2022-01

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テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (前編)

世界で最も影響力のあるスターの一人、テイラー・スウィフトがカントリー歌手だという事実。東京でも渋谷や原宿あたりに行けば、彼女のファッションやヘアメイクを真似る「テイラー女子」を多数見かけることができる。こんなこと、数年前までなら考えられなかったことだ。 あるいはカントリー界のスーパースター、ガース・ブルックスがエルヴィス・プレスリーと同じだけ本国でCD/レコード枚数を売り上げていること。シャニア・トゥエインのアルバムは女性アーティストの中で最も高いセールスを誇っていることもまた事実。 日本でカントリー・ミュージックの動向を追いかけている人は正直多くない。しかし、アメリカやカナダでは最も人気のある音楽ジャンルとして確立されているカントリーは、そのへんのロックやヒップホップやクラブ系より格段にクールで心地良くて、しかもヴィジュアル性も高い。 「馬にまたがって西部開拓」みたいな昔のハリウッドが都合良く作り上げたウエスタン映画や日本の演歌のような世界を未だにタグ付けたりする人もたまにいるが、これらは間違いとそろそろ気づいてほしい。 音楽探究心がある人であれば、カントリーがなければロックは生まれなかったこと、そもそもアイルランド系の移民音楽がルーツにあることくらいは知っているだろう。カントリーの原点であるアパラチアのマウンテン・ミュージックやブルーグラスは、ハイロンサムな心の風景を歌った移民たちのブルースに他ならなかった(*興味のある方は最下段に関連コラムリストを並べたのでぜひ読んでみてください)。 さて、それではカントリー美女を巡る短い旅のスタートです。今回の前編では厳選されたソロシンガー9名をご紹介。お気に入りのアーティストに出逢うとともに、これをきっかけにカントリーに対するイメージを一新することになるかもしれません。 *後編はグループ/デュオからの美女たちです。こちらをクリックしてください。 テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (後編) *このコラムは2014年10月16日に公開されたもので、各アーティストのプロフィールは当時のものです。 ①Taylor Swift / テイラー・スウィフト(24歳・ペンシルベニア州) まずは今旬の彼女から。2006年のデビュー以来、リリースするアルバムすべてが大ヒット。ソーシャルメディアも駆使する世界的な..
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【ちょいムズ】2枚の違いを見つけ出せ! #間違い探しinパリ

目を凝らしてよ〜く見てみてね! View Entire Post ›
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ファンダンゴ〜観る者の心に“小さな宝物”が届けられる青春ロードムービーの傑作

年末年始の深夜帯になると、だらだらとTVを観ていてそのまま眠ったり、いつの間にか朝の眩しい光を浴びていたり、そんな経験をしたことがある人は多いと思う。でもこれは「TV離れ」とはまだ縁がなかった1980年代〜90年代の頃の話。この時代に青春期を過ごした人なら、きっとたまたまやっていた「洋画」が意外に面白かったり、自分と同世代を描いた「青春映画」にけっこう感動した夜もあったはずだ。 劇場までわざわざ出向かなかったタイトルや存在さえ知らなかったタイトルが、数年後にはTVでひっそりと深夜放映(もしくはビデオ化)されている。何の知識も期待もないのに、思わず最後まで付き合った映画がたくさんある。こうした時間はその場限りの快楽に思えるが、大人になって仕事や家庭を持つようになると、それは実は「特別な体験」だったことに気づく。 『ファンダンゴ』(FANDANGO/1985)も、深夜放映されていたら思わず最後まで見てしまう青春ロードムービーだった。無名時代のケビン・コスナーが見られるという点でも大いに興味が沸くが、オープニングのパーティやキャデラックの路上シーンには「これはこのまま観るべきだ!」と思わせしまう何かがあった。そして馬鹿騒ぎが続いていく中で、最後になって心に小さな宝物が届けられた。 監督は本作が長編デビューとなるケビン・レイノルズ。スティーブン・スピルバーグによるアンブリン・エンターテイメントの第1回作品。はっきり言ってB級の出来栄え。しかし、だからこそのリアリティと情熱がある。青春映画はそれでいいのだ。ロケはテキサス州やオクラホマ州で行われ、ケビン・コスナーの初主演作となった。 1971年、テキサスのとある大学の寮内で卒業パーティが行なわれている。仲の良いグルーバーズの5人組にとっては、結婚を控えた仲間の一人の独身最後を祝うパーティでもある。だが時代はベトナム戦争の最中。招集を原因に結婚中止が宣言されると、リーダー格のカードナー(ケビン・コスナー)は他の4人を強引に連れて、バカ騒ぎ(ファンダンゴ)の旅へと出ることにした。就職、結婚、徴兵と、みんなが変わってしまう前に。 テキサスの道を猛スピードで走るキャデラック。「メキシコ国境でDOM(ドム)に会いに行く」ことが目的だ。途中ガス欠でなす術もなくなって無謀な試みをしたり、墓場で花火合戦に興じたり、危ないパラシュート体験をした..
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プロコル・ハルムの名曲「青い影」にまつわるいくつかの逸話

