2022-03

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マドンナのスーザンを探して〜強烈な“80年代臭”を放つマドンナ初主演作

1982年のデビュー以来、マドンナは常にポップ・ミュージック界のトップランナーとして、数々の話題を提供しながら伝説化してきた。例えばチャートやセールス上の数字を見るだけでもその凄さが分かる。歴代1位となる38曲のトップ10ヒット(うち12曲がナンバーワン)、同じく歴代7位となる21枚のトップ10アルバム(うち8枚がナンバーワン)を放ち、世界での売上総数は何と3億枚以上。 ワールドツアーを行えば、そのエンターテインメント性溢れるステージで莫大な興行収入を叩き出す。経済誌フォーブスが毎年発表するセレブランキングは常連。映画出演や出版活動にも積極的で、年齢を重ねてもファッションや音楽性に最先端の動向を取り入れることを忘れない。“クイーン・オブ・ポップ”として彼女をリスペクトする女性アーティストは数知れず。 どんなスターにも無名の時代がある。マドンナも例外ではない。母親を幼い頃に亡くした彼女は、いつしか独創的で野心の強い女の子になっていた。そして大学を中退してデトロイトの実家を飛び出し、グレイハウンドバスに乗ってニューヨークへ渡る。手元にはわずか35ドル。タクシーに乗って「一番華やかな場所へ行って!」と運転手に告げ、人々が行き交うタイムズスクエアで「神よりも有名になる!」と人知れず誓ったエピソードは有名だ。 しかし、現実は生きるためにアルバイトで食いつなぐ日々。ヌードモデルや成人映画に出たこともある。強気な性格はダンスや恋を失う羽目にもなった。バンド活動でギターを弾いているうちに、歌手になることがスターへの近道だと自覚した。 ニューヨークの“アンダーグラウンド”や“クラブカルチャー”の体臭を嗅ぎ分ける能力や感覚を持っていた彼女は、どんな曲やパフォーマンスがヒップな連中に支持されるかはっきりと見えていたのだろう。恩知らずな人付き合いもあったようだが、とにかく1982年10月、24歳のマドンナはシングル「Everybody」で念願のデビューを果たした。 「Holiday」「Lucky Star」「Borderline」といったヒット曲でダンスフロアを揺るがした1983年、最初のアルバム『Madonna』をリリース。MTVの影響も好作用してチャートを駆け上がった。このアルバムこそが“クイーン・オブ・ポップ”の原点であり、今も色褪せない魅力が詰まった名盤として評価が高い。 そんなマ..
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これが本当の80年代サウンド⑨〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビッグ・オーディオ・ダイナマイト「C’mon Every Beatbox」(1986年・全英51位) ザ・クラッシュを脱退したギタリスト、ミック・ジョーンズの新たな出発となったBAD。ヒップホップやハウス等を取り入れた最先端のアプローチは、偉大なバンドの幻影に囚われずに自らを成長させていくパンクの精神そのものだった。1985年にファーストをリリース。これはジョー・ストラマーとの共同プロデュース、ソングライティングが話題になったセカンドからのシングル。 ジェフ・ヒーリー・バンド「Angel Eyes」(1989年・全米5位) カナダ出身の盲目ギタリストが放ったヒット。ブルーズやジャズに影響を受けた渋いルーツロックを聴かせる。膝上にギターを置き、弦を押さえながらの特殊な奏法で、本物志向のファンに支えられ活動を続けた。ジェフは病と闘いながら2008年に41歳で死去。 マイケル・ダミアン「Rock On」(1989年・全米1位) 人気若手俳優による忘れられたナンバーワン・ヒット。と聞けば、少し前のジャック・ワグナーの「All I Need」なんかを思い出す人もいるはず。この曲はイギリスのデヴィッド・エセックスのカバー。こちらは1973年にビルボードチャートで5位まで上昇。ダミアンのバージョンも今聴いてみると、かなりカッコイイ。 ブリーズ「Hands to Heaven」(1987年・全米2位) これも記憶してる人は少ないはず。イギリス出身のポップバンドが放ったバラード・ヒット。同時期のカッティング・クルーもそうだが、何とも言えない切ないムードが80年代の風景や空気感を漂わせてくる。これはずばり名曲だ。他に「How Can I Fall?..
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【性格診断】9つの質問の答えから、あなたの長所と短所を予想します

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パブロックの雄が放った珠玉のメッセージソング〜平和、愛、そして理解しあう事のどこがおかしいんだい?

