2021-12

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フレディ・キングを偲んで〜“テキサスの弾丸”と呼ばれたブルースマンの偉大な足跡と功績

1976年12月28日、ブルースの“3大キング”の一人フレディ・キング(享年42)がテキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝した。 B.B. キングよりも9歳年下で、アルバート・キングよりも11歳若かった彼は、250パウンド(110Kg以上)の巨体と、愛機チェリーレッドのギブソンES-345TDから織りなすダイナミックなプレイから“Texas Cannonball(テキサスの砲弾)”と呼ばれていた。[※1970年代に入ってからはギブソンES-355TDSVも愛用していた] エリック・クラプトン、デュアン・オールマン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど、多くのギタリストに影響を与えた彼の演奏スタイルの特徴といえば、テキサス掛けと言われた(たすき掛けにしない)ストラップ、金属製のサムピックとフィンガーピックで弦を弾(はじ)く太く歪んだサウンド、そして躍動的なチョーキングだった。 彼の死後、エリック・クラプトンはこんな言葉で彼の功績を讃えた。 「フレディから教わった一番重要なこと、それは、ギターと弾き手が愛し合って一つになることさ。」 1934年9月3日、彼はテキサス州のギルマーで生まれた。 祖父はネイティヴアメリカンのチョクトー族で、彼が誕生する前、娘(フレディの母親)にこんな予言を伝えていたという。 「お前が授かる子供は、将来何百万という人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになるだろう。」 6歳からギターに触れるようになった彼は、母親とその兄弟(伯父)の教えでカントリーブルースを演奏するようになる。 最初はライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカー、ルイ・ジョーダン、そしてB.B.キングのレコードを繰り返し聴きながら、同じタイミングで弾けるように必死に練習したという。 彼が初めて手にしたギターは、シルバートーン製のアコースティックモデルだった。 少しずつ上達していくにつれて、彼は新しいギターを手に入れたくなる。 「自分でギターを購入するために、綿摘みの仕事をしていたよ。」 次に自分で稼いだお金で彼が買ったギターは、ロイ・ロジャース製のアコースティックモデルだった。 彼が10代の頃、一家はシカゴに移住する。 1950年代初頭、時代はシカゴブルース全盛期を迎える直前だった。 ブルースの聖地となりつつあったその街で、彼は多感..
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20センチュリー・ウーマン〜1979年に生きる女たちと音楽を描いたマイク・ミルズ監督作

『20センチュリー・ウーマン』(20th Century Women/2016)は、母と息子、そして女たちの物語でもあると同時に、社会や文化の変革期を捉えた作品だった。“時代の空気”という本来目に見えないはずのものが観ているうちに手に取れるような、そんな体験をさせてくれる119分間。優れた映画というのはエンディングロールで終わらない。観る者の心に枝葉を広げる。 アメリカの100年の歴史を大まかに辿ってみると、好景気に沸いたローリング・トゥエンティーズで幕開け、30年代の大恐慌、40年代の第二次世界大戦を経て、その後マイホーム主義の中でティーンエイジャーが台頭する50年代、ポップアートやヒッピーやロックといったカウンターカルチャー全盛の60年代が過ぎていった。 『20センチュリー・ウーマン』の舞台となるのは70年代の終わり。当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは、任期最後となる1979年の夏に「自信喪失の危機スピーチ」として知られるTV演説を行った。 国民は今や人生の意義を見出せず、国のために団結することもない。我々の多くが崇拝しているのは贅沢と消費です。しかし、確かなのは、物質や消費行動だけでは生きがいは得られない、ということ。我々は長年、人類の偉大な歩みに貢献すべく自由を追い求めてきました。今、国は歴史の岐路にある。分裂と利己主義の道を選べば、誤った“自由”に囚われ、衰退の一途をたどるでしょう。(ジミー・カーター) アメリカはこの後ロナルド・レーガン政権が生まれ、富への欲望が膨らんで、ヤッピーとエイズとMTVの80年代に突入。さらに90年代のインターネット革命、ゼロ年代の9.11や経済格差、現在のトランプ政権……といったように混沌とした時代の中を猛スピードで進んで行く。 脚本/監督はマイク・ミルズ。もともとデザイナーやアーティストとしての一面も持ち、NYアートシーンや郊外(サバービア)の風景を描くのがうまい人。前作『人生はビギナーズ』(2010)では、75歳でゲイであることをカミングアウトした父親と自身の関係を反映させて話題になったが、本作では母親に視点を移した。 「母を太陽とすれば、太陽の周りを回る惑星にはいろんな人たちがいる。なんだかちょっと凸凹な人たちがいる。それを1970年代後半のカルチャーも含めたポートレイトにしたいなと、ぼんやりだけど最初から考えて..
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レ・ミゼラブル〜世界中を魅了したロングラン・ミュージカルの映画化と驚きの録音方法

