2022-01

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We Are The World〜チャリティソングの金字塔となった歌がレコーディングされた日

それはMTV全盛期と言われた80年代中頃の出来事だった。 ──1984年の12月24日にボブ・ゲルドフ(ブームタウンラッツ)とミッジ・ユーロ(ウルトラボックス)の呼びかけで、アフリカの飢餓と貧困を解消する目的で作られた歌「Do They Know It’s Christmas?」が発表され“バンド・エイド”というチャリティーキャンペーンが大きな成功を収めた。 参加ミュージシャンは、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、デヴィッド・ボウイ、U2、カルチャークラブ、デュランデュラン、バナナラマ、ビッグカントリー、ポール・ヤング、ポリス、スタイルカウンシル、ウルトラボックスなどイギリス〜アイルランド系の新旧アーティストによるものだった。 それに呼応するようにしてアメリカで発表されたのがこの「We Are The World」だった。 “USAフォー・アフリカ”という旗の下、マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーの呼びかけに応じたのは、アメリカのポップス界を代表するアーティスト達だった。 人種、性別、音楽ジャンル、宗教、キャリアもそれぞれ異なる彼らの“想い”は、国境を超えてその夜一つになった。 そこにはバンド・エイドの中心人物ボブ・ゲルドフの顔も含まれていた。 普段は高額な出演料や印税をもらっている総勢45人のトップスターが、エチオピア難民救済のためにノーギャラで集結したのだ。 【参加アーティスト(五十音順)】 アル・ジャロウ ウィリー・ネルソン ウェイロン・ジェニングス キム・カーンズ クインシー・ジョーンズ(プロデューサー及び指揮) ケニー・ロギンス ケニー・ロジャース ジェフリー・オズボーン ジェームス・イングラム ジャッキー・ジャクソン シンディ・ローパー シーラ・E スティーヴィー・ワンダー スティーブ・ペリー スモーキー・ロビンソン ダイアナ・ロス ダリル・ホール&ジョン・オーツ ダン・エイクロイド ディオンヌ・ワーウィック ティト・ジャクソン ティナ・ターナー ハリー・ベラフォンテ ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース ビリー・ジョエル ブルース・スプリングスティーン ベット・ミドラー ポインター・シスターズ ボブ・ゲルドフ ボブ・ディラン ポール・サイモン マイケル・ジャクソン マーロン・ジャクソン ライオネル・リッチー ラトーヤ・ジャクソン ランディ・ジ..
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マヘリア・ジャクソンを偲んで〜浅川マキも心酔したゴスペルの女王

まず…浅川マキが著書に残した言葉をご紹介します。 この体験をした当時、彼女はまだ29歳だったという。 1971年4月、60歳を迎えたゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンが日本(渋谷公会堂)にやって来た。 記者や評論家の質問に対して彼女はこう言った。 「どうか、難しいことは聞かないでください。ただ私の歌を聴いて下さい。」 そしてこう付け加えて笑ったという。 「歌っている時、私の胸の中は空っぽなんです。」 10年前、初めてマヘリアのレコードを手にした時、その魂の歌は、ひどく私をがんばらせてくれた。 またある時は心を洗ってくれた。 しかし、生活に疲れはじめた頃…ひどく私の体の中を犯してきたのは、ビリー・ホリデイだった。 だからこの10年間、私はマヘリア・ジャクソンとビリー・ホリデイの間を揺れていたのかもしれない。 60歳になって日本にやって来たマヘリアがやはり偉大であったのを思えば、ビリー・ホリデイは最後まで“街の歌手”であったのだろう。 その時、マヘリアと写真を撮ったのだけれども、英語のよくわからない私は、ただ一言だけ口にした。 「おっかさん…」 マヘリアは喜んで私を抱きしめてくれた。 マヘリア・ジャクソン。 アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手だ。 1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、黒人、クリオール人(フランスもしくはスペイン系の移民)、イタリア人たちが共に暮す貧しい環境で育ちながら教会で歌い始める。 16歳の若さで単身シカゴへ移り住み、ゴスペルグループ“ジョンソン・ブラザーズ”のメンバーとして音楽キャリアをスタートさせる。 1937年、26歳にしてソロ名義で初の音源をリリースするが…売上は芳しくなかった。しかしこのレコーディングを切掛けに、音楽関係者たちから実力を認められるようになる。 その後はコンサート活動に専念し、暫くレコーディング活動から離れるが、1946年 (当時35歳)にアポロレコードと契約し、幾つかの音源作品をリリースする中、1948年に発表した楽曲「Move on up a Little Higher」のヒットによって(デビュー来初めて)商業的な成功を収めることとなる。 その後、アメリカだけにとどまらずヨーロッパでも知名度を上げながら、自身のラジオ番組を持つまでになる..
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Where have all the flowers gone?花はどこへ行った〜ピート・シーガーが思い描いた“理想の世界”とは?

