2021-11

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レナード・コーエンを偲んで〜ジョニ・ミッチェルとの“短い恋”そして“長い友情

2016年の11月7日に82歳でこの世を去ったレナード・コーエン。 晩年の彼はガンでの闘病生活を続けていた。 健康状態の悪化にも拘らず、彼は死の間際まで精力的に音楽活動を続け、亡くなる前月の10月にリリースされたニューアルバム『You Want It Darker』の他にも2つの音楽プロジェクトと詩集の刊行を予定していたという。 1934年にカナダのモントリオールで生まれた彼が“詩人”としてのキャリアをスタートさせたのは大学時代だった。 カナダの名門公立大学に通いながら詩を書き始める。 在学中、意外なことに彼の成績は英文学が最悪で、逆に数学が得意だった。 さらにディベートに関しての彼の能力は学内でも最高レベルだったという。 この頃から彼はギターを弾きながら詩の朗読を始めている。 1956年、卒業を目前にした22歳の彼は、初の詩集『Let Us Compare Mythologies(神話を生きる)』を出版。 しかし、地元モントリオールを中心とする狭い範囲での活躍に物足りなさを感じていた。 そして彼は、シンガーソングライターとしてのプロデビューを目指し、ビート文化の中心地ニューヨークへと旅立った。 コロンビア大学に入学した彼は、ビート族たちが集まるカフェに入り浸るようになったものの、最後までそこに馴染むことはなかったという。 彼のような名門出のお坊ちゃんを、筋金入りのビート族たちは受け入れてくれなかったのだ。 結局モントリオールに戻った彼は、ジャズバンドをバックに“詩の朗読をする”という新しいスタイルに挑戦した。 しかし、詩人としても朗読者としても、それ以上の活躍や収入は望めず、一時は父親の会社で工員として働く日々を過ごした。 その後、当時のガールフレンドと数年間ギリシャのイドラ島という小さな島に住み着くようになる。 そこは水道設備すら整っていない不便な島だったが、いつしか作家や画家、詩人たちが住み着き始め、後にはアレン・ギンズバーグやブリジッド・バルドー、ソフィア・ローレン、ついにはケネディー一族までもが訪れることになる有名人達の隠れ家的存在となった。 4作目の詩集『Parasites of Heaven』(1966年)に収められた「スザンヌ」が同年11月、ジュディ・コリンズによってカヴァーされる。 それがコロムビアレコードでボブ・ディランのプロデューサーを務めて..
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ゲッタウェイ〜前代未聞のアドリブで伝説になったスティーヴ・マックィーンの代表作

1968年の主演作『ブリット』で、体制側である刑事役を演じたにも関わらず、“瞬間の演技”ともいうべき孤独感を貫き、やはり権力とは無縁のアウトローであり続けたスティーヴ・マックィーン。映画俳優として本当の自信を得て、長年思い描いてきた“マックィーン像”を遂に完成させた。 その後、ウィリアム・フォークナー原作の『華麗なる週末』(1969)、自らのカーレースへの情熱が全編に渡って流れた『栄光のル・マン』(1970)、サム・ペキンパー監督の『ジュニア・ボナー』(1971)と、同時期の世界的ロックバンドのように年に1作のペースで順調にキャリアを重ねたマックィーンだったが、私生活では深い溝と直面していた。売れない頃から一緒だったニール・アダムスとの15年の結婚生活を終えたのだ。 心機一転した43歳のマックィーンは、シドニー・ポワチエやバーブラ・ストライサンドやポール・ニューマンらと新たにFAP(ファースト・アーティスツ・プロダクション)を設立。その第1回作品となったのが代表作の一つ『ゲッタウェイ』(The Getaway/1972)だ。 『ワイルド・バンチ』『わらの犬』など、バイオレンスの巨匠として知られるサム・ペキンパー監督と二度目のタッグを組み、映画は大ヒット。脚本はウォルター・ヒル、音楽はクインシー・ジョーンズが担当した。 また、共演には『ある愛の詩』でスターとなった知性派女優アリ・マッグロー。34歳の彼女は映画会社の重役と結婚していたが、正反対のタイプであるマックィーンと恋に落ちてしまう。二人は撮影中に婚約を発表して話題になった。 撮影期間は1972年2月23日から5月10日の二ヶ月半。冒頭の刑務所シーンからラストの国境を越えるシーンまで、ストーリー展開に沿ってオールロケで進められた。映画は権力者の罠から逃れるアウトロー夫妻の逃避行もの。タイトルの“Getaway”には高跳び、事を上手く運ぶなどの意味がある。マックィーンの魅力が活かされた傑作として人気が高い。 実は撮影中、ペキンパーとマックィーンは脚本にはない“アドリブ”を仕掛けた。キャロル(アリ・マッグロー)の身勝手な危機一髪の行動に、ドク(スティーヴ・マックィーン)が冷静に怒り出すシーン。何とマックィーンはマッグローを何度も殴ったのだ。何も知らない彼女はびっくりしたに違いないが、カメラの前でそのまま演技を続けたとい..
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ブリット〜映画俳優として真の自信を得た“スティーヴ・マックィーン”の完成作

