2022-04

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友川カズキ物語〜デビューまでの道のり、映画“戦メリ”の主役を蹴った過去、怒れる詩人としての信念

1980年代の初頭、映画監督・大島渚はある無名のシンガーソングライターを呼び出した。 それは新作映画への出演依頼だった。 しかも主役という大抜擢。 共演者はデヴィッド・ボウイだという。 ただし、出演にあたって一つだけ条件があったという。 それは“秋田なまり”を直すことだった。 「なまりを直す気はありますか?」 監督にこう問われた男は、なんの躊躇もなく答えた。 「ありません。」 数ヶ月後…彼の代わりに坂本龍一が抜擢され映画『戦場のメリークリスマス』はクランクインした。 ビッショリ汚れた手拭いを 腰にゆわえてトボトボと 死人でもあるまいに 自分の家の前で立ち止まり 覚悟を決めてドアを押す 地獄でもあるまいに 生きてるって言ってみろ 生きてるって言ってみろ 生きてるって言ってみろ その男の名は友川カズキ。 1974年のデビュー以来「友川かずき」として活動をしてきたが、2004年から名前をカタカナ表記にして活動をしている。 本名は及位典司(のぞきてんじ)。 1950年生まれ(現在66歳)の秋田県生まれで、中学時代に詩人・中原中也の作品に衝撃を受けて詩の創作を始めたという。 1969年、19歳のときに集団就職で上京する。 彼の物語はここから始まった。 「高校を卒業して浅草の婦人服店に就職したんですが、半年しか続かなかったね。秋田なまりが強いのに接客をやらされたもんだから。最初のうちはなまりを直そうと努力したんですけどね…。トイレに隠れて“いらっしゃいませ”って何度も練習しました。でも、やっぱりダメだった。サラリーマンには向いてなかったみたいだね。そもそも、婦人服店に就職した理由ってもの、東京へ出るのが目的だったし。」 その後、新聞配達や喫茶店のボーイなどアルバイト先を転々とするが、最終的には日給のよい土木作業員をすることが多かったという。 自分の名を「友川かずき」と名乗ったのもこの頃からだった。 なぜ偽名を名乗ったのか? 「本名の及位(のぞき)ってのをいちいち笑われて面倒だったから…。」 そんな中、彼は行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を初めて耳にする。 それは「三谷ブルース」と「チューリップのアップリケ」だった。 今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ どうせどうせ山谷のドヤ住まい 他にやることありゃしねえ うちのお父ちゃん 暗いうちからおそうまで 毎日くつを ..
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マディ・ウォーターズを偲んで〜伝説のブルースマンと呼ばれた男の偉大な功績と足跡

ロックンロールの創始者と言われたあのチャック・ベリーは、生前にこんな貴重なエピソードを語っている。 それはまだ彼が世に出る前(デビュー前)の出来事だったという。 「ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。ラルフの親戚の家でご馳走になった後、俺達はシカゴのサウスサイドのブルースの生演奏が聴けるクラブをハシゴしてまわった。そこでハウリング・ウルフ、エルモア・ジェームスのステージを観たんだ。とても感動したし!興奮して聴き入ったよ!そして、今度は憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ!マディは最後のセットのラストナンバー“Got My Mojo Working”を演奏中だった。演奏が終わると群がるファンをかきわけ、マディのサインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。大統領か法王にでもお目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に“レコードをつくるにはどうすればいいのか?”と訊いてみた。大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マディは俺の質問に答えてくれたんだ。“レナード・チェスに会ってみろ!そう47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!”俺に音楽を愛することを教えてくれた人。俺の音楽に最も大きな影響を与えた人。それがブルース界のゴッドファーザー、マディだ!」 マディ・ウォーターズから“人生を変えるアドバイス”をもらったチャック・ベリーは、その直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結びレコードデビューを果たす。 ローリング・ストーンズのキース・リチャーズもまた、あるインタビューでこんな貴重なエピソードを語っている。 「1964年、チェススタジオでレコーディングした時の話さ。白いオーバーオールを着てハシゴに乗っかってるおっさんを紹介されたんだ。誰だ?ってその顔を見たら、マディ・ウォーターズだったのさ!なんと!あのマディ・ウォーターズが俺達のスタジオのペンキ塗りをしてたんだぜ!どうやらチェスじゃレコードの売れない奴はどんな仕事でもしなきゃいけないようだった。俺達が何曲もカヴァーして神様だと思っている男が天井にペンキを塗ってるんだぜ!」 マディ・ウォーターズ。 1915年4月4日、ミシシッピ州ローリング・フォー..
