいブラブラして小劇団に参加していた時、映画に出演したんだ。 フランソワ(モーリス・ロネ)はパリで妻に逃げられ、今は仕事を求めてマンハッタンで暮らしている。ある夜、酒場でケイ(ア..
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Something〜ジョージ・ハリスンの最大のヒット曲はこうして生まれ、歌い継がれてきた

あの娘の仕草のひとつひとつが ほかの誰よりも強く僕をひきつける 愛をささやく時の何かが… もうあの娘を離したくない 心からそう思う 本当に この歌は、1969年9月にビートルズが発表したイギリス盤公式オリジナルアルバム『Abbey Road』に収録された曲であり、同年10月にシングルカットされ21枚目のオリジナルシングル曲ともなった。(※両A面曲で片面は「Come Together」) ジョージ・ハリスンの作品で、リードボーカルもジョージがとっている。 ビートルズ時代の公式発表曲の中で唯一シングルのA面収録曲となったジョージの作品であり、ビートルズ並びに彼の代表作として知られる。 「Something in the way she moves」という曲の冒頭の歌詞は、当時アップルレコードに属していたジェームス・テイラーの楽曲のタイトルから引用されている。 ジョージは自伝の中で、この楽曲に関してこんな風に語っている。 「Something」は、ビートルズのアルバム『The Beatles(通称・ホワイトアルバム)』(1968年)のレコーディング中にピアノを使って書いたんだ。 ポールが他の曲のオーバーダビングをやっているあいだ時間があったので、誰もいないスタジオ(アビイロード第一スタジオ)へ行って書きはじめたんだ。 比較的にすらすらと書けたんだけど、中間部分をまとめるのにやや手間どったのを憶えているよ。 当時、ホワイトアルバムはすでに全曲を録り終えていたので、この曲は収録されなかった。 それでジョー・コッカーに譲り、一年後にビートルズでもレコーディングして『Abbey Road』(1969年)に収録したんだ。 このメロディーは確か、上下5音の範囲内に収まっていたはずだよ。 たいていのシンガーは自分の声域の中で無理なく唄うことができるはずだよ。 おそらく僕が作った曲の中では一番のヒット作だろうね。 僕の知る限り150種類のカヴァーバージョンが出ている。 その中でも気に入っているのは、ジェームス・ブラウンのものだね。 あれは素晴らしかった! 実はこの曲を書いた時、レイ・チャールズが唄っているところを想像していたんだけど…何年か後に本当に唄ってくれることになるなんて! <引用元・参考文献『ジョージ・ハリスン自伝』著:ジョージ・ハリスン/訳:山川真理(河出書房新社)>..
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私たちの望むものは〜“フォークの神様”と呼ばれた男が紡ぎ出した強烈なメッセージソング

岡林信康の実家は教会だった。 父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていたという。 しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。 その時期に宣教師に出会い牧師となって大阪の神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。 1946年7月22日、彼はそこで生まれた。 近江兄弟社中学を出て、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。 彼はそれまで熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ、その後社会主義運動に身を投じる中で、フォークシンガー高石ともやに出会いギターを始める。 1968年、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビューを果たす。 翌年までに「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」などを作り、その内容から、多くの曲が放送禁止となった。 当時は“フォークの神様”などとも言われたが、労音(勤労者音楽協議会)との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップが出来て、彼はすでにプロテストソングに行き詰まりを感じるようになったという。 そしてロックへの転向を模索するようになる…。 それは1969年9月6日の出来事だった。 彼は大阪労演公演への出演をすっぽかし、同月23日の東京公演直前に「下痢を治してきます」と言ったまま失踪する。 当時、彼は連日のハードな地方公演に加えて「コマーシャリズムに隷属し、レコードを作って金儲けをしているヤツ」としてフォークゲリラ(1968年ごろから大阪・東京などで自然発生的に始まった学生・市民の反戦集会)から批判されたりして、精神的に滅入っていた。 数ヶ月の間、姿をくらませた彼は、翌1970年の4月8日に東京・神田の共立講堂で行われた音楽舎主催の『メッセージコンサート』に登場する。 「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう。」 アコースティックギター1本でパフォーマンスをしてきた彼だったが、この日は明らかにそれまでとは違う佇まいだった。 彼は、渡辺勝をはじめとする通称「グループQ」をバックバンドとして従えて、ロックのリズムにのってエレキサウンドを放ちながら歌い出したのだ。 その後も細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂による(当時はまだ無名だっ..
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パティ・スミスとチェルシーホテル 後編

