2022-03

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ブライト・ライツ、ビッグ・シティ〜午前6時、いま“君”のいる場所。

君はそんな男ではない。夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない。 1984年夏。そんな一節で始まる新人作家の処女作がアメリカで出版された。長編小説のタイトルは『Bright Lights, Big City』。作家の名はジェイ・マキナニー。あのフェリーニの『甘い生活』やサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の現代版とも言える内容と、“君”という二人称で静かに描かれる喪失のシティライフ。 世代を代弁するスポークスマン的作家が長い間出現することのなかったニューヨークにとって、29歳のマキナニーとこの作品はたちまち一大センセーションを巻き起こし、書店では山積みされてベストセラーを記録。さらに翌年には、20歳の大学生ブレット・イーストン・エリスがロサンゼルスを舞台にした衝撃的な『レス・ザン・ゼロ』でデビュー。こちらも大きな話題となる。 こうした新しい感覚を持った書き手たちの登場は、マスコミによって「ニュー・ロスト・ジェネレーション」(あらかじめ失われた世代)」として名づけられた。1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション」(失われた世代)と称されたF・スコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイらが活躍したムーヴメントを再構築化。アメリカ文学が一気に若返り、そして余りにも眩しく輝き始めた。 マキナニーには『Bright Lights, Big City』を書くにあたって、土台にした一つの自作の短編があった。「午前6時、いま君のいる場所」(It’s Six A.M. Do You Know Where You Are?)と題されたその作品は、1982年に文芸誌「パリス・レビュー」で発表。その時はまだ作家を目指す金欠の青年だったが、この秀逸な短編の存在こそが2年後の長編へと生まれ変わったのだ。 1955年にコネティカット州で生まれたジェイ・マキナニーは、大学卒業後に地方紙の記者や英語を教えるために日本にも2年間滞在した経歴を持つ。その後、1979年にニューヨークへ出てくると、いくつかの出版社で働きながら、レイモンド・カーヴァーのもとで小説創作を学んでいく。「午前6時、いま君のいる場所」はそんな時期に書かれた短編だった。 「New York 94」という90年代に発表したエッセイで、マキナニーは自身が過ごした80年代の摩天楼をこう振り返っている。 ..
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春咲小紅〜矢野顕子という“ブレない音楽家”をお茶の間に浸透させたCMソング

ホラ 春咲小紅 ミニミニ見に来てね わたしのココロ ふわふわ舞い上がる 自分で言うのもヘンだけど 今日はなんだかキレイです カネボウ化粧品の春のキャンペーンのCMソングに起用されたこの「春咲小紅」(はるさきこべに)は、矢野顕子の5枚目のシングルとして1981年2月1日にリリースされた。 オリコン週間シングルチャート最高位5位を記録し、矢野の名前を一気に全国区にしたヒットソングである。 彼女の楽曲に、当時“新進気鋭のコピーライター”として名を馳せていた糸井重里が作詞を担当。 編曲の“ymoymo”はイエロー・マジック・オーケストラの別名義。 そんな製作チームが手掛けたCMソングは、まだ歌謡曲が全盛期だった日本の音楽シーンにカラフルで軽快な新風を吹かせることとなった。 それまでの彼女は一般的な知名度こそ低かったものの、ニューミュージック界では“実力派”として一目置かれる存在だった。 「自分よりも才能が下の人とやるのって嫌でしょ?」 かつて彼女は“ザリバ”というバンドを解散させるのあたってこう言い放ったという。 3歳の頃からフランス人教師についてクラシックピアノを習い、小学6年生でジャズに目覚めたという彼女の経歴がそう言わせたのだろう。 青森から上京して、高校は青山学院に入学。 雑誌に載った軽音楽部に入るためだった。 しかし、思ったほど情熱のある部員がいなかったことやジャズ喫茶などでピアノを弾くバイトが忙しくなってあっさりと中退。 ストレートな物言いが示す通り、フワフワ浮いているような歌の雰囲気とは違って、若い頃は結構辛口な発言が彼女の特徴でもあった。 当時の彼女は自信に満ちあふれていた。 それだけに、一部の関係者からは「生意気だ」「ツッパっいる」というイメージで見られていたという。 ザリバを解散して二ヶ月後、彼女はソロアルバムのレコーディングを始めたが…今度はリズムセクションだけを録音した時点でいきなり製作を放り出す。 「自分自身の音楽を創るには、あまりにも甘えがありすぎたんです。」 彼女の“創造”にかける厳しい姿勢には終始一貫したものがあったという。 そして三年後…21歳を迎えた彼女はフルアルバム『ジャパニーズ・ガール』( 1976年)で本格的にデビューを果たす。 当時の担当ディレクター三浦光紀はこう振り返る。 「矢野顕子という天才がいると聞いて会いに行ったのです..