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農園で働く男はロバート・ジョンソンの代わりに録音して“マディ・ウォーターズ”になった

それは1941年の8月31日の日曜日のこと──ワシントンDCの国会図書館でフォークソング記録の管理をしていた民俗学者アラン・ロマックスは、朝早く何の予告も抜きでミシシッピ州のストーヴァル・プランテーションに到着した。そして、この農園の監督を見つけてここで働く黒人たちと接触することを伝えた。 ロマックスの目的は、ある男を探し出して録音すること。その男はクラークスデイルから1号線に沿ってミシシッピ川へと扇状に広がる、デルタの細長い区域では有名なブルーズマンだった。裏道には飲み屋がたくさんあり、男の名は知れ渡っていたが、それは限られた世界だけの話だった。 実は当初はロバート・ジョンソンを録音しようと、ロマックスはミシシッピ・デルタに足を踏み入れた。しかし、既に死亡していたことを知り、代わりにロバート・ジョンソンのように弾ける男の存在を知ったのだ。 しばらくすると、農園の食堂にその男がやって来た。仲間の密造酒業者にタレ込まれたのではないかと思った。しかし、ロマックスが持参したギターを見て、そんな心配はなくなった。ウィスキーを飲みながら話していると、男とロマックスの間には信頼感が生まれ、録音機材を一緒に運んでいた。 「俺の名前はマッキンリー・モーガンフィールド。ニックネームは“マディ・ウォーター”。ストーヴァル農園の名高いギター弾きだ」 自己紹介が終わると、マッキンリーはサン・シムズの伴奏で手始めに「Burr Clover Blues」を歌った。“マディ・ウォーター”とは、少年時代によく泥だらけになって遊んでいたので、おばあちゃんがつけた愛称だった。 昼食から夕食の時間まで、椅子に腰深く座った28歳のマッキンリーは木製のギターと歌だけで何曲もレコーディングした。その中にはのちに「I Feel Like Going Home」として知られることになる「Country Blues」も入っていた。 「このブルーズを作ったのはいつ頃だったんだい?」 「俺は1938年にこのブルーズを作った」 「その年のいつ頃?」 「1938年の10月8日頃に作った」 「歌い出した時、自分がどこにいて、どんな風に曲ができたか覚えてないかい?」 ロマックスは数時間過ごした目の前の男の芸術性に完全にノックアウトされていた。確信に満ちたパフォーマンス、巧みな演奏、声とギターの関係すべてに。歌い方には無上の優..