ビートルズが伝説の名盤『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表した1967年、同じイギリスで一曲の名曲が誕生した。 ゆったりとしたスケールの大きなメロディーと、印象的なオルガンのフレーズは、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないだろうか?  日本では一般的に「青い影」のタイトルで知られているこの「A Whiter Shade of Pale」は、イギリスのロックバンド、プロコル・ハルムのデビュー曲として1967年5月12日にリリースされたのが初出。 発売からわずか2週間で38万枚を売り上げ、イギリスのヒットチャートで6週連続1位を記録したヒットソングである。 この記録は、あのビートルズでさえもなし得なかったという。 瞬く間にフランス、オランダ、スイス、ベルギーをも席巻し、アメリカでは5位、もちろん日本でも大ヒットとなった。 この曲がレコーディングされた当時、すでにマルチトラックが発達し、ステレオ録音も一般的に行われていたが…あえて“モノラル風”の録音・ミックスが施されたという。 生前ジョン・レノンは、この曲をお気に入りの一つとして挙げており「人生でベスト3に入る曲」「今の音楽業界でこの曲以外は聴く価値がない」とまで語っていたという。 また、このメロディーは日本のアーティストにも大きな影響を与えており、松任谷由実はこの曲をきっかけに音楽を自作するようになったという。 山下達郎も当時ラジオでこの曲を聴いて、すぐさまレコードショップへと走り「購入したその日のうちに100回は聴いた」と語っている。 1966年、バンドの中心メンバーでボーカルとピアノを担当するゲイリー・ブルッカーが、キース・リードという詩人と意気投合したことから、プロコル・ハルムは誕生した。 ロックの潮流がサイケデリックからプログレッシブ、アートロックへと流れる中、歌詞も難解で哲学的なものが好まれており、キング・クリムゾンにはピート・シンフィールドという詩人が存在し、クリームの歌詞はピーター・ブラウンという詩人が書いていた。 そんな時代に、ゲイリーとキースはロンドン近郊の田舎町バッキンガムシャーの山中にこもり“クラシックの要素を取り入れた荘厳なロック”をコンセプトに曲作りを行なったという。 そこに、音楽学校でクラシックを学んだマシュー・フィッシャー(オルガン)が..
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受験生ブルース〜日本のフォークソングの源流を創った男、高石ともやの偉大な足跡

この歌の原作者は中川五郎。 訳詞家としてボブ・ディランのすべての楽曲の歌詞を翻訳しているほか、フォークシンガー、翻訳家、小説家としても活動する人物だ。 かつて“関西プロテストフォークの旗手”といわれた彼がこの歌を創作したのは1967年(当時18歳・高校3年生)だった。 「夏休みの補修授業中、日本史の講義になんとなく身が入らずにボヤっとしいた時でした。その当時よく大阪のフォークソング集会で歌われていた炭坑街のブルース(ボブ・ディランの“North Country Blues”に日本語の歌詞を乗せた替え歌)のメロディーにのせて突然言葉が浮かんできたんです。僕は授業に使われていたプリントの裏に一節を書き始め…それにつられてスラスラと瞬く間に12番まで作ってしまったんです。」 曲のタイトルは歌詞の内容通り、ズバリ「受験生ブルース」とした。 翌1968年から中川はステージで歌い始めるが、曲調が暗過ぎたのか…当時はあまりウケなかったという。 中川が歌うその曲を聴いて「これは面白い!」と、気に入った男がいた。 当時、すでに関西フォークシーンで活躍していた高石ともや(本名・尻石友也)は、自分のコンサートでも「受験生ブルース」を取り上げるようになる。 高石は北海道で生まれ、地元の高校を卒業した後、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学をする。 学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や、大阪の釜ヶ崎で土木作業員、屋台のラーメン屋などをやりつつ、ピート・シーガーやボブ・ディランらの歌を訳してフォークソングを歌い始める。 1966年、大阪YMCAキャンプで歌ったのが“初めて人前で歌う経験”だったという。 “生活の中から生まれる歌” 関西フォークの原点とも言えるそんな考え方は彼から始まったのだ。 彼のステージを見て感動し、ギターを持ち始めたのが中川五郎であり、後に“フォークの神様”とよばれた岡林信康だった。 そんな高石が、この「受験生ブルース」を自分が歌うにあたってメロディーを作り直したのだ。 「当時、五郎が作っていたメロディーは、ゆっくりと足を引きずるような三拍子の短調で暗いイメージがあったんです。これでは広まりにくいと思ったのでC調の二拍子にしたんです。」 軽快なメロディーに編曲された「受験生ブルース」は、高石のコンサートでたちまち人気の曲となる。 それにいち早く目をつけたビクターレ..
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ミスター・ノーバディ〜「もしあの時、あの選択をしていたら」を描く切ない愛の物語

