2022-02

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【激ムズ間違い探し】部屋の違和感を探せ!

あなたにはこの間違い、見えますか👁? View Entire Post ›
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ブラジルのビーチを150万人で埋め尽くした「世界最高のロックバンド」の稼ぎ方

2006年2月18日、ブラジル・リオデジャネイロのコパカバーナビーチには、一晩で150万人(*1)もの人々が集まった。無料コンサートとはいえ、リゾート地の海岸がこれほどの大観衆で埋め尽くされる光景は滅多にお目にかかれない。「世界最高のロックバンド」と謳われるあのローリング・ストーンズのステージを観るためだ。 このコンサートは当時の新作『ア・ビガー・バン』のワールドツアーの一環だった。32ヵ国118都市を巡るストーンズ流ロックンロール・サーカスは、2005年8月から丸2年も続けられた。結果的に144回公演で468万人(コパカバーナの人数は含めず!)を動員して、5億5825万ドルもの収益を生み出し、ツアー興行記録(*2)を塗り替えてしまった。 驚くのはまだ早い。 ビルボード誌が発表した「90年代以降のツアー興行収益のトータルランキング」では、538公演/約1967万人動員/約15億7000万ドルを稼いだストーンズが堂々のトップに立った。また、フォーブス誌が毎年発表する収入や話題をランキング化した「セレブリティ100」には、大規模なツアーをする度にストーンズがランクインする。 例えば40周年ツアー時は2003年に8000万ドル、2004年に5600万ドル。上記の『ア・ビガー・バン・ツアー』時は2006年に9900万ドル、2007年に至っては1億500万ドルもの収入があった(ちなみに50周年ツアーを行った2013年の収入は3900万ドル)。同誌が単なる収入上位を発表していただけの90年代でも彼らはランキングの常連で、その際には50~70億円という数字が並び、やはりすべてにツアーが絡んでいた。 今の時代、長期間に渡ってスタジアムやアリーナのツアーを実施するのは何もストーンズに限ったことではなく、スター級のロックバンドやポップスターが人気を維持するためには常に求められる華やかなイベントのようなもの。だがそんな中でも、80年代以降のストーンズのツアーは、その継続するスケール感や稼ぎ出す金額に特筆すべきものがある(このコラムの最後にリスト化参照)。 1970年代から1990年代後半までは、アーティストがレコードやCDのセールスで十分稼げた期間だったと、ミック・ジャガーは指摘する。確かにストーンズ自身も60年代は不利な契約に縛られてレコード会社ばかりが儲かる仕組みだったし、ネットカル..
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【診断】あなたの恋は実る?実らない?

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ロビー・ロバートソン27歳〜同い歳だったジャニス・ジョプリンの訃報を聞いた日

ロビー・ロバートソン。 ユダヤ人の父とインディアン母を持つ彼は、カナダで生まれたという。 1960年代に音楽仲間たちとロック歌手ロニー・ホーキンスのバックバンドで腕を磨き、その後レヴォン&ザ・ホークスを結成する。 1966年、彼らはボブ・ディランのワールドツアーでバックバンドを務めることとなる。 1968年に“ザ・バンド”と改名し、デビューアルバム『Music From Big Pink』(1968年)を発表する。 当時、ロビーは25歳だった。 1969年8月17日に、ザ・バンドでウッドストックコンサートに出演。 その月の末にはディランと共にワイト島フェスティバルに参加。 ロビーはこのワイト島出演の際にザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めたと言われている。 同年9月、2ndアルバム『The Band』を発表。 そしてロビーが27歳を迎えた1970年の夏に3rdアルバム『Stage Fright』を発表。 ボブ・ディランのバッキンググループとして十分な実力をつけた彼らは、アメリカンミュージックの方向性に変化をもたらす重要な役割を果たしていた。 「その夏、僕と妻(ドミニク)の間に次女が生まれたんだ。当時、僕ら家族は地元カナダのモントリオールにあるドミニクの実家の近くのアパートで暮していた。僕は親として成長をするべく新たな階段に踏み出していたんだ。二人の娘の父親になると、自分でも気づいてなかった保護者的な側面が表れてくるものさ。そんな日々の中で、僕は音楽的にも“さらに新たなものを!”と模索していたんだ。」 ザ・バンドは留まることなく野心作『Cahoots』(1971年発表)の制作に取りかかる。 ニューオーリンズの音楽シーンを牽引してきたアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、この頃からメンバー間に摩擦が生じだして曲作りもスランプに陥る。 それでも彼らは積極的にステージに立ち、トップクラスのライブバンドとして成長を遂げてゆく。 27歳となり、二人の娘の父親となり、忙しく過ごしていた彼のもとに時代を象徴するような悲しい訃報が届く。 1970年10月のはじめ、作曲用スタジオの増築を考えていた彼はアルバート・グロスマン(ボブ・ディランのマネージャー)からアドバイスをもらうために電話をかけた。 受話器の向こうのアルバ..
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セロニアス・モンクを偲んで〜モダンジャズ界を駆け抜けた“謎の男”の足跡