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売れ始めても英雄マディ・ウォーターズの使いっ走りをやめなかったピーター・ウルフ

12歳の時、52丁目の伝説的ジャズ・クラブ「バードランド」に入り浸るようになったんだ。あの頃は18歳以上の付き添いが一人いれば、その手の店でも平気で入れた。俺はアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ、えらくきわどい曲を歌うダイナ・ワシントン、他にもいろんなジャズ・ミュージシャンを聴いた。 1970年代にJ・ガイルズ・バンドのヴォーカリストとしてデビューし、解散後はソロ・ミュージシャンとして現在も活動を続けるピーター・ウルフは、自らの感動的なブルーズ体験の序章にそう綴った。 そこからハーレムのアポロ劇場まで水曜の夜のショウを観に行くようになるのは、ごく自然の成り行きだった。高校時代になると、あの劇場にずっと通い詰めてたよ。 ピーターはアポロ劇場の「ブルーズ大行進」というショウに出向き、そこで生まれて初めてマディ・ウォーターズを聴いた。当時はすでに都市部の黒人の若者たちの間ではブルーズは古びた音楽に過ぎなかった。その夜も「俺たちはもう綿花なんて摘んでないぞ」と、誰かが叫んでヤバイ雰囲気になっていた。あのブルーズの王様B.B.キングのステージの途中でのことだ。 しかし、マディが登場すると、場の空気は一変。「戯言はやめろ」と言い放つと、全員をブルーズに連れ戻した。出演者の中で最もいなたいサウンドを聴かせたにも関わらず、観客たちは熱狂した。マディのパワーは凄まじかった。ピーターはすっかり取り憑かれてしまった。 その後、ボストンで美術学生となったピーターは似たような趣味を持っていた仲間たちとブルーズ・バンドを組むことにした。のちにJ・ガイルズ・バンドになる面々だ。ピーターはブルーズ・ハープをマスターすべく、「ジャズ・ワークショップ」に出演していたマディを再び観に行くことになった。 マディが登場するまで、彼のバンドがステージを温める。メンバーにはジェイムズ・コットンやオーティス・スパンがいた。その夜もマディは親分らしく堂々と、しかも一分の隙もない洒落た佇まいで観客を沸かせた。 休憩に入ったセットとセットの間で、ピーターはどうすればコットンがあんなにユニークなブルーズ・ハープを吹けるのか、一緒にいた友達とどうしても秘密を探りたくなった。アンプの中に何か特殊効果があるに違いないとあたりをつけたピーターは、こっそりとステージに上がって調べ始めた。 すると、背後に何かが迫って..
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エルトン・ジョンのFirst Step〜ロンドンでの下積み時代、ようやく手にしたレコード発売のチャンス

彼が15歳を迎えた1962年、両親は離婚を決意する。 彼にとってはとても辛い時期だった。 両親の離婚は悲しい出来事だったけれど、彼にとっては独裁者だった父の存在に怯えていた頃よりも家庭でリラックスできるようになったのも事実だった。 当時、彼は地元のグラマースクールとロンドンにある名門の音楽家養成学校(王立音楽院)学校に通いながら、スチュアート・ブラウン(Vo)を含む友人達と4人組のバンド“ブルーソロジー”を結成する。 モータウン系のサウンドを中心に、週末の夜だけホテルのラウンジで演奏をし始める。 彼はツイードのジャケットやタートルネックのセーターなど、ビートルズを真似たような服を着て、伊達眼鏡をかけてピアノを弾いた。 それは当時彼が英雄のように崇めていたバディ・ホリーへのリスペクトだったという。 1965年3月5日、彼はグラマースクールを中退する。 それは18歳の誕生日を迎える3週間前のことだった。 時を同じくして、彼はロンドンのウエストエンドにある音楽出版社「ミスル・ミュージック」で見習い社員の職を得ていた。 「音楽にたずさわりながら働く日々は楽しさとはほど遠かった。好きな仕事をしているという充実感もなく、日中のほとんどはオフィスでダラダラと過ごしていた。そして夜になるとブルーソロジーのメンバーとしてホテルやキャバレーで細々と演奏しながら、レコード会社から注目される日が来るのを辛抱強く待ち続けていたんだ。」 そんな日々の中、彼に願ってもないチャンスがおとずれる。 その年の7月、ブルーソロジーのデビューシングル「Come Back Baby」がフォンタナレコーズからリリースされる。 翌1966年の年明けには、2ndシングル「Mr Frantic」が発売され、同曲のクレジットには“作曲者/リードボーカル”としてReg Dwight(=エルトン・ジョン)の名前が印刷されていた。 これら二枚のシングルは、イギリスの音楽評論家たちから好意的な評価を得たにも関わらず、世間からはあまり注目されなかったという。 同年(1966年)の年末から、彼はロッド・スチュアートをはじめローリング・ストーンズやジェフ・ベックなど多くの英国ミュージシャン達にとって“兄貴分的”な存在として君臨していた歌手ロング・ジョン・ボルドリーのバック演奏をつとめるようになる。 そのことをきっかけに、彼の..