1985年のロンドンでの初演以来、世界中を魅了してきた超ロングラン・ミュージカル『レ・ミゼラブル』。1987年にはブロードウェイで開幕。その年のトニー賞8部門を独占し、キャストアルバムも400万枚以上をセールス。2012年の段階で6000万人以上もの動員記録を誇る。ミュージカルに興味がなかったり、観劇する機会がなかった人でも、そのタイトルくらいは耳にしたことはあるはず。 原作は、フランスの作家ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した5部仕立ての大河小説。刊行当時、フランスはナポレオン3世の独裁時代。その政権に反対していたユゴーは、イギリス領の島に亡命中だった。第1部が刊行された直後、パリに滞在中の妻は夫に手紙を送る。 労働者たちが1フラン(工場の日給の半分)ずつ出し合い、12フランで『レ・ミゼラブル』を買いに行きます。みんなでクジ引きをして当たったものが、みんなが回し読みした後に自分のものにできるのだそうです。『レ・ミゼラブル』は社会のあらゆる階層で感動を呼び起こしています。 産業革命が進行すると同時に、都市には劣悪な環境で生きる労働者が増加。飢えと戦っていた。貧困撲滅と社会改革が信念だったユゴーは、壮大な創作に取り組んで変革の物語を人々の心に形成しようとしたのだ。『レ・ミゼラブル』は19世紀の大ベストセラーになった。 当然、映画化もこれまで何度かされてきた。ジャン・ギャバン、ジャン=ポール・ベルモンドらのフランス製作。1998年にはアメリカ製作もされた。そんな中、最高傑作として知られているのがイギリス製作の『レ・ミゼラブル』(Les Misérables/2012)。冒頭のミュージカルの映画化だ。 80年代から映画化の話はあったものの、約30年間実現には至らず。アラン・パーカー、スピルバーグ、オリバー・ストーンなど錚々たる監督たちがメガホンを取る可能性があった。だが、製作者のキャメロン・マッキントッシュは、トム・フーパー監督で成功を確信した。 監督が拘ったのは、歌の録音方法。従来のミュージカル映画の場合、撮影に入る前にあらかじめ歌を収録して現場で口パクを取る方法が当たり前。しかし、今回は俳優たちが演技しながら歌うライブの声を録音するという前代未聞のやり方。 この方法が上手くいくと分かった時は本当に興奮した。テンポやリズムを変えることでちょっとしたバリーエーシ..
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音故知新⑤〜ジャズの源流を辿る旅

ジャズの起源・発祥については諸説あり、現在でもはっきりとは断定されていない。 一般的に多くの文献では19世紀末から20世紀初頭が起源とされており、アメリカ・ルイジアナ州のニューオーリンズを発祥地として南部の都市を中心に発展した音楽形式と記されている。 ニューオーリンズといえば、かつてスペインやフランスから移住した人々やクレオール(欧州系白人と黒人の混血)、そして奴隷制があった時代にアフリカから労働力として強制的に連行された人々など多種多様な人種が集まった港町で、新たな文化が生まれやすい土地だった。 20世紀初頭、アメリカでは過酷な労働を強いられた黒人労働者が怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段として用いた音楽が労働歌=ブルースへと発展する。 これに加えて、ニューオーリンズでは“ストーリーヴィル”と呼ばれた歓楽街の酒場などで演奏されていた“ラグタイム”が人気を集め、アフリカ系の人々もトランペット、トロンボーン、クラリネットといった西洋楽器を使ったマーチングバンドによる街頭演奏を行うようになる。 ■ラグタイムについては、こちらのコラムで詳しくご紹介してます♪ 【The Entertainerを聴きながら〜“ラグタイムの王”と呼ばれたスコット・ジョプリンの偉大なる功績〜】 http://www.tapthepop.net/day/43484 当時、ニューイングランドからニューオリンズにかけてのすべての歌と旋律(賛美歌、民謡、黒人霊歌、ワークソング、ゴスペル、ブルース、ラグタイム)が混ざり合い発展・融合し“化学反応”を起こしていた。 南部地方では、これにアフリカの太鼓のリズムが織り込まれて「ジャズ(Jazz)」と呼ばれる音楽が誕生したのだ。 この太鼓のリズムこそがジャズを他の音楽と区別させる重要な特徴ともいわれている。 では、この「ジャズ(Jazz)」という言葉は、いつから使われるようになったのだろう? ──1913年、シカゴの人気者だったボードビリアン(軽演劇俳優)ジョー・フリスコがニューオーリンズでショーを開催したとき、トム・ブラウンというトロンボーン奏者が彼のバックバンドを務めるためにミュージシャンを集めた。 ジョーは、彼らの演奏のベースとされていたジャス・ミュージック(Jass Music)に感銘を受け、シカゴに帰って仲間や記者にその話をした。 この時、..
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音故知新②〜ブルースってどんな音楽?

