2021-11

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レス・ザン・ゼロ〜青春文学と映画に衝撃を与えたカジュアル・ニヒリズムの極致

1980年代後半、日本でもちょっとした話題になったアメリカ発の新しい文学の動きがあった。それは「ニュー・ロスト・ジェネレーション(あらかじめ失われた世代)」と呼ばれ、新しい感覚を持った書き手たちが続々と衝撃的な小説を発表するようになった。この動向は当時、トラベル作家の故・駒沢敏器さんが編集者で参加していた頃の雑誌『Switch』が積極的に紹介していた。 アメリカには1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション(失われた世代/迷える世代)」と称された作家たち(フィッツジェラルドやヘミングウェイなど)がいて、まさにその再構築的なムーヴメントだったわけだ。 ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』はNYを舞台にした20代のための甘い生活を描いた救済物語だったが、今回紹介するブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』はLAを舞台にした10代のための“カジュアル・ニヒリズム”の金字塔的作品。 1985年に刊行(日本訳版は1988年)されてベストセラーになった本作は、語り手の18歳のクレイが東部の大学からクリスマス休暇で故郷のLAに戻って来るところから始まる。書き出しの「ロスのフリーウェイって合流するのが怖いよね」という恋人ブレアの台詞から、この物語が何かとてつもない力を秘めているという予感がしたことを覚えている。 登場人物の多くが映画界の重役の子弟たちで、みんなプール付きの豪邸に住んでいたり高級車を乗り回しているようなリッチに環境にいる。主人公のクレイは恋人ブレアや親友ジュリアンらとその場限りのような空虚な会話を交わしながら、パーティ、ドラッグ、音楽、セックス、クラブ、レストラン、ビーチといった行動や場所を延々とループ(繰り返す)。そこに若さの特権とも言える前向きな姿勢や欲望など一切ない。あるのは金と時間だけだ。 多発する犯罪や売春といったLAの汚れた光景や、冷め切った関係の両親や妹たちのせいか、クレイは女の子たちを見ると、“あいつも売りに出ているのか”と思わずにはいられない。そして仲間たちの最悪の事態を期待している自分もいたりする。恋愛にも深入りしない。好きにならなきゃ、苦しまなくてすむ。嫌な思いなんかしたくない。 その反面、高校時代のことや祖父母との想い出は純粋すぎるほど大切に回想もできる。そんな現実と過去を行ったり来たりしながら、クレイは何も..
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デヴィッド・ボウイが憧れのエルヴィスからもらった手紙

──1950年代の中頃、アメリカはもちろんのこと、イギリスの女性たちもラジオから次々と流れてくるエルヴィス・プレスリーの声に心を奪われていた。 デヴィッド・ボウイの母ペギーは、自分の息子の誕生日がエルヴィスと同じということから、勝手に運命的なものを感じていたという。 「母から繰り返しエルヴィスの曲を聴かされたよ。母はその勝手な思い込みのおかげで、すっかり有頂天になっていたよ(笑)」 発売されたばかりのエルヴィスの「Hound Dog」に合わせて、母や叔母が体を激しくゆらして踊る姿を見て、彼は今まで感じたことのない感覚を感じたという。 「当時8歳だった僕にとって彼の歌は衝撃的だったよ。音楽の持つパワーを生まれて初めて実感した瞬間だった。そのあとすぐにレコードを集め始めたんだ。」 その後、二十歳にしてデビューを果たした彼は、1970年以降、ギタリストのミック・ロンソンをサウンド面での相棒として迎えグラムロックへと傾倒してゆく。 1972年に発表した5thアルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト)』で、ロックスターとしての地位を確立。 当時、スターダムにのしあがろうというその時でもなお、彼はエルヴィスをリスペクトしていたという。 “ギング”の姿、歌声を前にすると、一瞬でファンの立場に戻ってしまうほどだった。 1972年6月、当時25歳だった彼は、ミック・ロンソンと共にイギリス(ヒースロー空港)からニューヨークに向けて出発した。 目的はエルヴィスのショーを観るためだった。 昼の便に乗り“キング”の登場にちょうど間に合うようにマディソンスクエアガーデンに到着するつもりだったが、飛行機の都合で少し遅れて到着した。 二人が会場に入ると、ショーはもう始まっていたという。 当時、デヴィッド・ボウイはエルヴィスと同じレコード会社(RCA)に属していたため、彼らには特等席が用意されていた。 エルヴィスが「Proud Mary」を熱唱している最中に、厚底のロンドンブーツを履いて、髪の毛を真っ赤に染めたデヴィッドが“ジギー”の格好で入ってきたものだから、客席はざわめき、ショーは中断されたも同然だったという。 後年、デヴィッドはその日のことをこんな風に語っている。 「僕には..
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私は泣いています〜あの魅惑のハスキーボイスは深酒のせいだった、不況の時代にヒットする歌の方程式とは!?