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さくらの歌〜日本人が大好きな“桜ソング”にまつわるエトセトラ

さくら(独唱)/森山直太朗 さくら さくら 今、咲き誇る 刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って さらば友よ 旅立ちの刻(とき)  変わらないその想いを 今 今年も各地で桜の開花が発表されいよいよ春本番ですね! 東京では3月末〜4月初旬にかけて見頃を迎えるところが多く、桜の名所はどこも花見客で賑わいを見せることだろう。 春の息吹を感じその到来が近づくにつれ、思わず口ずさんでしまう歌がある人も少なくないはず。 J-POPシーンにおいて“桜ソング”というジャンルが定着したのはいつ頃からなのだろう? なぜこれほどまでに日本人の琴線に触れるのか? この季節になると、テレビやラジオ番組などさまざまなメディアを通して「桜」をテーマとした楽曲がフィーチャーされる。 昔から「桜」を歌った曲は多数あったはずだが、歌謡曲のジャンルとして“桜ソング”が広く世間に定着しはじめたのは、今から十数年前のことだという。 そのイメージを決定づけた歌が、2000年4月にリリースされた福山雅治の「桜坂」だった。 同作は、この年の年間シングル売上ランキング2位となる228万枚以上を売上げ(オリコン調べ)、以降、毎年のように桜にまつわる楽曲が発表されるようになった。 2000年代中盤にかけて、森山直太朗の「さくら(独唱)」(2003年3月発売)やケツメイシの「さくら」(2005年2月発売)、コブクロの「桜」(2005年11月発売)など、いまや王道となった上質な桜ソングが次々と誕生し、軒並み好セールスを記録。 “桜ソング”自体のブランド感もより高まり、その後も多くのアーティストが同様のテーマで楽曲を発表した。 例えば、いきものがかりが「SAKURA」(2006年3月発売)でメジャーデビューを鮮烈に飾ったり、アイドルグループなどが毎春“桜ソング”のリリースを恒例としている。 「桜」が日本人の心を掴んでやまないのは、なんといっても開花から散り際、昼間と夜、その一瞬一瞬を楽しませてくれる“刹那的な美しさ”があるからだろう。 この花が脚光を浴びはじめたのは…さかのぼること平安時代。 『古今和歌集』や『源氏物語』といった書物の中に度々登場したり、俳句などの季語としても馴染みが深かったりと、その美しさは時代を超えて人々を魅了し、眺める者の感性を刺激してきた。 親しみという点では、日本の紙幣や硬貨のデザインとして使..