もしあの時、帰ろうとするあの人に勇気を出して本当の気持ちを伝えていたなら…… もしあの時、あんなことを言わなければお互い傷つかないで別れずに済んだのに…… もしあの人と結婚していたら、今頃はどんな家庭や人生を送っていたのだろう?…… 時々、昔付き合っていた人や密かに想いを寄せていた人と無意識のうちに遭遇することがある。自分も相手も当時のままで今よりも若く、言動も場所もリアルに眩しく駆け巡る。二人とも笑顔が絶えない。でもどのシーンも断片的で儚く、何となくぼんやりと浮遊している……なぜならそこは夢の中の世界。自分が創り出した世界。そして目覚めると、何とも言えない感覚に包まれながら、今日という現実が始まっていく。 創作の世界では、この不思議な体験は「パラレルワールド」(同時並行世界)や「バタフライ効果」(些細な出来事の差が最終的には大きな結果の違いにつながる)といった手法を通じていくつかの作品が生み出されてきた。夢の中で理想の人生を送り続けているだけなのか。それともどこか違う世界で実際に別の人生が展開されているのか。心に傷を負ったことがある人なら、きっと共感することができる永遠不滅のテーマだ。 『ミスター・ノーバディ』(Mr.Nobody/2009)はそんな世界を描いた映画。あの時、あの選択をしていたらどうなっていたのか。運命の女性たちとその後どんなことになっていたのか。壮大なスケールと映像美に圧倒される奇跡の139分間。 監督はベルギー人のジャコ・ヴァン・ドルマル。『トト・ザ・ヒーロー』(1991)や『八日目』(1996)に続く3作目で、脚本執筆に6年も費やしたという13年ぶりの新作。フランス・ドイツ・カナダ・ベルギー合作映画で、ハリウッド資本は入っていない。主人公を演じるのは演技力に評価が高いジャレッド・レト。英国の映像作家ジュリアン・テンプルの娘、ジュノー・テンプルも魅力的な存在感を放つ。 二つの選択からは、無数の可能性が広がっている。枝葉のような広がりがある。この脚本でそういう限りのない可能性から生まれる計り知れない裂け目、深淵を感じ取れるようにしたかった。 また、この映画には3人の女性が登場する。一人は主人公の男を愛し、彼女も彼を愛している。次の一人は彼が愛しているのに、彼女は彼を愛していない。そしてもう一人は彼を愛しているのに、彼は彼女を愛していない。 監..
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Luka〜スザンヌ・ヴェガが紡いだ幼児虐待をテーマにした名曲

