2022-01

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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(後編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、カタログのように並べて振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? ポップカルチャー研究家でもある中野充浩が描き出す。 前編(第1〜2章)はこちらから。 ──第3章 J-POPとミリオンセラーの量産 昭和と平成の境目、1989年。多くのメディアが「さよなら80年代」特集を組む中(同年に昭和歌謡の象徴・美空ひばりが死去)、制御不能なバブル経済はさらに膨らみ続け、日経平均株価は年末には3万8915円の最高値を記録した。しかし、パーティを繰り広げる世代には1989年も1990年も別に変わりはなかった。時代は決して十年単位で区切れない。 音楽業界が数年間の歳月を掛けて浸透させていくことになる「J-POP」を掲げ始めたのも、ちょうどこの頃だ。CDの売り上げがアナログ盤を上回ったのは1986年。そして1989年にはアナログ盤の生産がストップして時代は完全にCDへ。 音楽を取り巻く環境にも変化が起こり、大型店舗(タワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストアズなど)の出店、カラオケボックスの登場、レンタル店やコンサート施設の拡大、安価なCDラジカセの販売といった影響もCD普及と市場活性に一役買っていた。 歌が自分たちのライフスタイルを彩ってくれるという感覚は、CDというパッケージを得ることでより強まった。TOKYOにおいて音楽は、消費と流行に明け暮れるための“気分作り”であり、パーティを共有するための“マストアイテム”だった。若い世代はCDを毎月何枚も買うことが当たり前になった。1983年以来途絶えていたミリオンセラーが1990年以降になって量産されるのは、こうした経緯があったからだ。 きっと君は来ない 一人きりのクリスマス・イブ Silent Night Holly N..
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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(前編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、カタログのように並べて振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? ポップカルチャー研究家でもある中野充浩が描き出す。 ──第1章 歌い手から“聴き手”の時代へ 1980年代〜90年代の中でも特別な輝きを放っていた数年間──バブルの定義は、一般的には旧経済企画庁がバブル景気と定めた1986年12月~1991年4月の53ヶ月間とされている。その間、大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂して、投資という名のマネーゲームに明け暮れていた。 東京の街々には大資本が投下され、遊び心を満たしてくれるスポットやオシャレな店が空間プロデュースの名のもとに乱立。建設中のインテリジェンスビルも至る所で背を伸ばし始めた。都市化が謳われた東京は、日本だけでなく世界中からの情報を一極集中させようとする。こうして巨大なメディアとしての「TOKYO」が誕生した。 そんな時代のヴィジュアルイメージを担ったのは、TOKYOを舞台に行き来する情報や流行に最も敏感だった10代や20代の若者たち。 誰もが次々と起こるムーヴメントやファッション、スタイリッシュな夜遊びや恋愛に次第に心を奪われるようになり、気がつけば消費マーケットの中心に祭り上げられた。札束とかくれんぼしていたような大人たちは、若い世代が集う渋谷や六本木に漂う甘い空気が、一夜にして大金に化けることを知っていたのだ。 音楽業界もこの空気や光景をいかに嗅ぎ付けるかが重要になってきた。いつまでもTVの音楽番組やバラエティ番組といったマスメディアから発信される“作られたアイドル”を提供するだけでは、新しい時代の中で特別な青春を謳歌しようとする若い世代の気分を捉えられるはずがなかった。 そしてTOKYOというパラレルワールド(同時並行世界)において..
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T2 トレインスポッティング〜“どうしようもない奴ら”が未来を選んで大人になるということ

