2022-01

未分類

ゴッドファーザー&サン〜BLUESがルーツ(根)でそれ以外はすべてフルーツ(果実)だ

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ゴッドファーザー&サン』(Godfathers And Sons/マーク・レヴィン監督)。マディ・ウォーターズを親玉とするシカゴ・ブルーズの全盛期とその舞台となったポーランド移民が設立したチェス・レコードの一族ドラマを通じて、ブルーズとヒップホップの画期的なコラボレーションが実現するドキュメントだ。 不可能と思えた試みが一気に現実的になった瞬間だった。それはヒップホップ・アーティストであり音楽研究家でもあるチャックD(パブリック・エナミー)が、チェス・レコードの2代目マーシャル・チェスに送った一通のeメール。 チェス一族の伝記を読みました。興味を持つようになったきっかけは、あなたがプロデュースしたマディ・ウォーターズの『Electric Mud』(1968)のブルーズ・ロック・アルバムでした。ブルーズとヒップホップを結びつける映画を作ると聞いて連絡したんです。手伝わせてください。 『Electric Mud』はサイケデリック時代を反映した実験的なブルーズで、発売当時は酷評された。マディ・ウォーターズが作ったアルバムと思えなかったからだ。だがそれは間違いだった。ヒップホップ世代の若者たちには革新的に聴こえたのだ。チェス・レコードが残した功績はブルーズやロックンロールだけではなかった。 マーシャル・チェスとチャックDは二つの音楽を結びつけるため、マディと一緒に『Electric Mud』を録音した伝説的なメンバーと再会。さらにシカゴ育ちのラッパー、コモンが加わって現代版『Electric Mud』を再編成する。そして新しい「Manish Boy」に取り組んでいく。 二つの音楽につながりがあるのは間違いない。ヒップホップはブルーズの子供だ。僕は本気で成長したかったら、絶対にルーツを知らなきゃだめだと思う。親のことを知ったり、自分の文化のことを知ったりするようなもので、そうすればその文化に誇りを持って、世界に広めていけるんだ。(コモン) ベー..
未分類

ロッド・スチュワート27歳〜True Blueに込めた自信と自嘲

1972年、ロッド・スチュワートはフェイセズに加入して3年目を迎えた。 1月10日生まれのロッドは、年明け早々に27歳になった。 当時、フェイセズは2ndアルバム『Long Player』のセールスを着実に上昇させながらアメリカツアーを終え、イギリスに戻ってきたばかりだった。 その頃のフェイセズの人気といえば、アメリカの2万席あるスタジアム公演が、ほんの数日間で売り切れるほどの人気だった。 フェイセズに加入してからのロッドは、バンドの活動と平行して、ソロシンガーとしてのアルバムもヒットチャートに叩き込む、まさに“二足のわらじ”をはくスター歌手だった。 この年、ロッドは4枚目のソロアルバム『Never a Dull Moment』を発表し、ソロアルバムとして前作にあたる『Every Picture Tells A Story』(1971年)に続き2作連続で全英アルバムチャート1位獲得を果たすこととなる。 そこにはボブ・ディランの「Mama You Been on My Mind」や、ジミ・ヘンドリックスの「Angel」、エタ・ジェイムズの持ち歌として有名な「I’d Rather Go Blind」、そしてロッド自身が敬愛して止まないソウルシンガー、サム・クックの「Twisting the Night Away」など、ジャンル・国籍・人種を超えた名曲たちが収録されていた。 この頃のロッドのカヴァー選曲、及びアレンジのセンス、そして何より歌唱のクオリティーは、後に更なる成功を遂げてゆく彼の音楽キャリアにおいて“最盛期”と言っても過言ではないくらいに優れている。 前作アルバムからのシングルカット曲「Maggie May」が大ヒットを記録して期待が高まる中、この『Never a Dull Moment』のオープニングナンバー「True Blue」はロッドと盟友ロン・ウッドによって共作された。 そして、この曲はソロとバンドの垣根を超えて、フェイセズの全メンバーが揃った編成でレコーディングされたという。 曲調もサウンドも“完璧”と言ってもいいほどに、当時の彼やバンドの充実振りがうかがえる一曲となっている。 興味深いのは、ロッドが綴った歌詞である。 そこには、彼自身の華々しい成功とかけ離れた感情、そして自分の“生い立ち(労働者階級)”への意識が描かれているかのようだった。 百万..
未分類

【難問】「ティアラ・王冠」だけを見て、どのディズニーキャラのか当てよ!

