2022-01

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ソウル・オブ・マン〜ヴィム・ヴェンダース監督が捉えた3人の伝説のブルーズマン

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ソウル・オブ・マン』(The Soul Of A Man/ヴィム・ヴェンダース監督)。ヴェンダースお気に入りの3人のブルーズマンの姿を通じて、その真髄に迫っていく物語だ。 1977年。NASAが打ち上げる宇宙探査船ボイジャーは、太陽系外で遭遇するかもしれない“生物”のために、地球の挨拶言葉や音が録音されたレコードも一緒に連れて行くことにした。この時、バッハやベートーヴェンやモーツァルトと並んで、20世紀を代表する音楽として一人の黒人ミュージシャンの曲も入れられた。それはブラインド・ウィリー・ジョンソンが1927年に録音した「Dark Was the Night,Cold Was the Ground」。 ヴェンダースは映画監督らしい幾つかの創作上のマジックを仕掛けた。1947年に死んだはずのこのブラインド・ウィリーが“ナレーター”となって、我々に伝説のブルーズマンたちの人生を案内していくのだ。そして、1920〜30年代当時の風景とブルーズマンを再現するために、デブリー社のパルヴォという古い手回しカメラを使用。役者やセットを昔ながらの美しい映像が捉えることができ、余りにも効果的だったので、多くの人々は未発表の記録映像だと勘違いするほどだった。 ブラインド・ウィリー・ジョンソンは妻と共に聖的な曲しか歌わず、世俗的な音楽には一切手を出さなかった。ブルーズマンというよりは、弾き語りで神の教えを説くギター・エヴァンジェリスト。彼のギターテクニック、とりわけボトルネック奏法は「ブルーズ史上屈指の素晴らしさ」と称されることになった。 スキップ・ジェイムスは1931年に初めてのレコーディングを行い、18曲を一気に録音。だが、ある日突然ブルーズを演奏するのをやめてしまい、牧師となって以来30年もの間ブルーズと縁を切った。しかし、研究家たちに再発見された彼は、入院中の病院から連れられて1964年の「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」に出演。何時間も本物の..
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フィール・ライク・ゴーイング・ホーム~故郷ミシシッピとアフリカ大陸を結ぶBLUESの旅

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』(Feel Like Going Home/マーティン・スコセッシ監督)。ブルーズの源流を求めて、ミシシッピ・デルタから西アフリカのマリまでを旅する物語だ。 冒頭はミシシッピの森のある丘陵地帯。ファイフ奏者の伝説的存在オサー・ターナーがドラム隊を従えて庭を練り歩くシーンから始まる。ファイフとは横笛のことで、竹笛と草笛の中間のような音がする。自作のファイフとドラムによるこのオールド・ニグロ・スピリチュアルは、南部黒人の音楽の中でも最も古いものとして知られている。アフリカ直系の強烈な鼓動を感じすにはいられない。 故・駒沢敏器の著書『ミシシッピは月まで狂っている』には、オサー・ターナーに関するエピソードが記されている。オサーが初めてファイフを目にした日のことだ。 ある日、葦を手にした老人が丘からやって来た。幼い俺はその老人に聞いたんだ。 「おじさん、それは何ですか?」 「これはファイフだよ、ベイビー」 「僕にも作ってくれませんか」 「お前がいい子にしていて、ママの言うことをよく聞けば、作ってやってもいいぜ」 ある日の夕方のことだ。彼の住む場所へ行ってみた。中を覗くと、「あの坊やだな、こっちへ来い」という声が聞こえてきた。俺は恐る恐る中へ入って行った。するともう、ファイフができていたのさ。 「これがお前のファイフだ。どうせすぐには吹けやしないけどな」 「だめかもしれないけど、一生懸命やってみます」 旅の案内人はコーリー・ハリス。1969年生まれの彼は10代の頃にブルーズに目覚めたという世代。コリーは言う。 僕はブルーズに自分の先祖や歴史との結びつきを感じる。どの曲も歴史の一面を語っていて、ブルーズを演奏することで僕は理解した。自分を知るには過去を知るべきだし、行く道を知るには来た道を知るべきだと。 こうして旅はブルーズの故郷ミシシッピから始まっていく。コーリーはロバート・ナイトホークの息子サム・カーやウィリー..
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ニコ27歳〜ブライアン・ジョーンズが参加したデビューシングル、そしてアンディ・ウォーホルとの出会い

