2021-10

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グレン・グールド〜伝説のピアニストをめぐる7つの美学

どんな形であれ音楽家を自認するなら、独創性がなければならない。オリジナリティが前提だ。 音楽は僕を世俗から守ってくれる。現代の芸術家に与えられた唯一の特権は、世俗から距離をおけることだ。 ❶グレン・グールドは“北”の人だった。 1932年9月25日、カナダのトロントで生まれたグールドは、世界的な有名人になっても北の地を愛した。都会での華やかなパーティよりも、静かな自宅に帰ることを選んだ。顔見知りとつるむことよりも、数少ない友人たちとのひとときを優先した。同じ芸術家と交流はせず、生涯独身だった。神秘的な存在でいたいという夢を見ることもあった。 ❷グレン・グールドは“信念”の人だった。 王立音楽院でピアノを学んだ。14歳でデビューリサイタルの機会を掴み、トロント交響楽団と共演してベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いた。1955年、22歳の時にレコードデビュー。契約したNYのコロンビア側は楽曲を指定してきたが、グールドは頑に自分の弾きたい曲を押し通した。彼は音楽制作の主導権を巡る争いに最初から勝利した。敬愛するJ.S.バッハの『ゴールドベルク変奏曲』はベストセラーになり、演奏家の名が広く知られることになった。 ❸グレン・グールドは“解釈”の人だった。 既存のレコードと同じ演奏をすること、楽譜通りに精密機械のように演奏することに対し、意味がないと拒絶した。グールドは作品と作曲家の内面に侵入し、自らのピアノ演奏を通じて作品を完全に乗っ取った。テンポを変えるということは、作品に新しい視点を取り込むことであり、彼自身の世界で育んできた音楽への愛に他ならなかった。 ❹グレン・グールドには“話題”が尽きなかった。 真夏でもコートに帽子にマフラーといった服装。ピアノを弾きながらハミングすることにも注目された。実はこれは計算されたパフォーマンスではなく、幼い頃に母親と一緒に歌いながら演奏していたための純粋な癖だった。 座面が床から30センチという、異常に低い作りの椅子に座って猫背で弾くことには面白いエピソードがある。普通の椅子では弾くことができなかったグールドは、自前の椅子が手に入るまでは、コンサートの度に会場側の椅子を買い取り、父親がその場で脚を30センチになるように切り落としていた。 ❺グレン・グールドは“コンサート”が嫌いだった。 休みの次の日に学校へ行くことがこの世の終わりの気分..
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ジャニス:リトル・ガール・ブルー〜27歳で逝った女性初のロックスター真実の物語

日本でも2016年9月に公開された『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』(Janis: Little Girl Blue/2015)は、ジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー映画。 なぜ歌いたいかって? いろんな感情を経験できるからよ。仲間とお祭り騒ぎの毎日じゃ味わえない感情を知ることができる。想像力を働かせ、真実を見出すの。音楽は感情から生まれ、感情を生み出すわ。 1967年にレコードデビューしてからわずか3年ほどの活動。彼女は1970年10月4日に帰らぬ人となった。ベトナム戦争や公民権運動、ウーマン・リブなどに揺れた激動の1960年代後半のカウンター・カルチャー=ヒッピー&フラワームーヴメントやロック・ミュージックを象徴したジャニス。女性初のロックのスーパースターのあまりにも短い生涯に迫った、見応えのある決定版的な作品の誕生を喜びたい。 これまでこの伝説のシンガーを扱ったフィルムとしては、同じドキュメンタリーの『ジャニス』(1974年)やその人生を下敷きにして作られたベッド・ミドラー主演の『ローズ』(1979年)などが知られていたが、没後45年以上経って新しいラインナップが加わることになった。 監督のエイミー・バーグは6年もの歳月をかけて本作と取り組んだ。ライヴ映像、TV出演、スタジオ風景、家族や友人、元恋人やバンドメンバーらの証言インタビュー。そして密かに綴られていた家族へ宛てた手紙の数々が初公開される。 「故郷テキサス州ポート・アーサーで育った自分」と「ロックスターとなった自分」との間で常に葛藤し続けたジャニスは、家族に宛てた手紙の中では自分自身に正直であろうとした。ジャニスを知っている人も知らない人も、103分間のドラマから魂に触れる“何か”を感じることになるはず。これは鑑賞ではなく、一つの体験だ。 1940〜50年代のアメリカ南部というのは、今とは比べものにならないほど保守的な環境で、家族が彼女に求めることと、彼女自身が求めていることの間には大きな溝があり、幼い頃の彼女はその間で引き裂かれていた。(エイミー・バーグ) テキサス州ポート・アーサーで生まれ、グラビア雑誌の女の子に憧れながらも容姿に対するコンプレックスを抱え、いじめに遭った孤独な少女時代。トラブルメーカーでありながらも、読書好きで歌の才能も開花して放浪を続けた青春時代。 サンフランシスコのコ..
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ツイストブームの立役者チャビー・チェッカーの偉大な功績

