2022-03

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これが本当の80年代サウンド⑦〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) グレッグ・キーン・バンド「Jeopardy」(1983年・全米2位) 忘れ去られたヒット曲の筆頭格の一つ。マイケル・ジャクソンの「Beat It」に阻まれ、チャートのトップは獲れなかったグレッグ・キーン最大のヒット。1976年にデビュー。本作や『RockihnRoll』などアルバムタイトルに自身の名前「Kihn」が入る遊び心も面白かった。当時、日本のタワーレコードでも入荷数が少なく、アーティストコーナーには 数枚しかなかったことを思い出す。 ボーイ・ミーツ・ガール「Waiting for a Star to Fall」(1988年・全米5位) シアトル出身の夫婦、ジョージ・メリルとシャノン・ルビカムによるポップデュオ。ホイットニー・ヒューストンのナンバーワン・ヒット「How Will I Know」や「I Wanna Dance with Somebody (Who Loves Me)」のソングライターとして注目された。アルバム『Reel Life』からのこの曲がヒット。80年代らしいムードが漂う爽やかな名曲。 ミック・ジャガー&デヴィッド・ボウイ「Dancing in the Street」(1985年・全米7位) こちらも完全に忘れ去られたヒット。相棒キース・リチャーズによれば、1983年の『Undercover』あたりから自分の才能を疑い始めたというミック・ジャガー。MTVの登場などによるヴィジュアル性に富み、シンセサイザーを多用する新世代のアーティストが続々登場する中、巨大になりすぎた自らのローリング・ストーンズにも最新を強要するようになり、キースとの溝が深まっていく。当時、ミックがライバルとして最も意識したのが、『Let..
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ダイナー〜選曲が心地いいミッキー・ローク出演の1959年の青春グラフィティ

これまで本コーナー「TAP the SCENE」ではたくさんの青春映画を取り上げてきた。子供の頃に親に連れられて観たファンタジーアニメや家族向け映画とは違い、低予算でリアルな青春映画は初めて自分の小遣いで映画館に出向いた“体験”であり、スクリーンに映っているのは等身大の“人生”でもあった。 大人になってもこのジャンルに思い入れがある人は少なくない。なぜなら、人には多感な時期(15〜24歳くらい)で接したカルチャー(映画や音楽や小説など)の影響が、他の時期に比べて強く残るからだ。それに思春期の中高生の“入口”としての青春映画には名作が多かった。 青春映画を見なおしてきた中でふと思ったことがある。それは、このジャンルは「時」と「場所」がとても重要な役割を果たしているということ。逆に言えば、それらを特定せずに秀逸な物語は描けないのだ。それは1950年代なのか、70年代なのか、それとも90年代なのか。それは西海岸なのか、東海岸なのか、それとも名もなきスモールタウンなのか。「時」と「場所」の設定で、すでにドラマは静かに始まっている。 50〜80年代のスモールタウンや田舎町が舞台の『ラストショー』『アウトサイダー』『フットルース』。60〜80年代の西海岸が舞台の『ビッグ・ウェンズデー』『ロード・オブ・ドッグタウン』『レス・ザン・ゼロ』。60年代のNYを舞台にした『ワンダラーズ』や『プリティ・イン・ピンク』などジョン・ヒューズによる80年代学園作品も忘れられない。 90年代のアメリカには『リアリティ・バイツ』、イギリスには『トレインスポッティング』という傑作があった。また、映画作りという観点では、リアルタイムで製作されたものと、監督や脚本家などの追憶で後年になって成立している2種類があり、とにかく話は尽きない。 今回、新たにリストに加えるのは『ダイナー』(Diner)。1982年の公開だが、物語は設定は1959年のボルティモア。監督・脚本のバリー・レビンソンの個人的体験が映画になった。80年代にやたらと50〜60年代が舞台の青春映画が多いのは、作り手の青春期がその時代にあたるから。今や大スターの若かりし頃の姿が見れたりして、ちょっとした発見もあるのも特徴。『ダイナー』にはミッキー・ロークやケヴィン・ベーコンやエレン・バーキンが出演している。 『ダイナー』は複数の登場人物の物語が同..
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【診断】あなたを「ぬいぐるみ」に例えると…

全部で12種類!あなたはどれかな〜😇 View Entire Post ›
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ジョン・ライドン27歳〜レコード会社からのヒットソングの作曲依頼、メンバーの脱退、PiL日本公演の成功

