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大阪で生まれた女〜30分を超える歌物語をヒット曲に導いたのはロック界の大物だった!

1979年、当時25歳だったBOROはシングル「大阪で生まれた女」で歌手デビューを果たす。 きっと50代から60代の大阪人にとっては、今でも思い入れの強い楽曲の一つだろう。 オリジナルの歌詞が18番まである曲で、まともに歌うと30分を超える大作としても知られている。 1番から16番までに男女の恋物語が綴られ、最後の17番と18番ではBOROの人生観が語られている。 当時シングル盤にされたバージョンは、その中でも情景描写が秀逸な4番と6番の歌詞を中心に構成されていた。 ♪「大阪で生まれた女」/BORO 踊り疲れたディスコの帰り これで青春も終わりかなとつぶやいて あなたの肩をながめながら やせたなと思ったら泣けてきた BORO(ボロ)という名前の由来は、幼少の頃にオンボロ自転車を乗っていて付けられたニックネームだった。 それは70年代の中頃のことだった。 当時まだ20代前半だった彼は、北新地の夜の盛り場でギター1本で弾き語りをしながら歌手デビューを夢ていた。 「大阪の若い人が歌える今風の歌がない」 客席からのそんなリクエストに応えて、彼はこの歌を紡いだのだという。  ちょうどその頃、彼は内田裕也に才能を見いだされる。 たまたま彼が弾き語りをしていた酒場に、内田が現れたのが1977年の暮れのことだった。 その夜も彼は酔客あいてに「大阪で生まれた女」を歌っていた。 内田はステージを見て直ぐさま「いける」と確信し、さっそく歌手BOROのデビューを画策し始める。 フォークでもロックでもないこの楽曲を、内田はこんな風に表現したという。 「ストリートミュージックだよ!あるいは関西人にしか作れないブルースだね!」 この楽曲と歌手BOROを売り出すにあたって、内田はある戦略を立てる。 それは、同じ歌を東西で二人の歌手に唄わせるという斬新なものだった。 一人はもちろんBORO。 そしてもう一人、内田が白羽の矢を立てたのが“ショーケン”こと萩原健一だった。 テンプターズで一世を風靡した萩原は、当時すでに俳優に転身しテレビや映画を通じて人気沸騰中の頃だった。 1979年の5月にショーケンのバージョンを、そして8月にBOROのデビューシングルとして同曲の連続リリースを実現させたのだ。 内田の思惑通り、相乗効果もあって曲は見事にヒットし、長きに渡って愛されつづける“大阪の歌”となっ..
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HARRY(ザ・ストリート・スライダース)27歳〜その音楽ルーツ、作曲スタイル、日本語で歌うことへのこだわり

HARRYこと村越弘明は、1980年代〜90年代の日本のロックシーンにおいて大きな足跡を残した伝説の4人組THE STREET SLIDERS(ザ・ストリート・スライダーズ)のヴォーカル&ギターであり、バンドにおいて大半の楽曲を作詞作曲した男だ。 彼は27歳の時に、ある意味バンドの黄金期とも言えるブレイクポイントを迎え、初の武道館公演“天国と地獄”を目前にしていた。 12inchシングル「Back To Back」(’86.06.21)、7th シングル「Special Women」(’86.11.01)、8th シングル「Boys Jump The Midnight 」(’87.01.21)を立て続けにヒットさせ、5作目となるアルバム『天使たち』(’86.11.21)を引っ提げて多忙な時期を過ごしていた。 1983年のデビュー以降、バンドのフロントマンとして独自のロックンロールスタイルでシーンを切り拓いてきた彼は、ちょうどこの時期に出版された『夢の跡/ザ・ストリート・スライダーズ』のインタビューで、当時の心境を不器用ながらも丁寧に語っている。 「将来のことなんてわからない。考える気にもならないし、先のことを想像するなんて退屈でたまんない。」 デビュー以来、雑誌のインタビューやラジオ・テレビ番組では“ほとんど喋らない”姿勢を貫いてきた彼が、その本の中では(珍しく!?)音楽を始めたきっかけやロックと出会ったときのことを口にしていた。 「音楽を始めたきっかけはギター。理由はよく憶えてないけど…とにかくバンドが好きだった。それも歌じゃなくてギターね。歌はあんまり自分にできそうもなかったし(笑)なんてのかな…バンドの真ん中に立ってマイクを持って歌うってのは考えらんなかった。」 彼はロックと出会った当初、ビートルズやローリング・ストーンズ、そしてヴェルヴエット・アンダーグラウンド、ドアーズ、Tレックスなどに熱狂していた。 「俺の場合は動機が軽くてさ(笑)ただカッコイって思ったんだよ。特にスリーコードの曲とか。」 曲を書くのが昔から好きだったという彼は、作曲についてこんな持論があるのだという。 「ホイホイできちゃうのって、あんまり愛着がねぇじゃん。こんなの誰でも書けるじゃねぇのとかさ。だから、いいリフなんか頂戴してきてくっつけても、俺は全然嬉しくもなんともないんだ..
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テイラーやケイティだけじゃない! ロックとポップの美女図鑑(60~80年代・後編)