1960年代に世界的で巻き起こったツイストブーム。 その立役者として大活躍し、グラミー賞でベスト・ロックンロール・レコーディング賞を受賞した人物がいる。 彼の名はチャビー・チェッカー。 ブームに火を点けたのは、1960年に彼が歌った「The Twist」だった。 その後、「Let’s Twist Again」「Twistin’ USA」「Slow Twistin’」など、彼が歌う“ツイストシリーズ”はすべてヒットを記録。 ビルボード誌が2008年9月に発表したBillboard Hot 100 の50年間総合チャートでは、彼の「The Twist」が第1位を獲得している。 当時、彼の人気は凄まじく、男性アイドル歌手ジミー・クラントンが主演した映画『The Teenage Millionaire』(1961年)への出演を皮切りに、自らが主演を務めた『Twist Around The Clock』(1961年)、『Don’t Knock The Twist』(1962年)、イギリスの歌姫ヘレン・シャピロ主演の映画『It’s Trad, Dad!』(1962年)、さらにはオーストリアで製作された映画『Rote Lippen soll man küssen』(1963年)にも出演し、レコードだけではなくスクリーンの中でもツイストを踊り歌い大暴れしている。 ツイストというダンスのルーツを辿ってみると…1920年代に生まれた黒人の社交ダンスが源流となっている。 ツイストという言葉そのものは、19世紀にアフリカからアメリカに連れてこられた黒人奴隷が“腰をひねる”という意味で用いていたという。 その“ひねる”が労働の動作であったか、それ以外の意味を持っていたのかは定かではない。 1950年代までは、アメリカでダンスといえばナイトクラブのようなところで若いカップルがポップスにあわせて楽しく踊るジルバが主流だった。 ダンスの最後にはチークタイムとなり男性が女性を口説き落とす…そんな“接触型”のコミュニケーションが主流だった時代を経て、1960年に新しいダンススタイルとしてツイストが登場したのだ。 ジルバやチークなど従来のダンスが通常男女1組となって前後左右に動き回るスタイルだったのに対して、ツイストはほとんどその場を移動せず1人で踊るスタイルだったため、いつでもどこでも誰もが簡単に踊..
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遠い空の向こうに〜R&R全盛期、小さな田舎町の高校生がロケット開発に挑んだ感動の実話