ブルースのルーツをさかのぼると、古くは西アフリカ、そして17世紀から19世紀の間にアメリカ大陸に連行された黒人奴隷の歴史に辿り着く。 現在、我々が耳にしているほとんどのロック系サウンドには「ブルースの血が流れている」と言っても過言ではないだろう。 では、そのブルースとは一体どんな音楽なのだろう? 多くの文献では、それを「アフリカ音楽を起源とするもので、アメリカ南部の黒人達が辛い労働環境や境遇を背景に生みだした音楽」とされている。 当時、奴隷として連れてこられた彼らのほとんどがガンビア、セネガル、ナイジェリア、ガーナなど、西アフリカの海岸地域の出身だった。 もともとこの地域では、GRIOT(グリオ)と呼ばれる世襲制の音楽家が存在し、彼らが口承(口伝えで音楽を演奏・伝承)してきた音楽こそが“ブルースのルーツ”と言われている。 太古よりアフリカでは「音」と「言語」が密接に結びついており、かつては打楽器をコミュニケーションの手段として使っていた。 そこに「音調」や「音色」が加わって進化していったものが、ブルースの演奏技巧に受け継がれている。 もともとバンジョーはアフリカから持ち込まれた弦楽器であり(ウォロフ族の間でバンジョールと呼ばれていた楽器)初期のブルースのギター伴奏スタイルと西アフリカのバンジョーを指で弾くスタイルはよく似ている。 西洋の音階で言う三度の音、すなわち「ド」に対する「ミ」が、クラシック音楽の感覚で正しいとされる音程よりフラットになるブルーノートスケール(ブルース特有の音階)は、黒人がアフリカ音楽から持ち込んだ要素である。 また、当時のアメリカにおいて奴隷達はドラムやラッパの使用を禁じられたという。 それは、反乱を煽るために使われるのではないかと奴隷主たちが恐れたからだった。 では、ブルースが発祥した場所はどこなのだろう? いくつかの説がある中、ミシシッピ川とヤズー川に挟まれたこの地帯にあったアメリカで最初の綿農園ドッケリーファームが“ブルース生誕の地”とされている。 農作業の際に歌われた「ワークソング」または「フィールドハラー」と呼ばれる労働歌がブルースの原型ということは広く知られている。 それらは、過酷な労働をほんの少し我慢しやすくしてくれただけだったが、コール&レスポンス(呼びかけ応答)と呼ばれる歌詞を繰り返す手法は、やがてブルースに受け継がれる..
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キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン〜16歳で映画会社の重役になりすましたスピルバーグ