以前、【テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち】という企画を配信しましたが、たいへん好評で今でも多くの方々に閲覧されています。加えて、ロック/ポップ分野での美女企画もぜひ!というリクエストもあり、今回はまず、1960〜80年代の美女アーティストを前編・後編に分けてお届けすることにしました。 本日はその後編です。 前編はこちらから。 *なるべく多くの美女を紹介したいので、20部門(前後編それぞれ10部門ずつ)を設けました。 *90〜10年代の美女については機会を改めて取り上げる予定です。 *本企画は昔と現在の容姿を比べるような主旨ではありません。 【グループ部門】 Wilson Phillips / ウィルソン・フィリップス チャイナ・フィリップス、カーニー・ウィルソン、ウェンディ・ウイルソンの3人組によるその名もウィルソン・フィリップス。チャイナはママス&パパスのジョンとミシェル・フィリップス(こちらも美女)を両親に、カーニーとウェンディはビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを父に持つ。親譲りのコーラスワークと西海岸の風が満載のデビューアルバムからはナンバーワンヒットを連発。同時期にはエクスポゼなどの女性グループの活躍が全盛期。 【バンド部門】 The Go-Go’s / ゴーゴーズ ガールズ・ロック・バンドの先駆けと言えば、ジョーン・ジェットやリタ・フォードが在籍したランナウェイズ。彼女たちの成功と苦悩の後に登場したのが、ベリンダ・カーライルやジェーン・ウィードリン率いるゴーゴーズだった。やんちゃなイメージのバンドは、やがて各々のソロ活動で大人の女性へと成長を遂げる(美しさにも磨きがかかる)。そしてバングルスも忘れられない。ヘヴィ・メタル・シーンではガールスクールやロック・ゴッテスもいた。 【スクリーン部門】 Patsy Kensit /パッツィ・ケンジット(エイス・ワンダー) もともと子役としてイギリスで活躍していたパッツィが兄のバンド、エイス・ワンダーのヴォーカリストとして加入してヒットを放ったのが86年。そのルックスからブリジット・バルドーの再来とも形容され、日本でもアイドル化したこともあった。モッズの台頭を描いたミュージカル映画『ビギナーズ』(86年)にも主演して話題に。 【60年代ガールポップ部門】 The Shang..
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ひこうき雲〜ユーミンの才能を世に知らしめるきっかけとなった“稀代の名曲”の誕生エピソード

僕がユーミンと知り合ったのは、まだ彼女が中学生のころでした。 新宿の『ACB』や池袋の『ドラム』といった都内のジャズ喫茶でよく話をしました。出会ったころのユーミンはショートカットでニキビがいっぱいあって、女性というより、面白い女の子という印象でしたね。 彼女は昔から音楽に詳しくて、立川や横田の米軍基地にあるPX(売店)に入り浸っては海外の最新レコードを仕入れていた。 レッド・ツェッペリンを僕に教えてくれたのも彼女でした。 僕が彼女を“ユーミン”の愛称で呼び始めたのも、この頃からでしたね。(シー・ユ―・チェン/“ユーミン”という愛称の名付け親) 空に 憧れて 空を かけてゆく あの子の命は ひこうき雲 今日は“ユーミン”こと松任谷由実(荒井由実)の67歳の誕生日にちなんで、これまでの足跡と稀代の名曲「ひこうき雲」の誕生エピソードをご紹介します。 ──1954年、老舗の呉服屋の次女として生まれた彼女は6歳でピアノを習い始めた。 幼い頃から聖歌隊にも所属し、バッハやヘンデルに親しんでいた音楽好きな少女だった。 早熟なところもあり、中学生時代には学校が終わると六本木のディスコに通い、朝まで踊り続けていたという。 そんな夜遊びを通じて、かまやつひろしや細野晴臣やなど大勢のミュージシャンと出会い、彼らの影響から自らも曲を作るようになる。 1969年、それは彼女がまだ15歳の頃の出来事だった。 タイガースのメンバーだった加橋かつみがロックミュージカル『ヘアー』に出演中、仲間から「愛は突然に」という曲を紹介される。 彼はすぐにその曲が気に入り、自身のシングル曲としてリリース。 実はこの歌こそ、ユーミンが14歳の時に作詞作曲したものだった。 以来、彼女はミュージシャンの間で“天才少女作曲家”として知られるようになる。 彼女の荒井由実時代やYMOを手掛けた音楽プロデューサー(作曲家)の村井邦彦は、当時のことをこう振り返る。 僕が初めてユーミンの曲を聴いたのは、彼女がデビューする2年くらい前でした。 当時、僕は元ザ・タイガースの加橋かつみさんに曲を提供していて、彼のレコーディングに立ち会ったんです。 すると、僕の曲の前に録音していた曲がすごく良かった。 それで加橋さんに「誰が提供した曲なの?」と聞くと「由実という女の子」というので、すぐに紹介してもらったんです。 初対面の彼女はまだ高..
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ジミ・ヘンドリックスのFirst Step〜たった5ドルの中古エレキギター、陸軍時代に出会った相棒ビリー・コックス