宇宙がまだ見ぬ未知の光景だった1957年10月4日。ソ連は人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。これを機に宇宙開発の幕が切って落とされた。そしてその一ヶ月後、ソ連は早くも犬を乗せて2号を打ち上げ。 この立て続けの事態に一番衝撃を受けたのは、言うまでもなくソ連と冷戦状態にあったアメリカだった。“鉄のカーテン”の中の出来事を現実として受け入れざるを得なかったアメリカは、本格的な宇宙開発に取り組むべく1958年10月にNASAを設置。翌年には宇宙飛行に相応しい人材探しを始める。こうしてカプセルに人間を入れて宇宙に打ち上げるという、有人衛生計画「マーキュリー計画」が進められた……。 映画『ライトスタッフ』は苦悩するアメリカの姿と孤独を描いていたが、スプートニクの衝撃はアメリカに無数に存在するスモールタウンの人々にも同時に広まっていた。その中には夜空に弧を描き流れていく物体を見つめながら、「いつか自分でロケットを打ち上げたい」と心奪われた少年少女たちもいたことだろう。 『遠い空の向こうに』(October Sky/1999)はまさにそんな夢を本当に追った高校生たちの話。その後、NASAのエンジニアとして約20年も勤務したホーマー・ヒッカム・ジュニアの自伝『ロケット・ボーイズ』をもとに映画化。ジワジワとクチコミで広がって、アメリカではロングラン・ヒットを記録した実話の感動作だ。 ウエスト・ヴァージニア州、小さな炭鉱町コールウッド。ホーマー(ジェイク・ギレンホール)は何をやっても中途半端な高校生だったが、ある夜、遠い空の向こうで光り輝くスプートニク号に魅せられる。兄のようにアメリカンフットボールの有望な選手になって奨学金で大学へ行くか、ほとんどの者のように炭鉱で働くか、どちらしかないような将来の選択の中、ホーマーはやるべき自分の夢を追いかけ始める。 当然のごとく、炭鉱の仕事にプライドを持ち、町の人々からも信頼を得ている厳格な父親(クリス・クーパー)と激しく対立。新しいことに挑戦しようとする息子に、「馬鹿なことを」とまったく理解や関心を示そうとしない。 だが、学校の悪友2人だけは違った。勢いだけで作ったロケットはもちろん木っ端微塵。母親(ナタリー・キャナディ)の花壇のフェンスを吹き飛ばしてしまった。そこでいつも孤立しているオタクの同級生(クリス・オーウェン)を引き込んで..
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スクール・オブ・ロック〜あのレッド・ツェッペリンも楽曲使用を認めたROCKな映画

TAP the POPの読者なら気づいている人は多いと思う。「ロック」はもはや若い世代や反抗を象徴する言葉でも精神でもなくなったことを。莫大な資産を築いた60代や70代のビッグネームは毎年のように来日公演を行うし、40代や50代にとって「ロック」はまだ追いかけるに値する夢が残された音楽でもある。 1950年代に生まれたロックンロールは60年代に「ロック」となって反体制側としての黄金期を迎え、70年代にはビッグセールスを量産する一大ビシネスとなる。イギリスではその反動としてパンクが芽生えてDIY精神が広がっていくが、アメリカの80年代はMTVの影響でヴィジュアル志向の高いアーティストがメインストリームを形成していく。 90年代に入るとオルタナティヴという名の「ロック」の復権が起こる一方で、CDが爆発的に売れた。ネットカルチャーが浸透したゼロ年代になると、音楽の体験方法自体が次第に一新され、やがて「ロック」ものみ込まれていく……かなり乱暴なまとめ方だが、「ロック」の見え方・距離感としてはこんなところかもしれない。 90年代のグランジやブリットポップあたりから、実は「ロック」の動向がほとんど分からなくなっている(分かりたくない)という人や、オールドスクールやネイティヴ・タンまでは「ロック」を感じだけど、90年代のギャングスタラップ以降のヒップホップにはまったくついていけずに完全に興味を失くしてしまったという人にとって、「ロック」とは今も特別な世界観であることは事実だ。 だから飲食店の席で時々、ゆとり/さとり世代の部下に「ロック」の輝かしい時代や魅力を伝授したくなるのも頷ける。ゼロ年代以降の若者にとって「ロック」は以前のような絶対的な存在ではないことを知りながら。経緯さえ知らない彼らの心に響くはずもなく、どこか虚しい気分にも覆われる。 でも、もし子供たちに伝えることができたなら話はちょっと違ってくるだろう。なぜなら子供たちにとって、「ロック」は反体制でも何でもなく、“耳から入る刺激のある新しい遊び”のようなもので喜んで学んでくれるはずだ。『スクール・オブ・ロック』(School of Rock/2003)は、そんなもしもを実現してくれた良質なエンターテインメント映画だった。 ロックバンドをクビになったデューイ(ジャック・ブラック)は、「ロック」の力を信じて今も反体制な生き方..
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