2021-10

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オン・ザ・ロード〜ジャック・ケルアック伝説の小説『路上』が教えてくれた一番大切なこと

1951年4月。長い旅を終えたばかりの29歳の作家ジャック・ケルアックは、ニューヨークのアパートの一室にいた。そして旅路で綴り続けた手垢と土埃にまみれたメモとしばらく向き合った後、凄まじい勢いでタイプし始めた。 紙をいちいち取り替えていられないのでテープでつないだ。そうして3週間後に出来上がったのは12万語にも及ぶ自分と友人たちの物語。改行が一切なく、まるで太いサラミのような巻物になった。 はじめてディーンに会ったのは、僕が妻と別れて間もない頃のことだ。その頃、僕はある重病から回復したばかりだったけど、そのことについてはあの惨めなほど疲れ果てた二人の訣別と、何もかも終わったという僕の気持ちとにいくらか関係のある病気だったという以外は、取り立てて言いたくはない。ディーン・モリアーティが登場にするに至って、路上放浪の生活と呼べそうな僕の人生が始まった…… 小説『路上』(ON THE ROAD)はそれから書き直しされて、6年後の1957年にようやく出版。「ビート・ジェネレーションを代表する文学作品」「ビートニクのバイブル」として脚光を浴びていく。 60年代カウンターカルチャーのヒッピーたちは言うまでもなく、時が経つにつれて世界中の愛と反骨精神に溢れた人々にもその名は広まり、今では現代アメリカ屈指の文学作品として知られるようになった。 若き日のボブ・ディランもジム・モリソンもジョン・レノンも夢中になってページをめくった。有名になる前のブルース・スプリングスティーンやニール・ヤング、映画を撮る前のデニス・ホッパーやジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダースも読み耽った。 つまり、『路上』がなければロックの名盤は生まれなかっただろうし、『イージーライダー』や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』も『さすらい』も公開されることはなかった(すべてのロードムービーや旅人のための映画も)。それくらいヒップな文化への貢献度と影響力は高い。 しかしケルアックの『路上』を、「ビート」や「カルチャー」といった文脈で捉えてばかりいると本質を見失う。 『路上』に小難しい理屈や面倒な知識は一切必要ない。ただ読めばいいのだ。そこから何を感じ、どんな言葉を拾い、本を閉じた後に心にどんな風景を描くか。それがすべてであり、周辺の情報などに惑わされてはいけない。貪るようにページをめくれる人には、きっと最高に..
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エルトン・ジョンとバーニー・トーピン〜出会ったその日に意気投合したソングライティングコンビ

1966年の年末から、当時19歳だったエルトン・ジョンはロッド・スチュアートをはじめローリング・ストーンズやジェフ・ベックなど多くの英国ミュージシャン達にとって“兄貴分的”な存在として君臨していた歌手ロング・ジョン・ボルドリーのバック演奏をつとめるようになる。 そのことをきっかけに、彼の名はイギリスの音楽シーンで知られるようになってゆく。 「エルトン・ジョン」というステージネームは、ロング・ジョン・ボルドリーの名前をモチーフにして、当時、自ら付けた名前だという。 「名前を知られる一方で、僕は強い劣等感に悩まれていたんだ。なにしろ体重が90キロ近くもあるんだから。ロング・ジョンの音楽性は、僕が目指すものとは違っていたし…ストレスが溜まる一方だったよ。でも、その翌年に僕は運命的な出会いを果たしたんだ。」 バーニー・トーピンと出会ったのは、彼が二十歳を迎える年だった。 それは1967年の7月の出来事だった。 17歳だったバーニー・トーピンは、読書にのめり込んでいた。 イングランドの東部リンカンシャーのアンウェック村とスリーフォードタウンの中間に位置する電気も通らない農場で育ったバーニーは、子供の頃から本を読むことが大好きだった。 格調高い文学作品から児童書「くまのプーさん」(A・A・ミルン)、アメリカ西部開拓時代の英雄ビリー・ザ・キッドの物語など、ジャンルを問わず様々な本を読みあさっていた。 やがてバーニーは本に刺激されて、自らも詩(ポエム)を書くようになる。 ところが、15歳、16歳、17歳とラジオなどでロックやポップスを聴くようになる頃には「自分が書いているのは詩でなく歌詞だ」と気づいたという。 バーニーが表現する詩世界は、ボブ・ディランやビートルズなどに代表される、ポピュラー音楽の歌詞にピッタリだった。 ある日、バーニーは『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』紙に掲載されていた小さな募集広告を目にする。 「有能なソングライターとタレントを求む!(リバティ・レコーズ)」 同時期に、その広告をエルトンも目にしていたという。 バーニーは何編かの歌詞を送ってみた。 するとロンドンのリバティ・レコーズから「一度本社に顔を出してみませんか?」という趣旨の返信が届いた。 エルトンもまた何曲かのデモテープを送り、同じような返信をもらっていた。 20歳のエルトンと17歳のバー..
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笠置シヅ子27歳〜ジャズが御法度とされた戦時中、警視庁が彼女に禁じたものとは?