ジミがエレキギターと出会ったのは12歳だった。 友達の影響でB.B.キングやエルモア・ジェイムスといったブルースを耳にするようになり、当時アメリカ中の若者を熱狂させていたエルヴィス・プレスリーに夢中になっていた時期だった。 ギターを持っていた友人の家に集まり、みんながカードゲームで盛り上がっている時間に、ジミはそっとギターを玄関ポーチに持ち出していじくっていたという。 当時のことをジミ本人が語った記録が残っている。 「どうやって弦を張り替えていいのかもわからなかったんだ。僕は左ききだったから、全然しっくりこなかったよ。弾き真似のようなことをしていても“何だか変だな”と思っていたんだ。ある晩、父親がアパートの大家の息子から古いギターを5ドルで買い取って僕にくれたんだ。」 弦の張り方も覚え、ギターの魅力に取り憑かれていった彼は、ありとあらゆるものから音楽を吸収していった。 レコード、ラジオ、テレビのアニメなどのBGMや効果音も熱心にコピーしていた。 15歳になったジミは、アマチュアバンドで経験を積み、ギターの腕を磨いていった。 しかし…その後、彼は自動車窃盗の罪で逮捕される。 その際、投獄されるのを回避するために陸軍に志願して入隊。 第101空挺部隊(スクリーミング・イーグル)へと配属されることとなる。 「16歳で学校を中退して暇を持てあましてたし、俺が生まれ育ったシアトルの町では面白いことなんてなんにもなかった。法的に入隊が許可される17歳になるのを待って陸軍に志願したんだ。そしたら驚くべきことに、軍人生活の方がずっとつまんなかった!」 ジミはそこで黒人ベーシストのビリー・コックス(一等兵)と出会う。 すぐに意気投合した二人は、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあった。 当時はベトナム戦争が開戦したばかりの時期だったが、ジミもビリーもベトナムの戦地に行くことはなかった。 ビリー・コックスはジミとの初めての出会いを鮮明に憶えていた。 「1961年11月のある雨の日だったよ。土砂降りだったから俺は基地内にあるサービスクラブで雨宿りをしていたんだ。誰かがギターを弾いてる音が聴こえてきた。建物の奥には音楽室があって、俺は音に導かれるように入っていった。そこに赤いギターを持った痩せぎすの青年がいたんだ。彼が弾くギターの音色は、まるでベートーヴェンとジョン・リー..
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テイラーやケイティだけじゃない! ロックとポップの美女図鑑(60〜80年代・前編)

