2021-11

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オジー・オズボーン27歳〜酒に溺れてゆく日々、ブラック・サバスからの脱退、危篤状態の父が口にした最期の言葉

メタル界のレジェント的存在として絶大な人気を誇る歌手オジー・オズボーン。 幾度もの変遷を経ながら…約50年に渡って活動し、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルと並ぶ“三大ハードロックバンド”に数えられるブラック・サバスの創設メンバー(在籍期1968年-1977年、1978年-1979年、1985年、1997年-2017年)としても知られる男である。 ブラック・サバスは2017年に活動を終えたことを正式に発表している。 オジーはブラック・サバスとしての最後のツアーについて『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙に次のように語っている。 「素晴らしい時間を過ごせたわけではなかったんだ。俺は9年か10年をブラック・サバスに費やしたわけだけど、20年近くバンドからは離れていたわけだからね。彼らといる時の俺は単なるシンガーでしかないんだ。自分1人であれば、やりたいことをできるわけでね。オジーでいると、彼らとは馬が合わなくてね。分からないんだけどさ、一体他に誰になればいいんだっていうね。」 オジーが26歳の時に発表した6thアルバム『Sabotage』(1975年)まで、バンドは全英・全米ともにアルバムチャート上位にランクインしている。 特に5thアルバム『Sabbath Bloody Sabbath(血まみれの安息日)』(1973年)までの作品は、いずれも全米で100万枚以上の売り上げを記録。 そして、オジーが27歳となった1976年頃から、新たな音楽の波“パンク/ニュー・ウェイヴ”のムーブメントが到来する。 それまでのロックミュージックは徐々に勢いを失ってゆく。 ブラック・サバスも例外ではなく…当時、方向性の相違からメンバー間に不協和音が漂い始める。 当時、オジーは重度のアルコール問題を抱えていた… 「バンド内でもめ事が起こっている一方で、俺達は7作目となるアルバムの制作に取りかかっていた。マイアミのスタジオを押さえ、機材もスタッフも全部イギリスからアメリカに持ち込んでやろうとしていた。新作のタイトルは“Technical Ecstasy”に決まった。この頃になると、俺達のアルバム制作費用は馬鹿馬鹿しいほどの金額になっていたよ。」 音楽シーンの過渡期も重なり…この頃からブラック・サバスのアルバム売り上げは下降線を辿ってゆく。 レコード会社も徐々に予算を渋りはじめ、..
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アイム・ノット・ゼア〜女優ケイト・ブランシェットが“ボブ・ディラン”を演じた初公認映画

1962年のデビュー以来、自らを覆うイメージの破壊と再生を繰り返しながら、“生ける伝説”となったボブ・ディラン。自分自身を発明し続けた男は、2016年10月にノーベル文学賞まで授賞。彼の歌を一度も聴いたことがない世代までその名は再び知れ渡った。 音楽やポップカルチャーの長い歴史を振り返ろうとする時、決して避けて通ることはできない存在。それがボブ・ディランという“リアル”だろう。当然、この男の音楽と人生をテーマにした映画は幾度となく企画されたものの、本人の許可がおりずにどれも実現までには至らなかった。しかし2007年、初めて本人から公認された真のディラン映画が登場する。『アイム・ノット・ゼア』(I’m Not There)だ。 実現させたのはトッド・ヘインズ監督。ディランの長男でインディペンデント映画監督のジェシーを通じて、マネージャーのジェフ・ローゼンと知り合って企画をアプローチした。 資料の一番上には映画のタイトル「I’m Not There」(私はそこにいない)と記された。これは1967年、後のザ・バンドと行った『ベースメント・テープス』セッション時に録音された曲のタイトルで、海賊盤として流通していたレアな曲。トッドにとっては、詩人アルチュール・ランボーの「私は一人の他者である」という詩節を想起させた。 ジェフはこちらの投げかけに対して、ディランを天才だとか、現代を代表するシンガーとは形容しないように注意した上で、1枚の紙にコンセプトをまとめて送ってくれるように言ってきた。まとめた用紙と自分の過去の映画ビデオを送ったら、数ヶ月後にディランから「イエス」という返事があった。未だに自分でも信じられないんだけどね。 トッドとディランのコミュニケーションは唯一このプレゼン資料だけ。その後、一度も会ったり話したりすることはなかった。望めば可能だったかもしれないが、敢えてそうしなかった。監督はディランの歌や詩、自伝、インタビュー映像、ドキュメンタリー映画だけでなく、ディランが影響を受けた音楽や文学や映画、あるいは社会的背景、制作活動を行った場所や住んでいた場所を訪れるなど、徹底的にリサーチを行った。  彼について書かれている本はすべて読んだ。でもそれを書いた人に取材したりはしなかった。本物のディランや真実のディランを探すために出版された伝記はどれも失敗しているように見..
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モデル、医師に社会学者まで!?バチェラー4の参加者、過去イチでレベル高すぎ…!あなたの推しは誰?