ニコ…本名はクリスタ・ペーフゲン。 彼女は生まれながらの嘘つきだった。 幼い頃からたくさんの嘘をついていたという。 彼女はそれを“お話”と呼んでいた。 その嘘は大人達から“ロマンティックな夢想”と呼ばれ、笑顔で見逃されていた。 友人達は皆、その“ちょっと変わった癖”を許した。 両親がロシア人なのか?それともロシアとトルコのハーフなのか?ロシアとポーランドとドイツとトルコのクオーターなのか? 出生、生い立ち、家族、年齢…彼女はいつも謎のベールに包まれていたという。 10代の頃から身長が180cmあった彼女は、パリを中心に『VOGUE』『ELLE』などの人気ファッション誌のモデルとして活動していた。 1960年(当時21歳)にはフェデリコ・フェリーニ監督の映画『甘い生活』に端役で出演。 彼女はこの頃からニューヨークに移り、しばらくの間はヨーロッパとアメリカを行き来しながら活動を行う。 1965年3月のある夜、彼女はローリング・ストーンズと出会う。 それは彼らのオーストラリアツアーの成功と、2ndアルバムの発売を祝うために、レコード会社が開いたパーティーの席だった。 ストーンズの初代マネージャーとして知られるアンドリュー・ルーグ・ オールダムが「スター候補の女の子を探している」という話の流れから、彼女が紹介されることとなる。 モデルの仕事のこと、フェリーニ監督の映画に出演したこと、ボブ・ディランと友達関係だということ…薄暗いVIP席で煙草を燻らせながら話す彼女に、オールダムはたちまち興味を持った。 オールダムが振り返ると、同じテーブルに座っていたブライアン・ジョーンズが彼女に熱い視線を注いでいたという。 その数秒後…ニコ(当時26歳)とブライアン(当時22歳)は、その場で直接言葉は交わさずとも特別なアイコンタクトを交わすこととなる。 彼女は当時、モデルや女優以外の新しいキャリアを必要としていた。 歌手という肩書きをいかにして手に入れるか? 「ブライアンのセクシーな魅力に惹かれたの…」 “若き大物”の近くに自分の位置を確保するため…彼女はブライアンのサディスティックな性癖や気紛れな行動に耐えた。 オールダムが彼女のために選んだ楽曲は、カナダ人作曲家ゴードン・ライトフットの作品「I’m Not Sayin」だった。 当時のライトフットといえば、エルヴィス・プレスリーやボブ・..
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若者達に捧げられた歌〜すべて時代のせいにして

♪「すべて時代のせいにして」/泉谷しげるwith 藤沼伸一(TV番組スタジオLIVE) 若いときはすべてが他人(ひと)のせい こうなってしまったのも親のせい ひきこもるのも社会のせい 誰を憎んで何を消し去る 泉谷しげると云えば、1970年代に沸き起こった日本のフォークブームの中で小室等、井上陽水、吉田拓郎等と肩を並べる存在だった。 今や(一般的には)ドラマの脇役などで活躍する個性派俳優として知る人の方が多いのかもしれない。 2008年、彼は自身が還暦を迎えるタイミングにあわせて一曲の新曲を書き下ろした。 同年5月11日の誕生日には、全62曲にも及んだ還暦記念LIVEを実施し、圧倒的な存在感と“タフさ”を存分に見せつけた。 そのステージから数日後(5月18日)、彼は自身がMCを務めるTBS深夜の音楽番組『ライブR-ゼロ』の収録のために赤坂にあるTBSのスタジオにいた。 その日、番組収録のために集められたオーディエンスの年齢層は二十代が中心だった。 いつもと違う客層を前に“泉谷流のもてなし”が展開される。 彼の温かい人柄と強面口調の絶妙なバランスに、客席は笑いと期待感に包まれる。 ステージ上に相棒・藤沼伸一(日本屈指のROCK&BLUESギタリスト)が登場し、スタジオ内はピリっとした空気に変わる。 そこで彼は若者達を前に、この新曲「すべて時代のせいにして」を披露した。 曲に合わせてお客が手拍子し始めると、曲をいったん止めて一言。 「待て、手拍子すんな馬鹿!」 2013年のNHK紅白歌合戦でも彼が放った“お約束”の台詞だ。 カメラはじっと聴き入る若者達の表情を映していた。 Ah すべて自分のせいにして Ah すべて生れのせいにして Ah すべて過去のせいにして 自分の命を止めるな 彼らにはどんな風に響いたのだろう? 今、三十代となっているであろう彼らはどんな大人になったのだろう? 今年もまた成人を迎える若者達がいる。 広辞苑で「成人」を引いてみた。 ①幼い者が成長すること。成年に達すること。また、その人。成年以上の人。おとな。 ②心身の発育を終え、一人前となった者。 ※トップの画像はオフィシャルサイトから使用させていたきました 【泉谷しげるオフィシャルサイト】 http://www.wagasha.co.jp ♪「すべて時代のせいにして」/泉谷しげる(アルバムVe..
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ピート・タウンゼンド〜真冬のコテージで綴り始めた『四重人格』