以前、【テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち】という企画を配信しましたが、たいへん好評で今でも多くの方々に閲覧されています。加えて、ロック/ポップ分野での美女企画もぜひ!というリクエストもあり、今回はまず、1960〜80年代の美女アーティストを前編・後編に分けてお届けすることにしました。 思えば、音楽そのものやアーティストの魅力だけでなく、ヒット曲の数やジャケ買いといったものを入口に、音楽探求の旅を楽しんでいた人も多いはず。中でも美女入り(きっかけ)には心ときめくものがありました。音楽雑誌のページを切り取ったり、アルバムを予約して特典ポスターをもらったり。 90年代以降は女性アーティストの数や活躍が向上し、彼女たちに対する評価も高まりましたが、60〜70年代のロックシーンに至ってはまだまだその存在は珍しく、80年代のMTV時代になってようやく溶け込んだような気がします。 ここで取り上げた美女たちはルックスだけでなく、その音楽も魅力的です。あのアーティストが入っていない!など個人的な思い入れもあるかもしれませんが、壮大な音楽探求を歩み始めたばかりの人たちにとっては、旅のどこかで必ずめぐり会う美女たちに間違いないでしょう。 後編はこちらから *なるべく多くの美女を紹介したいので、20部門(前後編それぞれ10部門ずつ)を設けました。 *90〜10年代の美女については機会を改めて取り上げる予定です。 *本企画は昔と現在の容姿を比べるような主旨ではありません。 【歌姫部門】 Stevie Nicks / スティーヴィー・ニックス(フリートウッド・マック) ロック界の妖精と形容されつつハスキーな声とのギャップもあって、70年代半ば〜80年代半ばに人気の高かったスティーヴィー。75年に恋人のリンジー・バッキンガムとフリートウッド・マックに加入。直後、バンドは世界的成功を収める。81年にソロデビュー。男たちを従えて女たちと歌い進むステージでの姿は、ロックの伝説的瞬間の一つ。この部門にはオリビア・ニュートン・ジョンやシーナ・イーストンも該当。 【ギタリスト部門】 Nancy Wilson /ナンシー・ウィルソン(ハート) ハートは姉アン(ジャケット写真左)と妹ナンシー(右)の二大看板によるハードロック・バンド。レッド・ツェッペリンのフォロワー的存在を経て..
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テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (前編)

世界で最も影響力のあるスターの一人、テイラー・スウィフトがカントリー歌手だという事実。東京でも渋谷や原宿あたりに行けば、彼女のファッションやヘアメイクを真似る「テイラー女子」を多数見かけることができる。こんなこと、数年前までなら考えられなかったことだ。 あるいはカントリー界のスーパースター、ガース・ブルックスがエルヴィス・プレスリーと同じだけ本国でCD/レコード枚数を売り上げていること。シャニア・トゥエインのアルバムは女性アーティストの中で最も高いセールスを誇っていることもまた事実。 日本でカントリー・ミュージックの動向を追いかけている人は正直多くない。しかし、アメリカやカナダでは最も人気のある音楽ジャンルとして確立されているカントリーは、そのへんのロックやヒップホップやクラブ系より格段にクールで心地良くて、しかもヴィジュアル性も高い。 「馬にまたがって西部開拓」みたいな昔のハリウッドが都合良く作り上げたウエスタン映画や日本の演歌のような世界を未だにタグ付けたりする人もたまにいるが、これらは間違いとそろそろ気づいてほしい。 音楽探究心がある人であれば、カントリーがなければロックは生まれなかったこと、そもそもアイルランド系の移民音楽がルーツにあることくらいは知っているだろう。カントリーの原点であるアパラチアのマウンテン・ミュージックやブルーグラスは、ハイロンサムな心の風景を歌った移民たちのブルースに他ならなかった(*興味のある方は最下段に関連コラムリストを並べたのでぜひ読んでみてください)。 さて、それではカントリー美女を巡る短い旅のスタートです。今回の前編では厳選されたソロシンガー9名をご紹介。お気に入りのアーティストに出逢うとともに、これをきっかけにカントリーに対するイメージを一新することになるかもしれません。 *後編はグループ/デュオからの美女たちです。こちらをクリックしてください。 テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (後編) *このコラムは2014年10月16日に公開されたもので、各アーティストのプロフィールは当時のものです。 ①Taylor Swift / テイラー・スウィフト(24歳・ペンシルベニア州) まずは今旬の彼女から。2006年のデビュー以来、リリースするアルバムすべてが大ヒット。ソーシャルメディアも駆使する世界的な..
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【ちょいムズ】2枚の違いを見つけ出せ! #間違い探しinパリ

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ファンダンゴ〜観る者の心に“小さな宝物”が届けられる青春ロードムービーの傑作

