2022-02

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これが本当の80年代サウンド①〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、(大人の事情もあってか)いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。まずはパート1。ちなみにパート10くらい続く予定。(選曲/中野充浩) ロマンティックス「Talking in Your Sleep」(1983年・全米3位) デトロイト出身のロックンロールバンド。これぞアメリカン・パワーポップ。4作目『In Heat』がヒット。 ミスター・ミスター「Broken Wings」(1985年・全米1位) LAのスタジオミュージシャン出身のメンバーを中心に結成。セカンド『Welcome to the Real World』が全米ナンバーワンとなり、シングル「Broken Wings」「Kyrie」もチャートのトップに立った。 カッティング・クルー「I’ve Been in Love Before」(1986年・全米9位) イギリス出身のロックバンド。デビュー曲「(I Just) Died in Your Arms」がいきなり全米ナンバーワン・ヒットに。 スキャンダル「The Warrior」(1984年・全米7位) パティ・スマイスを看板とするNY出身のロックバンド。1982年にEP『Scandal』でデビュー。1984年にフルアルバム『The Warrior』をリリース。タイトル曲がヒットした。 ティル・チューズデイ「Voices Carry」(1985年・全米8位) ボストン出身。1985年にアルバム『Voices Carry』でデビューしてタイトル曲がヒット。女性ヴォーカルのエイミー・マンはソロ活動へ転身した。 ローン・ジャスティス「Ways to Be Wicked」(1985年・全米71位) 女性ヴォーカリストのマリア・マッキーを中心としたLA出身のカントリーロックバンド。1985年..
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フリートウッド・マック〜二組のカップルの破局から生まれた歴史的ベストセラー『噂』

それは、新しいメンバー探しをしていたミック・フリートウッドに、プロデューサーのキース・オルセンが自分が手掛けた無名デュオのアルバム『Buckingham Nicks』を聞かせたことがすべての始まりだった。 ミックはその片割れであるリンジーをすっかり気に入ってしまい、自らのバンドであるフリートウッド・マックに勧誘する。しかし、リンジーは「スティーヴィーと一緒なら参加したい」ことを申し出た。二人は貧乏生活を共にする恋人同士であり、音楽上の大切なパートナーだったのだ。曲を途中から作るスティーヴィーがメンバーの音楽心を刺激するのは間違いなかった。 リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスという二人のアメリカ人新メンバーを迎え入れて1975年にリリースした『Fleetwood Mac』は、発売から1年以上をかけてチャートのトップまで登り詰める。売れないデュオが書きためていた曲によって、60年代後半にデビューした英国バンドが遂に世界的成功を掴んだ瞬間だった。 翌1976年。彼らは次作『Rumours』(以下『噂』)の制作に取り掛かることになるのだが、ここで大きな問題が起こってしまう。同棲していたリンジーとスティーヴィー、そしてジョンとクリスティン・マクヴィー夫妻に破局が訪れたのだ。 あの時は離婚の話をしている真っ最中で、お互いに別居を考えたりして落ち着かない時期だった。だからレコーディングの話には飛びついたよ。家を離れて仕事に集中したかったんだ。心から愛している女性から「さよなら」を告げられたのだから。(ジョン・マクヴィー) カリフォルニアのサウサリートにある小さなスタジオで、『噂』のレコーディングは始まった。大勢のスタッフに囲まれながらの日々はラフな雰囲気を醸し出していたが、二組のカップルの間には緊迫した空気だけが流れていた。 当時の曲はどれを聴いても私たち二人の関係を歌っている。『噂』っていうタイトルを考えたのはジョンよ。心の内を覗くような歌詞は『噂』であってほしいという内容だった。(クリスティン・マクヴィー) 二人は会話も交わさなくなった。しかし、同じバンドのメンバーとして一つの音楽を追求するという現実を受け入れなければならなかった。やり場のない気持ちは隅に追いやって、やるべきことをやっていくしか他に方法はない。これは試練だ。それはもう一つのカップルも同じ..
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アレックス・ハーヴェイを偲んで〜70年代のイギリスで怪しくも骨太なサウンドを響かせたロックバンドを率いた男の軌跡