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悲しい色やね〜大阪弁、女言葉で綴られた名曲はこうして生まれた

1980年代前半…日本では“一億総中流”という言葉が生まれた。 そんな中、関西弁で歌われた一曲のバラードがヒットチャートを駆け上がった。 実力派歌手、上田正樹の歌唱によって1982年にリリースされた名曲「悲しい色やね」。 その歌が発売された年は歌謡界にとっても“豊作の年”と言われ、あみんの「待つわ」、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」、中島みゆきの「悪女」、忌野清志郎+坂本龍一の「い・け・な・いルージュマジック」、一風堂の「すみれSeptember Love」、薬師丸ひろ子 の「セーラー服と機関銃」などなど、数々のヒット曲がチャートを賑わせていた。 上田正樹。 1974年に伝説のR&Bバンド“上田正樹とサウス・トゥ・サウス”を結成し、華々しくデビューするも…わずか2年でバンドを解散させてしまった彼は1977年からソロ歌手としてキャリアをスタートさせていた。 当時は大きなヒットにも恵まれず、地道にライブ活動をつづけていたという。 1981年、環境を変えるためにレコード会社をCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンターテイメント)に移籍するが…思うように売り上げが伸びることはなかった。 そこで、当時の担当ディレクター関屋薫がこんな提案をしたという。 「シンガー上田正樹の魅力を引き出すために、何人かの作曲家に曲を依頼してみましょう!」 数日後エントリーされた作家陣の中に、当時“新進気鋭の作曲家”として注目を集めていた林哲司の名前があった。 関屋は早速林のもとを訪ね、打ち合わせを重ねていった。 「あのハスキーな声で美しいバラードを歌ったらどうなるだろう?」 ほどなくして…林はスマートな英語詞をイメージした楽曲を書き下ろし、関屋に渡した。 まさに文句のつけようのないメロディーを手に入れた関屋は、康珍化(かんちんふぁ)に連絡をとって作詞を依頼した。 康と言えば、後に「ギザギザハートの子守唄」(チェッカーズ)、「桃色吐息」(高橋真梨子)、「ミ・アモーレ」(中森明菜)、「涙をふいて」(三好鉄生)、「胸が痛い」(憂歌団)などをヒットさせ、作曲家の林哲司とのタッグでも数々の名曲を生み出した才人である。 上田正樹という“一癖ある男”が歌う美しいバラードの歌詞を依頼された康は、その日のうちに関屋に一本の電話を入れた。 その時の会話を関屋は鮮明に憶え..
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これが本当の80年代サウンド⑫〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) シャカタク「Night Birds」(1982年/全英9位) 1980年代初期、日本でも大ブームとなったシャカタク。個人的な話だが、中学生になって仲良くなった音楽一家の友人がいて、彼が『Night Birds』や『Invitations』のレコードを貸してくれたことがある。それまでベストテンの歌謡曲しか知らなかった12歳には随分と「都会的な大人の音楽」に聴こえたものだ。日本のトレンディドラマの草分け『男女7人夏物語』(1986年)にもシャカタクの音楽は全編に使用されていた。今聴くと、かなりいい。 パット・ベネター「We Belong」(1984年/全米5位) パット・ベネターといえば、全米の白人ティーンガールに「パット・ベネター・ルック」を広めた(このあたりはキャメロン・クロウが原作・脚本を担当した映画『初体験リッジモント・ハイ』を観ればすぐに分かる)ことでも知られるロックシンガー。1979年のデビューアルバムから連続6作でプラチナディスクを獲得。本作もMTVなどで頻繁に流れていた。 フリーダ「I Know There’s Something Going On」(1982年/全米13位) フリーダことアンニ=フリッド・リングスタッドはアバの女性ヴォーカリストの一人。この曲はアバが解散した1982年にリリース。英語で歌った初めてのソロアルバムからのシングルカットで世界規模でヒットした。プロデュースは80年代サウンドの王道を創り上げたと言っても過言ではないヒュー・パジャムとフィル・コリンズ。 38 Special「If I’d Been the One」(1983年/全米19位) 事故死したレイナード・スキナードのロニー・ヴァン・ザ..