1974年、日本では田中角栄首相が「節約は美徳」と提唱し、石油ショックの影響もあり高度成長期半ばにして“待望の時代”から“忍耐の時代”へと移り変わりつつあった。 世の中に不況の風が吹くとどんな曲調が流行るのだろう? 戦後の不況時代の流行歌を調べてみると…笠置シヅ子の「買物ブギ」などのジャズっぽシャッフル系のリズムの曲が浮び上がってくるのだ。 1974年3月5日、りりィが5thシングル「私は泣いています」をリリースして85万枚の大ヒットを記録した。 プロデューサーを担当していた寺本幸司は、当時りりィを歌手としてステップアップさせるために時代とのマッチングを思案していたという。 1972年に「にがお絵」でデビューを果たした福岡県出身の20歳のハーフ美人。 魅惑のハスキーボイスで話題となり、3rdシングル「心が痛い」は有線放送のリクエストから火が着きスマッシュヒットとなった。 そんな上り調子の状況を寺本は一気に波に乗せたいと目論んでいた。 「りりィにとって今がチャンスだと思い、彼女にパッパをかけたんです。そうしたら、すぐに彼女から“曲ができたから聴いて欲しい”と連絡があり、すぐに聴かされたのがこの歌だったんです。さっそく当時のレコード会社(東芝EMI)のディレクター武藤敏史氏にも聴いてもらい、アレンジャーの木田高介氏も含めて、かねてから武藤氏と考えていた“方程式”を試すことにしたんです。」 プロデューサーの寺本とディレクターの武藤が仕掛けたこと。 それは“不況の時代にはジャズっぽいシャッフル系のリズムがヒットする”という実験でもあり、ある意味“狙った”アレンジだった。 当人だったりりィは、その頃のことをこう振り返っている。 私がギターを覚えたのは中学3年の時でした。 福岡の中洲でバーをやっていた母が亡くなって…それと同時に兄も行方不明になって。 米軍将校だった父は、私が生まれてくる前に朝鮮戦争で戦死したと聞かされてましたし…もう天涯孤独なのだから地球上のどこにいても同じという気持ちがありました。 新宿の街角でギターを搔き鳴らして歌うようになってました。 私より少し上の世代がフォークミュージック歌いながら安保闘争に闘志を燃やしていた時代です。 私は一匹狼で他のフォークの人たちと交わることもなく、路上で歌い続けていました。 そこで事務所の人に「プロにならないか?」とスカウト..
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8 Mile〜マイクを一度握ったら“裁かれる世界”を舞台にしたエミネム主演作