前作は若さの祝福だった。本作は大人になるということ。またいかに僕たちはそれに対処するのが下手か、についての映画だ。そして子供がいるということ、いないこと。もしくは父親たちに失望させられる子供たちの物語だ。 日本でも4月8日に劇場公開された映画『T2 トレインスポッティング』は、ある世代のための映画のように思える。それは20代の多くを1990年代に過ごし、30代をゼロ年代、そして10年代は40代として生きている世代。 1993年に出版されたアーヴィン・ウェルシュの小説『トレインスポッティング』がダニー・ボイル監督によって映画化されたのは1996年。当時のイギリスはブリット・ポップやクラブ・カルチャーの全盛期。この映画も大ヒットした。 日本(とりわけ東京)では渋谷のミニシアターの記録を塗り替え、渋谷系な人々を中心にファッションやストリートカルチャーにも多大な影響を与えた。何よりも『トレインスポッティング』に登場する“どうしようもない奴ら”の言動が、バブル崩壊後の不景気感、オウム事件などが漂わせる世紀末感に覆われた東京の風景ともどこかシンクロしていた。元気だったのはコギャルの女子高生くらいだ。 『T2 トレインスポッティング』(T2 Trainspotting/2017)は、前作から20年後の“どうしようもない奴ら”の姿を描いた続編。イギリスでは1月に公開され、相変わらずチャンスと裏切りに振り回される登場人物たちに絶賛の嵐。舞台はスコットランドのエディンパラ。20代半ばだった彼らは、40代半ばになって“再会”。 レントン(ユアン・マクレガー) 20年前、4人で手に入れた大金を持ち逃げしてオランダのアムステルダムに渡った。ドラッグと縁を切り、ジムで汗を流すような人間に変わっていたと思いきや、急性肝不全を患い、結婚生活や仕事も破綻。自分を取り戻すために、過去の件を清算しようと、故郷エディンバラへと戻って来る。 シック・ボーイ(ジョニー・リー・ミラー) 母親から継いだ潰れかけのパブを経営する裏で、金欲しさにパートナーのヴェロニカと組んで、金持ち相手に売春現場の恐喝を繰り返す日々。ビジネスを拡大するため、アダルトサウナへの進出を見計らっている。レントンとの腐れ縁でそれが現実に動き始める。 スパッド(ユエン・ブレムナー) 相変わらずジャンキー。妻子とは別居中。自殺を試みている最中..
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ディーバ〜女神の歌声を録音してしまったパリの郵便配達人

ジャン=ジャック・ベネックスは、35歳の時に新人監督としては異例の3億円の製作予算を与えられ、『ディーバ』(DIVA/1981)を撮った。 従来のジャンル分けが成立しない不思議な映画だったせいと少々の不運もあって当初は反響も鈍かったが、次第に観客のクチコミや批評家たちからの絶賛に祝福され、1981年3月の公開以来2年以上もロングランを続けていく。すると翌年公開のLAやNYでも同様のことが起こった。 アメリカのニューズウィーク誌は「官能的で遊び心に溢れていて、こんな映画は今まで観たことがない。スピルバーグがジャン・コクトーとクロスオーバーしたようなものだ」と評し、ローリング・ストーン誌も「聖なる狂気の作品。コメディ、ロマンス、オペラ、さらには殺人事件まで」と驚いた。 世の中の出来事の多くを僕は恐れ、心配しているんだ。だけど僕たちは愛を信じ、人間として共通して持っているものを信じる限り、破滅することはないと思う。 ベネックス監督はこの作品に自らを投影したという。それはオペラや車だけでなく、ジクソーパズルやオーディオといった細部にまで現れた。映画界では少し遅れて登場するリュック・ベッソンやレオス・カラックスといった映画作家たちと並んで「フレンチ・ニューウェーブの騎手」「恐るべき子供たち」と呼ばれ、フランス映画の新しい才能と健在ぶりを示してくれた。日本では後年の『べティ・ブルー』のヒットでその名がより知れ渡るようになった。 それにしても『ディーバ』で描かれるパリの街並が美しい。幻想的で儚い夜明けの時間を、主人公の青年と白いパラソルを持った歌の女神が散策するシーンは、この映画におけるイノセンスの極致だ。 青を基調にした映像美はあらゆるシーンに活かされていて、パリが見る夢の中を浮遊しているような感覚にしてくれる。一方で最後まで魅せるエンターテインメント性もしっかりと貫かれていることから、当時の多くの若い観客の心を捉えてロングランの大傑作となったに違いない。 18歳の郵便配達人ジュールは、バイクでパリの街を走りながらいつもオペラを聴いている。彼にとってのディーバ(女神)は黒人オペラ歌手シンシア・ホーキンス。彼女の美しい歌声は録音やレコード化は一切許されていないので、コンサートでしか体験ができない。 その夜、ジュールはシンシアのコンサートへ出向き、彼女が歌うカタラーニの「ワリー..
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ルーファス・トーマスを偲んで〜底抜けに明るいキャラクターでメンフィスを元気にした男の功績と軌跡