作家の村上春樹は著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)の中で、セロニアス・モンクについてこんな風に綴っている。 彼の音楽はたとえて言うならば、どこかから予告もなく現れて、なにかものすごいものをテーブルの上にひょいと置いて、そのまま何も言わずに消えてしまう“謎の男”みたいだった。モンクを主体的に体験することは、ひとつのミステリーを受け入れることだった。 彼の晩年は、そのほとんどが謎に包まれている。 1971年、54歳の時にロンドンで録音を行ったのを最後に、彼は二度とレコーディングをしなかった。 1975年のニューポート・ジャズ祭、1976年のカーネギーホール・コンサート出演を最後に彼は隠遁生活に入る。 以降ほとんどの時間を、大富豪パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーターという女性(通称ニカ)の家で妻のネリーと過ごすようになる。 ニカと云えば、1955年にチャーリー・パーカーの最期を看取ったことでも知られているジャズシーンでは有名な庇護者(パトロン)である。 彼は、以前から患っていた双極性障害(躁鬱病)の症状はしだいに悪化してゆき…最晩年は誰とも話しをしなくなってしまったという。 そして1982年2月17日、脳梗塞によって彼はこの世を去る。享年64。 妻ネリーと過ごした隠遁生活の中で、彼がいったいどんなことを考えていたのか?何らかの形で音を奏でていたのか?それはまったくの謎とされている。 遺体はニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。 ジャズ史を語る上で外すことのできない男、セロニアス・モンク。 奇矯な言動やファッションで人を惑わし、深い精神の病を患っていた男だったが、何より独創的だったのは、他ならぬそのピアノ演奏だった。 1940〜1960年代まで黄金期を迎えた“モダン・ジャズの時代”において、独特のタイム感とコード感、そして休符の目立つ旋律などで、新風を巻き起こした人物である。 まだ20代前半だった彼は、1940年代初頭に成立したジャズの演奏スタイル“ビ・バップ”の聖地であったライブハウス『ミントンズ・プレイハウス』のピアニストに雇われ、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーらと共演するようになる。 若い頃から多くのミュージシャンから崇拝されていたが、その高い音楽性が世界に知られることとなったのは、彼が30代後半(1950年代)にな..
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これが本当の80年代サウンド④〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ハノイ・ロックス「Up Around The Bend」(1984年・全英61位) フィンランド出身のロックバンド。フロントマンであるマイケル・モンローのルックスの高さもあって日本では洋楽雑誌を中心に人気が高かった。母国から英国へ、そして米国へ。CCRのカバーであるこの曲でブレイクするかと思われた矢先、ドラマーが事故死。その後解散するが、ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズらがリスペクトして再評価と知名度が高まった。 ドクター&ザ・メディックス「Spirit in the Sky」(1986年・全英1位) ロンドンのクラブシーンから火がついて大ヒットした、サイケデリック・リヴァイヴァルを象徴するナンバー。アメリカのシンガー・ソングライター、ノーマン・グリーンバウムが1970年にヒットさせた曲のカバーであり、当時日本のFM局やMTVでも頻繁に流れていたことを思い出す。 ファビュラス・サンダーバーズ「Tuff Enuff」(1986年・全米10位) テキサス出身のブルーズバンド。スティーヴィー・レイ・ヴォーンの実兄であるギタリストのジミー・ヴォーンが在籍していたことでも有名。MTV全盛期の80年代半ばは、イギリスは変化球(まさに上記)、アメリカ南部は彼らのような直球アーティストが突如としてチャートを駆け上がる面白い時代だった。 アーケイディア「Election Day」(1985年・全米6位) 人気全盛だったデュラン・デュランから派生した二つのプロジェクト。といえば真っ先にジョン・テイラーとアンディ・テイラーのパワー・ステーションを思い浮かべる人がほとんどだろう。もう一つは、サイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラ..
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フットルース〜2011年にリメイクもされたMTV感覚満載の80年代大ヒット作