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これが本当の80年代サウンド⑪〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ロクセット「Dangerous」(1989年/全米2位) スウェーデン出身の二人組(ペール・ゲッスルとマリー・フレデリクソン)。ロクセットの隠れファンは多いと信じている派だが、さすがに最近は話題にも上がらない。FMから流れると歓喜ものだ。80年代後半から90年代前半にかけて世界規模でヒットを連発。キャッチーな楽曲は昼下がりのドライブにも最適だった。 フィッシュボーン「Party at Ground Zero」(1985年) このバンドを知ってる人はかなりの音楽好きなはず。タイトル画像はこのLA出身のミクスチャーバンド。当時はレッチリよりも人気があった。と言っても時代は80年代。彼らのような一歩も二歩も先を行く感性が大衆に理解されるのにはまだまだ早すぎた。日本では2トーンやジャマイカン・スカなんかを聴いていた元祖クラブピープルに人気があった。 ティファニー「I Think We’re Alone Now」(1987年/全米1位) かつてブリトニー・スピアーズやテイラー・スウィフトがデビューした頃、いつも1987年のこのティファニーを思い出していた。80年代後半に突如として吹き荒れたティーン・ポップ/ティーン・アイドル旋風。アメリカのショッピングモールを巡る画期的なツアー。日本でも大人気となり来日公演も行った。そんな彼女も間もなく50歳。 デビー・ギブソン「Out of the Blue」(1988年/全米3位) そのティファニーとライバル視されたのが、同年にデビューしたデビー・ギブソン。しかし彼女はアイドルというよりは優れたシンガー・ソングライターでもあった。大名曲「Lost In Your Eyes」がリリースされるのは1989..
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男たちのバラード②〜あの時孤独な心を救ってくれた“至上の一曲”たち

傷つき疲れ果てた夜。屈辱に覆われた夜。孤独に耐え抜いた夜。辛い過去に囚われた夜。悲しみに暮れた夜。一人で泣いた夜。そして静かに復活を誓った夜……あの時救ってくれた音楽。あの時人知れず耳を傾けた自分だけの音楽。アーティストたちも同じ風景を見つめていたのだろう。題して「男たちのバラード」。この至上の一曲たちを打ちのめされた男たちに捧ぐ。(選曲/中野充浩) ローリング・ストーンズ「If You Really Want to Be My Friend」 1974年の『It’s Only Rock ‘n Roll』に収録された心に染みる1曲。ストーンズのアルバムには必ず1曲はバラードが入っていて、ピアノバラードやカントリーバラードなどそのどれもが表情豊か。これはストーンズ流の至上のソウルバラードであり、孤独な夜を乗り越えるための歌だ。何度聴いても胸が熱くなる。決してベスト盤には入らないが、こんな名曲を絶対に聴き逃してはならない。 ブルース・スプリングスティーン「Racing in the Street」 1978年の『Darkness on the Edge of Town』に収録された心に染みる1曲。この曲を初めて聴いた10代の夜。思い浮かべたのは寂れた町に生きる一人の男の姿だった。夢と希望に満ち溢れた時代が過ぎ去り、今では妻子と家庭を持ち、厳しい現実と向き合いながらループする毎日を送る。それでもいつかは。郊外の労働者の心の風景を描かせたら、ボスの右に出る者はいない。 ジョン・レノン「Stand By Me」 1975年の『Rock ‘n’ Roll』に収録された心に染みる1曲。自分を見失いそうになったら自らのルーツに戻ること。原点回帰する男は美しい。誰もが知る名曲のカバーだが、ジョンの歌声を通じて聴くと、悲しみを直視し打ちのめされながらも、それでも前を向いて生きていこうという力を与えてくれる。こういう曲を聴くたびにむしょうに嬉しくなる。 ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンド「The Famous Final Scene」 1978年の『Stranger in Town』に収録された心に染みる1曲。ボブ・シーガーの曲から思い浮かべるのは、ハイウェイ、郊外の町、酒場やトラック、デニムを履いた人々、ダイナーやモーテルの灯り。日本の都市部で聴くと馴染まないが、な..