2001年12月15日、“The world’s oldest teenager(世界で一番歳を取った十代)”と呼ばれた人気黒人歌手ルーファス・トーマス(享年84)がテネシー州メンフィスの病院で静かに息を引き取った。 亡くなる3年前に心臓の手術を受けており、死因は心臓の衰弱からくる心不全と発表された。 ユーモラスな歌とダンスが特徴の「Walking The Dog」「Do The Funky Chicken」などの代表曲で幅広いファン層に親しまれた彼は、歌手としてだけではなくタップや漫才などマルチタレントぶりを発揮してお茶の間でも人気のエンターテイナーだった。 芸歴70年を超えた晩年でも、ステージではお馴染みのホットパンツ姿で登場して観客を沸かせていたという。 1917年、彼はミシシッピ州にあるケイスという小さな町で生まれた。 彼が3歳の頃に一家は仕事を求めてテネシー州メンフィスへと移り住むこととなる。 当時のメンフィスと言えば、綿花と木材の集散地として多くの黒人労働者が暮らす街だった。 そんな街で育った彼は、10歳頃からタップダンサーとして歓楽街のキャバレーなどで踊るようになる。 ハイスクールを卒業した後は、ミンストレル・ショーの一座に加わり南部を旅して回ったという。 1943年(当時26歳)に、初めて歌手としてレコーディングを経験したが…鳴かず飛ばずのまま地元のクラブなどで細々と活動を続けていた。 1952年、彼が35歳の時に転機がおとずれた。 当時、まだ人種差別が激しかった地元メンフィスの黒人向けラジオ番組のDJに抜擢されたことで、彼の名前は南部中に知れ渡るようになる。 彼は南部で初めてエルヴィス・プレスリーを黒人リスナーに紹介したり、まだビッグネームになる前のBBキングを発掘して広めた人物としても知られている。 番組は人気を呼び、しだいに彼は歌手としても注目を浴びるようになってゆく。 1953年、メンフィスで設立されたばかりのSun Recordsからビッグ・ママ・ソーントンという女性新人歌手がデビューする。 彼女はジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが書いた「Hound Dog」を歌い、R&Bチャートの首位を7週間も奪取するという快挙を遂げる。 このヒットを受けて、ルーファス・トーマスが“アンサーソング”として「Bear Cat」という曲をヒットさせ..
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【診断】ITZYの中であなたの親友になるとしたら誰? 本人たちも試してみた!

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“洋楽初心者”を心から祝福してくれた80年代の『ミュージック・ライフ』

「音楽に本格的に目覚め始めたのは?」と訊かれた時、多くの人は「中高時代かな」と答えるかもしれない。それまでTVのベストテン番組で「歌謡曲」や「ニューミュージック」に慣れ親しんでいた少年少女が、ある日をきっかけに「洋楽」に魅せられていく……これは現在のように、ネットやSNSでの情報収集やコミュニケーションがまだなかった時代の話だ。 「洋楽デビュー」のきっかけは1981年、中学1年の時のクラスメイト。音楽一家で育った彼は母親がピアノの先生ということもあり、みんながアイドルに夢中になっていた頃、すでにYMOやイージーリスニングを愛聴していて、仲良くなった自分にその魅力を話してくれたのだ。 次第に近藤真彦や松田聖子より、坂本龍一やシャカタクの名の方がメジャーになっていった。ステレオの使い方、ギターの弾き方、テープのダビングのやり方を教えくれた友人は、放送部に入って好きな音楽だけを学校の昼休みにかけ続けた。 そんな少年たちが「洋楽」の扉を叩くのは当然のこと。1983年にはもうYMOすら聴かなくなっていた。その年、マイケル・ジャクソンの『スリラー』や『フラッシュダンス』が世界的ヒット。MTVにはカルチャー・クラブやデュラン・デュランが頻繁に映り、シンディ・ローパーとマドンナがデビューした。そしてポリスの『シンクロニシティ』やLAメタルのクワイエット・ライオットのアルバムがナンバーワンになった。すべて1983年の出来事だ。 この頃になると、輸入レコード店、ライナーノーツ、ラジオ番組『ダイヤトーン ポップスベストテン』、『FMファン』や『FMステーション』といったFM情報誌、『ベストヒットUSA』や『SONY MUSIC TV』などの深夜番組、あるいは大学生の家庭教師や年上の親戚のお兄ちゃんまで、「洋楽」の情報源はそれなりに出揃っていた。 待っていても何も来ない。ならば自ら取りに行く。時間を掛けて手に入れた情報には、今と比べものにならないくらい愛着があり、思い入れも深かった。 中でも雑誌『ミュージック・ライフ』(シンコー・ミュージック発行)は、月に一度のお楽しみ。誌面は10代を中心とした若い世代の洋楽ファンに向けて作られているが、英米アーティスト混在の情報量の多さやバラエティに富んだコーナー作りで限りのない世界が広がっているように思えた。 今風に言えば、コンテンツが豊富。めくってい..
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ペイネ 愛の世界旅行〜このどうしようもない世界で「本当の愛」を見つけるために旅立つ恋人たちの名作