1982年2月4日、アレックス・ハーヴェイ(享年46)が死去したニュースが流れる。 死因は心臓発作と発表された。 1970年代に、ザ・センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド(The Sensational Alex Harvey Band)のフロントマンとして人気を博し、音楽ファンの間では“知る人ぞ知る”実力派ロッカーだった彼。 その音楽歴はビートルズやストーンズのデビューした60年代初期にさかのぼる。 1950年代のイギリスにおけるスキッフルブームに触発されて音楽キャリアをスタートさせたという。 1959年に結成したAlex Harvey & His Soul Bandで活動するも、長い間売れない時代を経験。 1969年にロンドンで注目を集めたミュージカル『Hair(ヘアー)』に出演して、ようやく陽の目を見ることとなる。 1970年代初頭、同郷グラスゴー出身のバンドTear Gus(ティア・ガス)と知り合い、意気投合した後にThe Sensational Alex Harvey Bandを結成。 演劇的要素を取り込んだステージングで注目を集め、ようやく“ポストグラム”として頭角をあらわした頃には、すでに37歳だったという。 アレックス・ハーヴェイ- ヴォーカル・ギター ザル・グレミンソン- リードギター クリス・グレン- ベース テッド・マッケンナ- ドラムス ヒュー・マッケンナ- キーボード 同じスコットランドの血を持つ布陣で1972年、ヴァーティゴレコードよりデビューアルバム『Framed』をリリース。 基本となる音楽性はハードロックであったが、アレックスの多彩な音楽遍歴を反映するかのように、ブルース、ブギ、ミュージカル的な曲など様々な要素を内包するバンドとして注目を集める。 彼らは高い演奏技術を基本にしながら、滑稽なパフォーマンスやシアトリカルな演出をふんだんに織り込み、一躍人気バンドへと上り詰めてゆく。 バンドが上り調子だった1975年頃、彼らにまつわるこんなエピソードが残っている。 後にセックス・ピストルズのベーシストとなるグレン・マトロックが、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドの経営していたブティック『SEX』で店員をしていた時の話である。 「その頃、センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドはよく店に買い物をしに来..
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カレン・カーペンターを偲んで〜輝かしい活躍の舞台裏で彼女が抱えつづけた“心の闇”とは!?

1983年2月4日、カレン・カーペンターは32歳でこの世を去った。 死因は摂食障害がもたらした心不全だった。 カーペンターズといえば、彼らが活躍した1970年代当時、ホワイトハウスやディズニーランドでの演奏を許された唯一のミュージシャンだった。 ビートルズのポール・マッカートニーは、彼女の歌声とカーペンターズの音楽についてこう賛美している。 「世界で最高の女声であり、旋律が美しく、豊かで、そして独特だ。」 20代前半で世界的な大スターとなった彼女。 地位も名誉も財産も手に入れながらも、なぜ彼女は摂食障害となり、遂には命まで落としてしまったのか? 妹カレンの死後、兄のリチャード・カーペンターはこんなコメントを残している。 「あれから…自分では素晴らしいと思う曲ができることもあります。でも僕はそれを表現する声を永遠に失ってしまったんです。」 彼女の歌声と命を奪ったのは拒食症(神経性無食欲症)という病気だった。 それは常に“自分は太っている”と考えてしまうボディイメージの障害、食物摂取の不良または拒否、体重減少を特徴とするもので神経性食欲不振症、神経性食思不振症、思春期やせ症とも言われている精神の病である。 デビュー当初、普通よりほんの少しぽっちゃりしている程度だった彼女に対して、一部の音楽ファンが“デブの田舎者”などと心無い誹謗中傷をしたという。 彼女はその言葉を聞き流す事ができず、決して太っていたわけではないのに“もっと痩せればもっと愛されるようになるかもしれない”と考えるようになったという。 その後も輝かしい活躍の舞台裏で、常に人に見られる立場の職業である事、芸能界という世界でファッションモデルや女優と頻繁に会う機会があった事、音楽誌に“太っちょ”などと書かれた事などを過剰に気にするようになり、彼女はその病状を悪化させていくこととなる。 そんな中、1980年に彼女は30歳の時に不動産業のトム・バリス(39歳)と結婚をする。 しかしその結婚生活は惨憺たるもので、翌年の末にはすぐに別居してしまう。 夫の心ない言葉や態度によって彼女の病はますます悪化の一途を辿り…その痩せ細った身体と心はボロボロになり、グループの活動にも暗い影を落とすようになる。 1982年、彼女は拒食症の治療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピストを訪ねる。 その年の11月には仕事に復帰..
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【性格診断】『ミラベルと魔法だらけの家』あなたどのキャラクターコンボ?

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ラ・バンバ〜3曲のヒットを残して17歳の若さで逝ったR&Rスター、リッチー・ヴァレンス