2016年4月21日に急逝したプリンス。 彼の訃報を受けて、各界から悲しみの声と哀悼の言葉多く寄せられる中、スザンヌ・ヴェガが「プリンスからの手紙を見つけたわ」とツイートし手紙を写した写真を投稿した。 その手紙には“最愛のスザンヌへ”としつつ、こんな言葉が綴られていた。 「ルカは僕が長い間聴いてきた曲のなかで最も説得力のある曲だ。この曲を聴いたときに感じたことは言葉では言い表せない。君の事を心から神に感謝する。」 僕の名前はルカ ここの二階に住んでいるよ 君の部屋の上だよ 僕を見かけたことあるよね… もしも真夜中に もめ事とか喧嘩みたいな騒ぎ声が聞こえたとしても 「一体何があったの?」とか そんなの訊いて来ないでね とにかく無視してくれればいいから… この「Luka」はスザンヌ・ヴェガ(当時28歳)が1987年に発表した2ndアルバム『Solitude standing』に収録した曲で、後にシングルカットされ全米3位を記録するヒットソングとなった。 作詞作曲を手掛けたスザンヌは、あるインタビューで創作の経緯についてこんなことを語っている。 「曲のモデルとなったルカという名前の少年は、昔私が住んでいた家の近くで遊んでいた子供達の一人なの。他の子とはちょっと感じが違っていて…だけど実際にどういう子かは知らなかったわ。彼の顔と名前がずっと頭から離れなかったの。ある時、その“違い”が虐待という角度で見えてきはじめて…2時間で曲ができあがったわ。」 僕がのろまだからダメなんだよね… あまり大きな声は話さないように努力はしてるよ 僕が普通じゃないからいけないのかも 偉そうになんかしているつもりはないんだけど… カリフォルニア州サンタモニカで生まれたスザンヌは、生後数ヶ月の頃に母親に連れられニューヨークへ移り、多くの社会的問題を抱えた地域で幼少時代を送る。 母親の再婚相手がキューバ系で姓がヴェガであったため、その姓を名乗るようになる。9歳の頃から詩を紡ぐようになり、14歳の時にはすでに曲に乗せて歌詞を書いていたという。 その後、ラガーディア高校でモダンダンスを学びながらも、音楽へとのめり込んでゆく。 1977年に高校を卒業すると、コロンビア大学バーナードカレッジで英文学を学ぶ傍ら、 グリニッチヴィレッジの小さな劇場のステージに立つようになる。 そして1984年にレコード..
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Danny Boy〜アイルランドで生まれた珠玉のメロディーに込められた平和への願い

アイルランドの北西部に位置する港町、ロンドンデリーには“アイリッシュ”と呼ばれるケルト人の子孫が多く暮しているという。 この町名、350年ほど前までは単に“デリー”だった。 1618年に、この地に勢力をのばしたジェームズ一世がロンドンの名を冠にして“ロンドンデリー”と呼ばせるようにしたという。 イギリスにとって最初植民地となったアイルランドは、12世紀から800年間に渡って、その宗教と言語(ゲール語)に対して信じられないほどの差別と抑圧を受けた。 1800年頃になると、その地に暮す人々によって幾つもの民謡が生み出されるようになる。 それらは支配していたイギリス人が聴けば、ただの“愛の歌”に過ぎないが…アイルランド人たちにとっては別の意味も含ませた内容だったという。 17世紀頃から歌い継がれてきたこの「Londonderry Air(ロンドンデリーの歌)」も、そうした特別な歌の一つだった。 哀愁漂うメロディーが印象的なこの楽曲には作者のクレジットが存在しない。 19世紀にジミー・マッカリーという盲目のヴァイオリニスト(アイルランド人)が路上で演奏していたものを、ジェイン・ロスという女性の民謡収集家(アイルランド人)が聴き取って採譜したという。 ジェインは、その譜面を同じ収集家仲間のジョージ・ペトリに預け、その後、彼の編纂によって1855年発行の『The Ancient Music of Ireland(アイルランドの古代音楽)』に収録された。 この書物の中では無名の曲として紹介されていたが、注釈として“ロンドンデリーのジェイン・ロスの収集によるもの”とつけられていた。 この歌のタイトルにある“Air(エアー)”とは、独唱曲(詠唱曲)を意味する音楽用語らしく、歌い手が自由に歌詞をつけたり、バージョンを変えたりしながら歌われる楽曲のことを表す言葉なのだそうだ。 辛く悲しい運命に翻弄されながら…ケルト人たちは、このメロディーにさまざまな詞(ことば)をのせて子孫へと歌い継いできた。 現在でも数多くのタイトルと歌詞(バージョン)が存在する中、ダブリン生まれでアイルランドの文芸復興運動などでも活躍したアルフレッド・グレイブスという人物が編集した本『The Irish Song Book』(1894年出版)で、この歌に“成長して家を出て行った息子を想う母の気持ち”をのせて歌詞を完..
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Mr.ボー・ジャングルス〜サミー・デイヴィスJr.が実在した伝説のタップダンサーの姿を重ねながら歌った名曲