かつてデトロイトは、フォードやゼネラル・モーターズやクライスラーといった自動車産業の本拠地が置かれて栄華を極めていたが、1960年代に入ると人種間の摩擦が起こって暴動沙汰が発生。裕福な白人層は郊外へ逃れ、街の中心部は次第に荒廃化。80年代には産業自体が衰退して失業率や貧困率も上昇。ソウル・ミュージックを牽引したモータウン誕生の地はいつしか荒れ果てた姿に変わり、治安の悪化も問題化していく。 8マイルはデトロイトの境界線だ。俺が育った頃は人種の境界線でもあった。黒人と白人を分離する明確なラインだ。 エミネム自身が言うように、“8マイル”とはアメリカのミシガン州デトロイトに実在するストリートの名前。南側に位置するデトロイト・シティは住民の大半を黒人が占める街で、北側のウォレンは同様に白人が占める街になっていた。ヒップホップに生きる者にとってはシティは本物。郊外は偽物に過ぎない。 1972年10月生まれのエミネムは、父親のいない家庭で育ち、幼年期は生活保護を受ける母親と数ヶ月ごとにカンザス・シティとデトロイトを行き来する生活を繰り返す。転校のために友達もできず、イジメも受けるようになった。そんな14歳の時に転機が訪れる。ヒップホップに目覚めて本格的にラップを始めたのだ。 その後、レストランなどで働きながら、クラブでラップバトルに挑んだ日々をエミネムはこう回想している。 バトルに負けた時は、もう自分の持ってる世界が粉々に砕けていくっていう感じだった。「そんなの大したことない」「また挑戦すればいいだろう」って言われるけど、あの時は人生おしまいだって気がしたよ。バトルは全人生を賭けたスポーツみたいなものだ。馬鹿げているように見えるかもしれないけど、俺たちにとってはこれこそが自分の世界なんだから。 95年には娘の父親にもなり、翌年に地元レーベルからアルバムをリリースするも注目されず。デトロイトの暮らしから抜け出すことを夢見ながら苛立ちが募っていた頃、98年にリリースした自主制作テープ「ザ・スリム・シェイディ EP」(The Slim Shady EP)」がローカルヒット。ドクター・ドレーのレーベル、アフターマスとの契約を勝ち取る。 99年、27歳の時にメジャー・デビューアルバム『ザ・スリム・シェイディ LP』(The Slim Shady LP)をリリース。全米2位を記録し..
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エリック・クラプトン〜愛の告白の失敗と悲劇に取り憑かれた数年間

「人生が深刻な下降線をたどっていった時期の始まりだった」 ──エリック・クラプトンは自らの1970年の後半をそう語った。 それまでは順調なはずだった。1969年、名声を得たクリームでの活動を終えたクラプトンは、次にスティーヴ・ウィンウッドらと“スーパーグループ”のブラインド・フェイスを結成してアメリカツアーを行う。長年憧れ続けたブルース発祥の地(とりわけアメリカ南部)への音楽探究は、彼らの前座だったデラニー&ボニーとの出逢いを経て、いよいよ抑えきれないものとなっていく。 そして、本国イギリスで得た名声を捨て去るかのように、活動拠点をアメリカに移したクラプトン。1970年5月、新しい面々を迎えて放った初ソロアルバムの後、今度はデレク・アンド・ザ・ドミノスとして発表する曲作りに没頭。 しかし、順風満帆に見えた音楽活動の一方で、親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドへの秘かな想いに長い間苦しんでもいた。それは“報われぬ愛”だと知りながらも、クラプトンの心にはいつも彼女がいた。 「彼女が、僕たちの状況を説明する歌詞がたくさん出てくるアルバムを聴けば、愛の叫びに負けて遂にジョージを捨て、自分と一緒になるんだって確信していた」 こうしてパティへの愛は、同年秋にリリースした不朽の名作『Layla and Other Assorted Love Songs』となって告白されることなるが、クラプトンの一途な想いは叶うことはなかった。 「それからしばらく一緒に暮らそうとやみくもに説得し続けたが、成果はなかった。ある日、必死の訴えが無駄に終わった後に『ジョージを捨てなければヘロインを常用する』と言った。彼女が悲しそうに微笑んだ時、ゲームは終わったと思った」 同年9月には、ジミ・ヘンドリックスがドラッグが原因でこの世を去った。同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交友もあったジミの死は、クラプトンに打撃を与えた。さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面して、精神的な支えを次々と失っていく。 こうした状況の中、クラプトンは次第にドラッグやアルコールに深く溺れるようになり、現実から孤立してしまう。その影響はデレク・アンド・ザ・ドミノスの2ndアルバム制作中に最悪なものとなった。仕事がまったく手につかず、メンバー間には敵意さえ芽生え、大喧嘩の後、1971年..
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キース・リチャーズとミック・ジャガー〜ストーンズ最大の危機と孤高の響き

