2021-10

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【超難問】これ何のタマゴかわかる? #タマゴクイズ

これは…ガチョウ?いや、にわとり…?ん〜〜 View Entire Post ›
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【激ムズ】V6ファンでも苦戦しそうな難解クイズ

解散するらしいですね。 View Entire Post ›
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キャデラック・レコード〜ビヨンセも出演した伝説のレーベル“CHESS”の物語

レコード会社を描いた映画はこれまで数々作られてきたが、中でもメンフィスのサンやデトロイトのモータウン、NYのアトランティックといったインディペンデントと呼ばれる独立レーベルの物語は実に見応えがある。そしてシカゴの名門チェスのストーリーも例外ではない。 映画『キャデラック・レコード』(CADILLAC RECORDS/2008)には、レナード・チェス、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリー、エタ・ジェイムズの6人の主要人物が登場する。彼らを語るのは、チェスのソングライター/プロデューサーだったウィリー・ディクソン。1950年代〜60年代におけるブルーズ、R&B、ロックンロールの伝説的な実話が綴られていくが、その一つ一つが音楽ファンには強烈にたまらない。 1940年代前半。ミシシッピの貧しい農民だったマディ・ウォーターズは、図書館用に自分の歌とギターを録音したことをきっかけに“自分を発見”。大都市シカゴへ移ってブルーズ音楽に夢を賭ける。街の騒音や人々のざわめきに音が消されないように、アコースティックからエレクトリックにギターを持ち替えると、彼のダウンホームな感覚を持った音楽は都会の黒人たちを魅了し始める。 それを世に送り出したのはレナード・チェス。ポーランド移民で貧しい暮らしをしていたが黒人音楽に取り憑かれ、ビジネスの可能性を見出して1947年にレコード会社アリストクラットを設立する(50年にチェスと改名)。南部ミシシッピに息づくデルタ・ブルーズが、マディとチェスの出逢いを通じて、北部の大都市でバンド・ブルーズへと昇華した。 他にもアンプリファイド・ハープ(ハーモニカをアンプに通して音を分厚く強くするスタイル)を発明したリトル・ウォルター、マディと同じくミシシッピから移住してきた独特の潰れた声でオオカミのように唸るハウリン・ウルフが続いてスターとなる。レナードは成功の証として、彼らに一台ずつキャデラックの高級車をプレゼントしていく。チェスのブルーズマンは50年代の黒人たちの夢の象徴だった。 50年代半ば。チャック・ベリーをチェスに紹介したのはマディだった。ロックンロールの旋風とティーンエイジャーの台頭によって、ブルーズマン以上の華やかな成功を手にするチャックだったが、人気絶頂時に未成年の少女を連れ回した罪で投獄されてしまう。一方、リ..
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【投票】トランプ氏とバイデン氏、授業で隣の席に座るならどっち?

2人に関する10の調査です。 View Entire Post ›
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PANTA27歳〜頭脳警察の解散後のソロワーク、そして新バンドPANTA&HALの始動