1978年、セックス・ピストルズを脱退したジョン・ライドンは、レゲエの本場ジャマイカで3週間の休暇を過ごしたのち、レゲエ好きの友人ジャー・ウォブル(ベース)と、キース・レヴィン(元ザ・クラッシュのギタリスト)に声を掛けて新バンドパブリック・イメージ・リミテッド(Public Image Ltd)を結成した。 当時のドラマーのジム・ウォーカーはオーディションによって雇われた。 1978年12月、1tsアルバム『Public Image』をヴァージンから発表。 話題性はあったものの、レコードセールスは芳しくなかったという。 翌1979年11月には、数人のドラマーが参加した2ndアルバム『Metal Box』を発表。 このアルバムはヒットチャートの上位にランクインし、音楽的なユニークさからも彼らの代表作と位置づけられる作品となる。 しかし、発表直後にベースのウォブルが意見の相違のためバンドを脱退。 2ndから参加していたドラマー、マーティン・アトキンスも一旦解雇となる。 メンバーはマーティンを何とか呼び戻し、新しいベーシストを迎えることなく『Flowers Of Romance』(1981年)を発表。 その後、約2年のブランクを挟み、ジョン・ライドンとキース・レヴィンは新作アルバム『Commercial Zone』の制作にとりかかる。 それはジョン・ライドンが27歳を迎えた1983年のことだった。 「当時レコード会社(ヴァージン)は何とか俺にヒットシングルを書かせようって圧力をかけてきたんだ。“いいだろ?ジョニー、僕らのために一曲くらい素敵なラブソングを書いてくれたっていいじゃないか?そうすればお互いたんまり金儲けできるんだから”俺はハッキリ言ってやったよ。“お前ら、俺がこれまで散々やってきたことを見てきといて、誰に向かって何をしゃべってるんだかわかってるのか?!”ってね。」 そう言いながらも、ジョンには極上のポップソンングを書く自信もあったという。 しかし“誰かに頼まれて”“レコード会社に指示されて”そういう曲を書くことだけは絶対にしたくなかったという。 曲を書く時はあくまで直感的に、そして自然発生的に書くというポリシーを持っていたからだ。 「書きたいから書くだけ!俺のプロセスに干渉してこようとしたって無駄だ!俺は自分に与えられた才能を軽んじるつもりはない。安っぽ..
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これが本当の80年代サウンド⑥〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) アラーム「68 Guns」(1983年・全英17位) アイルランドのU2と比較されることもあったウェールズ出身の硬派ロックバンド。1983年にEP『The Alarm』でデビュー。翌年には代表作の一つ『Declaration』をリリース。収録された「68 Guns」がヒット。アルバムは長年入手困難だったが、最近になって無事再発。久しぶりに聴くと胸が熱くなった。 スミザリーンズ「Strangers When We Meet」(1987年) ニュージャージー出身のバンド。インディーズシーン/カレッジチャートから飛び出し、この美しい曲を含むアルバム『Especially for You』で1986年にデビュー。R.E.M.が切り拓いた次世代のロックとして期待された。バンドのフロントマンであり、ソングライターのパット・ディニジオは、2017年12月に62歳で亡くなった。 マレー・ヘッド「One Night in Bangkok」(1984年・全米3位) ABBAのビョルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンが作曲、ティム・ライスが作詞を担当したミュージカル『チェス』の上演に伴ってリリースされたコンセプトアルバムに収録されていたナンバー。マレー・ヘッドは、1970年のロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』で「Superstar」を歌っていた人。 ファルコ「Rock Me Amadeus」(1985年・全米1位) 瞬発的に大ヒットしたアメリカ以外の曲の中でもこれは有名。オーストリアのウィーン出身のこのアーティスト名を忘れていても、曲を聴けばなぜか一発で思い出す。前年にアメリカでは映画『アマデウス』がアカデミー賞作品賞に輝..
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ジョルジュ・ムスタキ「私の孤独(Ma Solitude)」が日本で発売された日