この「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」は“アメリカンフォークの父”と呼ばれた男、ピート・シーガーの代表作であり、反戦歌として広く知られている。 1955年にシーガーが作詞作曲したもので、ロシアの作家ミハイル・ショーロホフの小説『静かなドン』で引用されているコサック民謡の歌詞にヒントを得たのだという。 あしの葉はどこへいったの?少女たちが刈り取った 少女たちはどこへいったの?少女たちは嫁いでいった どんな男に嫁いでいったの?ドン川のコサックに そのコサックたちはどこへいったの?戦争へいった 当時、シーガーはこの部分を読んで心を動かされ、飛行機の中で20分ほどで曲を書き上げたという。 コサック民謡を下敷きにしたその歌詞は当初3番までしかなかった。 花はどこへ行ったの?長い時を経て 花はどこへ行ったの?長い時が流れて 花はどこへ行ったの?少女達がみんな摘んでいってしまった 人々はいつになればそれを理解するのだろう… シーガーは1960年に発表した自身のアルバム『Rainbow Quest』に収録したメドレーの中で、この歌を初めて録音する。 それからしばらくの間、シーガーはこの歌のことを忘れていたという。 そのまま埋もれてしまう運命だったこの歌は、ジョー・ヒッカーソンという男によって新たな命を吹き込まれることとなる。 アメリカの民族音楽研究家・収集家で作詞家でもあったヒッカーソンは、この歌と出会ったとき、不思議な魅力と共に、何か物足りなさを感じたという。 「歌詞が3番までで終わってしまうのはもったいない。その先の物語を少し書き足してみたい。」 あの兵士はどこへ行ったの?長い時を経て あの兵士はどこへ行ったの?長い時が流れて その墓場はどうなったの?長い時を経て その墓場はどうなったの?花畑になった 花はどこへ行ったの?長い時を経て 花はどこへ行ったの?少女達がみんな摘んでいってしまった 人々はいつになればそれを学ぶのだろう… ヒッカーソンは、花→少女→若者→兵士→墓地→花というように、花で始まり一回りして花に戻って終わるような歌詞を書き加えた。 書き加えられた歌詞を読んだシーガーもその出来映えを気に入り、ヒッカーソンを“共作者”として認めて1961年に著作権を登録し直したという。 同曲はその後、キングストン・ト..
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テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (後編)