全問正解はティアラ・王冠、差し上げます👑 View Entire Post ›
未分類

デビルズ・ファイヤー〜“悪魔の音楽”と言われたBLUESの魔力とは?

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『デビルズ・ファイヤー』(Warming By The Devil’s Fire/チャールズ・バーネット監督)。“悪魔の炎で暖を取る”はシリーズ唯一のドラマ形式で、ミシシッピへやって来た11歳の少年がブルーズに取り憑かれた叔父と過ごす日々を通じて、ブルーズの真髄や黒人のアイデンティティに目覚めていくというもの。聖と俗の関係がこの作品のテーマ。 「ブルーズはあらゆる感情をカバーする。人がブルーズを聴くのは、それが本能との折り合いをつけさせてくれるからだ」と、ミシシッピで少年時代を過ごした監督のチャールズ・バーネットは言う。戦前ブルーズを取り巻く環境は、南部の人種差別、刑務所の強制労働、農園での重労働、搾取、貧困、暴力、犯罪、殺人、セックス、愛の喪失、放浪、死などが交錯する。 例えば、あのロバート・ジョンソンにギターを教えたことでも知られる伝説のミシシッピ・デルタ・ブルーズマン、サン・ハウスは、こんなことを言っている。 ブルーズは人が思うようなオモチャじゃない。最近の若い奴らは何でも素材にしてブルーズを作る。何とかブルーズとか。違うんだ。ブルーズは一つしかない。それが生まれるのは恋する男女の間だけだ。二人が愛し合っているはずの状態で、どちらか一人がもう一人を振る。愛を裏切る。何があってもおかしくない。心の問題だ。それがブルーズだ。人は孤独な気分からブルーズになる。一人寂しく腰を下ろし、頭を抱えて涙を流す。そんな荒んだ心がブルーズを生むんだ。 物語の舞台は1950年代。ブルーズは悪魔の音楽。最初は母親の教えに忠実でありながらも、叔父に連れられてその目でいろんな風景や人物──ミシシッピ川、叔父の女たち、盲目のブルーズマン、酒場、深夜の十字路、息子に会いに刑務所まで長い道のりを歩く老人──と接していくうちに、ブルーズに目覚めていく少年の姿と眼差しが忘れられない。 ブルーズに関する物語を執筆しているという叔父の汚い部屋は、ブルーズマンの切り抜きやSP盤..
未分類

デヴィッド・ボウイ 死を迎えるまでの日々

2016年1月10日、デヴィッド・ボウイが旅立った。 彼はその二日前の1月8日、69歳の誕生日に最新シングル「Lazarus」のミュージックビデオを公開したばかりだった。 同時発売されたアルバム『★(Blackstar)』は、発売一週目で14万6千枚(UK)18万1千枚(US)を売り上げ、「Lazarus」の動画はダウンロード数1千7百万に達した。 なんというタイミングなのだろう… 自らが演出したかのようなその死は、まさに“彼らしい”最期だった。 Lazarusとは聖書に登場するイエスが蘇生させたユダヤ人の男である。 このミュージックビデオに出てくる顔の覆いや白い服、そしてラストシーンでクローゼットの中に戻ってゆくボウイの姿は、洞穴に葬られたLazarusのイメージと重なってゆく… <新約聖書―ヨハネによる福音書11章・Lazarusの復活> http://art.pro.tok2.com/Bible/CLater/17Lazarus/17Lazarus.htm その死からさかのぼること9年… 2007年1月、彼は60歳の誕生日を迎えた。 妻のイマン・アブドゥルマジドによると、彼が誕生日を特別騒ぎ立てるようなことはなかったという。 「たぶん幸せだったからじゃないかしら。私たちはごくシンプルに家庭生活を送っていたわ。その頃、彼はもうアルコールも絶っていたし、日常的に運動もしていたわ。」 この年、彼はイギリスの人気俳優リッキー・ジャーヴェィスのTVドラマ『Extras(スターに近づけ!)』にゲストとしてカメオ出演した。 主人公のリッキーに“哀れな小太り男”の歌を弾き語るシーンは、同ドラマの全話の中で最も面白かったシーンとして批評家達に称賛されたという。 当時、彼は自分自身に起きた心臓発作や母親の死をめぐり、人は誰もがいつかは死ぬ運命にあると感じるようになっていた。 「終わりというのがおぼろげに姿を見せはじめているのを実感している。僕にはあとどれだけの人生が残されているのだろう?これ以上に悲しいことはないよ。妻や幼い子供、愛するものすべてといつかは別れを告げなければならないことがわかっているんだから…」 2010年、63歳になった彼はカリブ海に浮かぶセントルシア島に別荘を購入した。 その家は、ピトンの火山を望む最高のロケーションに建っていて、ボウイと妻イマンはその..
未分類