“ブギの女王”と呼ばれ、戦後の日本において一世を風靡した歌姫、笠置シヅ子。 1927年(昭和2年)、彼女は13歳で「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身)の受験に合格し、芸名・三笠静子として『日本八景おどり』で初舞台を踏む。 1938年、20代半ばを迎えていた彼女は東京に進出した松竹歌劇団に移籍。 その頃の日本は戦時体制に入り、しだいに反米感情が増す中でジャズが敵性音楽として取締りの対象になり始める。 時を同じくして、彼女は戦後の歌謡界をリードすることになる作曲家、服部良一と出会うこととなる。 いち早くジャズを歌謡曲に取り入れていた作曲家と出会ったことで、彼女の運命は大きく変わる。 服部良一によってコロムビア専属に迎えられ「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌うシヅ子のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の1メートル前後の範囲内で歌うことを強要されるようになる。 ある日、警視庁に呼び出された彼女は、こんな言葉で注意を受ける。 「戦意を昂揚しないといけない時に、あなたの歌と派手な動きは雰囲気があんまり出過ぎて困る。とうぶん遠慮して直立不動で唄ってくれないか。」 歌と踊りは彼女にとって一体の芸であり、切り離すことなどできない。 動きを禁じられたら“笠置シヅ子”の存在そのものを否定されたものと同様だ。 その時のこと彼女はこう語っている。 「まぁあれは懇談的なもんやったけど、どこかの新聞には“笠置シヅ子叱られる”と大きく書きたてられましたわ(笑)河童が陸に上がったよりも、もっと惨憺たる気持ちでっせ。こんなみじめなもんあらしめへん…。それから5年間、戦中のブランクはアテの地獄でした。」 そしてついに…1941年、彼女が27歳を迎えた年に松竹歌劇団は解散に追い込まれる。 日中戦争から第二次世界大戦中は活躍の場が限られ、彼女は“笠置シズ子とその楽団”を率いて地方巡業や工場慰問などで戦時中を凌ぐこととなる。 敵性音楽のジャズが御法度となったので、服部は彼女のために東南アジアを舞台にした「アイレ可愛や」という曲を与えた。 歌手は持ち歌がないと仕事にならないため、この歌は当時の彼女を救った一曲とも言える。 服部は自伝『僕の音楽人生』の中で、彼女との出会いについてこんな風に語っている。 「大阪..
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ベルベット・ゴールドマイン〜マーク・ボランやデヴィッド・ボウイがいたグラマラスな日々