もし「一番好きな映画スターは?」と訊かれたら、あなたは誰をベスト3に挙げるだろう。きっと多くの映画ファンがこの名を口にするかもしれない。1960〜70年代に掛けて映画スターの代名詞だったスティーヴ・マックィーン。「キング・オブ・クール」と称され、死後40年近く経った今も、名だたる俳優やミュージシャンからリスペクトされる銀幕の反逆児。 男は1980年に50歳で病に倒れて亡くなってしまった。80年代や90年代のスクリーンにマックィーンがいたならば、我々は映画に対して今以上にワクワクした気持ちでいたのだろうか。あの微笑み。あの一匹狼的な役柄。あの男を感じさせる色気。そして今にも画面から飛び出してきそうな迫力。生きていれば90歳近く……妄想せずにはいられない。 マックィーンの人生の序章が、恵まれなかった幼少時代や非行に走った思春期、海兵隊だったことは有名な話だ。重要なのは、ニューヨークでテレビの修理工をしながら、それまで縁のなかった演技を学び始めた時から、マックィーン物語の次章はめくられたということ。 初主演作は1958年の『マックィーンの絶対の危機』。このどうしようもない低予算映画の話が来た時、マックィーンは2500ドルを今すぐもらうか、収益の10%を分配するか、二択を迫られた。迷わず前者を選択したものの、映画は予想に反して大ヒット。1000万ドルの収益を上げたという。 同年から1961年までTVシリーズの『拳銃無宿』に出演。人気を博す。現場で主張する姿勢は「TV俳優の分際で」と馬鹿にされたが、マックィーンはブラウン管の世界に固執するつもりはなく、二度とTVには戻ることはなかった。 『戦雲』(1959)では主演のフランク・シナトラをしのぐ存在感を見せ、『荒野の七人』(1960)では往年のスターであるユル・ブリンナーとの確執もあった。だがここでも、ユルとのツーショットでセリフがないシーンでさえ、マックィーンの魅力が勝っていた。 『大脱走』(1963)でスターの仲間入りを果たしたマックィーン。それでも自身を映画スターと自覚することができず、通りで視線を感じると、自分のことかと驚いたりもした。『シンシナティ・キッド』(1965)でのギャンブラーはハマリ役となり、続く『ネバダ・スミス』や『砲艦サンパウロ』(共に1966)で揺るぎない人気を築く。 そんな中、自身のブロダクションであ..
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夜の人々〜ボウイとキーチの“愛の逃避行”を描く伝説のフィルム・ノワール