11月25日から配信の『バチェラー・ジャパン』シーズン4に出演する、 参加女性たちのプロフィールをまとめました!最後には投票ボタンもあるので、ぜひ推しを応援してくださいね〜! View Entire Post ›
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カッコーの巣の上で〜最後の最後で例えようのない感動が心に広がる不朽の名作

最後の最後になって、例えようのない感動が観る者の心に広がる映画が稀にあるが、『カッコーの巣の上で』(One Flew Over the Cuckoo’s Nest/1975)は紛れもなくそんな体験ができる不朽の名作だ。 原作となったのは、カウンターカルチャーの旗手の一人ケン・キージーが1962年に発表した処女長編『郭公の巣』。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951)やジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』(1961)と並んで、当時の若者たちの3大バイブルの一つと言われたベストセラー小説。 映画化までには10数年の歳月を要した。俳優のカーク・ダグラスが権利を取得して1963年に自らが舞台で演じるも芳しくなく、チェコのプラハに赴いた際にミロス・フォアマン監督と出会う。しかしこの時は実現に至らず、紆余曲折を経て息子のマイケル・ダグラスが映画化を進めることになり、再びフォアマン監督に依頼して遂にスクリーンに蘇った。 この作品で私が描きたかったのは、体制告発でも精神病院の恐怖でもない。人間とその存在の素晴らしさだ。 監督は人間ドラマとしてこの作品を描き貫き、結果的にアメリカン・ニューシネマ最後の傑作として映画史に輝くことになる。当然、アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞を独占。ジャック・ニコルソンは5度目のノミネートで念願のオスカーを獲得した。 撮影場所はオレゴン州の精神病院で行い、100人ほどの患者たちがエキストラ出演して素晴らしい体験と臨時収入を得たという。素朴ながらも印象的な音楽はローリング・ストーンズやニール・ヤングとの仕事でも知られるジャック・ニッチェが担当した。 1963年9月、オレゴン州立精神病院。ここでは絶対的な権限を持つラチェッド婦長(ルイーズ・フレッチャー)が、患者たちを薬や規則で管理支配下に置いている。穏やかな微笑みの奥には「自分は正しいことをしている」という歪んだ母性が宿っていて、多くの患者たちは弱みにつけ込まれて抑圧されていた。 そんなある日、ランドル・P・マクマーフィー(ジャック・ニコルソン)が病院に収容されてくる。実は彼は刑務所での強制重労働を逃れるために精神錯乱を装い続けている。しかし、ディスカッション療法に参加するにつれ、無気力で生気のない仲間たちと病院の実態に疑問を抱き、持ち前の反逆心で体制を揺るがし..
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時代を超えたベストセラーアルバムの変遷(イギリス編)

今回は、英国でベストセラーを記録したアルバムを並べてみよう。アメリカと違って意外な顔ぶれが続々登場。ただし、音楽は決して売り上げだけで語られるものではなく、壮大な音楽探究のきっかけの一つとしてお楽しみください。*2016年に英国で発表されたトップ60を再構成したものです(2021年11月現在) なお、アメリカ編はこちらから。 時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷(アメリカ編) まずはトータルでのベスト10 ❶660万枚/クイーン『Greatest Hits』(1981) ❷558万枚/アバ『Gold』(1992) ❸534万枚/ビートルズ『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967) ❹520万枚/アデル『21』(2011) ❺495万枚/オアシス『(What’s The Story) Morning Glory』(1995) ❻447万枚/マイケル・ジャクソン『Thriller』(1982) ❻447万枚/ピンク・フロイド『The Dark Side Of The Moon』(1973) ❽435万枚/ダイアー・ストレイツ『Brothers In Arms』(1985) ❾415万枚/マイケル・ジャクソン『Bad』(1987) ❿409万枚/フリートウッド・マック『Rumours』(1977) 続いては各時代別 【1960年代】 ●534万枚 ビートルズ『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967) ●250万枚 サウンドトラック『The Sound of Music』(1965) 備考/ビートルズの同作はアメリカでは1100万枚を売った。 【1970年代】 ●447万枚 ピンク・フロイド『The Dark Side Of The Moon』(1973) ●409万枚 フリートウッド・マック『Rumours』(1977) ●337万枚 ミートローフ『Bat Out of Hell』(1977) ●326万枚 サイモン&ガーファンクル『Bridge over Troubled Water』(1970) ●280万枚 ジェフ・ウェイン『The War of the Worlds』(1978) ●276万枚 マイク・オールドフィールド『Tubular Bel..
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AC/DC〜「どんなパンクスよりも俺たちはタフだった」とマルコム・ヤングは言った