カントリー美女企画の後編ということで、グループ/デュオから厳選した9名をご紹介します。なお、前編のソロシンガーを見逃した方は、こちらをクリックしてください。 テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (前編) 美女をきっかけに楽しむカントリー音楽の世界。それでは旅の後半がスタートです。お気に入りのアーティストに出逢うとともに、これをきっかけにカントリーに対するイメージを一新することになるかもしれません。 *このコラムは2014年10月17日に公開されたもので、各アーティストのプロフィールは当時のものです。 ①Cheyenne Kimball / シャイアン・キンボール(24歳・テキサス州) シャイアン(写真左)は2006年、わずか15歳の時にロックアルバムでソロデビュー。その後、男女混成グループのGloriana(グロリアーナ)に2008〜2011年まで在籍。実はレイチェル(写真右)もかなりの美女! 爽やかなカントリーコーラスが印象的。 ②Hillary Scott / ヒラリー・スコット(28歳・テネシー州) 2010年にリリースした『Need You Now』がベストセラー(全米/カントリーチャートともに1位)。タイトル曲などでグラミー賞7冠に輝いたLady Antebellum(レディ・アンテベラム)のメンバー。現在のカントリー界で男女混成グループでは最も有名で人気がある。 ③Meghan Linsey / ミーガン・リンジー(30歳・ルイジアナ州) 婚約者ジョシュアとのデュオ、Steel Magnolia(スティール・マグノリア)として2011年にリリースしたデビューアルバムがいきなりヒット(全米7位/カントリー3位)。しかし相手の薬物中毒が原因で2013年に解消・解散。現在はソロ活動中。 ④Michelle Branch / ミシェル・ブランチ(31歳・アリゾナ州) 2001年に17歳でメジャーデビュー。ギターをかき鳴らすその姿は2000年代ロックのトキメキだった。そして2004年にはジェシカ・ハープとカントリーデュオ、The Wreckers(ザ・レッカーズ)としても活動。アルバムを1枚リリースした。ソロ作での復活が待望される。 ⑤Kimberly Perry / キンバリー・ペリー(31歳・ミシシッピ州) 3人姉弟で構成..
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大阪で生まれた女〜30分を超える歌物語をヒット曲に導いたのはロック界の大物だった!

1979年、当時25歳だったBOROはシングル「大阪で生まれた女」で歌手デビューを果たす。 きっと50代から60代の大阪人にとっては、今でも思い入れの強い楽曲の一つだろう。 オリジナルの歌詞が18番まである曲で、まともに歌うと30分を超える大作としても知られている。 1番から16番までに男女の恋物語が綴られ、最後の17番と18番ではBOROの人生観が語られている。 当時シングル盤にされたバージョンは、その中でも情景描写が秀逸な4番と6番の歌詞を中心に構成されていた。 ♪「大阪で生まれた女」/BORO 踊り疲れたディスコの帰り これで青春も終わりかなとつぶやいて あなたの肩をながめながら やせたなと思ったら泣けてきた BORO(ボロ)という名前の由来は、幼少の頃にオンボロ自転車を乗っていて付けられたニックネームだった。 それは70年代の中頃のことだった。 当時まだ20代前半だった彼は、北新地の夜の盛り場でギター1本で弾き語りをしながら歌手デビューを夢ていた。 「大阪の若い人が歌える今風の歌がない」 客席からのそんなリクエストに応えて、彼はこの歌を紡いだのだという。  ちょうどその頃、彼は内田裕也に才能を見いだされる。 たまたま彼が弾き語りをしていた酒場に、内田が現れたのが1977年の暮れのことだった。 その夜も彼は酔客あいてに「大阪で生まれた女」を歌っていた。 内田はステージを見て直ぐさま「いける」と確信し、さっそく歌手BOROのデビューを画策し始める。 フォークでもロックでもないこの楽曲を、内田はこんな風に表現したという。 「ストリートミュージックだよ!あるいは関西人にしか作れないブルースだね!」 この楽曲と歌手BOROを売り出すにあたって、内田はある戦略を立てる。 それは、同じ歌を東西で二人の歌手に唄わせるという斬新なものだった。 一人はもちろんBORO。 そしてもう一人、内田が白羽の矢を立てたのが“ショーケン”こと萩原健一だった。 テンプターズで一世を風靡した萩原は、当時すでに俳優に転身しテレビや映画を通じて人気沸騰中の頃だった。 1979年の5月にショーケンのバージョンを、そして8月にBOROのデビューシングルとして同曲の連続リリースを実現させたのだ。 内田の思惑通り、相乗効果もあって曲は見事にヒットし、長きに渡って愛されつづける“大阪の歌”となっ..
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HARRY(ザ・ストリート・スライダース)27歳〜その音楽ルーツ、作曲スタイル、日本語で歌うことへのこだわり