1973年初め。暗く冷たい、冬の週末の夜。 27歳のピート・タウンゼンドは自宅のコテージに一人座り、逆巻く川や隙間風の音を聞きながら記憶の旅に耽っていた。ここ数ヶ月もの間、家族や友人、バンドとステージにいる時でさえ、新しく生まれつつある“音楽と物語”のことが頭と心から離れない。しかし、今夜は違った。 1964年。私はアートスクールの友人と一緒に、ブライトンの桟橋の下で数時間眠ったところだった。友人の名前はリズ・リード。ストロベリー・ブロンドの可愛い子だった。 突如として、19歳だったあの日が蘇ってきた。二階には妻や子供たちが眠っている。ピートはノートをつかむと、何かに取り憑かれるように走り書きを始めた。この悲しくロマンチックな気持ちのまま綴りたかった。ジミーという名のモッズ少年の物語。ロックオペラ『四重人格』の誕生だ。 それは海岸でモッズとロッカーズの乱闘が起きた夜でもあった。まだ暗い中、しょぼしょぼと降る雨を避けながら桟橋の下の浜辺を歩いていると、モッズの一団と出くわした。私たちは一緒になってしばらく腰をおろした。みんな、当時流行していたアッパー系のドラッグ、パープル・ハーツから醒めようとしているところだった。 私たちは恋に落ちていた。なのに私はその後、リズとはデートなどしなかった。ただの一度も。彼女と一緒にいた時間は、あのときのまま静止し、高められ、私にとって永遠に特別なものとなった。 ピート・タウンゼンド。ザ・フーのギタリストであり、バンドのほとんどの曲を生み出すソングライター。ステージに立つと「怒れるゴロツキ」となって、風車のように腕を回すウインドミル奏法や跳躍と破壊のパフォーマンスで観客を魅了する男。 ザ・フーが持つ様々な表情──ハードな「My Generation」、ポップな「The Kids Are Alright」、バラードの「So Sad About Us」といったナンバーを量産したマキシマムR&B/モッズバンド時代。モンタレー、ウッドストック、ワイト島、リーズでは史上最高のライブバンドとして伝説化。ロックオペラ『Tommy』の知的な文学性。シンセサイザーをロックに取り入れた『Who’s Next』の開拓。ピート・タウンゼンドは26歳までにこれらのことすべてをやり遂げてしまった。 しかし、一方でロックスターにはつきもののドラッグやアルコール..
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【診断】あなたの2022年を一言で表すと…

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フィル・ライノット〜英雄になった褐色のアイルランド人ロッカー