1981年に開局したMTVは1983〜1986年頃に全盛期を迎えていた。その影響でヴィジュアル性に富んだカルチャー・クラブやデュラン・デュランといったイギリスのNew Waveグループ、ヴァン・ヘイレンを筆頭とする長髪メイクのHeavy Metal勢がヒットチャートの常連に。 そしてマイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナ、シンディ・ローパーなど時代の顔となるアーティストたちの登場。巨額の費用を掛けたストーリー性あるビデオ製作も当たり前になり、1984年からはMTVアワードの開催がスタート。 中でもMTV人気の一番の恩恵を受けたのは、ティーンエイジャー向けに作られたダンスシーン満載の青春映画だったかもしれない。1983年の『フラッシュダンス』はその先駆けとなって大ヒット。当然サウンドトラックも売れまくり、80年代のサントラブームもここから始まった。 『フットルース』(FOOTLOOSE/1984)はまさにそんな時代を象徴する1本。ハーバート・ロス監督は「MTVの感覚を念頭に置いて作った」と言うし、サウンドトラックはすべての撮影を終えてから、各場面のイメージに合わせてアーティストたちが曲作りをしたそうだ。ドラマの展開や人物との動きに音楽が見事に一致していたのはそういうわけだ。 出演はケヴィン・ベーコン、クリストファー・ペン(兄はショーン)、サラ・ジェシカ・パーカー(映画観ていて大発見!)ほか。脚本家ディーン・ピッチフォードがオクラホマの田舎町で現実にあった新聞記事をヒントにシナリオを書いた。 ユタ州の田舎町バーモント。この保守的な場所では教会や牧師が絶大な力を持っている。都会のシカゴから転校してきた高校生のレン(ケヴィン・ベーコン)は、クワイエット・ライオットを大音量で聴きながら登校。いきなり警察にカセットテープを取り上げられる。この町では5年前にロック音楽に夢中になっていた高校生たちが酒に酔って事故死。以来、公序良俗の名のもと、若者たちのダンスが全面的に禁止されていたのだ。 友達もでき、牧師の娘アリエルにも恋心を抱くレン。しかしアリエルには地元の彼氏がいて反感を買ってしまう。レンの当たり前の言動は、田舎町にとっては脅威に映って誤解を生んでいく。さらに5年前に亡くなった高校生がアリエルの兄であることも判明。法律は父親が先導して取り決めたことだった。 レンの大人たちへの..
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リアリティ・バイツ〜“厳しい現実”と直面したX世代と忘れ得ぬ名曲「Stay」