1971年のロンドン。それまでのヒッピー時代への決別の意を込めてエスニックな衣装を脱ぎ捨てたマーク・ボランは、サテンやラメの衣装に身を包んでフォーク音楽から転換した艶やかなロックンロールを演り始めた。ボランのバンドであるTレックスは、すぐさまポップスターとなる。 それから1年後の72年。今度は奇しくも同い年で同じような境遇にいたデヴィッド・ボウイが女装愛好家たちのことを歌って、新たな時代の到来を告げる──その後3年間、イギリスの音楽シーンやポップカルチャーのメインストリームとなる「グラム・ロック」「グリッター・ファッション」の幕開けだった。 これをきっかけに最先端の若者文化の震源地は、アメリカ西海岸から再びロンドンに舞台を移す。ボランもボウイも60年代後半はほぼ無名に近い存在だったが、ショウビジネスとホモセクシャルのパワーを手に入れて眩しく生まれ変わったのだ(二人とも10代の頃は洒落者=モッズだった)。 特にボウイは渡米時に出逢ったルー・リードやイギー・ポップに衝撃を受けたのち、自ら「ジギー・スターダスト」に扮することによってこのムーヴメントのリーダー的存在へと祭り上げられていく。 音楽やファッションだけでなく、思想、SF、世紀末感、ポップアート、30〜50年代のハリウッド女優のイメージなどが融合したこのスタイリッシュなうねりは、ロキシー・ミュージック、ゲイリー・グリッター、スージー・クアトロ、スレイド、スウィートらを登場させた。アメリカではニューヨーク・ドールズがデビュー。あのエルトン・ジョンでさえグラム・ファッションに傾倒していたほどだ。 しかし、1973年7月。ボウイはステージでの引退を宣言(ジギー・スターダストとして)。グラム帝国は一気に失速することになる。ツアーが絶頂を極めている頃、ボウイは「自分はステージの上で暗殺される」と公言していたそうだ。 『ベルベット・ゴールドマイン』(VELEVET GOLDMINE/1998)は、こうしたグラマラス・ピープルの伝説にオマージュを捧げ、再構築した映画だった。タイトルはデヴィッド・ボウイが1971年に録音した同曲よりつけられた。 主演はイギー・ポップを彷彿とさせるカート・ワイルド役のユアン・マクレガー。そしてボウイの化身とも言える大役ブライアン・スレイドを演じたジョナサン・リース・マイヤーズ。二人を追いかける若き新..
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ロカビリーの女王ワンダ・ジャクソンの偉大な足跡と功績

2019年3月27日、“ロカビリーの女王” ワンダ・ジャクソン(現在84歳)がライブ活動からの引退を表明した。 彼女のFacebookには、マネージメントからの言葉としてファンへのメッセージが綴られた。 「60年以上にわたるツアー生活を終え、ワンダ・ジャクソンはパフォーマンスから引退します。今回の引退は単に彼女の健康と安全を考えてのことです。これまでワイルドな道程でしたが、長年にわたりサポートして下さったファンの皆様に感謝しております。しかしながら、これで終わった訳ではなく、人生の新たな章の始まりに過ぎません。」 2009年、女性ロカビリーシンガーの草分け的存在として活躍していた彼女はロックの殿堂入りを果たした。 彼女が受賞したアーリー・インフルエンス部門とは、現代のロックにインスピレーションと多大な影響を与えた人物が対象となる賞で、過去の受賞者リストにはロバート・ジョンソン、ウディ・ガスリー、ルイ・アームストロング、ピート・シーガー、ベッシー・スミス、マヘリア・ジャクソン、ナット・キング・コール、ビリー・ホリデイなど錚々たるレジェンド達の名が並んでいる。 1950年代の後半から1960年代初頭にかけて人気を博した彼女の歌を聴くと、カントリー&ウエスタンが黒人ブルースなどの影響をうけてヒルビリーが生まれ、それが発展してロカビリーになり、ロックンロール、そして現代のロックになっていく変遷・ルーツ・流れがよくわかる。 目鼻立ちの整った白人女性らしい可愛い顔に反して、感情的で迫力のある黒人のような歌い方をする彼女の歌唱スタイルは、当時の音楽シーンにおいて革新的なことだった。 1955年にデビューした彼女は、ロックンロールをレコーディングした初めての女性アーティストとして知られている。 もともとカントリーシンガーだった彼女は、エルヴィス・プレスリーに勧められてロックンロールに転向したという。 1937年10月20日、彼女はオクラホマ州にあるモードという小さな町で生まれた。 父親は理髪師をしながらセミプロのフィドル奏者(カントリーミュージシャン)でもあった。 彼女が幼い頃、一家はカリフォルニアに移住する。 それは父親が音楽の夢を追っての引っ越しだったという。 子供時代の彼女にとって、父親は最初の音楽の先生でもあった。 父親は幼い彼女にウエスタン・スイング(スイングとカント..
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マルホランド・ドライブ〜“こんなはずではない自分”が作り出す美しく呪われた世界

