2022-01

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【診断】あなたの2022年を一言で表すと…

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フィル・ライノット〜英雄になった褐色のアイルランド人ロッカー

いわゆるブリティッシュ・ハード・ロックの代表格とされながらも、アイルランド・スピリットを内に秘めた印象的な楽曲の数々で、1970年代にひときわ強い個性を放ったバンド──シン・リジィ。 その中心人物フィル・ライノットは、1949年にアイルランド人の母とブラジル人の父の間に生まれた。フィルは幼少期から思春期まで、自らの褐色の肌に対する差別意識と向き合いながら、次第にアイルランド人としてのアイデンティティを確立したという。ロックが若い世代に対して重要な意味を持ち始めた1960年代。彼もそんな時代の空気を吸い込んでいたに違いない。 1970年にシン・リジィはデビューするが、初ヒットは1973年にUKチャートの6位まで上昇した「Whiskey In The Jar」。フィルはダブリン周辺のフォーク・ミュージシャンたちと交友していたというから、この有名なアイルランド民謡をロック調にアレンジしたのは当然の成り行きだったのだろう。 フィルのソングライティングには、「褐色の肌を持ったアイルランド人」としてのアイデンティティを求め続けた日々が反映されている。そこにロックという表現手段が溶け込むことによって、シン・リジィ独特の世界が生まれる。それがどんなにハードな音であっても、どこかに必ず一筋の“哀切感”や“流浪感”が潜んでいる。 これがアイルランド系の若者たちの琴線に触れないわけがない。例えば、1976年の彼ら最大のヒット曲「The Boys Are Back In Town」はその好例だ。 フィルを語る時、同じアイルランド人のギタリスト、ゲイリー・ムーアの名を忘れるわけにはいかない。1978年に発表された共作「Parisienne Walkways」(パリの散歩道)は、詩人フィルが持つ“哀切な流浪感”とゲイリーのギターが奏でる“孤高の響き”が出逢い、聴く者の心を深く打つ。 また、そのゲイリーがシン・リジィに参加して録音された同年の『Black Rose:A Rock Legend』には、「ダニー・ボーイ/ロンドンデリーの歌」などアイルランド民謡4曲がアレンジされたアルバムタイトル曲が収録されていて、二人の“原点回帰”がクライマックスに謳い上げられる。 一方で、ドラッグやアルコールや女性関係などフィルの私生活は荒れ続け、1986年に36歳の若さで死去。しかし、アイルランドの若手ミュージ..
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ぼくの好きな先生〜高校生時代の忌野清志郎が慕った美術部顧問の教師

「ぼくの好きな先生」は、RCサクセションの記念すべき1stアルバム『初期のRCサクセション』からのシングルカット曲として1972年2月5日、アルバムと同日にリリースされた。 RCの黎明期、つまり忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人編成によるフォークトリオの時代の作品である。 さかのぼること約2年…そのアクの強さが“売り”だった(はずの!?)彼らは1970年3月5日にリリースしたデビューシングル「宝くじは買わない」がまったく当たらず…同年12月に発表した2ndシングル「涙でいっぱい」も見事に不発に終り、渋谷にあった音楽喫茶『青い森』などでの地道なライブ活動を続けていた。 そんな彼らが“次こそは!”と、スタイルを妥協することなく放ったのがこの歌だった。 当時の担当ディレクター新田和長は、当時をこう振り返る。 「とにかく清志郎は初めから“アーティスト”でした。言いたいことは言うし、やりたいことは絶対に妥協しないでやる。そんな個性的なところが魅力的でした。」 清志郎が書いたこの“先生の歌”には、モデルになった人物がいたという。 それは小林晴雄という高校時代の美術部顧問の教師だった。 楽曲がリリースされた3年前(1969年)の秋、朝日新聞にこんな身の上相談が載った。それは清志郎の母、栗原久子(育ての親・伯母)からだった。 「18歳になる私の子供はギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だかわからなくなりました。」 気をもむ母を説得したのが、小林先生だった。   「大学に行っても4年遊ぶんだから、4年は好きなことをやらせてあげましょう。」 彼は1967年、都立日野高校に入学した。 俳優の三浦友和も同じ学年だったという。 当時の彼を知る同級生の証言によると…校内では物静かな生徒だったらしい。 小柄で、華奢(きゃしゃ)で、髪型はマッシュルームカットで、いつも飄々(ひょうひょう)と廊下を歩いていたという。 高校時代にRCサクセションを結成。 活動にのめり込み、欠席や遅刻が相次ぐようになる。 そんな中、彼は美術部顧問の小林先生にだけは心をひらき、絵画製作に熱中したという。 小林先生は他の教師と違って、生徒の話にじっくり耳を傾ける男だった。 “勉強が嫌いだから絵描きになった”という小林先生は、職員室が嫌いで、美術準備室でいつも一人で煙草を吸っていた。 同級生の一人..
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タウンズ・ヴァン・ザント〜放浪人生を歩み続けた伝説のアウトロー・ミュージシャン