1959年。数年前に生まれたばかりのロックンロールが全米中のティーンエイジャーを夢中にさせていた頃。そんな2月3日。吹き荒れる悪天候が原因で、3人の若いロックンローラーを乗せた小型飛行機がアイオワ州のトウモロコシ畑に墜落。翌朝、パイロットも含めて4人全員が死亡しているのが発見される。 亡くなったのはツアーの移動中だったバディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、そしてリッチー・ヴァレンス。この日の悲劇はティーンたちに大きな衝撃を与え、当時その一人だったドン・マクリーンは1971年になって「アメリカン・パイ」という曲をリリースし、「音楽が死んだ日」と歌った。 『ラ・バンバ』(La Bamba/1987)は、スターになった矢先の飛行機事故でわずか17歳の若さで伝説となってしまったリッチー・ヴァレンスの青春と恋、家族と兄弟愛、そして音楽への情熱を描いた映画だった。 本名リチャード・バレンズエラ。1941年5月13日、LA北部の町パコイマで生まれたリッチーにはメキシコ人の血が流れ、貧しい移民コミュニティの中で母親の女手一つで育つ。若者になったリッチーの夢は、明日のロックンロール・スターになって、農場で働く母親とまだ幼い妹たちにマイホームをプレゼントすることだった。 そんなある日、異父兄のボブが刑期を終えてリッチーたちの元に戻ってくる。一家は農場キャンプを離れ、南カリフォルニアで暮らすようになる。新しい高校生活が始まったリッチーは、美しい金髪の女の子ドナと出逢って恋に落ちる。WASP系である彼女の父親はヒスパニックのリッチーを差別の眼差しで見つめるが、ドナはリッチーのもう一つの夢となった。 地元のバンドのメンバーになったリッチーは練習に励みつつ、やがて自分のバンドを結成。母親や兄の注力もあり、町の公民ホールでデビューコンサートを開催する。ボブの不良仲間たちの乱入でメチャクチャになるものの、ドナとの距離は縮まり、レコード会社からもスカウトされる。 1958年。「カモン・レッツ・ゴー」でレコードデビューすると、リッチーの人生は変わり始める。セカンドシングル「ドナ」/「ラ・バンバ」は大ヒット。ドナとも結ばれて新車でドライブ、念願のマイホームも母親にプレゼントすることができた。 兄の嫉妬と確執もある中、リッチーはアラン・フリードのR&Rショーに出演。エディ・コクランやジャッキー・ウィルソンらと..
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コオロギから生まれたカブトムシ〜稀代のロックンローラー、バディ・ホリーの才能と功績

ジョージ・ルーカス監督の映画『アメリカン・グラフィティ』の中に“バディホリーが死んでロックンロールは終わった”というセリフがある。 ──1959年2月3日、それはアメリカのシンガーソングライター、ドン・マクリーンが「American Pie」(1971年全米1位)の中で“The Day the Music Died(音楽が死んだ日)”と歌った日である。 今から半世紀以上も前のこの日…バディ・ホリーをはじめリッチー・ヴァレンス、ザ・ビッグ・ボッパーといった当時の人気ロックンローラー3人が飛行機事故で命を落とした。 バディ・ホリーと言えば、22歳で亡くなるまでの間(厳密にいえば)成功して活躍したのは約1年半に過ぎないのだが、ロック史で最も影響力のあったアーティストの一人として記憶されている。 また彼は、ビートルズやローリング・ストーンズに影響を与えた人物としても有名だ。 ミック・ジャガーは「レコードジャケットの写真を見るまでバディ・ホリーは黒人だと思っていた。彼ほど独創的な人はいない。」と語っている。 キース・リチャーズは「バディは何でも自分でやってしまうし、バンドとしても凄かった。そんな事ができたのはバディが最初だよ。本当の天才だ。」と続けた。 ジョン・レノンは青年時代、眼鏡をかけることに強い抵抗感を持っていたが、バディ・ホリーが“眼鏡をかけたロックンローラー”として堂々と振舞っていたのを見て、人前で眼鏡をかける事を恥ずかしい思わなくなったという。 そして現在、バディ・ホリーの楽曲の著作権をすべて買い取っているポール・マッカートニーは「3コード、バンド、立って楽器を弾くスタイル、ビートルズはバディ・ホリー&ザ・クリケッツの真似から始まった。」と語る。 エルヴィス・プレスリーのようにセクシーでもなく、カール・パーキンズのように泥臭くもなく、ジェリー・リー・ルイスのようにイカれてもいないロックン・ローラー。 黒縁眼鏡とスーツがトレードマークの、スマートでにこやかな男。 バディ・ホリーことチャールズ・ハーディン・ホリーは、1936年にテキサス州の石油と酪農の街ラボックで4人兄弟の末っ子として生まれた。 一家が音楽好きだった影響で彼の音楽体験は早く、4歳でヴァイオリンとピアノを弾き始め、5歳の頃には2人の兄と出場したコンテストで古いブルーグラスの曲を歌って5ドルの賞金を獲得し..
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フニクリ・フニクラ〜あの“鬼のパンツ”の原曲はイタリアで生まれた世界最古のコマーシャルソングだった!