「何年も続いていた状況がとうとう来るところまで来た。ミックが何もかも支配したいって欲求に取り憑かれたことだ。あいつにしてみりゃ、ミック・ジャガーと“その他大勢”だった。俺を含めたバンドの他のメンバーは、もうみんな雇われ人だ。長年一緒にやってきた俺たちにまでそうなったら、もうおしまいだ」 1980年代半ば。ローリング・ストーンズは結成以来、最悪かつ深刻な解散危機を迎えていた。ことの始まりは、ミック・ジャガーのリードシンガー症候群と言われている。キース・リチャーズが語ったように、自分を他とは違う“特別な人間”だと本気で思い込む誇大妄想だった。 1981~82年のワールドツアーは史上最大と言われ、かつてない規模の成功を収めた。その一方で、時代はMTVなどの登場によって音楽シーンが様変わりし始め、ヴィジュアル性に富んだ新しいスターが次々と生み出されて行く。巨大になり過ぎたストーンズは、もはや“旧世代の体制側”だった。その矛先はもちろんミックに向けられた。 アルバム『Undercover』を制作中の頃、ミックは自分の才能を疑い始めたという。他のミュージシャンに対抗意識をむき出しにしたり、ダンスや歌のレッスンまで受け始めたりと、最先端の音楽を追いかけ始めた。 そんな状況の中でストーンズはCBSと莫大なレコード契約を結ぶ。しかし、この契約の裏ではミックがソロアルバムを数作出すプロジェクトが密かに抱き合わせで組み込まれていた。ミックはそのことをバンドの誰にも言わなかったことで、キースの怒りはついに爆発した。 1985年、ミックは計画通り最初のソロ作をリリース。同じ年、ストーンズはキース主導で『Dirty Work』を制作するが、ミックはツアーに出ることを拒んだ。自分の次のソロ活動を進めたかったのだ。イギリスの新聞に掲載されたインタビューでは「ストーンズは重荷だ」とまで語ってしまう。キースが「第三次世界大戦が始まった」と零したように、その関係は修復不可能なレベルにまで達した。 君は僕のナンバーワンだった でもそんな日々ももう終わってしまった 時代は変わったけど 魅惑は今も残っている 愛は成就するけど 情熱はやがて消えて行く 1987年にリリースされたミックのソロ2作目『Primitive Cool』のハイライトとも言える「Party Doll」は、明らかにキースとの友情の終わり..
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防人の詩〜さだまさしが万葉集を基にして紡いだ究極の反戦ソング

尊い命、そして平和への想いを込めて…今日は、さだまさしの名曲「防人の詩」をご紹介します。 この歌は日露戦争の旅順攻囲戦における日露両軍の攻防を描いた東宝映画『二百三高地』の主題歌として1980年7月10日に発売された。 海、山、空、季節、そして人間…すべてのものに宿る生命の限り、命の尊さを切々と歌い上げたその歌詞は奈良時代の末期に成立したと言われている『万葉集』の第16巻第3852番に基づいて作られたという。 鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼 鯨魚(いさな)取り  海や死にする  山や死にする  死ぬれこそ  海は潮干て  山は枯れすれ (大意:海は死にますか?山は死にますか?いいえ、海も山も死にます。死ぬからこそ潮は引き山は枯れるのです) この曲を発表した当時、さだはまだ28歳だったというから驚きだ。 「〜は死にますか」と何度も繰り返し問いながら悲痛な想いを歌ったその曲は、幅広い年齢層に感銘を与え、オリコン最高順位2位、1980年度オリコン年間順位18位という記録を残した。 映画の中で効果的に使われ多くの感動を呼んだこの歌。 さだ本人は“反戦ソング”として創作したものだったが… 映画の内容を「どんなに犠牲が出ても自衛のために開戦はやむを得ない、悲惨な戦争だったが結果は勝利だ」と解釈する人もいて、ある方面からは「これは戦争肯定映画だ!」という風評が公開前から広まってもいたという。 映画の内容は、あくまで戦争に突き進んでしまった当時の風潮を描いたのであって、それが正当とした当時の政治について肯定などしておらず、むしろそうした時代や体制に対して批判の意図が込められていた。 しかし、歌がヒットすると同時に「さだまさしは右翼歌手だ!」とバッシングを受けることとなる。 さだはあるインタビューで当時を振り返って、こんな言葉を残している。 「あの歌は、人間の命の尊さや愛おしさを歌いたかったんですよね…。それを逆説的に映画の殺戮シーンで歌えば上手く伝えられると思ったんです。ところが一部からは浅い理解でしか取られませんでした。だったら“戦争反対”とストレートに歌った方がいいのかな?とも思いましたが…それでは僕の美学が許さないんです。だから、あの事に関しては“美学の違い”としか言いようがないんですね。僕は理論武装してまで歌を作りたくはないですし、歌って..
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イヴ・モンタンを偲んで〜34年間連れ添った最愛の妻と眠る墓地に、元恋人のエディット・ピアフも埋葬されている偶然と運命