耳を傾けていると、本物の音楽とは何かという想いをそっと心に届けてくれるアーティストがごく稀にいる。そういう人は例外なく無名で売り上げも少なかったりする。 だが、一部の優れたミュージシャンの間では、その人は彼らに多大な影響を与え、深いリスペクトを受けて伝説となっている。我々はそうしてその人の生前の作品を知ることになり、魂の音楽に心打たれる。 タウンズ・ヴァン・ザントは、まさにそんな“伝説”の代表格かもしれない。さすらいのシンガー・ソングライターとして、あるいはアウトローのカントリー・ミュージシャンとして、彼の名と音楽は歴史に静かに刻まれることになった。 スターになるのではなく、いい曲を作りたいという気持ちしかなかったその人生は、ブルーズでありハイロンサムそのものだった。 地獄の下にブルーズがある 1944年、テキサス州フォートワース生まれ。かなり裕福な家庭で育ったにもかかわらず、思春期の頃にライトニン・ホプキンスのブルースを聴いてギターを始める。 最初の結婚を機に歌で稼ぐことを決意。新婚早々に初めて作った曲は、「Waiting Around to Die」というラブソングとは程遠い死の歌だった。 酒やドラッグの影響だったのか、タウンズには自殺の恐れがあり、家族はショック療法を受けさせる。だがこれと代償に思わぬことが起こってしまう。子供時代の記憶を喪失したのだ。 自分のルーツが消えた彼は、旅という移動行為に取り憑かれる。巡業と放浪の人生の始まりだった。これによってお金や安定という世界観とは縁を切った。 孤絶は存在の状態で、孤独は心の状態だ。破産と貧しさと同じだ 1968年にデビューアルバムをリリース。年に1枚ずつ作品を発表していくものの、どれも数千枚しか売れず、レーベルの閉鎖もあって1973年にはレコード制作も終わった。 しかし、酒場のステージ、モーテル、ファミレス、トレーラーハウスといった場所を渡り歩きながら作られた曲の数々は、第一線で活躍するアウトローなミュージシャンたちにゆっくりと浸透していた。 1980年代前半、森の生活を送っていたタウンズの曲にスポットライトが当たる。81年にエミルー・ハリスとドン・ウィリアムスが歌う「If I Need You」がカントリーチャートの3位、83年にウィリー・ネルソンとマール・ハガードが歌う「Pancho and Lef..
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Che sarà・後編〜琴線に触れるイタリアのメロディー、日本人は“超訳”がお好き!?

イタリアでこの歌「Che sarà(ケ・サラ)」が発表された1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 当時、にしむらよしあきが自身の政治思想を基に超訳した歌詞を、権力と闘いながら平和と自由を訴えていた学生達が集会や歌声喫茶などで合唱していたという。 「ケ・サラ」日本語訳:にしむらよしあき 押さえ切れない怒り こらえ切れない悲しみ そんなことのくり返しだけど 決して負けはしないさ ケサラ ケサラ ケサラ 僕たちの人生は 平和と自由もとめて    生きてゆけばいいのさ 日本語歌詞としては作詞家・訳詞家・詩人の岩谷時子の手によって訳された歌詞を越路吹雪が唄ったものが一般的に広く知られている。 「ケ・サラ」日本語訳:岩谷時子 平和で美しい国 信じあえる人ばかり だけど明日は どうなることやら 誰もわかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ 私たちの人生は 階段を手さぐりで歩くようなもの エ・サラ  サラケル  ケ・サラ 越路吹雪『愛の生涯』 (2005/EMIミュージックジャパン) iTunes Amazon 2011年には、漫画家・西原理恵子が毎日新聞に連載する人気コミックを実写映画化した『毎日かあさん』(主演:小泉今日子、永瀬正敏)の主題歌として、憂歌団の木村充揮(あつき)が2006年に発表したアルバム『小さな花』に収録していたバージョン「ケサラ~CHE SARA~」が起用されて話題となった。 【木村充揮 オフィシャルサイト】 http://dandylion.info 「ケサラ~CHE SARA~」日本語訳:木村充揮 海を見てると 君のことを思い出す 振り向きざまの あの笑顔 この胸に広がる 楽しい楽しい日々を 辛く切ない日々を 君と共に暮らした日々を 忘れられない日々を ケサラ ケサラ ケサラ 今日の一日を 雨の日も風の日も ケサラ ケサラ ケサラ 原詞の中に登場する主人公(青年)の胸中によぎる、先の見えない不安とやりきれない気持ち。 自分たちの暮している国で目の当りにする経済格差。 家族と離れて単身赴任で働く人達もいる。 孤独、焦燥、守りたいもの…そしてわずかな希望。 異国の地で生まれた名曲を、これまで数多くの作詞家やアーティストが訳してきた。 物語や童話が語り継がれてきたように、そのメロディーに想いを乗せて…。 そう、..
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Che sarà・前編〜イタリア移民の不安と希望を哀愁のメロディーに乗せて