1975年12月31日、PANTAは頭脳警察を解散させた。 解散の約4ヵ月後には1tsソロアルバム『PANTAX’S WORLD』(1976年4月5日)をリリース。 それはPANTAが所属していたビクターの新レーベル“フライング・ドッグ”からの第1弾として大きな注目を集めていた。 PANTAが26 歳の時に放った同作には、当時ソロデビュー直前の竹中“チャー”尚人、ウエスト・ロード・ブルース・バンドの塩次伸二、元サウス・トゥ・サウスの井上茂、元フラワー・トラヴェリン・バンドの和田ジョージ、元スモーキー・メディスンの佐藤準、ジョン山崎、妹尾隆一郎、金子マリなど日本ロック界を代表するミュージシャンが参加した。 同年、彼はスージー・クアトロと共に全国ツアーを決行している。 「ウドーから話が来て、ビクターと相談してやることになったんだ。前座じゃなくて“第一部”ってことでね。彼女たちと一緒に車で回ったよ。本当に面白かった。寂びれたドライヴインに入って食事したり、そこでジュークボックスから流れる音楽に合わせてみんなで踊ったりしてね。」 そのツアーは全国23カ所(29回ステージ)にも及ぶものだった。 各地ホールクラスの会場が満席となり、東京公演(中野サンプラザ)では昼・夜と2ステージが行われたという。 その翌年、27歳を迎えた彼は2ndソロアルバム『走れ熱いなら』(1977年3月25日)をリリース。 山岸潤史(元ソー・バット・レヴュー)、国府輝幸(元ソー・バット・レヴュー)、ロミー木下、鳴瀬喜博、ジョニー吉長という手練れのミュージシャン達によるレコーディングで、“パンタックス・ホーンズ”と名付けられたホーンセクションを導入したシンプルでタイトなサウンドを披露した。 「バックバンドじゃない“バンドの音”が欲しくなってきちゃってね。自分自身もバンドの一員である、そういう形のものを作りたいと思ったんだ。」 同年、彼は新バンドPANTA&HALを結成する。 このバンド名の“HAL”は1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に登場するコンピュータの名前からとったものだという。 PANTA/Vocal 佐藤宣彦/Guitar 今剛/Guitar 村上元二/Bass 浜田文夫/Drums 「このメンバーで2年間、リハーサルとライブだけやったんだ。と..
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ナイト・アンド・デイ〜ポピュラー・ソングに“永遠の若さ”を刻んだコール・ポーター

「壮大な音楽探求」の旅路を愛する人たちがいる。英米や日本のオールドロックの呪縛から解き放たれ、世界中の国々や土地の音楽、ロック以前以外の時代やジャンルの音楽を開拓している。あるいは映画や文学、歴史や文化や経済など様々な観点も含めて楽しんでいる。このコラムに繋がったのはきっとそんな人だと思う。 音楽の場所や時を自由自在に移動しながら旅することは、たとえそれが部屋や頭の中であっても立派な体験になり得る。何も無理に最新の音楽やヒットチャートに触れることだけが「素敵な音楽探求」ではないからだ。しかし、旅人たちはすべてを知りたがる。別に悪いことじゃない。いつまでも一つの音に縛られているよりは。 一方で、人生における避けがたい何かしらのしがらみ、加齢による新しい趣味の広がりにより、音楽から距離を置かざるを得なくなったり、興味自体が薄らいでしまう人だっている。生きていればごく自然のことだ。音楽を仕事絡みにでもしない限り、むしろ当たり前だ。 TAP the POPはそんな人々がネットやSNSでたまたま記事を見かけ、かつての音楽愛を再燃させる役割を果たすこともある。きっかけは昔慣れ親しんだオールドロックやパンク/ニュー・ウェーヴあたりとなるケースが少なくない。一同としては嬉しいことだが、どうかそこに懐かしさのあまり安住しないでほしいとも思う。成長しないイノセンスほど空虚なものはないのだから。 音楽の旅人たちは、多くの歌手やバンド、ソングライターたちに出逢いながら、自分だけの旅を歩んでいく。例えばアメリカ音楽を訪れる時、ロック以前のR&B/ブルーズ、カントリー/フォーク、ジャズ、ゴスペルなど、黒人やアイルランド系が育んだ足跡や風景は強烈な体験となって心を打つ。 また、当時のメインストリームだったミュージカルやスタンダードソングの洒落が効いた静と動が交錯する光景にも魅せられることだろう。1950年代、40年代、30年代、20年代、10年代……もっと深く夢の中へ。 そんな旅路であなたが必ず耳にするのは、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、リチャード・ロジャースらといったソングライターだ。アメリカン・ポピュラー・ソングの黄金時代を担った音楽家たち。 中でもコール・ポーターは「ソフィスティケイテッド(洗練された)」という言葉が最も似合った作詞作曲家。この時代を愛..
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【常識】 #建築好きにしか正解できないクイズ