「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love, and Understanding」/ニック・ロウ 僕はこの荒れはてた世界を歩き続けながら 狂気の沙汰の中でも希望の光を探している すべての希望は枯れてしまったのか?と自問しながら この世界には苦痛と憎悪、そして貧困しか残っていないのかと… 今からさかのぼること47年…英国のミュージシャン、ニック・ロウはこの“完璧なメロディ”と言っても過言ではない珠玉のメッセージソングを発表した。 ニックはアメリカ音楽への造詣が深く、カントリーなどのルーツミュージックへのリスペクトを払いながらも、見事なポップミュージックへと昇華させたオリジナルソングを世に送り出してきた男だ。 この「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love, and Understanding」[※曲タイトルはバージョンによって「What’s So Funny’Bout Peace, Love & Understanding?」と表記]は、そんな彼がBrinsley Schwarz(ブリンズリー・シュウォーツ)[※’70年代当時はブリンズレー・シュワルツと表記]というバンド時代に書いた名曲のひとつである。 パンクロック、ハードロック、グラムロック、プログレッシブロックなどなど多岐に渡る“ロックジャンル”の中にパブロックと呼ばれるジャンルがある。 70年代前半からイギリスで巻き起こったムーブメントの一つだ。 ニック・ロウが在籍していたブリンズリー・シュウォーツは“パブロックの礎”ともいえる伝説的なグループなのだ。 この“ブリンズリー・シュウォーツ”というちょっと不思議な名前は、当時リーダーでギター&ボーカルを担当していたブリンズリー・シュウォーツの名前がそのままバンド名になったものだという。 ニックは、あるインタヴューでバンド名が決まった経緯についてこう語っている。 「彼(ブリンズリー)は他のメンバーより年上だったんだ。他のみんなは当時まだガキでね。別に彼が自ら“これは僕のバンドだから自分の名前を付けたい”と言ったわけではなかったけれど、最年長ということで…言ってみれば彼がバンドリーダーのような者だったんだよ。それに彼がすごく珍しい名前だったというのもあって…他に特に理由はなかったね。」 前身バンド“Kip..
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木村充揮の歌ルーツ〜日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、刺激を受けた音楽体験

木村充揮。 1975年、憂歌団のボーカルとしてデビュー以来“天使のダミ声”と称される独特の声とブルースフィーリング溢れる独特の歌い回しで絶大な人気を誇ってきた。 現在はソロ活動を中心にロック、ジャズ、ブルースにとどまらず演歌や民俗音楽にいたるまで、あらゆるカテゴリーを包括したボーダーレスなシンガーとして多方面で活躍している。 その唯一無二のライブパフォーマンスは数多くの若いアーティストからのリスペクトも集め、音楽ファンを魅了し続けている。 今回は、そんな日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、そして刺激を受けた音楽体験をご紹介します。 「まず小学校の頃、僕が好きだったのは美空ひばり、越路吹雪、西田佐知子、そしてアストラッド・ジルベルト。中でもジルベルトの鼻歌に近いチカラの抜けた歌い方が好きだった。憂歌団でよく一緒のステージに出してもらった浅川マキさんもその系列だ。あの力の抜き方、あの感情、あの色合い、あの匂い…すべてが素敵だった。マキさんの歌を聴いた時、あぁええなぁと思った。歌謡曲とかと全然違う感じ。当時、マキさんは30代、僕は二十歳そこそこのガキだった。」 1970年代、大阪ミナミの島之内教会で3日間連続の浅川マキ単独公演が行われた。 バックミュージシャンとして憂歌団のギタリスト・内田勘太郎が呼ばれ、木村はそれを観に行ったという。 浅川マキは客席にいる木村を見つけると、ステージに上げて歌わせたのだ。 「一曲だけ“サマータイム”を歌わせてもらって、嬉しかった。マキさんはその時も、アカペラで何曲か歌ってた。時には1ステージまるまるアカペラでやるという。僕はこの歳になってもアカペラでやれるのはせいぜい5分くらい。やっぱりマキさんは凄い!」 彼は、これまでに様々な歌手を“お手本”にして歌を磨いてきたという。 エラ・フィッツジェラルド、ハリー・ベラフォンテ、ビートルズのジョンとポール、ミック・ジャガー、ボブ・マーリー、そしてレイ・チャールズ。 「色んな歌手が僕の歌の“先生”だった。だけど、レイ・チャールズだけは真似ようとは思わなかった。僕なんかにとても真似ができるとは思わなかったからだ。ビートルズは歌の上手さもさることながら、一曲の中の歌の構成が抜群だった。ストーンズはレコードがどれもライブっぽく聴こえた。一度だけ東京ドームで観たけど、やっぱり凄い..
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Horses〜アルバムジャケットの誕生秘話、写真の中の瞳が世代を超えて語るメッセージとは?