歌、ダンス、モノマネ、巧みなトーク、そしてトランペット、ドラム、ビブラフォンの演奏、映画やテレビでの演技など、様々な“芸”を極め「Mr.エンターテインメント」と称されたサミー・デイヴィスJr.。 1990年5月16日、彼は喉頭癌を患い64歳でこの世を去った。 そんな彼が40代からこの世を去るまでの約20年間、ステージで大切に歌った“一曲”がある。 その曲の名は『Mr.ボー・ジャングルス』。 ドサまわりをし、刑務所に入っていることも多く、ダンスのギャラとして酒と少しばかりのチップをねだる…歌いながらそんな老ダンサーの姿を演じてみせる彼のステージはまさに“至芸”と呼ぶにふさわしいものだった。 彼はこの曲を歌うときに、実在した伝説のタップダンサーの姿を重ねながら歌ったという。 その人物の名はビル・ロビンソン。 アメリカ最高のタップダンスの名人として名を馳せたビルは、1920年代から30年代にかけてボードヴィルショーや(アメリカ最初期の)黒人映画俳優として活躍した元祖エンターテイナーだった。 後に“タップの神様”と呼ばれたビルの誕生日(5月25日)は「National Tap Dance Day(タップダンスの日)」となっている。 彼はショーの一座で南部を回った ある日、涙しながら15年間の話をしてくれた 彼と愛犬がどんな旅をしてのか その犬が死んでしまって20年… 彼は哀しみ続けているんだ 彼は言った「俺は今どんな時でも機会があれば踊るぜ!」と 酔っ払い相手の安酒場で…はした金でも サミー・デイヴィスJr.の“十八番”として知られたこの歌、実は彼が歌うことを避けていた時期もあったのだという。 人気スターとして“落ちぶれた老ダンサー”を演じながら歌い踊っているうちは良いが、50歳を迎えた頃に体力的な衰えを感じるようになった彼は「今、自分が病気や事故にあって長いこと仕事を休むようになったなら、豪邸のローンなどでたちまち破産し、この老ダンサーのような境遇になってしまうだろう」という恐怖にとらわれていたというのだ。 そのため、しばらくは出来るだけこの曲を歌わずにすますようにしていたという。 逆に言えば、彼はそれほどこの曲に打ち込み、歌に出てくる老ダンサーと一体化するほど感情移入していたのかもしれない。 ボージャングルという男に会ったことがある ボロ靴で踊ってくれた 白髪まじ..
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ジェリー・マリガンを偲んで〜バリトンサックスを相棒に“ジャズ人生”を見事に全うした男の足跡

作家の村上春樹は著書の中でジェリー・マリガンについてこんな風に綴っている。 たしかレコードジャケットの写真で最初に彼の姿を目にしたとき、なんだかひどく眩しく感じたことを憶えている。 金髪をクールカットにした長身の青年──アイヴィースーツをばっちり着こなし、白いボタンダウンシャツに、黒の細身のニットタイという格好だった。 どことなく頑固そうな角張った顎と、若々しい淡いブルーの瞳。 手にはピカピカと光る巨大なバリトンサックス。 そこにあるすべてがスマートで、クリーンで、クールだった。 <引用元『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著> 彼の人生は決してスムーズなものではなかった。 むしろ他のミュージシャンよりも険しく、困難だったと言えるだろう。 麻薬、生活苦、精神的挫折…そして刑務所に入った経験もある。 しかし彼はバリトンサックスという楽器をパートナーとして、自身の人生を見事に全うした。 1996年1月20日、膝の外傷が元でコネチカット州ダリエンにて死去。68歳だった。 彼が長年愛用した金色のバリトンサックスは、現在、アメリカ議会図書館に保管されているという。 彼亡き後、ジャズファンたちはこんな風に評価している。 「もしもマリガンがいなかったら…ジャズ界におけるバリトンサックスの位置づけは変わっていたかもしれない」 ジャズ界では数少ないバリトンサックス奏者であり、ピアニストしても活躍した男、ジェリー・マリガン。 命日にあたる今日は、彼を偲んでその軌跡と功績を振り返ってみたいと思います。 ──1927年4月6日、彼はニューヨークのクイーンズ区で生まれる。 エリー鉄道に勤務していた父の仕事の都合で、幼い頃にオハイオ州のマリオンという街に移り住む。 10代で作曲活動をスタートさせ、18歳で参加したエリオット・ローレンス楽団を皮切りにジーン・クルーパ楽団、クロード・ソーンヒル楽団などでバリトンサックスと作編曲で活躍するようになる。 ソーンヒル楽団で知り合ったギル・エバンス(ユダヤ系カナダ人のジャズピアニスト・編曲者)との縁からマイルス・デイヴィスが1949年に発表した歴史的名盤『Birth Of The Cool(クールの誕生)』に参加。 彼は単なるプレイヤーにはとどまらず、ここでも作編曲の才能を見せて一躍その名を轟かせた。 1952年、25歳となった彼..
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