1991年に刊行された『ジェネレーションX〜加速された文化のための物語たち』は、1961年生まれのカナダ人作家ダグラス・クープランドによる小説で、欧米のポップカルチャーで話題となって日本でも翌年に翻訳されたので、手に取った人もいると思う。 「ジェネレーションX」とは1961年〜1981年生まれの世代を定義しているが、クープランドの著書は60年代生まれのポスト・ベビー・ブーマーたちを描いた青春ロードノベルだった。 アメリカと日本の社会背景や出来事は多少違うので世代意識は完全に一致しないが、日本ではバブル期に青春を送った60年代半ば〜後半生まれの「新人類」や、崩壊後に就職難と直面した70年代前半〜半ば生まれの「団塊ジュニア」あたりを「ジェネレーションX」と呼ぶ傾向があった。 少し前に活躍したニュー・ロスト・ジェネレーション世代の作家(ブレット・イーストン・エリスやジェイ・マキナニーなど)がスタイリッシュな消費/享楽文化の中で無気力・無関心・無感動のように生きる若者たちを描いていたのに対し、クープランドは孤独と不安と喪失感の中にありながらも、既存のシステム社会から抜け出して新しい価値を求めようとする若者たちに光をあてようとした。 そういう意味で日本で「ジェネレーションX」を再定義するなら、「90年代に青春期を送った世代」と言い換えていいのかもしれない。 今の若者は、たかがBMWを買うために週80時間も働いたりしません。60年代に反体制やカルチャー革命を謳った人々は今や無心に毎朝ジョギングする始末。では、現在の私たちはどう生きるべきか。受け継いだ重荷をどうすべきか。卒業生の皆さん、答えはいたって簡単です。その答えは、答えは……分かりません(I Don’t Know) 大学の卒業式で総代スピーチを行うリレイナ(ウィノナ・ライダー)の姿から始まる『リアリティ・バイツ』(REALITY BITES/1994)は、学生から社会人へと変換しようとする「ジェネレーションX」の若者たちを描いた作品。俳優としても有名なベン・スティラーの初監督作品で、この映画にも旧世代の象徴として出演している。ウィノナ・ライダーは日本でも大人気だった。 物語は、TV局の契約社員になったリレイナのほかに、売れる見込みのないバンド活動を続けるトロイ(イーサン・ホーク)、ゲイであることを告白したサミー、GAP..
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スラップ・ショット/カリフォルニア・ドールズ〜隠れファンが多いカルトムービー

公開されてからも一部の熱狂的なファンに支持され続ける映画が存在する。いわゆるカルトムービーと呼ばれるもので、次世代の新たなファンを獲得しながら作品は再評価を繰り返してきた。名作には及ばないものの、人々の心に強く不思議な印象を残す映画でもある。 今では劇場公開された映画は、数ヶ月後にDVDやネット配信されることは当たり前だが、1980年代前半くらいまでは、民放のロードショー番組がその役割を果たしていた。日本語吹き替えされ、CM挿入のため編集もされる。だがそれでも、当時の少年少女たちにとっては洋画と向き合うことは興味深い、実りのある時間だったと思う。見逃すと後がなかった。 TAP the POPのこの映画コーナーでは過去多くの作品を取り上げてきたが、1980年代前半までのタイトルは大抵こうした「家のリビングのTVで初めて観た」ものが多い。そしてずっと記憶に残ったものだけが、大人になってビデオやDVDを購入して、今度は吹き替えなしで一人暮らしの部屋で再上映されてきた。久しぶりに観ると感動すら覚える。内容以上に「あの頃の自分」を思い出すからかもしれない。 今回紹介するスポーツを題材にした2本にも、何か特別な思い出を持っている人がいるはずだ。『スラップ・ショット』(Slap Shot/1977)と『カリフォルニア・ドールズ』(…All the Marbles/1981)の最大の魅力は、「強烈な70年代臭」あるいは「淡々とした空気感」に尽きると思う。何度観ても妙な心地よさを感じてしまうのは、過剰な演出や技術、マーケティングやビジネスが詰まったハリウッド超大作(もしくは製作委員会スタイルの邦画)を見慣れてしまった頭と心が、原点回帰を促しているからだ。両作品からは不器用な男と女たちの色気と体臭が画面いっぱいに漂ってくる。 名優ポール・ニューマン主演、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スラップ・ショット』は、マイナー・リーグのアイスホッケー・チームを題材にした人間ドラマだった(当時は卑劣な言葉が飛び交う点でも話題になったそうだが、このリアルな脚本は女性が書いたという意外な事実も最近知った)。カルトムービーになったのは、メガネのハンセン3兄弟というキャラクターによるところが大きい。なお、フリートウッド・マックやエルトン・ジョン、レオ・セイヤーやマキシン・ナイチンゲールのヒット曲が、カーラジオ..
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【激ムズ】ディズニーの悪役たちのこと、どれくらい知ってる?

真のディズニー通じゃなかったら、全問正解は無理かな〜😈 View Entire Post ›
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