「映画製作に自分の金は注ぎ込むな」──早熟の天才スティーブン・スピルバーグは16歳の時に巨匠ジョン・フォードから忠告されたことを、ハリウッドで仕事するようになってからずっと守り続けることにした。そして30年後、46歳の時に遂に資産1000億円以上を持つビリオネアになった。 自分の金は一切出さない代わりに、作品の所有権は放棄する。しかし作品に対する権利は違う。自分の映画が大ヒットする保証はしないけれども、もし成功した場合は大きな取り分を与えられることを主張するのだ。映画が公開されると興行収入の5〜15%を受け取る。どんなに映画がヒットしなくても必ず金は入ってくる仕組みだ。こうして1993年(46歳)に監督した『ジュラシック・パーク』でスピルバーグが稼いだ金額は驚異の262億円。当時、一本の映画からこれだけの利益を得た者は誰もいなかった。 非凡な才能があったスピルバーグは20歳の若さでTVディレクターとなった。そして1974年に映画に進出し、翌年に監督した『ジョーズ』がそれまでの映画興行の全ての記録を塗り替える大ヒットを記録する。まだ20代後半の時だ。普通なら名声に溺れ、パーティ三昧の中で若い女優と浮かれてスキャンダル沙汰になるのがオチだろう。だが彼はハリウッド帝国の金の動きを冷静に見つめることを忘れなかった。 次作『未知との遭遇』(1977年)では決定的な学習をする。利益の17.5%を受け取る契約を交わしたものの、手にしたのはわずか5億円。いくら大ヒットした映画でも様々なコストを差し引くと、利益は残らない。そこで意味のある金とは? それは興行収入からの分配だと気づく。 有名な『E.T.』では、ビデオの売り上げからも分配を受け取る契約を結んだ。ビデオ時代が来ることを見抜いたのだ。この項目だけでスピルバーグは70億円を手に入れた。ちなみに『ジュラシック・パーク』の続編『ロスト・ワールド』(1997年)では、何と340億円を稼いだ。 『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(Catch Me If You Can/2002)は、巨額の金を手にしたスピルバークらが1994年に設立した製作会社「ドリームワークスSKG」のヒット作の一つ。16歳という若さで大胆不敵にも世界を欺いた詐欺師フランク・アバグネイルの自伝の映画化だ。実は本作を監督したスピルバーグも同じ16歳の時、アバグネイ..
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ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」が日本で発売された日

1978年(昭和53年)12月26日、ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」(ワーナー・パイオニア)が発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「UFO」/ピンク・レディー 2位「サウスポー 」/ピンク・レディー 3位「モンスター」/ピンク・レディー 4位「君のひとみは10000ボルト」/堀内孝雄 5位「微笑がえし」/キャンディーズ 60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館、新東京国際空港(現成田国際空港)開港、24時間テレビ「愛は地球を救う」放送開始、ディスコブーム、日中平和友好条約調印、サーフィンファッション大流行して、原宿に竹の子族登場した年でもある。 「俺がこれまで書いてきた曲の中で、これほど商業的に成功したものはない。アメリカでは200万枚以上、イギリスでは50万枚が売れて世界中でヒットした。俺が行ったことのない国や聞いたことのない街でもヒットしたんだ。当時、ワーナー史上最速で売れたシングルとなったよ。その記録は6年後にマドンナの“Like a Virgin”によって破られたけどね。」 この「Da Ya Think I’m Sexy?(アイム・セクシー)」は1979年にロッド・スチュワートとドラマーのカーマイン・アピス(ハードロックの分野におけるドラミングのパイオニア)が共作した楽曲で、レコーディングにはアメリカ音楽界きっての名プロデューサー、トム・ダウドが起用された。 同曲が収録されたアルバム『Blondes Have More Fun(スーパースターはブロンドがお好き)』 日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットとなった。 1975年にワーナーブラザースレコードに移籍して、「Sailing」を含むアルバム『Atlantic Crossing』でアメリカ進出を果たしたロッドは、同曲によって名実ともに世界的な“スーパースター”となったのだ。 「この曲を書いた頃、俺がよく聴いていたのは1977年にデビューしたバンド、シックのアルバム“Chic(ダンス・ダンス・ダンス)”や“C’est Chic(エレガンス・シック)”だった。それとオデッセイがヒット曲“Native New Yorker”とストーンズの“Miss You”もお気に入りだったよ。特にストーンズみたいなロックバンドがディスコビートに手を出したことが俺に..
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カーティス・メイフィールドを偲んで〜ソウルミュージック史上最高の天才と言われた男の少年時代からソロデビューまでの足跡