デヴィッド・ボウイを偲んで~センセーションとクリエイションを極めた男

2016年1月10日、デヴィッド・ボウイが旅立った。 日本時間では、1月11日15時30分に更新されたFacebookの公式アカウントで「18ヶ月におよぶ癌との勇敢な闘いの末、家族に見守られながら静かに死去しました」と告知された。 ボウイは1月8日、69歳の誕生日に通算25作目となるニュー・アルバム『★(Blackstar)』をリリースして、最新のミュージックビデオも公開されたばかりだった。 見上げてみな、俺はここ、天国にいる 俺には傷跡がある、見えないけど ドラマがある、決して奪えない 今や皆が俺を知っている 見上げてくれよ、もう死にそう 失うものなんてもう無い アルバム『★(Blackstar)』 の第2弾先行シングル「Lazarus(ラザロ)」は、1976年の映画『地球に落ちて来た男』でデヴィッド・ボウイが演じたホームシックの宇宙人、トーマス・ジェローム・ニュートンの目線で描かれているという。 “ラザロ”とは、聖書に登場するイエスが蘇生させたユダヤ人の男である。 このミュージックビデオに出てくる顔の覆いや白い服、そしてラストシーンでクローゼットの中に戻ってゆくボウイの姿は、洞穴に葬られたラザロのイメージと重なってゆく…。 <新約聖書―ヨハネによる福音書11章・ラザロの復活> http://art.pro.tok2.com/Bible/CLater/17Lazarus/17Lazarus.htm 1970年代初頭、ビートルズという一つのアイコンを失ったロンドンの若者たちは、新たなポップスターの出現を待望していた。 そして彼らが選んだのは、妖艶なメイクを顔に施し、ラメやスパンコール、孔雀の羽根などを身にまとう中性的な魅力に満ちたグラマラスで神秘的な男たちだった。 突如として出現した“彼ら”の姿は、かつてのビートルズのマッシュルームカットなどを“昔のもの”にしてしまう程のインパクトを持っていた。 ──デヴィッド・ボウイとマーク・ボラン。 共に1947年生まれのロンドンっ子である。 少年時代はエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードのロックンロールに夢中になり、ハイティーンの頃には映画『さらば青春の光』に登場する青年のごとく“スインギンロンドン”のお洒落なモッズで、両者ともこの頃から音楽活動をスタートしたという。 そのすぐ後に、ボブ・ディランやドノヴァンから影響..
未分類