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松田聖子のヒット曲「赤いスイートピー」の誕生秘話

1982年1月21日、当時トップアイドルの名をほしいままにしていた松田聖子が8枚目のシングルをリリースした。 曲のタイトルは「赤いスイートピー」。 その歌は、これから訪れる新しい季節に向けた“春ソング”だった。 クレジットには作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由実のペンネーム)の名が記されている。 スイートピーと言えば、春の代表的な花である。 原産はイタリアのシチリア島。 花言葉は「門出」「優しい思い出」「青春の喜び」「別離」「微妙」などなど。 門出の由来は、花姿が今にも飛び立つ蝶のように見えることからだという。 スイートピーの“スイート”は香りの良いこと、そして“ピー”は豆という意味らしい。 「ライバルに曲を書いてみない?」 当時、作詞担当の松本隆がユーミンに作曲を依頼したという。 “トップアイドルの松田聖子に女性ファンを増やしたい”というレコード会社(プロデューサー)の意向に対して、ユーミンは作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌い、当初は渋っていた。 そこで、作曲者名にペンネームである「呉田軽穂」を使用する条件で引き受けたのだ。 「誰が作ったか知らなくても、曲調だけで聞き手の心をつかめたなら、これほど作家冥利に尽きる事はない。そして本当にその通りになったのでとても充実感のある仕事でした。」 当時の聖子は過度なスケジュールの影響から喉を酷使し、歌唱時に声が擦れてしまう事があった。 そこでプロデューサーはユーミンに対して、喉に負担が掛からないようキーを抑えたスローバラードを作って欲しいと依頼した。 ユーミンが完成させた曲は、元々はサビの最後のフレーズで音程が下がる曲だった。 「春をイメージした歌なので、最後は音程を上げる形にして春らしくしてもらいたい。」 プロデューサーからの難しいリクエストを受けて、ユーミンは戸惑ったという。 「提供した曲をダメ出しされたのは、後にも先にもその時だけなのですごく驚きましたが、今になって考えると春の歌だし、あれで良かったんだと思います。そして、相手が誰であろうと妥協せずに向かい合うスタッフがいたからこそ、彼女(聖子)は短期間であれだけの存在になれたのでしょう。」 松本はユーミンが先に作ったメロディーを受け取った時「単純に詞をつけていくとユーミンみたいな語感になってしまう」と感じて、かなり抵抗して、松本風の..
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ジョニー・キャッシュ〜“本物”を伝え続けた奇跡のTVショー

「俺はここ以外で、やらないよ」 ジョニー・キャッシュは自身の名前がつけられたTVショーの収録会場について話し合っている時、キー局のお偉方にそう言い放った。“ここ”とは、ナッシュビルのライマン公会堂。『グランド・オール・オプリー』の本拠地であり、“カントリー・ミュージックの聖地”と言ってもいい場所だった。 当時のキャッシュは、刑務所でのライブアルバム『At Folsom Prison』の成功によってキャリアの全盛期。収録場所に拘ったのは単なるスターのわがままではなく、キャッシュのカントリー・ミュージックに対する心に、深い愛情と敬意があったからこそだろう。“ここ”でないと、やる意義がなかったのだ。 こうして1969年6月7日、『ジョニー・キャッシュ・ショー』は始まった。 ライマン公会堂は古くて狭く、全米ネットの番組を制作できるほどの十分な環境設備がなかったにも関わらず、キャッシュはもちろん、レギュラー出演者やスタッフたちの絶え間ない努力と情熱で、週に一度のショーは感動的なものへと姿を変えていく。 名場面は数えきれない。カントリーを中心にしつつも、様々なジャンルのゲストたちが集った。 TV出演とは無縁で数年間人前に出ることのなかったボブ・ディランの登場。 政治的な物議をかもしかねないフォーク・シンガー、ピート・シーガーの出演。 引退状態だったジャズのルイ・アームストロングがカントリーのジミー・ロジャースの歌を歌い、オリジナル・カーター・ファミリーのマザー・メイベルが独創的な演奏を披露した。 「カントリーゴールド」というコーナーでは、伝説的なブルーグラスの創始者ビル・モンロー、亡くなったハンク・ウィリアムスの歴史的な映像が紹介されたこともある。 「ライド・ジス・トレイン」では幻想的なナレーションとともに、アメリカの過去の壮大な音楽の旅へと導いた。 「オン・キャンパス」ではベトナム戦争に反対する学生たちと意見交換もした。 それは良質なエンターテイメントであり、カントリー入門であり、音楽的オアシスと言えた。ただ楽しませるだけでなく、人々の良心に訴えて物事について深く考えさせてくれる機会となり、同時に様々なミュージシャンの意外なつながりや影響関係が、キャッシュの番組を通じて知ることができるようになった。 キャッシュの長年曲げることのなかった音楽に対する誠実さは、ゴールデンタイム..