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マンハッタン〜ウディ・アレンは「音楽一つで都会の表情が変わる」ことを教えてくれた

ウディ・アレンの映画を観るといつも感じることがある。都会で暮らしていることがちょっとだけ嬉しくなるのだ。 と言ってもウディ自身が「不必要な精神問題を次々と作り出すマンハッタンの人々」と指摘しているように、その感情は自己中心的な都会人に向けてではない。いつもより深い愛着を感じてくるのは、馴染みの通りや風景といった街の表情に対してだ。 ウディ・アレンはニューヨークを強く愛する人だが、他の監督では決してロケ先に選ばないようなマンハッタンの「吐息的な場所」をフィルムに捉えるのが得意な人。 それは働く場所、遊ぶ場所、買い物する場所、飲食する場所といった種々雑多な喧騒が集まるところであってはならない。時には川沿いから、公園の舗道から、アパートの窓から、誰もいない博物館からといったように、人々が気張らなくてもいい場所から「最も都会的なショット」を映し出せるのが、映画作家ウディ・アレン最大の魅力だと思う。 その独自の姿勢はアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞を獲得した1977年の『アニー・ホール』から始まったが、「音楽一つで街の表情は変えられる」「モノクロ映画でも色が見える」ことを教えてくれたのが『マンハッタン』(Manhattan/1979)だった。 この映画ではオープニングからジョージ・ガーシュインの代名詞である「ラプソディ・イン・ブルー」が使用され、その後「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」「アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー」「ス・ワンダフル」「エンブレイサブル・ユー」「バット・ノット・フォー・ミー」といった楽曲がふんだんに使用されている。 ウディにとってはガーシュインの音楽こそがマンハッタンの象徴だった。他にも選曲はあったはずだ。誰もが知るフランク・シナトラの歌でもいいし、当時の流行りならビリー・ジョエルだって全然構わない。だが、どれもには相応しくない。シナトラは強すぎるし、ビリーではドラマチックすぎる。 ガーシュインの音楽が永遠不滅なのは、どこを切り取っても「都会の吐息」がさり気なく聞こえてくるからだ。ウディ・アレン映画が描く世界観と相性ぴったりではないか。そしてこの組み合わせが唯一無二のマンハッタン像を作り出した。同じニューヨーク派のマーティン・スコセッシ作品と比べて、その余りの手法の違いに驚く。 『マンハッタン』は人より、街並や風景が主役の映画だ。..