認知症を患って2014年9月にバンドから脱退を余儀なくされたマルコム・ヤングが、2017年11月18日に亡くなった。享年64。弟アンガスがお馴染みのスクールボーイ姿でギブソンSGを抱えながらステージを所狭しと動き回る一方で、黙々とグレッチで強靭なリズムを刻んでいた兄マルコムの姿がもう見れないなんて何だか寂しい。 AC/DCを初めて聴くタイミングは、人それぞれだ。70年代からのファンもいれば、80年代の空前のヘヴィメタル/ハードロック(以下HM/HR)ブームで出逢った人もいる。あるいは90年代から、いやゼロ年代からというケースもあるだろう。早い話、時代の入口はどこだっていい。どのアルバムを手に取ってもいい。AC/DCは“変わらない”のだから。 多くのロックバンドが生き残るために、“時代の変化”や“音楽性の追求”や“マーケティング戦略”などの思考に惑わされる中、AC/DCはひたすら“不変”であり続けた。ヴィジュアル重視のHM/HR全盛期でさえ彼らは早弾きなどのパフォーマンスに手を出さなかったし、チャート狙いの甘いバラードも絶対に演らなかった。あくまでもリフ主体のロックンロール。ブルーズに根差したグルーヴに徹底した。 同時期にデビューした多くのHM/HRバンドが解散したり人気を落としていく中、一貫してブレなかった彼らだけはファンを増やし続けた。アルバムセールスは現在まで世界で2億4000万枚以上を記録。2008〜10年のワールドツアーでは167公演・484万人を動員し、興行収入は4億4112万ドルという驚異的な数字を叩き出した。 スコットランドのグラスゴーでヤング家の六男、七男として生まれたマルコム(1953年生まれ)とアンガス(1955年生まれ)。家族の生活は苦しく、1963年にはオーストラリアのシドニーへ移住。二人の兄である五男のジョージ・ヤング(2017年10月23日死去)はイージービーツという国民的ビートバンドで活躍。1966年にはイギリスで大ヒットを飛ばす。そんな影響もあって弟たちは音楽活動に夢中になった。 1973年にAC/DCを結成。「直流/交流」という意味を持つバンド名は、姉のマーガレットが電化製品に書いてあった文字を見て提案したそうだ。そしてイージービーツにいた兄ジョージとハリー・ヴァンダのプロデュースによって、1975年にアルバム2枚『High Vo..
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キャブ・キャロウェイを偲んで〜大恐慌の嵐が吹き荒れたアメリカで黒人エンターテイナーとして最大級の人気を博した男の軌跡〜