1991年11月9日、フランスを代表する俳優・歌手として活躍したイヴ・モンタンがこの世を去った。 遺作となった映画『IP5/愛を探す旅人たち』の撮影直後に心臓発作で倒れ、パリから約40マイル北にあるサンリスという静かな町の病院で息を引き取ったという。 シャンソンの女王エディット・ピアフにその才能を見出され、一時期は彼女の恋人でもあったイヴ・モンタンが歩んだ人生をご紹介します。 1921年、彼はイタリアのトスカーナ州ピストイア県にあるモンスンマーノ・テルメという小さな町で産声をあげた。 農民だった彼の父は強固な共産主義支持者で、母は敬虔なカトリック教徒だった。 彼が2歳の頃、ムッソリーニのファシスト政権から逃れるために、一家はフランスのマルセイユに移り住む。 家庭が貧しかったこともあり、彼は11歳から働き出したという。 港で働いたり、美容師の見習いやトラック運転手など職を転々とし、18歳の頃からマルセイユの小劇場やキャバレーで歌い始める。 1944年、23歳となった彼は歌手での成功を夢見て単身パリに移り住む。 程なくしてその才能をエディット・ピアフに認められ、スターへの階段を駆け上ってゆく。 パリの老舗キャバレー“ムーラン・ルージュ”のステージにピアフの前座として出演するようになり、その名を知られるようになる。 当時既にスター歌手だったピアフは、彼を一流のシャンソン歌手に育て上げるための“特別なレッスン”を始める。 まずはジャズやポップス系といったアメリカ音楽から影響を受けていた彼の歌唱法とカウボーイファッションをやめさせ、口に鉛筆を喰わえさせて訛りを直したという。 一から歌を訓練して、一緒のステージに立たせて、彼にスター歌手としての“いろは”を教え込んだ。 そのやり方は、パリの名門クラブのオーナーだったルイ・ルプレがピアフの才能を見出し、作詞・作曲家のレイモン・アッソが厳しい特訓によってピアフを一流歌手に育て上げた手法と同じだった。 一つだけ違っていたのは…ピアフとモンタンは師弟にして恋愛関係にあったと言うところだった。 彼女は映画『枯葉〜夜の門〜』(1945年公開)にイヴ・モンタンを推薦し、映画の成功を願って2年間も酒を絶つまでして彼に入れ込んでいた。 彼女の願いは叶い、映画の主題歌は大ヒットを記録。 モンタンが世界的なスターになった頃「もはや彼には自分が必要..
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ボニー・レイットの決意〜ブルースマンの危機が暗闇に迷った彼女に光を与えた