夜の大捜査線〜アメリカ南部の相反する世界を“夜の熱気の中”で描いた歴史的名作

『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night/1967)を観るまで、実は随分と時間が掛かってしまった。もちろんアカデミー賞の作品賞にも輝いたこの映画の存在は知っていた。だが、邦題の影響もあって長らく敬遠してしまったのだ。そう、似たタイトルを持つあのテレビドラマ/テレビ映画の存在である。後者のイメージがこの素晴らしい映画を遠ざけていた。こんな理由でまだ手をつけていない人も意外と多いかもしれない。 いきなりオープニングの秀逸さにやられてしまった。南部の熱い夜に流れるレイ・チャールズが歌う「In the Heat of the Night」。これだけで何が始まるのか釘付けだ。本当のタイトルは『夜の熱気の中で』とすべきだろう。そして南部の汗のように全編に染み渡るクインシー・ジョーンズの音楽。原作となったジョン・ボールの同名小説はこんな書き出しで始まる。 午前2時50分。ウェルズの町はぐったりと暑気の中に沈潜していた。1万1千の住民の大部分はイライラと寝返りを打って、寝につく気にもなれない少数の人は、息詰まるような夜の空気を動かしてくれる微風の、かけらすらない空を恨んでいた。 主演は黒人映画俳優の先駆者シドニー・ポワチエ、そして本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得したロッド・スタイガーの二人。映画は単なるミステリーやサスペンスの枠を超え、「アメリカの重要な断面を捉えた鮮度の高い」社会派ドラマとして、公開当時大きな話題になったという。言うまでもなく、南部における白人の偏見と黒人への差別だ。 キング牧師が先導した公民権運動は、法の上では1964年7月に一応は成立した。だが“現場”ではそう簡単に新しいルールは始まるわけがない。『夜の大捜査線』はそんな時期に作られた。これは北部と南部、黒人と白人、都会と田舎、知性と感情、未来と過去といった二つの相反する世界、その間における微かな歩み寄りを描こうとした名作だ。 アメリカ南部、ミシシッピの田舎町。深夜、いつものようにカントリーソングを聴きながらパトカーで巡回していた警察官のサム(ウォーレン・オーツ)は、路上で男の死体を発見する。殺されたのは町の実業家ということもあり、署長のビル(ロッド・スタイガー)は犯人逮捕に躍起になる。 その頃、駅の待合室にはバージル(シドニー・ポワチエ)がいた。次の列車を乗り継ぐためにたまたま..
未分類

ロード・トゥ・メンフィス〜伝説のブルーズマンたちの帰郷

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ロード・トゥ・メンフィス』(The Road To Memphis/リチャード・ピアース監督)。テネシー州メンフィスのビール・ストリートを舞台にしたブルーズマンたちの物語だ。 ビール・ストリートとは、1920〜50年代にかけてストリート・ライヴや劇場でのショーが盛んだったメンフィスの黒人商業地区のメインストリートの名称。現在ではすっかり観光地化されて全盛期の面影はほとんどなくなったそうだが、それでもB.B.キングのクラブをはじめ、ブルーズ発祥の町として多くの音楽ファンを魅了し続けている。 映画はW・C・ハンディ賞での記念ステージを披露するために、この地が育んだブルーズマンたちが各地から帰郷してくる姿を描く。伝説の顔ぶれが同じフィルムに収まっている事実も凄いが、ロードムービー風の追いかけ方も秀逸な傑作となった。 駆け出しの頃のB.B.キングもこの通りに立ってブルーズを歌っていた一人。地元のラジオ局WDIAにDJ兼ミュージシャンとしての職を得ると、「ビール・ストリート・ブルーズ・ボーイ」というニックネームで呼ばれた。長いので「ブルーズ・ボーイ」となり、「B.B.」になった。綿花畑を抜け出した“音楽畑”での新しい人生がスタートした。 そんなB.B.に最初のチャンスを与えたとされるのが、全米で黒人最初のDJとなったWDIA局のナット・D・ウィリアムズ。彼は素人コンテストの司会や150万人以上のデルタ地区の黒人たちに自分たちの音楽を届けた。 また、エルヴィス発掘まではビール・ストリートのブルーズマンたちを録音していたサン・レコードのサム・フィリップス。1951年にメンフィスにやって来たアイク・ターナーは一緒に仕事をしたサムに、当時を振り返ってこう言う。 その頃、黒人たちの音楽は「レイス・レコード」と呼ばれ、白人向けのラジオ局では絶対に流せなかった。そこでサムは閃いたのさ。白人に黒人のように歌わせればいい。R&Rの..
未分類