ハイコントラストの白黒映像。跳ね上がる爆撃の中、手と手を取り合って何度も駆け抜けていく1組のカップル。そして流れ出すエンニオ・モリコーネのテーマ曲──『ペイネ 愛の世界旅行』(Il Giro Del Mondo Degli Innamorati Di Peynet/1974)のあまりにも印象的なオープニングだ。 このアニメーションは、ベトナム戦争や中東危機など世界中で紛争が絶えなかった1970年に企画が立てられ、3年の歳月を経て完成した。物語後半の「戦争反対、恋愛賛成」というシーンが象徴するように、本作は「愛と平和」をテーマにした恋人たちのための映画である。 2020年、世界はその頃と一体何が変わったのだろうか? そう思うと心が傷む。だからこそこの作品が放つ力強いメッセージに、今もう一度心を向けてみる機会だと思う。 恋人たちを描いたのは、レイモン・ペイネ。1908年パリ生まれの世界的なイラストレーターで、フランスだけでなく日本でも1986年に軽井沢に美術館が建てられたので出向いたことのある人も少なくないだろう。1930年に5歳年上の夫人と結婚。夫婦はペイネが描く恋人たちのように仲が良く、彼女が創作に大きな影響を与えたと言われている。1999年に90歳で死去。『ペイネ 愛の世界旅行』はペイネ唯一のアニメーション作品であり、1974年7月に日本で初公開されて、その後リバイバル上映もされた。 物語は、おかっぱ頭に山高帽をかぶったバレンチノと髪をポニーテールにしてミニスカートを履いたバレンチナという恋人たちが、本当の愛を見つけるためにラブパスポートを手に入れるところから始まる(恋人カードにはアダムとイブ、シーザーとクレオパトラといった有名なカップルも登録している)。そしてエアー・ラブという天使が操縦する飛行機に乗って、世界中を次元を超えて自由に旅していくというもの。 そこには愛のメッセンジャーとも言える有名な人物たちがいて、二人は歴史的瞬間に立ち会いながら、時には離れ離れになりながらも、長い旅の末、1968年5月のパリの五月革命において遂に安息の場所を見つけ出す。花びらが祝福するように恋人たちの頭上を舞っている。「戦争反対、恋愛賛成」のプラカードが出てくるのはこのクライマックスだ。 訪れるのは20ヶ国26都市。移動手段はエアー・ラブのほか、車、自転車、潜水艦、馬車、気球、列..
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キース・リチャーズの胸が張り裂けそうな恋から生まれた「Ruby Tuesday」