監督ニコラス・レイ──のちにヌーヴェル・ヴァーグの面々やヴィム・ヴェンダースといったヒップな映画作家たちから絶大なリスペクトを受け、ハンフリー・ボガート主演の『孤独な場所で』(In A Lonely Place/1950)、『大砂塵』(Johnny Guitar/1954)、ジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』(Rebel Without a Cause/1955)など心に残る名作を遺した映画界の最重要人物の一人。 『夜の人々』(They Live by Night/1948)は、そんなニコラス・レイの初監督作だった。原作はエドワード・アンダーソンが1937年に発表した小説『Thieves Like Us』。若い恋人たちの逃避行を描いたこの作品は、1974年にロバート・アルトマン監督によってリメイクされ、『ボウイ&キーチ』として蘇ることになる。 『夜の人々』は、いわゆるフィルム・ノワールの傑作として語られることもある。フィルム・ノワールの定義は諸説あるのでここでは詳細を控えるが、大まかに言えば、1940〜50年代に低予算で作られたモノクロ犯罪映画の総称で、暗く悲観的なムードを特徴とする。 登場人物たちは何かしらの影を抱え、何者かに追われる状況にあり、舞台は決まって夜となる。このジャンルを愛する映画ファンも少なくない。余談だが、あの『ブレードランナー』もこのフィルム・ノワールを意識して作られた。 ただ、この作品が他のフィルム・ノワール群と一線を画すのは、過酷な現実や暴力に生きるアウトサイダーたちの姿と、ボウイとキーチの運命的な出逢いや純愛という対極的世界が、一つのストーリーの中で同時に呼吸していること。ゆえに観る者の心には、極めてメロドラマ的な“悲しくて美しい世界”が広がっていく。 『俺たちに明日はない』のボニー&クライドは、愛し合う犯罪者だった。ウィリアム・アイリッシュが『暁の死線』で描いたブリッキーとクィンは、時間に追われる恋人たちだった。『夜の人々』におけるボウイとキーチは、この狭間にいるような気がしてならない。 当初、プロデューサーのジョン・ハウスマンは、この物語に惚れ込んでいたニコラス・レイこそがこの作品の監督に相応しいと考えていた。だが、レイには映画監督としての実績がなかったため、映画会社RKOから難色を示された。しかし、1947年にリベラル派のドー..
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ミステリー・トレイン〜ジョー・ストラマーや工藤夕貴らが出演したジャームッシュ映画

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の後、一通の奇妙な手紙がジム・ジャームッシュの手元に届いた。そこには「あなたの映画が好きだ。一緒にビールを飲もう。私は東京に住んでいる」と書いてあった。もしNYに来られるならOKだよと返事すると、10日後、本人がやって来た。 JVCの平田国二郎氏だった。彼はジャームッシュの新作のためにプロデューサーになった。監督に映画創作のための自由を保証し、製作費もバックアップしたこの作品は、『ミステリー・トレイン』(MYSTERY TRAIN/1989)と名付けられて1989年のカンヌ映画祭で初披露された。 いつも一緒に仕事をしたいと思ってる俳優やミュージシャンたちのことを考え、脚本作りをするというジャームッシュは、今回も様々な顔ぶれを思い浮かべた。ジョー・ストラマー、スクリーミン・ジェイ・ホーキンス、ニコレッタ・ブラスキなど。その中には日本人俳優の工藤夕貴もいた。 当初バラバラだったアイデアは一つにまとめられ、エルヴィス神話が生き続けるテネシー州メンフィスを舞台に、古びたホテルに泊まる3組のストレンジャーたちの同時進行する3つの物語という形で仕上がった。撮影は1988年の夏にオールロケ。ジャームッシュ初のカラー作品だが、カメラが人物をゆっくりと追うスタイルは不変。ハリウッドでのビジネスなどまったくもってウンザリだと、彼らしい美学を貫く秀作だ。 「ファー・フロム・ヨコハマ」は、列車に揺られて憧れのメンフィスにやって来た日本人カップル、ミツコ(工藤夕貴)とジュン(永瀬正敏)の姿が描かれる。サン・スタジオに行くかグレースランドに行くかで迷う二人は、メンフィスが自分たちが住む横浜と似ているかどうかなど他愛のない会話を繰り返し、ホテルでベッドインする。 「ザ・ゴースト」は、メンフィス空港から町に辿り着いたイタリア人女性ルイーザ(ニコレッタ・ブラスキ)の奇妙な1日を追う。雑誌を大量に買わされたり、馬鹿げたエルヴィスの作り話に金を払い、無一文の見知らぬ女とホテルの同じ部屋に泊まったり、何かと人は良さそうだが、明らかにマフィアの女であるところが面白い。ルイーザはその夜、ベッドでエルヴィスの幽霊を見る。 「ロスト・イン・スペース」は、女と仕事を同時に失って人生に絶望しているイギリス人のジョニー(ジョー・ストラマー)と仲間たちの一夜。酒場で銃を振り回すジョニー..
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シド・ヴィシャスの死〜革ジャンのポケットから発見された直筆の遺書