年末年始の深夜帯になると、だらだらとTVを観ていてそのまま眠ったり、いつの間にか朝の眩しい光を浴びていたり、そんな経験をしたことがある人は多いと思う。でもこれは「TV離れ」とはまだ縁がなかった1980年代〜90年代の頃の話。この時代に青春期を過ごした人なら、きっとたまたまやっていた「洋画」が意外に面白かったり、自分と同世代を描いた「青春映画」にけっこう感動した夜もあったはずだ。 劇場までわざわざ出向かなかったタイトルや存在さえ知らなかったタイトルが、数年後にはTVでひっそりと深夜放映(もしくはビデオ化)されている。何の知識も期待もないのに、思わず最後まで付き合った映画がたくさんある。こうした時間はその場限りの快楽に思えるが、大人になって仕事や家庭を持つようになると、それは実は「特別な体験」だったことに気づく。 『ファンダンゴ』(FANDANGO/1985)も、深夜放映されていたら思わず最後まで見てしまう青春ロードムービーだった。無名時代のケビン・コスナーが見られるという点でも大いに興味が沸くが、オープニングのパーティやキャデラックの路上シーンには「これはこのまま観るべきだ!」と思わせしまう何かがあった。そして馬鹿騒ぎが続いていく中で、最後になって心に小さな宝物が届けられた。 監督は本作が長編デビューとなるケビン・レイノルズ。スティーブン・スピルバーグによるアンブリン・エンターテイメントの第1回作品。はっきり言ってB級の出来栄え。しかし、だからこそのリアリティと情熱がある。青春映画はそれでいいのだ。ロケはテキサス州やオクラホマ州で行われ、ケビン・コスナーの初主演作となった。 1971年、テキサスのとある大学の寮内で卒業パーティが行なわれている。仲の良いグルーバーズの5人組にとっては、結婚を控えた仲間の一人の独身最後を祝うパーティでもある。だが時代はベトナム戦争の最中。招集を原因に結婚中止が宣言されると、リーダー格のカードナー(ケビン・コスナー)は他の4人を強引に連れて、バカ騒ぎ(ファンダンゴ)の旅へと出ることにした。就職、結婚、徴兵と、みんなが変わってしまう前に。 テキサスの道を猛スピードで走るキャデラック。「メキシコ国境でDOM(ドム)に会いに行く」ことが目的だ。途中ガス欠でなす術もなくなって無謀な試みをしたり、墓場で花火合戦に興じたり、危ないパラシュート体験をした..
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プロコル・ハルムの名曲「青い影」にまつわるいくつかの逸話

ビートルズが伝説の名盤『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表した1967年、同じイギリスで一曲の名曲が誕生した。 ゆったりとしたスケールの大きなメロディーと、印象的なオルガンのフレーズは、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないだろうか?  日本では一般的に「青い影」のタイトルで知られているこの「A Whiter Shade of Pale」は、イギリスのロックバンド、プロコル・ハルムのデビュー曲として1967年5月12日にリリースされたのが初出。 発売からわずか2週間で38万枚を売り上げ、イギリスのヒットチャートで6週連続1位を記録したヒットソングである。 この記録は、あのビートルズでさえもなし得なかったという。 瞬く間にフランス、オランダ、スイス、ベルギーをも席巻し、アメリカでは5位、もちろん日本でも大ヒットとなった。 この曲がレコーディングされた当時、すでにマルチトラックが発達し、ステレオ録音も一般的に行われていたが…あえて“モノラル風”の録音・ミックスが施されたという。 生前ジョン・レノンは、この曲をお気に入りの一つとして挙げており「人生でベスト3に入る曲」「今の音楽業界でこの曲以外は聴く価値がない」とまで語っていたという。 また、このメロディーは日本のアーティストにも大きな影響を与えており、松任谷由実はこの曲をきっかけに音楽を自作するようになったという。 山下達郎も当時ラジオでこの曲を聴いて、すぐさまレコードショップへと走り「購入したその日のうちに100回は聴いた」と語っている。 1966年、バンドの中心メンバーでボーカルとピアノを担当するゲイリー・ブルッカーが、キース・リードという詩人と意気投合したことから、プロコル・ハルムは誕生した。 ロックの潮流がサイケデリックからプログレッシブ、アートロックへと流れる中、歌詞も難解で哲学的なものが好まれており、キング・クリムゾンにはピート・シンフィールドという詩人が存在し、クリームの歌詞はピーター・ブラウンという詩人が書いていた。 そんな時代に、ゲイリーとキースはロンドン近郊の田舎町バッキンガムシャーの山中にこもり“クラシックの要素を取り入れた荘厳なロック”をコンセプトに曲作りを行なったという。 そこに、音楽学校でクラシックを学んだマシュー・フィッシャー(オルガン)が..
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