いわゆるブリティッシュ・ハード・ロックの代表格とされながらも、アイルランド・スピリットを内に秘めた印象的な楽曲の数々で、1970年代にひときわ強い個性を放ったバンド──シン・リジィ。 その中心人物フィル・ライノットは、1949年にアイルランド人の母とブラジル人の父の間に生まれた。フィルは幼少期から思春期まで、自らの褐色の肌に対する差別意識と向き合いながら、次第にアイルランド人としてのアイデンティティを確立したという。ロックが若い世代に対して重要な意味を持ち始めた1960年代。彼もそんな時代の空気を吸い込んでいたに違いない。 1970年にシン・リジィはデビューするが、初ヒットは1973年にUKチャートの6位まで上昇した「Whiskey In The Jar」。フィルはダブリン周辺のフォーク・ミュージシャンたちと交友していたというから、この有名なアイルランド民謡をロック調にアレンジしたのは当然の成り行きだったのだろう。 フィルのソングライティングには、「褐色の肌を持ったアイルランド人」としてのアイデンティティを求め続けた日々が反映されている。そこにロックという表現手段が溶け込むことによって、シン・リジィ独特の世界が生まれる。それがどんなにハードな音であっても、どこかに必ず一筋の“哀切感”や“流浪感”が潜んでいる。 これがアイルランド系の若者たちの琴線に触れないわけがない。例えば、1976年の彼ら最大のヒット曲「The Boys Are Back In Town」はその好例だ。 フィルを語る時、同じアイルランド人のギタリスト、ゲイリー・ムーアの名を忘れるわけにはいかない。1978年に発表された共作「Parisienne Walkways」(パリの散歩道)は、詩人フィルが持つ“哀切な流浪感”とゲイリーのギターが奏でる“孤高の響き”が出逢い、聴く者の心を深く打つ。 また、そのゲイリーがシン・リジィに参加して録音された同年の『Black Rose:A Rock Legend』には、「ダニー・ボーイ/ロンドンデリーの歌」などアイルランド民謡4曲がアレンジされたアルバムタイトル曲が収録されていて、二人の“原点回帰”がクライマックスに謳い上げられる。 一方で、ドラッグやアルコールや女性関係などフィルの私生活は荒れ続け、1986年に36歳の若さで死去。しかし、アイルランドの若手ミュージ..
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ぼくの好きな先生〜高校生時代の忌野清志郎が慕った美術部顧問の教師

「ぼくの好きな先生」は、RCサクセションの記念すべき1stアルバム『初期のRCサクセション』からのシングルカット曲として1972年2月5日、アルバムと同日にリリースされた。 RCの黎明期、つまり忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人編成によるフォークトリオの時代の作品である。 さかのぼること約2年…そのアクの強さが“売り”だった(はずの!?)彼らは1970年3月5日にリリースしたデビューシングル「宝くじは買わない」がまったく当たらず…同年12月に発表した2ndシングル「涙でいっぱい」も見事に不発に終り、渋谷にあった音楽喫茶『青い森』などでの地道なライブ活動を続けていた。 そんな彼らが“次こそは!”と、スタイルを妥協することなく放ったのがこの歌だった。 当時の担当ディレクター新田和長は、当時をこう振り返る。 「とにかく清志郎は初めから“アーティスト”でした。言いたいことは言うし、やりたいことは絶対に妥協しないでやる。そんな個性的なところが魅力的でした。」 清志郎が書いたこの“先生の歌”には、モデルになった人物がいたという。 それは小林晴雄という高校時代の美術部顧問の教師だった。 楽曲がリリースされた3年前(1969年)の秋、朝日新聞にこんな身の上相談が載った。それは清志郎の母、栗原久子(育ての親・伯母)からだった。 「18歳になる私の子供はギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だかわからなくなりました。」 気をもむ母を説得したのが、小林先生だった。   「大学に行っても4年遊ぶんだから、4年は好きなことをやらせてあげましょう。」 彼は1967年、都立日野高校に入学した。 俳優の三浦友和も同じ学年だったという。 当時の彼を知る同級生の証言によると…校内では物静かな生徒だったらしい。 小柄で、華奢(きゃしゃ)で、髪型はマッシュルームカットで、いつも飄々(ひょうひょう)と廊下を歩いていたという。 高校時代にRCサクセションを結成。 活動にのめり込み、欠席や遅刻が相次ぐようになる。 そんな中、彼は美術部顧問の小林先生にだけは心をひらき、絵画製作に熱中したという。 小林先生は他の教師と違って、生徒の話にじっくり耳を傾ける男だった。 “勉強が嫌いだから絵描きになった”という小林先生は、職員室が嫌いで、美術準備室でいつも一人で煙草を吸っていた。 同級生の一人..
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タウンズ・ヴァン・ザント〜放浪人生を歩み続けた伝説のアウトロー・ミュージシャン