「赤貧のギタリストたち、文無しの映画監督、ドラッグ中毒の美女たち、ジャンキー詩人、フランスの俳優たち…ここを通り抜けた人は皆、何者かではあるのだ。たとえ、このホテルの外では無名でも。」(パティ・スミス) 1883年に造られたこの建物は、当初は共同アパートとして使われていた。 ホテルとなったのは1905年のこと。 以来、無名の芸術家や世間の生活習慣などを無視して放浪的な生活をするボヘミアンたちに愛され、小説、映画、音楽等々を巡る数々の神話がこのチェルシーホテルを舞台に生まれた。 アーサー・C・クラークが『2001年宇宙の旅』を書き、映画化にあたってスタンリー・キューブリックが彼を訪ねてこのホテルにやってきた。 ボブ・ディランが「ローランドの悲しい目の乙女」を書き、レナード・コーエンが「チェルシー・ホテル#2」を書いた。 パティ・スミスが盟友ロバート・メイプルソープと一緒に住んでいたのもこのホテルだった。 様々のアーティスト達が“たまり場”としていたこの歴史的ホテルでの数々の出会いが、アーティストとしての彼らを形作ったのだった。 アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、サルバドール・ダリ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスといった人間との交流が二人を大いに刺激した。 「チェルシーホテルでの出会いで、私たちに最も大きな役割を果たしてくれたのは、サンディ・デイリーだったわ。彼女は濃厚なアーティストで、私たちと同じフロア1009号室に住んでいたの。その部屋の壁は真っ白で、床も真っ白だったわ。部屋に遊びに行く時はいつも靴を脱いで入ったの。ヘリウムで膨らんだ銀色のクッションボールが頭上に浮かんでいたわ。白い床に裸足で座り、コーヒーを飲み、彼女の写真集を見せてもらった。シンプルでエレガントな写真を撮っていた彼女は、いつも片手にポラロイドを持っていた。ロバートに最初のポラロイドを貸したのは他ならぬ彼女であり、ロバートの初期の作品に関して貴重なアドバイスを与え、自信を与えてくれたのも彼女だったの。」 また、パティは同じ“チェルシーの住人”でもあった(現在は俳優としても知られる)劇作家のサム・シェパードから戯曲の共作を依頼されたりして、徐々に活動を活発化させる。 1971年、アンディ・ウォーホルの初期共同制作者であるジェラルド・マランガの、セント・マークス教会での朗読会の前..
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パティ・スミスとチェルシーホテル〜前編

「下手クソなアート作品が壁に掛けられたエントランスホールを行き来するホテルの住民たち。ここは、スタンレー・バードが家賃代わりに押しつけられた大きな邪魔くさい品々に占拠されている。このホテルは、困難を切り抜けてなんとか生きている、あらゆるジャンルの多才な子供たちにとっては、エネルギッシュで絶望的な天国だった。」 (パティ・スミス) その“伝説のホテル”は、マンハッタンの23th Street (23番街)沿い、7th Avenueと8th Avenueの間にある。 ビートニクス、ヒッピー、詩人、ミュージシャン、ロッカー、絵描き、物書き、フォトクラファーからジャンキー、アル中、浮浪者、ボヘミアン、酔っぱらい…ありとあらゆる人種やアーティストが通過していった希有な場所だ。 ここで起きた出来事や歴史は様々な人達に語られ、綴られ、映画の舞台にもなった。 1883年に建設されたが、当初は共同アパートとして使われていた。 ホテルとなったのは1905年のこと。 「私の父が1940年にホテル・チェルシーを引き継いだのです。」 そう語るのは、現在のこのホテルのマネージング・ディレクターを勤める、スタンレー・バード氏だ。 「父が1957年にリタイアし、私にマネジメントを教えてくれました。それ以来、50年以上に渡り私がこのホテルを管理しています。」 このチェルシー・ホテルを舞台に、数えきれない程の伝説や逸話が語り継がれ、そしてこの場所をテーマにいつくかの名曲が生まれた。 ジョニ・ミッチェルは、このホテルを題材に「チェルシー・モーニング」を紡いだ。 アンディ・ウォーホルが制作した映画『チェルシー・ガールズ』のためにルー・リードとヴェルヴェット・アンダーグラウンドのギタリストのスターリング・モリソンが同名の曲を共作し歌姫ニコにプレゼントした。 詩人のディラン・トマス、『トム・ソーヤーの冒険』の筆者マーク・トウェイン、『2001年宇宙の旅』の作家アーサー・C・クラーク、短編小説の名手オー・ヘンリーを筆頭に、アレン・ギンズバーク、ウィリアム・バロウス、チャールズ・ブコウスキー、アーサー・ミラー、アンディ・ウォーホル、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ジョン・レノン、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、クリス・クリストファーソン、イギー・ポップ、トム・ウェイツ、..
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