HARRYこと村越弘明は、1980年代〜90年代の日本のロックシーンにおいて大きな足跡を残した伝説の4人組THE STREET SLIDERS(ザ・ストリート・スライダーズ)のヴォーカル&ギターであり、バンドにおいて大半の楽曲を作詞作曲した男だ。 彼は27歳の時に、ある意味バンドの黄金期とも言えるブレイクポイントを迎え、初の武道館公演“天国と地獄”を目前にしていた。 12inchシングル「Back To Back」(’86.06.21)、7th シングル「Special Women」(’86.11.01)、8th シングル「Boys Jump The Midnight 」(’87.01.21)を立て続けにヒットさせ、5作目となるアルバム『天使たち』(’86.11.21)を引っ提げて多忙な時期を過ごしていた。 1983年のデビュー以降、バンドのフロントマンとして独自のロックンロールスタイルでシーンを切り拓いてきた彼は、ちょうどこの時期に出版された『夢の跡/ザ・ストリート・スライダーズ』のインタビューで、当時の心境を不器用ながらも丁寧に語っている。 「将来のことなんてわからない。考える気にもならないし、先のことを想像するなんて退屈でたまんない。」 デビュー以来、雑誌のインタビューやラジオ・テレビ番組では“ほとんど喋らない”姿勢を貫いてきた彼が、その本の中では(珍しく!?)音楽を始めたきっかけやロックと出会ったときのことを口にしていた。 「音楽を始めたきっかけはギター。理由はよく憶えてないけど…とにかくバンドが好きだった。それも歌じゃなくてギターね。歌はあんまり自分にできそうもなかったし(笑)なんてのかな…バンドの真ん中に立ってマイクを持って歌うってのは考えらんなかった。」 彼はロックと出会った当初、ビートルズやローリング・ストーンズ、そしてヴェルヴエット・アンダーグラウンド、ドアーズ、Tレックスなどに熱狂していた。 「俺の場合は動機が軽くてさ(笑)ただカッコイって思ったんだよ。特にスリーコードの曲とか。」 曲を書くのが昔から好きだったという彼は、作曲についてこんな持論があるのだという。 「ホイホイできちゃうのって、あんまり愛着がねぇじゃん。こんなの誰でも書けるじゃねぇのとかさ。だから、いいリフなんか頂戴してきてくっつけても、俺は全然嬉しくもなんともないんだ..
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テイラーやケイティだけじゃない! ロックとポップの美女図鑑(60~80年代・後編)

以前、【テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち】という企画を配信しましたが、たいへん好評で今でも多くの方々に閲覧されています。加えて、ロック/ポップ分野での美女企画もぜひ!というリクエストもあり、今回はまず、1960〜80年代の美女アーティストを前編・後編に分けてお届けすることにしました。 本日はその後編です。 前編はこちらから。 *なるべく多くの美女を紹介したいので、20部門(前後編それぞれ10部門ずつ)を設けました。 *90〜10年代の美女については機会を改めて取り上げる予定です。 *本企画は昔と現在の容姿を比べるような主旨ではありません。 【グループ部門】 Wilson Phillips / ウィルソン・フィリップス チャイナ・フィリップス、カーニー・ウィルソン、ウェンディ・ウイルソンの3人組によるその名もウィルソン・フィリップス。チャイナはママス&パパスのジョンとミシェル・フィリップス(こちらも美女)を両親に、カーニーとウェンディはビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを父に持つ。親譲りのコーラスワークと西海岸の風が満載のデビューアルバムからはナンバーワンヒットを連発。同時期にはエクスポゼなどの女性グループの活躍が全盛期。 【バンド部門】 The Go-Go’s / ゴーゴーズ ガールズ・ロック・バンドの先駆けと言えば、ジョーン・ジェットやリタ・フォードが在籍したランナウェイズ。彼女たちの成功と苦悩の後に登場したのが、ベリンダ・カーライルやジェーン・ウィードリン率いるゴーゴーズだった。やんちゃなイメージのバンドは、やがて各々のソロ活動で大人の女性へと成長を遂げる(美しさにも磨きがかかる)。そしてバングルスも忘れられない。ヘヴィ・メタル・シーンではガールスクールやロック・ゴッテスもいた。 【スクリーン部門】 Patsy Kensit /パッツィ・ケンジット(エイス・ワンダー) もともと子役としてイギリスで活躍していたパッツィが兄のバンド、エイス・ワンダーのヴォーカリストとして加入してヒットを放ったのが86年。そのルックスからブリジット・バルドーの再来とも形容され、日本でもアイドル化したこともあった。モッズの台頭を描いたミュージカル映画『ビギナーズ』(86年)にも主演して話題に。 【60年代ガールポップ部門】 The Shang..
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ひこうき雲〜ユーミンの才能を世に知らしめるきっかけとなった“稀代の名曲”の誕生エピソード