耳を傾けていると、本物の音楽とは何かという想いをそっと心に届けてくれるアーティストがごく稀にいる。そういう人は例外なく無名で売り上げも少なかったりする。 だが、一部の優れたミュージシャンの間では、その人は彼らに多大な影響を与え、深いリスペクトを受けて伝説となっている。我々はそうしてその人の生前の作品を知ることになり、魂の音楽に心打たれる。 タウンズ・ヴァン・ザントは、まさにそんな“伝説”の代表格かもしれない。さすらいのシンガー・ソングライターとして、あるいはアウトローのカントリー・ミュージシャンとして、彼の名と音楽は歴史に静かに刻まれることになった。 スターになるのではなく、いい曲を作りたいという気持ちしかなかったその人生は、ブルーズでありハイロンサムそのものだった。 地獄の下にブルーズがある 1944年、テキサス州フォートワース生まれ。かなり裕福な家庭で育ったにもかかわらず、思春期の頃にライトニン・ホプキンスのブルースを聴いてギターを始める。 最初の結婚を機に歌で稼ぐことを決意。新婚早々に初めて作った曲は、「Waiting Around to Die」というラブソングとは程遠い死の歌だった。 酒やドラッグの影響だったのか、タウンズには自殺の恐れがあり、家族はショック療法を受けさせる。だがこれと代償に思わぬことが起こってしまう。子供時代の記憶を喪失したのだ。 自分のルーツが消えた彼は、旅という移動行為に取り憑かれる。巡業と放浪の人生の始まりだった。これによってお金や安定という世界観とは縁を切った。 孤絶は存在の状態で、孤独は心の状態だ。破産と貧しさと同じだ 1968年にデビューアルバムをリリース。年に1枚ずつ作品を発表していくものの、どれも数千枚しか売れず、レーベルの閉鎖もあって1973年にはレコード制作も終わった。 しかし、酒場のステージ、モーテル、ファミレス、トレーラーハウスといった場所を渡り歩きながら作られた曲の数々は、第一線で活躍するアウトローなミュージシャンたちにゆっくりと浸透していた。 1980年代前半、森の生活を送っていたタウンズの曲にスポットライトが当たる。81年にエミルー・ハリスとドン・ウィリアムスが歌う「If I Need You」がカントリーチャートの3位、83年にウィリー・ネルソンとマール・ハガードが歌う「Pancho and Lef..
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Che sarà・後編〜琴線に触れるイタリアのメロディー、日本人は“超訳”がお好き!?

イタリアでこの歌「Che sarà(ケ・サラ)」が発表された1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 当時、にしむらよしあきが自身の政治思想を基に超訳した歌詞を、権力と闘いながら平和と自由を訴えていた学生達が集会や歌声喫茶などで合唱していたという。 「ケ・サラ」日本語訳:にしむらよしあき 押さえ切れない怒り こらえ切れない悲しみ そんなことのくり返しだけど 決して負けはしないさ ケサラ ケサラ ケサラ 僕たちの人生は 平和と自由もとめて    生きてゆけばいいのさ 日本語歌詞としては作詞家・訳詞家・詩人の岩谷時子の手によって訳された歌詞を越路吹雪が唄ったものが一般的に広く知られている。 「ケ・サラ」日本語訳:岩谷時子 平和で美しい国 信じあえる人ばかり だけど明日は どうなることやら 誰もわかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ 私たちの人生は 階段を手さぐりで歩くようなもの エ・サラ  サラケル  ケ・サラ 越路吹雪『愛の生涯』 (2005/EMIミュージックジャパン) iTunes Amazon 2011年には、漫画家・西原理恵子が毎日新聞に連載する人気コミックを実写映画化した『毎日かあさん』(主演:小泉今日子、永瀬正敏)の主題歌として、憂歌団の木村充揮(あつき)が2006年に発表したアルバム『小さな花』に収録していたバージョン「ケサラ~CHE SARA~」が起用されて話題となった。 【木村充揮 オフィシャルサイト】 http://dandylion.info 「ケサラ~CHE SARA~」日本語訳:木村充揮 海を見てると 君のことを思い出す 振り向きざまの あの笑顔 この胸に広がる 楽しい楽しい日々を 辛く切ない日々を 君と共に暮らした日々を 忘れられない日々を ケサラ ケサラ ケサラ 今日の一日を 雨の日も風の日も ケサラ ケサラ ケサラ 原詞の中に登場する主人公(青年)の胸中によぎる、先の見えない不安とやりきれない気持ち。 自分たちの暮している国で目の当りにする経済格差。 家族と離れて単身赴任で働く人達もいる。 孤独、焦燥、守りたいもの…そしてわずかな希望。 異国の地で生まれた名曲を、これまで数多くの作詞家やアーティストが訳してきた。 物語や童話が語り継がれてきたように、そのメロディーに想いを乗せて…。 そう、..
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