ガサ入れや逮捕劇や裁判など、1967年はローリング・ストーンズにとって非常に風当たりが強い年となった。それはすでにイギリスでは最先端のポップカルチャーやスウィンギング・ロンドンを形成する重要な一部になっていた彼らの影響力を、面白いと思えない権力側が何よりも恐れていた証拠かもしれない。アメリカでも新しい若者の代弁者として、その存在感は渡米の度に大きくなっていた。 そして、ロックがドラッグカルチャーやヒッピームーヴメントと本格的に結びついて“少しだけ大人”になる直前の1967年の1月中旬、UK12枚目/US14枚目となるニューシングル「Let’s Spend the Night Together」はリリースされた。 「夜を一緒に過ごそう」と歌われるこの曲は、性的なニュアンスを強く漂わせるとの理由で多くのラジオ局では放送禁止になった。その象徴的な出来事として当時アメリカで絶大な視聴率を誇ったショー番組で、「the night」を「some time」に変更して歌うようにホスト役のエド・サリヴァンから訴えられたこともあったほどだ。「私には番組を観ている物凄い数の子供たちがいる。二重の意味があるようなものには我慢できない。それが曲であろうと、ストーンズであろうと」 こんなこともあって、結果的にB面(両A面扱い)の「Ruby Tuesday」が大ヒットする。キース・リチャーズが書いて(ミック・ジャガーではない)、一緒に関わったブライアン・ジョーンズのピアノやリコーダーの演奏がこの上なく美しいこの楽曲の誕生までには、ちょっとしたエピソードがあったことをキースが自伝『ライフ』で書き綴っている。 ある日、キースはマネージャーのアンドリュー・オールダムが開催したパーティでリンダという女性と出逢って心奪われる。モデルの彼女はまだ17歳。20代前半だったキースにとって「目が覚めるくらいに美しく、60年代として完璧なルックスで目がくらむほど」だった。実はリンダの初恋の相手がキースだった。その夜、リンダの方から積極的にアプローチされたキースは信じられなかった。「俺みたいな卑しい身分の奴にいい女が声を掛けてくるなんて信じられるかよ!」 とにかく二人の愛が育まれ、同棲生活も始まった。しかし、売り出し中のストーンズは何度もツアーに出なければならなかったため、キースの長期不在が原因で破局は時間の問題だ..
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ぼくたちの失敗・森田童子〜引退から10年後に突如として注目を集めた謎のカリスマ歌手

春の木漏れ日の中で 君の優しさに埋もれていた僕は 弱虫だったんだよね 森田童子。 彼女は、人前ではサングラスを決して外さなかったといわれている。 本名も素顔もすべて謎のアーティストである。 公表しているパーソナルデータといえば…1952年1月15日に東京都で生まれたということくらいだ。 1970年代の中頃…音楽ファンの一部からはカリスマ的な存在として注目も浴びていたが、本人がメジャーな展開を望んでいなかったこともあり、メディアなどで表立って紹介されることもなかったという。 活動当時にはさほどヒットを飛ばすこともなく1983年に引退。 そして10年の歳月が流れる…。 この「ぼくたちの失敗」は、1993年にヒットしたTVドラマ『高校教師』の主題歌に起用され、突如としてヒットチャートに躍り出ることとなった。 真田広之と桜井幸子の主演によって、教師と生徒の愛という禁断のテーマが描かれた物語は、野島伸司がTBSで初めて連続ドラマの脚本を手掛け、最終回に33%という高視聴率を記録。 楽曲のヒットと共に、すでに引退を表明していた森田童子にも世間の関心は高まる。 そのケースは、通常の“リバイバル”とは意味合いが違っていた。 現役時代において、そもそもヒットらしいヒットもなく“知る人ぞ知る”伝説のフォークシンガーだった彼女。 デビューしたのは、さかのぼること18年…1975年だった。 “しらけ世代”と呼ばれる当時の風潮の中で、真正面から“青春”を歌う彼女の歌は、ある意味衝撃的でもあり、若者たちの間に浸透していったという。 ボサボサのヘアースタイル、素顔を隠す大きなサングラス、無表情のまま囁くように歌う歌唱…そんな個性的なアーティストの出現に、周囲はある種のカリスマ性を感じていた。 彼女は1968年〜70年初頭に起きた学生運動・安保闘争の時代に高校生活を送っていた。 彼女のクラスメイトや幼馴染みも、この闘争に巻き込まれていったという。 そんな悲しく、やり場のない怒りに満ちた時代に彼女が耳にしたのが、サイモン&ガーファンクルやアル・スチュアートのメロディーだった。 そんな音楽との出会いと同時期に、彼女は高校を中退する。 ほどなくして彼女は友達の一人が亡くなったことを一枚の葉書で知らされる。 その死因が闘争に巻き込まれてのものだったのか、病気や事故だったのかははっきりとされていないのだが..
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