僕がユーミンと知り合ったのは、まだ彼女が中学生のころでした。 新宿の『ACB』や池袋の『ドラム』といった都内のジャズ喫茶でよく話をしました。出会ったころのユーミンはショートカットでニキビがいっぱいあって、女性というより、面白い女の子という印象でしたね。 彼女は昔から音楽に詳しくて、立川や横田の米軍基地にあるPX(売店)に入り浸っては海外の最新レコードを仕入れていた。 レッド・ツェッペリンを僕に教えてくれたのも彼女でした。 僕が彼女を“ユーミン”の愛称で呼び始めたのも、この頃からでしたね。(シー・ユ―・チェン/“ユーミン”という愛称の名付け親) 空に 憧れて 空を かけてゆく あの子の命は ひこうき雲 今日は“ユーミン”こと松任谷由実(荒井由実)の67歳の誕生日にちなんで、これまでの足跡と稀代の名曲「ひこうき雲」の誕生エピソードをご紹介します。 ──1954年、老舗の呉服屋の次女として生まれた彼女は6歳でピアノを習い始めた。 幼い頃から聖歌隊にも所属し、バッハやヘンデルに親しんでいた音楽好きな少女だった。 早熟なところもあり、中学生時代には学校が終わると六本木のディスコに通い、朝まで踊り続けていたという。 そんな夜遊びを通じて、かまやつひろしや細野晴臣やなど大勢のミュージシャンと出会い、彼らの影響から自らも曲を作るようになる。 1969年、それは彼女がまだ15歳の頃の出来事だった。 タイガースのメンバーだった加橋かつみがロックミュージカル『ヘアー』に出演中、仲間から「愛は突然に」という曲を紹介される。 彼はすぐにその曲が気に入り、自身のシングル曲としてリリース。 実はこの歌こそ、ユーミンが14歳の時に作詞作曲したものだった。 以来、彼女はミュージシャンの間で“天才少女作曲家”として知られるようになる。 彼女の荒井由実時代やYMOを手掛けた音楽プロデューサー(作曲家)の村井邦彦は、当時のことをこう振り返る。 僕が初めてユーミンの曲を聴いたのは、彼女がデビューする2年くらい前でした。 当時、僕は元ザ・タイガースの加橋かつみさんに曲を提供していて、彼のレコーディングに立ち会ったんです。 すると、僕の曲の前に録音していた曲がすごく良かった。 それで加橋さんに「誰が提供した曲なの?」と聞くと「由実という女の子」というので、すぐに紹介してもらったんです。 初対面の彼女はまだ高..
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ジミ・ヘンドリックスのFirst Step〜たった5ドルの中古エレキギター、陸軍時代に出会った相棒ビリー・コックス