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エヴァ・キャシディ“奇蹟の歌声”

その人の名はエヴァ・キャシディ。 33歳で夭折した彼女の歌声は、人々の心の中で静かに生き続けている。 Nightbird(夜鳥)というタイトルがつけられたこのアルバムが、多くの人の手元に届くことを願いながら…その“奇蹟の歌声”をあらためてご紹介します。 1996年7月、彼女は皮膚癌の一種“メラノーマ(悪性黒色腫)”と診断される。 癌はすでに腸骨に転移しており、余命3〜5ヶ月と宣告されたという。 そして9月、彼女は急速に失われてゆく体力をふり絞るように“人生最後のステージ”にのぼる。 その公演は、友人や家族を含むファンが見守る中、自身が生まれ育った地元ワシントンD.C.の小さなライブハウスで行われた。 その夜、彼女がラストソングに選んだのは…ルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」だった。 (※こちらのライブ映像は1996年1月に撮影された『Live At Blues Alley』の模様) その死から3年と数ヶ月後…2000年の或る日、イギリスのBBCラジオから彼女が歌った「Over The Rainbow(虹の彼方へ)」が流されると、問い合わせが殺到した。 その“無名の歌声”は、たちまちリスナー達を虜にし、この曲を収録した彼女のアルバム『Songbird』は瞬く間に全英No.1を獲得する。 それに呼応するように、全米POPチャートでもNo.1となった。 そんな“奇蹟の歌声”を持っていた彼女は、いったいどんな人生を歩んだ人なのだろう? 1963年、彼女は4人兄妹の3番目の子としてワシントンD.C.で生まれた。 小さい頃から絵画と音楽の才能を示したという。 ジャズが好きだった父親は、娘が9歳のときにギターの弾き方を教え、彼女は家族や親戚の集まりで弾き語りを始める。 当時、彼女が憧れていたのは、ネイティヴ・アメリカンの血を引く平和主義者としても知られているバフィー・セントメリーというカナダのシンガーソングライターだった。 ハイスクールに通うようになった彼女は“ストーンヘンジ”という名前の学生バンドで歌い、地元で頭角をあらわす。 そして、卒業と同時に18歳から“イージーストリート”というバンドに加入し、本格的な音楽キャリアをスタートする。 1980年代、彼女はいくつもバンドを渡り歩きながら、モータウン系のソウルミュージックからテクノポッ..