私はモノクロのジャケットを見つめた。 私はアルバムの隅々まで眺めた。 私は全ての曲を盤が磨り減るまで聴いた。 全てが計り知れない意味を秘めていた。 それは私の人生を変えた。 『Horses』は深く精神的な影響を私に与えた。 ──D・D・フェイ(ロンドン在住のジャーナリスト、ニック・ジョンストンの友人) パティ・スミスと“特別な関係”にあった写真家ロバート・メイプルソープが撮影したカヴァー写真によって『Horses』は、ロックの歴史上“最も有名な”レコードジャケットの一つとなった。 この写真が撮影されたのは1975年の初秋頃だったといわれている。 場所は様々なアーティスト達が根城としていたニューヨークのワシントンスクエア。 同性愛者だったロバート・メイプルソープの恋人としても知られる美術コレクターのサム・ワグスタフが所有する新しいペントハウスで行われた。 パティは、撮影当日の様子をこんな風に回想している。 「その日、わたしは寝過ごしてしまったの。 慌てて、いつもステージや通りで着ている自分の制服のような服に着替えたわ。 ロバートは何も言わず、すぐに仕事に取りかかった。 アシスタントは使わなかったわ。 彼が欲しがっていた三角形の影ができていたが、陽は動きつつあり影は消えようとしていた頃、ロバートはわたしにジャケットを脱ぐように言った。 シャツの白さが気に入ったのよ。 わたしはジャケットをシナトラ風に肩に引っかけた。 シナトラの何気ない大胆さが出るように。」 ロバートは、自然光を使い、天使の翼のようにパティの肩から逆光が跳ね返るように撮影した。 アイロンのあてられていない白シャツとタイトなジーンズは、70年代当時のキース・リチャーズやボブ・ディラン風の着こなしだった。 そのファッションは明らかに男物だったが、細く長い首、そしてシャツの袖から胸元に伸びる手首や指先は、むしろ“女性らしさ”を強調していた。 アルバムの発売元だったアリスタレコードは、この両性具有的に写ったパティの写真を良しとはしなかった。 アリスタはボサボサの髪の毛をエアブラシで修正することなど“売るため”の提案をしてきたが、パティはそれを拒否した。 「この写真はロバート・メイプルソープとの共同作業によってもたらされたものであり、芸術上の決定権は自分にあるのだ。」 と言ってアリスタに主張したのだ。 元ヴェルヴェ..
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スティング〜ポリス結成物語

1976年5月1日、スティング(当時24歳)は北アイルランド出身の舞台女優フランシス・トメルティと結婚をする。 二人の出会いはスティングがまだ小学校の国語教師と並行して“ラスト・イグジット”というバンドで活動していた時期だった。 当時スティングは、音楽活動と教師のどちらが本当にやりたいことなのか?日々迷っていたという。 妻フランシスは、そんな夫に助言をした。 「彼は地元ニューカッスルを離れたがっていたわ。そこでの将来は目に見えていた。音楽でやっていくならロンドンに行かなきゃ!私のお腹には生まれてくる赤ちゃんがいたけど、彼の背中を押したわ。」 スティングは音楽一本でやっていく決心をした。 同年の11月、二人の間に長男が生まれる。 先のことは何も決まっていなかった… 生後間もない息子と少しばかりの荷物をオンボロ車に乗せて夫婦はロンドンを目指して出発した。 ロンドンではまず、フランシスの知り合いのアパートに転がり込んだ。 週16ポンドの失業手当が生活費のすべてだった。 「金がなくて人参ばかり食べていたよ。人生の中で、あの時ほど未来を不安に思ったことはなかった。」 ラスト・イグジットは、他のメンバーがロンドンで活動することを渋って…翌1977年の年明け早々に解散してしまう。 その解散の区切りとして、最後に地元ニューカッスルで行ったクリスマスライブの観客席に(後にポリスで活動を共にする)スチュワート・コープランドが座っていた。は、その日スチュワートのことを鮮明に憶えているという。 「ボーカルのスティングに強い印象を受けたよ。不思議な存在感があったんだよ。ステージ後、彼に連絡先だけを聞いて会場を出たんだ。」 1977年1月、スチュワートはスティングに「一緒にバンドをやってみないか?」と誘いの電話をかける。 スチュワートもまた、それまで活動していたバンドが解散し、新たに自分のバンドを作ろうとしていたのだ。 最初に声をかけたのがスティングだったという。 スチュワートはまだメンバーも揃っていない状況にも関わらず、すでにバンド名を考えていた。 誰もが新聞やテレビを見るたびに目にする言葉、それが“ボリス(警察)”だった。 スティングは、その面白い発想(バンド名)とスチュワートの熱意につられるように、彼の仲間に入ることにした。 数日後、3人目となるメンバー、ヘンリー・パドヴァー..
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月を追いかけて〜ショーン・ペンとニコラス・ケイジの「原風景」