以下の質問に答えてください。 View Entire Post ›
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パルプ・フィクション〜世界のポップカルチャーの記号になったタランティーノ作品

一つの映画の中に3つの物語を入れて、犯罪映画のアンソロジーを作ろうと思ったんだ。1930〜40年代に流行った大衆犯罪小説(パルプ・フィクション)からヒントを得てね。そういった雑誌では、一つの話の主人公が別の話では脇役として登場していたりする。こういう手法って映画じゃまずないから面白いと思った。 デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992)や脚本作品『トゥルー・ロマンス』(1993)で「新しい才能の登場」として騒がれていたクエンティン・タランティーノが、世界的に脚光を浴びることになったのがカンヌ映画祭を制した『パルプ・フィクション』(Pulp Fiction/1994)だった。 映画・音楽・コミックなど膨大なポップカルチャーを吸収分析するオタク/コレクター気質と、それを消化して自己表現へと変えていく作家性を併せ持つタランティーノが次に目をつけたのが、安価で質の低い紙に印刷された三文小説が並ぶ雑誌の総称パルプ・フィクション。密かに大作家への登竜門としても機能したB級メディアへのオマージュだ。 そのうち時間の流れや人間関係も一回バラバラにして再構築するってこともしたくなった。観客はいきなり物語の中に投げ込まれて、最初は展開が見えないんだけど、だんだんとその全貌がわかってくるわけさ。それってスリリングじゃない!? ジョン・トラボルタ、ブルース・ウィリス、ユマ・サーマン、サミュエル・L・ジャクソン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、エリック・ストルツ、ロザンナ・アークエット、クリストファー・ウォーケンなど、映画好きならたまらない“癖”のある俳優たちがキャスティング。こうした面々が一つの作品でいったいどう絡み合うのか、観る前から思わずワクワクしてしまうのもタランティーノの“計算済み”だろう。 好き嫌いがはっきりと分かれることでも知られるタランティーノ作品だが、小道具や台詞への“拘り”を心地よくとらえられるかどうかがその境界線のようにも思える。本作にもハンバーガーやコーヒーの件をはじめ、オールディーズが鳴り響く50年代風レストラン、発砲前の朗読儀式、ドラッグ過剰摂取の対処マニュアル、日本刀での復讐劇、トイレでのパルプマガジン読書、レトロなツイストダンス、形見の時計のエピソード、サーフミュージックといったあたりが強い印象を残すが、それらを楽しめ人には『パルプ・フィクション』..
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KISS結成物語③〜ニューヨーク・ドールズに影響を受けたメーキャップ、そしてデビューアルバム制作へ