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ジョージ・ジョーンズ〜ディランもキースも愛した史上最高のカントリー歌手

人生には様々な試練と直面する機会がある。人は愚かにもそれを繰り返す。あるいは避けられない出来事も用意されている。しかし、逆境を糧にし、どこかにささやかな希望を見い出して、人はそれでも生きて行こうと決意する。カントリーミュージックの世界も例外ではない。 一生いつも何かから逃げ続けているようだった。 自らの人生をそう語ったこともあるジョージ・ジョーンズ。カントリーチャートで150曲以上ものトップ40ヒット、85枚以上ものトップ40アルバム(共に歴代1位)を遺した史上最高のカントリー歌手。 ジョニー・キャッシュやウェイロン・ジェニングス、ボブ・ディランやキース・リチャーズ、リンダ・ロンシュタットやジェームス・テイラーなど、名だたるアーティストからのリスペクトも数知れず。カントリー界のファーストレディ、タミー・ウィネットとの夢のような結婚生活とデュエットソングは伝説に。 その一方で、アルコールや薬物に深く溺れた。その代償として荒んだ生活と辛い離婚も経験。ステージのキャンセルを繰り返し、1980年代半ばには経済的トラブルや病気の影響で体重が40キロ以下にまで落ちて、危うく人生も終わる寸前だった。ジョーンズには上昇と下降のドラマが尽きなかった。 あの頃はひどく落ち込んでいたから、もう元には戻れないだろうと思っていた。チャンスなんてないだろうって。 しかし、そんな私生活があったからこそ、一つの音や歌詞から切ないまでの情感を生み出すことができた彼のパフォーマンスは、特にカントリーバラードでその魅力が発揮され、多くの人々の心を打つことになった。 中でもキャリア最大のヒット曲である「He Stopped Loving Her Today」は、愛し続けた女性を想いながら死んでしまう男の歌で、今やカントリーミュージック屈指のスタンダードナンバーとなっている。 この曲の最も劇的なカバーは、やはり同様に人生の試練を生き続け、どん底のジョーンズを何度も手助けしたこともあった、友人ジョニー・キャッシュによるバージョンだろう。 キャッシュは晩年の作品集『American Recordings』制作過程中、最愛の妻を亡くす。何かせずにはいられないという気持ちで歌を録音し続け、その頃の一つにジョーンズの「He Stopped Loving Her Today」があった。 彼は今日彼女を愛するのを..
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カンザス・シティ〜レスター・ヤングやチャーリー・パーカーが呼吸したジャズの街

映画『カンザス・シティ』(Kansas City/1996)は、同地を故郷とするロバート・アルトマンが監督し、少年時代に聴いていたジャズへの愛が溢れた作品。と言っても自伝的要素はなく、あくまでも独自のストーリーに徹底する。 1970年代の『M★A★S★H』『ロング・グッドバイ』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』といったアルトマン作品にファンは多い。だが『ザ・プレイヤー』『ショート・カッツ』『プレタポルテ』と続く1990年代も、まぎれもなく同監督のキャリアのハイライト。本作もそんな時期に撮られた傑作だ。 物語の舞台となるのは1930年代前半のアメリカ中西部ミズーリ州、カンザスシティ。アメリカ中が大恐慌に覆われる中、この地だけは活気があった。民主党の悪徳政治のドン、トム・ペンダーガストによって街やビジネスが牛耳られる代わりに、ギャング仕切りのナイトスポットが続々開店し、至る所からジャズが響いていたのだ。 もちろん仕事を求めて腕のあるジャズ・ミュージシャンたちが集まって切磋琢磨する。こうして素朴なニューオーリンズ・スタイルとも、洗練されたニューヨーク・スタイルとも違う、リフ中心の強烈なスウィング感覚を持つビッグバンド・サウンド=カンザス・シティ・ジャズが確立していく。 その中にはベニー・モーテン楽団を引き継ぐことになるカウント・ベイシーやサックス吹きのレスター・ヤングがいた。ヤングはコールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスターと並ぶモダンテナーの創始者であり、カンザス・シティで生まれ育ったチャーリー・パーカーの少年時代の憧れでもあった。 映画はそんなジャズが鳴り響き、選挙を前日に控えた1934年のカンザス・シティの二日間を描く。 選挙は不正が行われることは前提で、街には暴力的なムードで漂っている。そんなある日、一人の若い女ブロンディのチンピラ夫が黒人組織の金を略奪。あえなく捕まってギャングのボス(この役にはハリー・ベラフォンテがキャスティング)に監禁される。そこでブロンディは愛する夫を取り戻す材料にするため、大統領の側近の妻キャロリンを誘拐する。 しかし、キャロリンの結婚生活からはすでに愛が消えており、退廃的な生活の中でアヘン中毒者になっている。経済格差のある二人が行動を共にしていくうち、奇妙な友情のようなものが芽生える。 貧しくても「愛とは相手が自分の中にいるような気持ち..
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