私はいつも孤独と一緒に寝ていたから 孤独はまるで私の恋人だった 世界中どこへ行くにも私の後につきまとってきた そう…私は孤独と一緒だから決して独りぼっちではない 1972年(昭和47年)3月1日、当時37歳だったジョルジュ・ムスタキの「私の孤独(Ma Solitude)」(ポリドール)が日本で発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「女のみち」/宮史郎とぴんからトリオ 2位「瀬戸の花嫁」/小柳ルミ子 3位「さよならをするために」/ビリーバンバン 札幌冬季オリンピック、ミュンヘンオリンピックが開催され、自動車に初心者マーク登場、東北自動車道が開通、そして連合赤軍によるあさま山荘事件がおこった年でもある。 ジョルジュ・ムスタキという男をご存知だろうか? エジプトはアレキサンドリア生まれのギリシャ人という生い立ちを持つ彼は、17歳の時に一人パリに移り住み、ピアノバーなどで働きながら、当時の音楽シーンの有名人達と知り合う。 シャンソン界の大御所ジョルジュ・ブラッサンスを信奉していた彼は、ある日、音楽仲間からエディット・ピアフを紹介される。 ピアフは彼に一目惚れをし…彼は当時、妻子ある身でありながら約1年間ピアフの恋人だった時期もあったという。 その頃、彼がピアフのために作曲した「Milord(ミロール)」がヒットしたことをきっかけに、イヴ・モンタンをはじめ名だたる歌手に依頼を受け、79歳で亡くなるまでに生涯を通じて300以上の曲を書いた才人である。 この曲は、1974年4月からTBS系で放映されたテレビドラマ『バラ色の人生』(主演:森本レオ、寺尾聰、香山美子)の主題歌にもなり、オリコン最高位59位を記録する。 歌詞の内容は“孤独の寂しさ”を嘆くのではなく、長い年月を共に過ごしてきた孤独を「彼女」と呼び、まるで恋人であるかのように愛おしむ男の心情を描いている。 そんな切なくも一風変わった作風がドラマのストーリーとリンクしたのだろうか… ドラマ『バラ色の人生』は、同年(1974年)のテレビ大賞優秀個人賞(草笛光子)を受賞する。 70年代の東京を舞台に物語はこんな風に展開してゆく。 それは年上の女性にほのかな恋心を抱く青年と、同い年の女性と同棲生活を送る青年の対比を軸に、大都会に生きる若者の姿を描いたドラマだった。 河本一作(寺尾聰)は、版画家を目指して長野から..
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ニューヨーク・ストーリー〜コッポラとスコセッシとウディ・アレン夢の競作

『ニューヨーク・ストーリー』(New York Stories/1989)は、その名の通りニューヨークの街を舞台にした3本の短編からなるオムニバス映画だった。 ウディ・アレン発案のこの企画は、当初彼自身の手による短編映画3本で構成される予定だったらしいが、最終的にはアレンの他、マーティン・スコセッシ、フランシス・フォード・コッポラという偉大なる映画クレイジーたちの夢のような顔合わせになった。 ニューヨークに生まれ育ち、あるいはニューヨークを愛する3人の同世代の映画作家。1939年生まれのコッポラは『ゴッドファーザー』『コットンクラブ』で、1942年生まれのスコセッシは『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『ニューヨーク・ニューヨーク』『キング・オブ・コメディ』『アフター・アワーズ』で、アレンは『アニー・ホール』『マンハッタン』『ハンナとその姉妹』などで、独自ともいえる自身のニューヨーク像を描いてきた。 『ニューヨーク・ストーリー』におけるそれぞれの短編も、そのアプローチは面白いほど全く異なる。だが、どれも紛れもなく“同じ街で起こっている”ことなのだ。 同じNY在住の映画人でありながら、ほとんど面識がないというアレンとスコセッシは、1997年に貴重なこんな対談を行っている。 あなたのニューヨークは僕にとって見慣れないものです。『ハンナとその姉妹』で「歯を磨かなくちゃ」とバーバラ・ハーシーが言いますが、なるほど僕もそうしてる。でもそうだとしても一体何の話だろう。まさに日常の出来事です。しかもそれはマディソンの角のどこかで、それなのに全く別世界なんです。それが僕にとってはすごく面白い。(アレンの映画を観るのは)毎回小旅行の気分です。(マーティン・スコセッシ) 僕はニューヨークを描こうとは思わない。もし僕がそこに住んでなくて、家での快適な生活、家の近くで働くことだとかを望んでいたとしたら、どこで映画を撮っていてもおかしくはないんです。そんなこと気にしてないから。でもニューヨークにいると気が楽なんです。(ウディ・アレン) ちなみに『アニー・ホール』では、ニューヨークを愛する主人公が仕事でロサンゼルスに出向くと、体調が悪くなっていき精神が病んでいたのが印象的だったが、スコセッシにもハリウッドでのエピソードがあった。 1970年代のほとんどを実はロサンゼルスで過ごした..
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