ボニー・レイット──この名前を耳にすると、彼女の音楽がむしょうに聴きたくなってしまう。ブルース、R&B、ロック、ポップス、バラードなど、それがどんなタイプの音楽であっても、ボニーの声に包まれると実に味わい深く、聴く者の心に響き渡る。そしてあの極上のスライドギターが壮大な音楽の旅へと誘うのだ。こんな体験をさせてくれるミュージシャンはそうはいない。 1949年生まれのボニーは、父親がブロードウェイのスター、母親がピアニストというショービジネスの家庭で育った影響もあり、幼い頃から音楽に目覚めてギターを手にする。大学生になるとブルース・クラブで演奏するようになるが、この頃にプロモーターのディック・ウォーターマンと知り合い、フレッド・マクダウェル(ローリング・ストーンズが彼の「You Gotta Move」をカバーしたのは有名)やシッピー・ウォレスといった伝説のブルースマンやシンガーと孫と娘のような関係で交流。特にフレッドからはスライドギターを伝授してもらい、赤毛の白人スライドギタリスト/ブルースシンガーとして1971年にレコードデビューを果たす。 以後70年代を通じて、ボニーは良質な作品を発表し続けた。どのアルバムからもデルタ・ブルースやR&Bへの愛情、ルーツ・ミュージックに対する敬意が聴こえてくる。そして歌い手としても、ジャクソン・ブラウンやJ.D.サウザー、エリック・カズやジョン・プライン、カーラ・ボノフなどの優れたソングライターの曲を紹介してくれた。73年頃からはリトル・フィートのローウェル・ジョージの影響でエレクトリック・スライドも取り入れ始め、彼女は自分が信じる音楽だけをひたすら追求していった。 しかし、マーケティングやコマーシャリズムとは無縁のその音楽性は、セールスやチャートに結びつくことはなかった。71~86年までに9枚のアルバムをリリースしたものの(しかも86年のアルバムは3年前に制作されたもの)、レコード会社から契約を破棄されてしまう。「売れない」というのが一番の理由だった。 さらにボニーはこの時期、個人的なトラブルを抱えていたせいか、酒や薬物に溺れたといわれる。スリムだった身体も肥満になり、それは独特の歌声にも影を落としていた。ライ・クーダーと並ぶスライドの名手であり、リンダ・ロンシュタットとも比較されたことのある歌い手の目の前には、このまま忘れられるか..
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ジョニ・ミッチェルが恋した詩人レナード・コーエン

ローリング・ストーン誌『The 500 Greatest Albums of All Time』において、女性ソロアーティスト最高位(30位)に選ばれたジョニ・ミッチェルのアルバム『Blue』。 カナダからニューヨークに移り住み、24歳でデビューした彼女。 “恋多き女”と呼ばれた彼女が1971年(27歳)に放った、この名盤のオープニングを飾る「All I Want」の歌詞にはこんな言葉が並ぶ。 一人で旅をしているの、自由になる鍵を探して… 嫉妬と貪りの糸はほどけない ジュークボックスのある安酒場でストッキングを破りたいわ それは、彼女と同じカナダ出身のレナード・コーエンとの恋を赤裸々に綴った歌だった。 ミッチェル(当時23歳)とコーエン(当時32歳)が出会ったのは、1967年の夏、ニューポート・フォーク・フェスティバルのバックステージだった。 ジュディ・コリンズが開催したソングライターのワークショップで、二人は初めて顔を合わせる。 「レナードと出会った時、私は彼にこんなリクエストをした。“基本的に私は教育を受けていないから、あまり本も読んでこなかったの。こういうものを読んだらいいっていうリストを作ってくれない?”」 レナードはミッチェルの曲を聴いて、こんな風に答えたという。 「君の曲は十分素晴らしいものだし、君が読書をすることでそのオリジナリティーが損なわれる可能性もある。」 しかし、ミッチェルが“どうしても”とせがんだため、結局コーエンは彼女のためにリストを作って渡すこととなった。 そのリストの中には、スペインを代表する詩人/劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカ、フランスの小説家/劇作家のアルベール・カミュ、そして後にミッチェルが“生涯の友”と呼ぶこととなった古代中国の易経の書物なども含まれていたという。 「彼の洗練されたスマートさはとても魅力的だったわ。彼の持っている教養や世界観の深さは、自分がこれまでの経験からどれだけ豊かなものを掘り出して音楽に反映させることができるか?その可能性を示してくれたの。」 ミッチェルは出会った時のコーエンの印象を、自身の2ndアルバム『Clouds(青春の光と影)』(1969年)に収録した「That Song About the Midway」の歌詞にしたためている。 彼はまるで黒人の男の子が耳につけているルビーみたい..
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