「俺がこのバンド名を思いついた時、メンバー全員が賛成してくれたよ。KISSという名前には様々な意味があると思ったんだ。情熱の口づけだけでなく、死の口づけだってあるんだから。それに凄くわかりやすいし、馴染みがある言葉だしね。KISS?ああ、聞いたことあるよ!なんて、言ってもらえるんじゃないかと俺は思ったんだ。」(ポール・スタンレー) 当時、ニューヨークから出てきたバンドの大半はニューヨーク・ドールズをお手本にしていた。 1973年3月のある夜、ポールとジーンはドールズのライブを観るために繁華街のいかがわしいエリアにある“ディプロマット”というダンスホールへ出向いた。 そこは売春婦や麻薬依存症の連中がしけ込むような場所だった。 「演奏の方はそうでもなかったが、彼らの見た目は最高だった。彼らのウエストは俺の手首くらいしかなくてね。あれと比べたらジーンも俺もアメフト選手のようだった。彼らと同じやり方で勝負しても勝てるわけがないと悟ったよ。」 ポールとジーンは、自分たちのやり方で成功するにはどうすればいいか話し合った。 まず、ドールズのようなカラフルで女性的な衣装ではなく、もっと禍々しい全身黒のコスチュームにすることを決めた。 ポールは早速メタリックな黒いサテン生地を買ってきて、自分たちのお気に入りのベルボトムジーンズを解体して型紙をおこし、自作の衣装を完成させた。 「それまでミシンを使ったこともなかったし、ファスナーの付け方なんてまったくわからなかったよ。だけど出来あがった衣装をジーンも凄く気に入ってくれて、同じ物を作ってくれと頼んできた。」 さらに彼らは犬の首輪を買うためにペットショップを物色し、そこに気にいった物がないとわかると、SMプレイの道具やコスチュームが売っているアダルトショップへと出かけた。 一通り衣装が揃うと、今度は顔を白塗りにすることを考えついたという。 「リハーサルをしていた23丁目の倉庫に集まり、4人でドアに立てかけた鏡の周りに輪なって座り込んだ。どうやってメーキャップをすればいいのか?彼らは取り憑かれたように描いては拭き取りを繰り返して色々なアイディアを出し合ったんだ。」 ポールは右目の周りに星を描いた。 エースは宇宙っぽいデザインを考えた。 ピーターは猫、そしてジーンは悪魔をモチーフにしたメイキャップを作り上げた。 「ジーンのメイキ..
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ビング・クロスビーを偲んで〜20世紀を代表する“最高の白人エンターテナー”と呼ばれた男の輝かしい足跡と功績

1977年10月14日、20世紀を代表する“最高の白人エンターテナー”と呼ばれた男ビング・クロスビー(享年77)がスペインのマドリードで死去した。 死因は心臓麻痺と公表された。 その日、彼はマドリード郊外モラレハにあるゴルフ場で、プロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回った直後、午後6時30分頃にクラブハウスから20ヤード近くの場所で胸の痛みと呼吸の苦しさをうったえながら倒れた。 直ぐにクラブハウス内や救急車内で蘇生処置が行われたが…搬送された病院で息を引き取ったという。 歌手としては全米No.1に輝いたヒット曲が41曲というから、ビートルズですら追いつけなかった歴代最多1位の記録を持っていたと言われている。 ビング・クロスビーといえば、音楽史上においていち早くマイクロフォンを用いることで、新しい時代の歌い方を確立し人物である。 彼は自分の歌について、自伝の中でこう綴っている。 「僕は歌い手じゃない、語り手なんだ。」 ほとんど楽譜が読めなかったという彼は、黒人ジャズ歌手の歌を聴き、盗み取ることで歌唱を磨いていったという。 その生い立ちをさかのぼると、彼が如何に“選ばれし逸材”だったかがわかる。 1903年5月2日、彼はワシントン州タコマ市で生まれる。 ピルグリム・ファーザーズ(アメリカに渡ったイギリスの清教徒)直系の子孫にあたる彼の父親は、イエズス会に所属するクリスチャンで、母親はアイルランド系のカトリック教徒だった。 高校時代から演劇や音楽に関心を持ってはいたものの…厳格なキリスト教徒だった両親のもとで育った彼にとって、将来ミュージシャンや歌手になるなどあり得ないことだったという。 両親が敷いたレールに乗ったまま、彼はゴンザガ大学の法学部で司法を学び、弁護士など法律の専門家になることを目指していた。 しかし、学生時代にジャズと出会ったことをきっかけに、彼は音楽の魅力に惹かれてゆく。 大学の友人たちとジャズバンドを結成して歌い始めたのが歌手キャリアの第一歩目だった。彼は親の反対を押し切り、司法の道を捨て、歌手として生きる決意を固める。 大学を中退し故郷を離れてロサンゼルスへと旅立ち、本格的に音楽活動をスタートさせる。 1926年、26歳の時にジャズオーケストラ、ポール・ホワイトマン楽団に専属歌手として入団。 翌1927年にはホワイトマン楽団内で結成された男..
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