パンクのアイコン的存在として現代の若者やカルチャーにも影響を与え続けているシド・ヴィシャス。 1979年2月2日、彼は麻薬の過剰摂取によってこの世を去った。享年21。 彼のデビューパフォーマンスとなったセックスピストルズのギグを撮影していたことでも知られる映画監督ドン・レッツは、彼のことをこう回想している。 「シドはいつもトラブルに巻き込まれてた。マヌケだったからな。愛されるバカだったよ…。」 ドン・レッツは、彼の人生が狂ったのはピストルズが名声を手に入れたのが原因だったと続ける。 「あのまやかしを本物だって信じ始める奴らが現れたのが問題だった。シドはその第1人者だ。そんな中、世間では“奴はいまに死ぬ”みたいなヴァイヴが流れてた。そういうのって人を追い詰めるもんだろ?」 1978年10月13日、ニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで(シドの恋人として有名だった)ナンシー・スパンゲンが刺殺された亡骸で発見される。 凶器となったのはナイフ(シドの所有物)だったという。 しかし、そのナイフは指紋が拭きとられている状態で、シドの手元に入ったばかりの「MY WAY」の印税2万ドルが全て無くなっていた。 彼はナンシー殺害とされている時刻には、ツイナール(睡眠薬)の過剰摂取によって昏睡状態だったため、後日医師による調べの中で服用した量から推測すると少なくとも5時間は意識のない状態だったことがわかっている。 その間、彼らの部屋には複数人が出入りしたことも確認されており、彼が昏睡している状態だったことが証言されている。 ナンシー殺害についてはこんな有力な説もある。 当時ナンシーにドラッグを売っていた男が、前日に1杯の酒代をせびるほど金に困っていた様子だったにも関わらず、彼女が殺害された翌日には新品のブーツとレザーパンツ姿でバーに現れて、血のついたシャツを見せびらかしていたという話がある。 その他にも二人が自殺を図って、昏睡したシドを死んだと思ったナンシーが自殺したという説もあるのだが…その説だと、指紋が拭きとられて置いてあったナイフと、消えた2万ドルの謎とは結びつかない。 この時期二人は互いを殴り罵るという激しい喧嘩を繰り返していたという。 また、ナンシーは腎臓を病んでいたため、その激痛から逃れる為にハードドラッグにすがっていたという。 ナンシーの死の真相は謎のまま..
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シド・アンド・ナンシー〜ジョー・ストラマーが主題歌を担当した破滅的カップル愛の物語

監督2作目にセックス・ピストルズを題材に映画を撮ろうと取材を進めるうちに、メンバーのひとり、ベーシストのシド・ヴィシャスとその恋人、ナンシー・スパンゲンの二人にどうしようもなく魅かれてしまった。 アレックス・コックス監督の『シド・アンド・ナンシー』(SID AND NANCY/1986)は、二人の愛の物語だった。それを語ろうとする時、パンクとピストルズは絶対に避けては通れない。その地図はロンドン、そしてニューヨークだ。 1970年代半ば。ロックの商業化やビッグネームのアメリカ逃れ、深刻化する経済不況や失業問題、搾取が蔓延る社会体制への不満などが絡み合いながら、ニューヨークで生まれたパンク・ロックは大西洋を隔てたロンドンで爆発した。 ファッション・デザイナーでありブティック経営者のマルコム・マクラーレンという30歳過ぎの野心家は、自分の店「SEX」にたむろする少年たちにバンドを結成させる。それがセックス・ピストルズだった。マルコムがシナリオを描き、4人のメンバーが演じるプロジェクトのようなもの。 インパクトのあるファッションや髪型、ロックの衝動を蘇らせたラフな演奏と反体制溢れる歌詞、レコード会社との相次ぐトラブル、各地のライヴ会場での締め出しの連続、TV番組での過激な発言やパフォーマンスは、フラストレーションが溜まった全英の若者たちからすぐさま熱い支持を得ることに成功。 「今時、アホなラブソングなんて歌ってられるかよ」と言い放ったピストルズの登場によって、イギリス中に次々とパンク・バンドが生まれ、無数のパンクスたちもストリートを歩くようになった。1976〜77年はパンクがすべてになったのだ。さらに1977年6月、全英チャートでピストルズの「God Save the Queen」がナンバー1に到達。10月には唯一のアルバム『Never Mind the Bollocks』をリリース。マルコム劇場は頂点を迎える。 しかし翌年1月、アメリカでのツアー中にジョニー・ロットンが突如として脱退。ピストルズはあっけなく失速していく。その後は残されたメンバー3名(スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、シド・ヴィシャス)で活動は継続されるが、パンク・ロックの牽引的存在としての役割は事実上終えていた。 パンクが蒔いた種は、インディペンデント・レーベルやニュー・ウェイブの花となってイギ..
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