1930年代、大恐慌の嵐が吹き荒れたアメリカで“黒人エンターテイナー”の代名詞的な存在だったキャブ・キャロウェイ。 “ズート・スーツ”なる膝まである長い上着と、先細りになっただぶだぶのズボンという奇抜なステージ衣装。 ハンサムですらりとした長身で指揮棒を振るい、オーケストラを指揮するというよりは踊り狂っているような仕草。 これまでに誰も目にしたこともないアクの強いショーダンス、そして優れた美声の持ち主であり、そのバリトンボイスは張りがあって艶っぽく、高く澄んだ歌声で聴衆を魅了するヴォーカリトでもあった。 響き渡る声で朗々と歌ったかと思うと一変、今度は機関銃のような早口でまくしたてるスキャット、軽妙なダンスステップを踏みながら楽団の演奏を自在に操る姿は正に“エンターティンメント真髄”だった。 彼は1994年6月12日、自宅でテレビを見ている最中に脳梗塞で倒れ入院。 その後デラウェア州ホーケシンの養護施設に移された。 同年の11月18日、脳梗塞が原因となり…家族が見守る中86歳の生涯を閉じた。 彼は亡くなる直前まで演奏活動を続けていたという。 1930年代初頭から1940年代後半にかけて、黒人エンターテイナーとしてアメリカ最大級の人気を博したといわれている彼の軌跡をあらためてご紹介します。 ──1907年12月25日のクリスマス、彼はニューヨーク州ロチェスターで産声を上げた。 キャベル・キャロウェイIII世という本名が示すように、両親は中産階級で裕福な家庭環境で育つ。 10歳になる頃に、彼の家族はメリーランド州ボルチモアに移住。 両親は彼の音楽的才能に気づいて、歌のレッスンなど教育環境を整えた。 当初はクラシックを学ばせたかったようなのだが、彼自身はそれに従わず、両親が嫌うジャズに惹かれていく。 姉が先にジャズシンガーとして売り出していたこともあり、彼も大学を中退して姉に合流する形でプロになる。 シカゴを拠点としていた彼は、ルイ・アームストロングとも共演を果たし、彼からスキャットを習ったというエピソードが残っている。 彼に大きな転機が訪れたのは1930年だった。 ニューヨークに進出していた彼は、バンドを転々とするうちにリーダーに納まったのだが、そのバンドが当時一世を風靡していたデューク・エリントン楽団の代役としてコットンクラブに出演することとなる。 そこは当時“黒人が出..
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Big Yellow Taxi〜環境問題に鋭く切り込んだジョニ・ミッチェルの名曲はこうして生まれた

彼らは楽園を掘りおこし舗装して 駐車場とピンクのホテル それにブティックとディスコを建てた でもそれってよくある話じゃない? 失ってはじめて気づくなんてね… 彼らは楽園を掘りおこし舗装して駐車場を作った この「Big Yellow Taxi」は、ジョニ・ミッチェルが1970年の4月に発表した3rdアルバム『Ladies of the Canyon』からシングルカットされた楽曲だ。 環境問題をテーマにした歌で、彼女が自身で吹き込んだ曲としては最初にヒットしたシングルとなった。 曲がヒットする前年の1969年11月29日に、マサチューセッツ州ウースターで行ったコンサートのステージ上で彼女はこんなことを語った。 「2週間前ハワイ(ワイキキ)に行ったの。ハワイに行くのは初めてで、できたら島をもっと見たかったのだけれど…なんだかがっかりして実は2日間しか滞在しなかったの。夜の11時に着いて、翌朝ホテルの窓のカーテンをさっと引いたら案の定そこは天国だったわ。生い茂った緑の丘。すりばち状の山がそびえ、鳥たちは低く飛び回り、インドハッカ(スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属に分類されるアジア産鳥類の1種)がいたるところにいたわ。ところがその美しい景色の真ん中に位置していたのは巨大な駐車場だった…。それで私はこの曲を書いたの。」 大気汚染が進み、自然が破壊されてコンクリートやアスファルトに変わってゆく… 20世紀以降、人類が繰り返してきた過ちを、彼女は「それってよくある話じゃない?」と歌い、そしてこう付け加えた。 「失ってはじめて気づくなんてね…」 当時、ワイキキのフォスター植物園では、自然に生えているヤシの木を引っこ抜いて温室の中に閉じ込めて、入場料を取って観光客に見せていた。 歌の中で彼女はそのことを皮肉ったあとに、視点をハワイからリンゴ農家へと移し、農薬漬けとなった農作物を嘆く。 ねえねえ、お百姓さん DDT(毒性農薬)を使わないで! 林檎にまだら斑点があるのは普通のこと 鳥や虫たちを殺さないで!どうかお願い! でもそれってよくある話じゃない? 失ってはじめて気づくなんてね… 彼らは楽園を掘りおこし舗装して駐車場を作った 単に果実の見た目をよくするために使われる農薬は、害虫を駆除するだけではなく、それを食べる鳥の体内にも入る。 歌詞に登場するDDTという農薬は第二次大戦後、ア..
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ニュー・シネマ・パラダイス〜80歳の淀川長治の胸をかきむしった“みんなのための実話”