ジミヘンがナポレオンジャケット(軍服)を身にまとうようになった理由

1960年代…ビートルズ、ストーンズを始め、英国のロックミュージシャンたちの多くが身に纏っていたミリタリーファッション。 例えばビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のアルバムジャケットで着ていたあの衣装。 そしてアメリカからイギリスの渡ってブレイクしたジミ・ヘンドリックスが着ていたあの上着。 それらはファッションシーンなどで“ナポレオンジャケット”とも呼ばれている軍服のことである。 60年代の後半には世界的な流行となり、日本でもGS(グループサウンズ)のバンドメンバーがステージ衣装として取り入れていた。 ミリタリージャケットと呼ばれる多くのものは、第一次世界大戦時の英国軍の将軍の礼服だった。 ジミヘンは1966年に渡英してまもない頃、ロンドンのヴィンテージショップでゴージャスな軍服を見つけ、チャス・チャンドラー(アニマルズのベーシストでもあり当時ジミのマネージャーを担当)にベースを売って工面してもらったお金で購入した。 チャスは、アニマルズ時代にイメージ戦略(衣装や写真)の重要性をよく理解したので、なんの躊躇もしなかったという。 「あの服はイギリス王立獣医軍団のものさ!1898年製だったっけ?軍服としてはかなりの代物だ。」 ジミは十代の頃に(一時期だけ)アメリカで陸軍に志願入隊している。 陸軍第101空挺師団(別名スクリーミング・イーグルス)に所属し、実際に軍服に身を包んだ経験のある数少ない若手ロックミュージシャンの一人だった。 「16歳で学校を中退して暇を持てあましてたし、俺が生まれ育ったシアトルの町では面白いことなんてなんにもなかったんだ。法的に入隊が許可される17歳になるのを待って陸軍に志願したんだ。そしたら驚くべきことに、軍人生活の方がずっとつまんなかったんだ!気温が0度以下で腕立て伏せ。飛行機からの落下訓練。軍隊は俺の根性を叩き直そうとした。俺が泥の中でも眠れるかどうか試したかったんだ。」 1966年9月24日、ジミ・ヘンドリックス(当時22歳)はロンドンのヒースロー空港に降り立った。 当時まだ無名だった彼は、その後、音楽シーンに革命をもたらすこととなる。 アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされた彼は、アメリカからの渡英を決断する。 当時、チャスにジミの情報をもたらしたのは..
未分類

ジミ・ヘンドリックス最期の言葉〜死の直前、死後の出来事

「世界を変えようなんて思っていない。ストリートをもっと色鮮やかでカラフルにしたいだけなんだ。音楽には二種類ある。人生を反映したブルースと、詞そのものにはあまり意味はないかもしれないけどサウンドに意味のある“日の光”のような音楽だ。」 1970年9月11日金曜日、レコード・ミラー誌の取材でキース・アルトハム(音楽評論家)はジミ・ヘンドリクスにインタビューを行なった。 この7日後の9月18日、ジミはロンドンのホテルに滞在中に薬物の過剰摂取により他界した。 死因は睡眠中の嘔吐による窒息で、寝る前に飲んだ大量のワインと睡眠薬の過剰摂取が引き金となったと言われている。 直接の死因は睡眠薬の多量接種ということだが、ドラッグによって身も心もボロボロに破壊されていたことは明白だ。 ジミの死については医療ミス、自殺、他殺など様々な説が囁かれているが、今となっては真相を知る由もない。 現在YouTubeには、彼が死の1週間前に受けたこのインタビューの一部(音声)が動画として公開されている。 動画はアメリカの公共放送局PBSが製作したもので、録音した声とアニメーションを組み合わせた内容となっている。 ──あなたがイギリスでデビューを果たした1966年はサイケの全盛期でしたね。 その頃と比較して、あなたはファッションや風体も落ち着いた感じになりましたね。 「誰だってそういうフェーズを潜っていくものなんだよ。俺も最初に出てきた頃にはいろんなものを着飾ってたけど、俺がああいう格好をしてたのは、単純に自分のやってることがちょっとうるさ過ぎるんじゃないかってそれが心配だったからなんだよ。だけど、ヴィジュアル面だけで煽られるのも嫌だったんだよね。やっぱりちゃんと聴いてもらいたかったし。俺の音楽をちゃんと聴いてない連中が多過ぎると感じるようになったんだ。だから髪の毛を短く切って、体中にぶらさげていたアクセサリーや指輪を全部取ったんだ。」 ──あの有名なギターを燃やすパフォーマンスについて経緯など教えてもらえませんか? 「ある時、今夜ギターを燃やしてみるのはどうだろうって口にしてみたんだよね。ギターをぶっ壊すとか、なんかそういうことをやるべきかなって。そうしたら、それいいねって話になって、本当にいいと思うかって確認しても、絶対にやったら最高だよって話で。じゃあやるには自分の怒りを煽っていかないと..
タイトルとURLをコピーしました