ジミがエレキギターと出会ったのは12歳だった。 友達の影響でB.B.キングやエルモア・ジェイムスといったブルースを耳にするようになり、当時アメリカ中の若者を熱狂させていたエルヴィス・プレスリーに夢中になっていた時期だった。 ギターを持っていた友人の家に集まり、みんながカードゲームで盛り上がっている時間に、ジミはそっとギターを玄関ポーチに持ち出していじくっていたという。 当時のことをジミ本人が語った記録が残っている。 「どうやって弦を張り替えていいのかもわからなかったんだ。僕は左ききだったから、全然しっくりこなかったよ。弾き真似のようなことをしていても“何だか変だな”と思っていたんだ。ある晩、父親がアパートの大家の息子から古いギターを5ドルで買い取って僕にくれたんだ。」 弦の張り方も覚え、ギターの魅力に取り憑かれていった彼は、ありとあらゆるものから音楽を吸収していった。 レコード、ラジオ、テレビのアニメなどのBGMや効果音も熱心にコピーしていた。 15歳になったジミは、アマチュアバンドで経験を積み、ギターの腕を磨いていった。 しかし…その後、彼は自動車窃盗の罪で逮捕される。 その際、投獄されるのを回避するために陸軍に志願して入隊。 第101空挺部隊(スクリーミング・イーグル)へと配属されることとなる。 「16歳で学校を中退して暇を持てあましてたし、俺が生まれ育ったシアトルの町では面白いことなんてなんにもなかった。法的に入隊が許可される17歳になるのを待って陸軍に志願したんだ。そしたら驚くべきことに、軍人生活の方がずっとつまんなかった!」 ジミはそこで黒人ベーシストのビリー・コックス(一等兵)と出会う。 すぐに意気投合した二人は、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあった。 当時はベトナム戦争が開戦したばかりの時期だったが、ジミもビリーもベトナムの戦地に行くことはなかった。 ビリー・コックスはジミとの初めての出会いを鮮明に憶えていた。 「1961年11月のある雨の日だったよ。土砂降りだったから俺は基地内にあるサービスクラブで雨宿りをしていたんだ。誰かがギターを弾いてる音が聴こえてきた。建物の奥には音楽室があって、俺は音に導かれるように入っていった。そこに赤いギターを持った痩せぎすの青年がいたんだ。彼が弾くギターの音色は、まるでベートーヴェンとジョン・リー..
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テイラーやケイティだけじゃない! ロックとポップの美女図鑑(60〜80年代・前編)

以前、【テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち】という企画を配信しましたが、たいへん好評で今でも多くの方々に閲覧されています。加えて、ロック/ポップ分野での美女企画もぜひ!というリクエストもあり、今回はまず、1960〜80年代の美女アーティストを前編・後編に分けてお届けすることにしました。 思えば、音楽そのものやアーティストの魅力だけでなく、ヒット曲の数やジャケ買いといったものを入口に、音楽探求の旅を楽しんでいた人も多いはず。中でも美女入り(きっかけ)には心ときめくものがありました。音楽雑誌のページを切り取ったり、アルバムを予約して特典ポスターをもらったり。 90年代以降は女性アーティストの数や活躍が向上し、彼女たちに対する評価も高まりましたが、60〜70年代のロックシーンに至ってはまだまだその存在は珍しく、80年代のMTV時代になってようやく溶け込んだような気がします。 ここで取り上げた美女たちはルックスだけでなく、その音楽も魅力的です。あのアーティストが入っていない!など個人的な思い入れもあるかもしれませんが、壮大な音楽探求を歩み始めたばかりの人たちにとっては、旅のどこかで必ずめぐり会う美女たちに間違いないでしょう。 後編はこちらから *なるべく多くの美女を紹介したいので、20部門(前後編それぞれ10部門ずつ)を設けました。 *90〜10年代の美女については機会を改めて取り上げる予定です。 *本企画は昔と現在の容姿を比べるような主旨ではありません。 【歌姫部門】 Stevie Nicks / スティーヴィー・ニックス(フリートウッド・マック) ロック界の妖精と形容されつつハスキーな声とのギャップもあって、70年代半ば〜80年代半ばに人気の高かったスティーヴィー。75年に恋人のリンジー・バッキンガムとフリートウッド・マックに加入。直後、バンドは世界的成功を収める。81年にソロデビュー。男たちを従えて女たちと歌い進むステージでの姿は、ロックの伝説的瞬間の一つ。この部門にはオリビア・ニュートン・ジョンやシーナ・イーストンも該当。 【ギタリスト部門】 Nancy Wilson /ナンシー・ウィルソン(ハート) ハートは姉アン(ジャケット写真左)と妹ナンシー(右)の二大看板によるハードロック・バンド。レッド・ツェッペリンのフォロワー的存在を経て..
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