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挫折を知る者の歌〜それはスポットライトではない

器用には生きれない人。 挫折を味わったことのある者だからこそ唄える“歌”がある。 彼等だけが知っている。 本当の優しさ、本物の強さを。 そして“あの光”の正体を。 2010年1月17日、浅川マキは心不全でこの世を去った。享年67。 「アングラの女王、逝く」と、翌日の新聞に訃報記事が小さく載った。 もしも光がまたおいらに…当るならそれをどんなに待ってるさ ずっと以前のことだけれどその光に…気付いていたのだが逃がしただけさ だけどふたたび、いつの日にか…あの光がおいらを照らすだろう 1976年、当時33歳だった浅川マキが「It’s Not The Spotlight」という曲を日本語詩で歌った。原詞は“スポットライトみたいに輝く瞳の彼女と別れてしまった〜でもまたいつか彼女とよりを戻したい”という内容の未練節。彼女は、それを自己流に訳し“永遠に失ってしまったもの〜輝いていたあの頃の光”として、器用には生きれない男の心情を歌に込めた。 さかのぼること三年…その曲はアメリカで誕生した。キャロル・キングの元夫でもあるジェリー・ゴフィンと、敏腕セッション・キーボーディストのバリー・ゴールドバーグによって共作された。ジェリー・ゴフィンのアルバム『It Ain’t Exactly Entertainment』(1973年)に収録されたのが初出。 翌年、ボブ・ディランのプロデュースによってバリー・ゴールドバーグが発表したアルバム『Barry Goldberg』(1974年)にも収録された。 程なくして、英国の人気ロックアーティスト、ロッド・スチュワートが本格的アメリカ進出を賭けて発表したアルバム『Atlantic Crossing』(1975年)の中でカバーし、広く知られるようになる。 その翌年に浅川マキが歌った日本語詩は、こんな風に続く…。 あの光そいつは…古びた町のガス燈でもなく月灯りでもない スポットライトでなくローソクの灯じゃない…まして太陽の光じゃないさ 「器用じゃないのかもしれない…でもやっぱり自分で納得のいかないものは歌いたくない。メロディーっていうより詞の方ですね。やっぱり詞が納得いかないものっていうのはとても嫌ですね。だからワタシは売れない。」 ゆっくりとタバコを燻らせながら…彼女はそう言った。 1942年1月27日、彼女は石川県石川郡美川町という漁師町で生ま..
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男たちのバラード①〜あの時孤独な心を救ってくれた“至上の一曲”たち

傷つき疲れ果てた夜。屈辱に覆われた夜。孤独に耐え抜いた夜。辛い過去に囚われた夜。悲しみに暮れた夜。一人で泣いた夜。そして静かに復活を誓った夜……あの時救ってくれた音楽。あの時人知れず耳を傾けた自分だけの音楽。アーティストたちも同じ風景を見つめていたのだろう。題して「男たちのバラード」。この至上の一曲たちを男たちに捧ぐ。(選曲/中野充浩) エリック・クラプトン「River of Tears」 1998年の『Pilgrim』に収録された心に染みる1曲。クラプトンの長いキャリアの中でも、これほどまで哀しみの風景と寄り添うバラードを他に知らない(「Tears in Heaven」と混同注意)。いきなり泣きのギターで奏でられる2分弱のイントロ。その先に広がるのは「涙の川」だ。愛する人を失った時、男は何を想うのか。初めて聴いたのは真夜中の高速道路を走る車の中。偶然流れてきたのがこの曲だった。 ロジャー・ウォーターズ「Every Stranger’s Eyes」 1984年の『The Pros and Cons of Hitch Hiking』に収録された心に染みる1曲。あまりにも巨大になりすぎたピンク・フロイドを脱退したロジャーの初ソロ作は、眠りの中の旅路を描いたロードムービーのような音楽だった。The WallでもThe Final Cutでもない。一人の男のさすらいの風景。クライマックスで流れるこのバラードのタイトルは「ストレンジャーの瞳」。途中で泣き始めるギターはもちろんエリック・クラプトンだ。 ロイ・オービソン「In the Real World」 1989年の遺作『Mystery Girl』に収録された心に染みる1曲。実人生で妻を事故死、子供2人を火事で失ったオービソン。それからしばらくの間、男は家で引きこもりとなり、音声を消したテレビをじっと見つめ、夢の中で生き続ける日々を過ごす。ある日、親友ジョニー・キャッシュにこう呟いたという。「この悲しみとどう向き合っていいのか分からない」。人々の胸のうちにある傷ついた感情を、こんなにもドラマチックに儚い声で歌い上げたアーティストは他に誰もいない。 ライ・クーダー「The Dark End of the Street」 1972年の『Boomer’s Story』に収録された心に染みる1曲。ダン・ペン作のソウル・バラー..
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