前回の『ロスト・ハイウェイ』では、『ブルー・ベルベット』『ツイン・ピークス』『ワイルド・アット・ハート』といったデヴィッド・リンチ作品で“やられた”人は決して少なくないと書いた。だとすれば、今回の『マルホランド・ドライブ』(Mulholland Drive/2001)は、“完全にやられた”人が続出した映画だった。 アイデアがやってくる時は巨大な閃光のような力を伴ってやってくる。そしてすべてのものがその中に取り込まれてしまい、魂を揺さぶる。その時点から何をすべきか知る。それが完成だ。 「リンチ世界の集大成」や「リンチの最高傑作」などと評価される本作は、いつもより増して謎が多いことでも話題になった。だが、リンチ映画に“理解・解決”を求めるのは野暮というもの。そういう観点で物事を測り始めたら、デヴィッド・リンチは背を向けて逃げていく。 では『マルホランド・ドライブ』とはどんな映画なのか? 今までファンや専門家によるたくさんの評論が飛び交ってきたが、ここではシンプルにこう言いたい。「人生に抱いていた夢や愛。一方で現実から受け取るもの。その落差。“こんなはずではない自分”に嘆く人間の失望」と。 物語の舞台はハリウッド。マルホランド・ドライブとは、海岸線から山間部をつなぐ曲がりくねったハイウェイのこと。有名な「HOLLYWOOD」のサインもこのルート上にある。ここはスピードに取り憑かれた走り屋から映画スターの豪邸まで、LAを舞台にした何本かの映画を観れば必ず出てくるロケーション。いわゆる夢の都・ハリウッドを象徴する場でもある。 リンチの映画は、そんな場所で殺されかけるブルネットの美女(ローラ・エレナ・ハリング)が突然の交通事故に遭い、傷を負ったまま彷徨い、真夜中にサンセット大通りの高級アパートに倒れ込むところから始まる。ビリー・ワイルダーの名作を彷彿とさせるドキドキするようなオープニングだ。翌朝そこには、映画スターの叔母を頼りに田舎町から夢と希望を抱いて出てきたブロンドの美女(ナオミ・ワッツ)が到着する。 ブルネットの美女は記憶を失っており、バッグの中には大金と鍵が入っている。彼女は何者なのか? オーディションをこなしつつ、ブルネット美女の自分探しを手助けしていくうちに、ブロンドの美女には何か特別な感情が芽生える。そして夜のクラブショーでロイ・オービソンが作った悲しみの名曲..
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「スペイン革のブーツ」と「木綿のハンカチーフ」