アメリカには「スモールタウン」と呼ばれる町が数多くある。人口は1万人にも満たず、町のサイズはメイン・ストリートを中心に縦横にわずか数ブロックほど。そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ほんの小さな町。 そんな「スモールタウン」を舞台にした映画といえば、真っ先に『ラスト・ショー』(1971)が思い浮ぶ。2012年に惜しくも亡くなったトラベル作家・駒沢敏器氏は、アメリカを横断しながらスモールタウンだけに立ち寄って短編集のような魅力を放つ物語『語るに足る、ささやかな人生』を描いた。彼は旅の途中、ウィスコンシン州の小さな町で出会った中学生の女の子からこんな声を聞いた。 スモールタウンは、私みたいな作家志望の中学3年生には、最適な場所かもしれません。そもそも都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょう? でもこのような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。この町の人が喋る言葉には、その人ならではの人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みがあるんです。 今回『月を追いかけて』(Racing with the Moon/1984)を観て、この少女の言葉が脳裏をよぎった。そして何よりも映画の始まりから終わりまで、何とも言えない心地よさがあった。どうしてだろう? アーバンサスペンスやSFアクションを見慣れてしまった脳には、強くそう感じたのだ。 それは「風景」への憧憬だと思う。家、学校、病院、墓地、図書館、映画館、廃屋。ダイナー、ビリヤード場、ボーリング場、ローラースケート場。森、湖、海、空。ピアノの音、犬の鳴き声、機関車や車やバスの音……それらが「人物」や「ストーリー」と絡み合い、すべてが調和のとれた世界の中で呼吸していた。 日本では、お盆休みや年末年始やゴールデンウィークといった大型連休を使って、故郷へ帰省する人は多い。そこでかつてあった「風景」が失われていく感覚に心を痛めたことはないだろうか。しかし、都市で育った子供世代はそんなことは何も知らない。都市部の人口だけが増え続ける中、そのうち帰省行為すら珍しくなってくるだろう。 常にどこかからタワーマンション工事の騒音が聞こえる“現在新光景”が構築される中、デジタル・ネイティヴの子供たちはゲームとスマホをやりすぎてしまったせいで、もはや何がリアルで否..
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他の人の意見も気になる〜!結婚式のあれこれ…アリ?ナシ?

結婚式に上司を呼ぶ?呼ばない?結婚式に関するあるある質問を集めました🎤ぜひ、あなたの意見を聞かせてね。 View Entire Post ›
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ニュー・ジャック・シティ〜蔓延するドラッグ問題に切り込んだブラック・ムービーの傑作

失業者の数が急増……先月は20万人が職を失いました……生活困窮者の数が200万人に……現在、貧富の差が最悪の状態……格差が拡大……高所得者の収入は3%増えましたが、低所得者の収入は減りました……7歳の少年が射殺されました。麻薬絡みの事件です……国家財政の赤字が2210億ドルに…… 映画『ニュー・ジャック・シティ』(New Jack City/1991)はこんなアナウンスで始まる。アメリカでは30年も前のこととは言え(より悪化しているが)、日本ではまるで現在進行形の状況のようだ。 1991年春、全米の約860館で封切られたこの映画は大ヒット。カリフォルニア州オークランドの麻薬王フェリックス・ミッチェルの実話をベースとしているが、舞台をニューヨークに変更。悪の華クラックに手を染めた男の歪んだカリスマ人生、その身勝手な言動に翻弄される取り巻きの仲間、彼らを追う刑事たちの執念、敵対するイタリアン・マフィア、ドラッグ取引の様子や麻薬患者の悲惨な姿などを描いて大きな話題となった。 20年代の禁酒法時代と現代は呼応していると思う。20年代のギャングたちを描く時に酒がついてまわるように、90年代のギャングを語るにはドラッグは必要不可欠なものだ。(マリオ・ヴァン・ピーブルズ) 主演は、ストリートギャングから麻薬王へと君臨するニーノ役にウェズリー・スナイプス。彼を執拗に追う刑事スコッティー役にアイス-T。アイスは当時、ギャングスタ・ラッパーの草分けとして人気絶頂で、麻薬王以上のチンピラぶりに妙なリアリティを醸し出した。監督はこれがデビュー作となるマリオ・ヴァン・ピーブルズ。パブリック・エナミーのフレイヴァー・フレイヴや歌手のキース・スウェットらがカメオ出演した。 ニュー・ジャック・シティとは、黒人のスラングでニューヨーク・シティのこと。“ニュー・ジャック”は、脚本を担当したバリー・マイケル・クーパーが誌で生み出した新語で、都市のストリートライフを支配する新しい雰囲気/風潮を表現する言葉として使ったのが最初。 ゲットーから脱け出すためには何か秀でたものがなければダメだ。マイク・タイソンのようにボクシングが強いとか、ホイットニー・ヒューストンのように歌がうまいとか、もし何もない奴は軍隊に入るしかない。そんな状況の中で子供たちはドラッグに手を出すしか道がなくなってしまう。今のアメリカの..
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