節分(豆まき)のシーズンになると、子供番組や幼稚園で“季節の歌”として唄われる定番曲として愛され続けているこの「鬼のパンツ」。 もともとはNHKの子供向け番組から広まった替え歌である。 原曲は「フニクリ・フニクラ」という、1880年に作曲されたイタリアの大衆歌謡ソング(ナポリ民謡)だったという。 このユーモラスな歌詞(替え歌)を書いたのは一体誰だろう?と様々な資料を調べたところ…JASRACのデータベースでは“作詞者不詳”となっている。 一説によれば、NHK初代“うたのおにいさん”として知られる田中星児が作ったのでは?とも言われている。 田中星児といえば、1976年に「ビューティフル・サンデー」の日本語カヴァーを大ヒットさせたことでも有名だ。 彼は歌手としてだけではなく、自身で作詞作曲を手がけるシンガーソングライターとしても活躍していたようで、主にNHK教育番組向けの曲を数多く残しているというから、ある意味“有力説”と言えるだろう。 ところで、日本の物語や漫画に登場する鬼がなぜ(大昔から今にいたるまで)トラ柄のパンツをはいているのか考えたことがあるだろうか? これには陰陽道でいう“鬼門(きもん)”が関係しているというのだ。 鬼門は鬼が出入りする方角とされ、丑(うし)と寅(とら)の間の方位、すなわち北東を指すのだが、この牛(二本の角)と虎(毛皮の模様)のイメージがそのまま鬼のイメージとして定着していった…という興味深い説があるのだが、これもまた真相は謎のままである。 さて、この「鬼のパンツ」の原曲「フニクリ・フニクラ」にもまた面白い誕生エピソードがあるという。 イタリアのナポリ郊外東12キロのところに“ヴェスヴィオ”という名前の火山がある。 標高1277メートル、周囲12キロメートルにも及ぶ外輪山を持つその火山は、ローマ帝国時代にあのポンペイの町を破壊したことでも知られている。 1748年に発見されたポンペイの遺跡は、以降、観光客が大勢訪れる世界有数のスポットとなる。 当時「これを放っておく手はない!」と、トーマス・クックという観光会社が火山の山頂まで観光客を運ぶ登山電車を発案し、1880年に開通させる。 トーマス社は、この電車に“フニクリ・フニクラ”という名前をつけた。 イタリア語でケーブルカーのことを “finicolare(フィニコラーレ)” と言い、いわゆる..
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ザッツ・エンタテインメント〜アステアやケリーが歌って踊ったミュージカル映画30年史

1996年2月にジーン・ケリーが亡くなった時、アメリカのABCテレビのニュース番組が流した追悼映像は前代未聞のものだった。 「歌って踊れる偉大な映画スターが83歳の生涯を閉じました」と伝えた後、何の言葉も一切交えずに『雨に唄えば』(1952年)のダンスシーンだけをただ流し続けたのだ。水たまりで飛び跳ね、街灯の下で踊り、初めて恋を知ったかのように踊るケリー。ただそれだけが4分間続いた。 これは間違いなく、ミュージカル映画至上最高のシーンだろう。この映像が素晴らしくもほろ苦い追悼になりえたのは、単に一人のスターへのお別れ以上の意味があったからだ。それは、ミュージカル映画の“死”に対する追悼だった。 30年代〜50年代にかけて全盛を誇ったミュージカル映画は、その後のテレビの普及やロックンロールとティーンエイジ文化の登場で人気が下降。80〜90年代になると映画はすっかり歌うことを忘れていた。それを嘆き悲しむかのように、マーク・パイザー氏は自身のコラム(『ニューズウィーク』誌「シネマの20世紀」/1998年)で冒頭の言葉を綴ったのだ。 感動的であるが、もう遥か昔のこと。ミュージカル映画は夢の時代の産物・象徴であり、すでに家族の形が崩壊してしまった厳しい世の中では誰も求めていない世界。極端に言えば、そんなムードさえ漂っていたのだろう。 これは日本においても同じようなことが言える。特にテレビがそうだ。70年代までそれは“お茶の間”の主役であり、そこには一家団欒ための健全な演出・調和された世界が確かにあった。しかし80年代に入ると、台本のないフリートークやタレントのプライベートトークが蔓延。以後、派手なテロップも当たり前となり、アナウンサーでさえアイドル化。ネットやSNSが浸透すると情報/速報性も薄れ、みんなテレビを真剣に見なくなった。 その反動だろうか。2000年代に突入してミュージカル映画は復活の兆しを見せ始める。興味がない人でも『マンマ・ミーア!』(2008年)や『レ・ミゼラブル』(2012年)、最近では『ラ・ラ・ランド』(2016年)の大ヒットくらいは知っているはず。ブロードウェイのミュージカル舞台ともシンクロしながら、明らかにニーズは高まりつつある。ディズニーアニメが永遠に母と子供たちのものなら、現在のミュージカル映画は古き良き時代を知らない“新しい大人たち”のものな..
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【食べ物性格診断】あなたは変幻自在のパンタイプ?それとも…

7つの簡単な質問に答えてね! View Entire Post ›
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