ボブ・ディランと太田裕美。 ローリング・ストーン誌が選ぶ“歴史上最も偉大な100人のソングライター”において第1位となった男と、1976年に日本で(山口百恵をおさえて!)最も活躍した女性アイドルとの間に“ちょっと面白い話”があるという。 1964年、ボブ・ディランが23歳の時にリリースした3作目のスタジオアルバム『The Times They Are A-Changin’(時代は変る)』に収録された楽曲の中に「Boots Of Spanish Leather(スペイン革のブーツ)」という歌がある。 その歌詞では、恋人同士の手紙のやり取りが交互に展開ゆく。 当時、ディランにとっての最愛の女性といえばスーズ・ロトロ。 2ndアルバム『Freewheeling’』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性だ。 彼女がヨーロッパ旅行に旅立った時の実体験をもとにディランはこの歌を作ったのだという。 「Boots Of Spanish Leather(スペイン革のブーツ)」/訳:片桐ユズル 恋人よ、わたしは船出する 朝には船出してしまうのよ 海の向こうから送って欲しいものはないかしら わたしが行く国から 真っ黒な夜からとった星と  深い海からとったダイヤモンドだって 君のやさしいキスのほうがいい 僕が欲しいのはそれだけだ そう、なにか送ってくれるならば スペイン革のスペイン・ブーツ 一方、太田裕美が二十歳の時に唄った「木綿のハンカチーフ」といえば、昭和歌謡曲の洗礼を受けた世代にとっては“忘れられない一曲”ではなかろうか? 1975年の年の瀬(12月21日)に発売され、翌年のシングルチャートを一気に駆け上って総売上枚数150万枚を記録したヒット曲である。 作詞を元はっぴいえんどの松本隆、そして作曲は筒美京平という最強タッグによって産み出された“3分47秒の青春物語”に、当時の若者たちは自分を重ね合わせて胸を熱くしたという。 「木綿のハンカチーフ」 恋人よ 僕は旅立つ 東へと向う列車で はなやいだ街で君への贈りもの  探す 探すつもりだ いいえ 星のダイヤも海に眠る真珠も きっと あなたのキスほど  きらめくはずないもの きらめくはずないもの あなた 最後のわがまま 贈りものを ねだるわ ねえ 涙拭く木綿の ハンカチーフ下さい ハンカチーフ下さい この曲の歌詞もま..
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名器ギブソンES-335を愛したエリック・クラプトン

ギブソンES-335が発表されたのは1958年で、フライングVやエクスプローラーと同じタイミングだったという。 ボディーの両サイドに空洞を持ち、中央は埋まっているセミアコースティックギター(セミアコ)は、それ以前には存在しなかった。 この「ES」の名は、エレクトリック・スパニッシュ(=横に構えるギター)を意味するもので、1940年代から使われているフルアコースティック・ギター(フルアコ)の型番を受け継いだものなのだ。 愛器“ルシール”をトレードマークにしてきたB.B.キングを筆頭に、ロックンロールの創始者の一人チャック・ベリー、「ミスター335」の異名を持つラリー・カールトン、元アース・ウィンド・アンド・ファイアのアル・マッケイなどなど、このES-335に魅了されたギタリスト達は数々の名演・名盤を残してきた。 そして…若き日のエリック・クラプトンにとってもこのES-335は究極のギターだったという。 2004年のクラプトン主催Crossroads Guitar Auction(クロスロード・ギター・オークション)の時に彼はES-335を愛用していた理由についてこんなことを語っている。 「当時はソリッドボディーであること、ボディーにバインディングがないことなど、今自分が気に入っていること反対の理由でフェンダーよりもギブソンを選んでいたんだ。」 クラプトンは少年時代にチャック・ベリーが弾いていたES-345に憧れていたという。また、フレディ・キングがレコードジャケットでチェリーレッドのES-345を手にした姿を見たときに“ギブソンのセミアコこそ本物のブルース/ロックのギターなんだ!”と、秘かに心に決めていた。 だが、当時のイギリスではアメリカの音楽情報はもとよりレコードすら貴重で、アメリカの楽器などなかなか手に入らなかった。 ヤードバーズの仕事で金を貯めたクラプトンは、ロンドンの楽器屋街チャリングクロスロードで遂に1964年製の新品のES-335を手に入れたのだ。 その40年後…この“ワンオーナー”のギターは前出のオークションで史上最高額のギブソンギターとなったという。 その時に売却されたのが、クラプトンが40年間弾きつづけたES-335だった。 管理人でもあるギターテクのリー・ディクソンはそのギターを「数あるES-335の中でも最高の音を持つ名器だ!」と絶賛している..
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ココアって405kcalもあるんだ…!スタバの「カロリークイズ」難問すぎてバリスタでも間違えるレベル

2択のうち、どっちか高カロリーかな? View Entire Post ›
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【性格診断】今食べたいスープから、あなたが内向的か外向的かわかる

解き終わったら、お腹がすいちゃうかも🥄 View Entire Post ›
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