大人になればなるほど左胸が熱くなる映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(Nuovo Cinema Paradiso/1988)。人は決して一人では生きていないこと。行動しなければ何も始まらないこと。そこには年月というものの重みがあり、人の数だけ喜びや苦悩があること。この映画は本当にたくさんのことを思い出させてくれ、忘れていたことをもう一度教えてくれる。これは年の離れた友人同士の、子と母の、男と女の、土地と映画館の、そして何よりも映画を愛するすべての人々のための物語である。 この場所から出ろ。 ここにいると自分が世界の中心だと感じる。 何もかも不変だと感じる。 だが2、3年も他にいると、何もかもが変わってる。 頼りの糸も切れる。会いたい人もいなくなってしまう。 一度ここを出たら、長い年月帰るな。 年月を経て帰郷すれば、友達や懐かしい土地と再会できる。 今のお前は私より盲目だ。 人生はお前が見てきた映画とは違う。 人生はもっと困難なものだ。 行くんだ。お前は若い。 もうお前と話したくない。 お前の噂が聞きたい。 帰ってくるな。 私たちを忘れろ。 手紙を書くな。 ノスタルジーに惑わされるな。 自分のすることを愛せ。 子供の時、映写室を愛したように。 監督/脚本はジュゼッペ・トルナトーレ。シチリア島で育った彼が自らの体験を基に周囲の人々の記憶を紡ぎながら描いた“みんなのための実話”だ。この映画では味わい深い脇役たちが強い印象を残しているが、それは年老いた人々が親身になって当時の話を丁寧に聞かせてくれたからに違いない。手作りの映画が醸し出す“つながりのある温かみと優しさ”は、どんなに優れたテクノロジーも表現できない。 この映画は今年80歳の私の胸をかきむしった。アアと思わず声が出た。 それはフィルムのコマギレが話のネタになっていたからだ。 映画のフィルムの一片のことを昔はコマギレと呼んだ。 この映画はフィルムのコマギレの魂の歌であった。 そのフィルムの心のメロディは私にはたまらなかった。 私も実は、この映画の少年のようにフィルムのコマギレを集めて夢中になった。 (映画評論家/淀川長治) 1980年代のローマ。映画監督として成功を収めているサルヴァトーレ・ディ・ヴィータが夜遅く帰宅すると、30年も帰っていない故郷シチリアの母から電話がかかっていた。「アルフレードが亡くなった。..
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ファクトリー・ガール〜ウォーホルとディランの狭間で破滅した女神イーディ・セジウィック

現代アートの伝説アンディ・ウォーホル。その黄金期は言うまでもなく、ポップアートや実験映画などでその名を美術史に永遠に刻んだ1960年代。 ニューヨークにある「ファクトリー」と呼ばれた自身のスタジオで、〈キャンベルスープ缶〉〈コカコーラ瓶〉〈マリリン・モンロー〉〈エルヴィス・プレスリー〉といったシルクスクリーンによる作品を次々と“大量生産”。有名人、死、企業製品などをモチーフにしたシリーズのほか、「アンダーグラウンドの帝王」としてパーティや音楽興行までも創作素材にし、ポップ・アーティストとして眩しすぎるオーラを放っていた。 芸術が大きく変化し、ロックが生まれた──そんな真っ只中の1965年。アーティストやミュージシャン、詩人や俳優、モデルやドロップアウトした若者たちが行き交う文化的サロンとなっていたウォーホルのファクトリーに、突然一人の女神が舞い降りる。誰もが心を奪われる彼女の名はイーディ。カリフォルニア・サンタバーバラの名家、莫大な資産を築くセジウィック家の令嬢。 貧しいチェコ移民で容姿にコンプレックスがあり、スターやセレブが大好きなウォーホルにとって、イーディ・セジウィックはまさに完璧な存在だった。イーディもまた、自殺した亡き兄を彷彿とさせるホモセクシャルのアンディに特別な感情を抱いた。 そんな彼女が“スーパースター”として迎え入れられるのは当然のこと。ブレーンの反対を押し切って、彼女を当時熱中していた映画(63〜66年に約60本も制作)に起用する。ウォーホルは言った。「彼女は何をやらせても僕よりうまい」 イーディは、ファクトリー・ガールとしてウォーホルのミューズとなった。自由気ままに振る舞い、優美さも兼ね備えた彼女はどこに繰り出しても周囲を魅了した。 彼女はいつも出て行こうとしていた。良いムードのパーティの時もそうだ。イーディはいつもそんな感じ。次に何が起こるか、それを待っていられなかった──アンディ・ウォーホル また、ブロンドのピクシーカット、大きなイヤリング、クレオパトラの瞳と称された独特のアイメイク、レオタード、黒いタイツはイーディの象徴となり、ファッション雑誌ヴォーグも虜に。 アンディといた時、私はジャズ・バレエを1日2回踊った。誰もこんなダンスで楽しい気分になるとは思わなかったけど、レオタードを着てつま先で立ってみた。レオタードにTシャツ姿の私を..
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