1999年12月26日、ソウルミュージック史上最高の天才と言われたカーティス・メイフィールド(享年57)がジョージア州アトランタ郊外にあるロズウェルの病院で死去した。 死因について関係者からの直接的な発表はなかったが、晩年は健康状態がかなり悪化していたと言われている。 1990年、当時48歳だった彼はニューヨークでのコンサートのリハーサル中に照明機材の下敷きになるというアクシデントで、首から下がマヒする大怪我を負い、車椅子の生活を余儀なくされる。 病院の医師の話によれば、その後糖尿病の進行により亡くなる一年前には片足を切断する手術を受けていたという。 1942年、彼はイリノイ州シカゴで生まれた。 多くのソウル系アーテイストたちがそうであるように、彼も幼い頃から教会の聖歌隊で歌っていたという。 彼の祖母は教会の説教師でゴスペル歌手だったこともあり、彼にとって教会は音楽活動の原点となった。 「私は祖母の影響で7歳の頃からゴスペルに触れていたんだ。当初は従兄弟たちや伯父と一緒にザ・ノーザン・ジュビリーズという名前のグループで歌っていました。聖職者だった祖母は“トラヴェリング・ソウル”という名前で知られていました。幼い頃に教会で聴いた音楽や聖書の言葉は私の基礎となりました。」 母親はクラシックからR&Bにいたるまでありとあらゆる音楽を好む人で、彼はゴスペルだけではなく様々な音楽に触れながら成長してゆくこととなる。 学校に通うようになり、幼い頃から歌ってきたゴスペル(宗教音楽)と地元の仲間たちとR&B(世俗音楽)を同時進行で歌い始めた彼に、大きな転機が訪れることとなる。 1957年、15歳になった彼は聖歌隊で知り合い意気投合したジェリー・バトラーとインプレッションズを結成する。 ジェリー・バトラーを中心にカーティス・メイフィールド、サム・グッデン、リチャード・ブルックス、アーサー・ブルックスの5人組みのグループで、1958年に発表したデビュー・シングル「For Your Precious Love」がいきなり大ヒットし、当時の主流だったR&Bコーラスグループの中でも頭一つ抜けた存在となる。 この頃グループ内において彼は、リードのジェリー・バトラーを引き立てる黒子役で、それほど重要なポジションではなかった。 彼が存在感をあらわしてきたのは、グループの大黒柱だったジェリー・..
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酒とバラの日々〜アルコールに溺れてあらゆるものを失う男と女の物語

『酒とバラの日々』(Days of Wine and Roses/1962)は、アルコールに溺れた夫婦が何もかもを失いながらも、最後の一滴のような愛を見つけ出して、必死に現実と未来に向き合おうとする姿を描いた名作だった。 酒や薬物やギャンブルに過度に溺れ、葛藤と苦悩を繰り返す人間の姿──これまでTAP the SCENEで紹介してきた映画の中にはそんなシーンがたくさんあったことに気づく。 例えば酒一つとっても、『バーフライ』の作家は酒のせいで都会の掃き溜めで才能を浪費する日々を送っている。『クレイジー・ハート』のミュージシャンは酒による失敗で運命の女性から愛想を尽かされる。そして『リービング・ラスベガス』の脚本家は、すでに覚悟を決めて死ぬために飲み続けていた。モンマルトルのボヘミアンたちのように禁断の酒アブサンに浸りながら芸術作品を生み出した時代と違っていたのは、登場人物たちがみんな孤独だったということだ。 自己嫌悪に陥るたびに、自己再生を誓う姿。にも関わらずそれを得るためなら周囲に嘘をつき、自分を哀れみ、正当化し、大切な人を裏切る姿。仕事や金を失い、家庭やロマンスを失い、時間と健康を失い、信頼と未来を失い……得るものといえば、卑劣な思考と悪夢のような幻覚、そして人生に対する不安だけだ。 経験したことのある人なら分かるだろう。これは暗闇の中をずっと手探りで浮遊しながら彷徨うようなものだ。そこから抜け出す方法はただ一つ。光を見たければ、結局は「こんなことに屈してはならない」という自らの意思で壁をぶち壊すしかない。なぜならそこは出口のない迷路。圧倒的な孤独な世界。人間的成長が一時停止されている状況下では、他人の人生のナビゲーションなどBGMにしか聞こえない。 『酒とバラの日々』の主人公、ジョー(ジャック・レモン)の仕事はPR会社のサラリーマン。PRと言っても名だけで、実際は担当するアラブの石油会社の王子たちのために船上パーティを開き、プロの女の子たちを供給するのが役割の日々。「企業がいいことをしたらそれを広めるのがPRの仕事」と説明できるが、「悪いことをしたら?」の問いには思わず言葉が詰まってしまう。独身でパートナーもなく、都会の生活で仕事にもロマンスにも満足していない。だから酒の量が増えている。 ある夜、大会社の秘書カーステン(リー・レミック)をエスコートクラブのプロ..
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【推理クイズ】目撃証言をもとに強盗犯を見つけろ!

目撃証言を元に、犯人の顔を導き出してみて! View Entire Post ›
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