この歌は、イタリアの北西部リグリーア州インペリア県にある小さな町で毎年開催されているサンレモ音楽祭で1971年に準優勝を受賞したポップナンバーで、いわゆるカンツォーネ(イタリア民謡)をベースに紡がれた楽曲だ。 タイトルの「Che sarà(ケ・サラ)」という言葉は、日本語に訳すと“どうなってしまうんだろう?”という意味を持つという。 この音楽祭の採点システムは、イタリアのシンガーと国外のアーティストが一組になり、あらかじめエントリーされた同一曲を歌うという変則的なものだった。 毎年入賞した曲は世界中でヒットする傾向にあり、若手アーティストにとってはスターに駆け上がる登竜門的なコンテストでもあった。 今回スポットをあてるこの歌は、イタリアを代表する男女混合の4人組コーラスグループ、リッキ・エ・ポーヴェリ、そしてプエルトリコ出身の盲目の天才ギタリスト/歌手、ホセ・フェリシアーノの二組によって歌唱されて入賞に至った。 これからどうなってしまうんだろう  僕の人生がどうなるのか誰もわからない 何だってできるのか?何もなしえないのか? 明日、僕はそれを知るだろう なるようにしかならないものさ サンレモといえば隣国フランスのニースやモナコに隣接し、平らな土地は少なく、ちょっとした高台や丘からは海がよく見える港町だ。 この町は、第二次世界大戦後にイタリアの戦後復興を目指し、観光客を招致して外貨を稼ぐ目的でカジノが作られ、1951年から音楽祭が開催されるようになった。 実はイタリア全土へのラジオとテレビの放送は、この音楽祭の歴史と共にあるという。これまでコニー・フランシスやポール・アンカ、そしてあのイギリスの伝説的なロックバンド、ヤードバーズまでが出場し、日本からも伊東ゆかりや岸洋子が参加したという記録が残っている。 ちなみにヤードバーズの出演は、エリック・クラプトン脱退後の1966年の回で、新しく加入したジェフ・ベックはこのサンレモ音楽祭への出場に不満を持ち、ステージにはかろうじて立ったものの、あらかじめ行われる課題曲「Questa Volta」のレコーディング当日に雲隠れする事件を起こしたというエピソードが残っている。 1960年代には世界的に“カンツォーネブーム”がおこり、サンレモ音楽祭は最盛期を迎えたのだが…70年代を迎える少し前あたりからイタリア経済が衰退しはじめ、規..
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お正月といえばやっぱりお餅!〜全国お雑煮クイズ〜

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【タロット占い】2022年、あなたの運命は…?

あけましておめでとうございます。新年最初のネット占い!あなたの運命は…? View Entire Post ›
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アイ・ソー・ザ・ライト〜悲しみを歌い続けた真のスーパースター、ハンク・ウィリアムス

ロックンロールの登場によってすべてが塗り替えられてしまう前夜、1953年1月1日のこと。これからの活躍が最も期待されていた29歳のカントリー・シンガーが他界した──その名はハンク・ウィリアムス。エルヴィス・プレスリーがまだ南部の名もなき青年だった頃、ハンクこそがスーパースターの未来だった。 誰もが闇を抱えて生きている。 やりきれない怒り、悲しみ、後悔……。 僕がすべて歌にするよ。 そうすれば、みんなが辛いことを忘れられるだろ。 辛さは全部引き受ける。 アラバマ州の母子家庭で育った幼少時代のハンクは、貧しい生活の中で音楽という光を見る。8歳の時に母親にギターを買ってもらうと、路上で黒人の流し歌手にギターを習った。多感なハンクは路上演奏者から技巧や歌唱を吸収していった。そしてブルーズやゴスペルといった黒人音楽、カーター・ファミリー、ビル・モンロー、ロイ・エイカフといったカントリー音楽の先駆者たちにも耳を傾けた。 才能はすぐに開花して、地元のコンテストで優勝したり、ラジオ局で自分の番組を持つようになった。まだ10代半ばのことだ。その後、自身のバンドであるドリフティング・カウボーイズを結成し、母親がマネージメントを買って出た。学校、ダンスパーティ、酒場などで演奏する日々を送っていく。第二次世界大戦の影響でバンド稼業を休止して、造船会社で働いたこともあった。 1947年にレコード・デビュー。「ムーヴ・イット・オン・オーバー」がカントリー・チャートの4位を記録する。1949年には初のナンバーワン・ヒット「ラヴシック・ブルーズ」を放つと、念願のグランド・オール・オプリ(カントリーの音楽の聖地)の出演を果たしてレギュラーメンバーとなる。スターに登りつめたのだ。 彼はカウボーイ・ハットとウエスタン・ファッションという見た目でも有名になった。南部育ちの男に西部とのつながりは最初からなかったが、自身のバンド名に象徴されるように“古き良き西部”への憧れが強くあったようだ。 それからのハンクは来る年も来る年も、カントリーのアウトローとして後にスタンダードとなる名曲を作ってヒットさせ続けた。「ロング・ゴーン・ロンサム・ブルーズ」「なぜ愛してくれないの」「コールド・コールド・ハート」「ヘイ・グッド・ルッキン」「ジャンバラヤ」「泣きたいほどの淋しさだ」「ユア・チーティン・ハート」など、たった6..
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