2022-04

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スリー・ドッグ・ナイトの「Joy to the World(喜びの世界)」が日本で発売された日

1971年(昭和46年)4月25日、スリー・ドッグ・ナイトの「Joy to the World〜喜びの世界」(東芝音工)が日本で発売され、その年の洋楽チャートにおいて首位を獲得した。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 ジェレマイアは酔っぱらいだった 俺の親友だった男だ 完全に酔っぱらっていて何を言っているのか分からない だけど奴がワインを飲むのを手伝ってやったんだ 奴はいつも良いワインを持っていたからね 冒頭からジェレマイア=『旧約聖書』に出てくるユダヤの預言者を登場させて、その人物を“bullfrog(ウシガエル)”=酔っ払いと喩えるような癖のある歌詞と、突き抜けるようなポップなメロディーで、世代を超えて多くの音楽ファンに愛され続けてきた名曲である。 まず、この“スリー・ドッグ・ナイト”という奇妙なバンド名は何を意味しているのだろう? オーストラリア大陸の先住民であるアボリジニが、寒さの厳しい夜には3匹の犬と寝るという風習にちなんで付けられた名前だという。 彼らは、ダニー・ハットン、チャック・ネグロン、コリー・ウェルズの3人を中心としたヴォーカルトリオで、1967年に結成された。 グループのメンバーは7人で、ヴォーカルの3人の他、ギター、ベース、ドラム、キーボードを担当するメンバーで構成されていた。 彼らの全盛期は70年代だった。 70年代初頭、ジェームス・テイラーやキャロル・キングといった才能溢れるシンガーソングライター達の登場で、ロック&ポップス界はアーティスト自身が自作の曲で勝負する時代に突入した。 60年代のアーティストはビートルズやストーンズでさえ、ブルースやR&Bのカバーを多く取り上げていたのだが、だんだんと身近な出来事や日常生活を歌にすること..
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ラウンド・ミッドナイト〜酒と煙草と真夜中のモダン・ジャズ

20世紀の幕開けと共に生まれ、それまで陽気なダンス・ミュージックだったジャズが、1940年代のビ・バップ登場によって鑑賞芸術となり、以降〜1960年代までジャズは“モダン・ジャズ”として真の黄金期を迎える。 チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、マイルス・デイビス、バド・パウエル、アート・ブレイキー、アート・ペッパー、クリフォード・ブラウン、ソニー・ロリンズ、オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンスといった偉大なジャズマンたちは、みんなこの黄金期に輝かしい録音やステージを残した。 しかし、その美しい音楽の裏側には地獄のような苦悩もあった。夜に生きるジャズマンにとって麻薬や酒に深く溺れることは、至極の創造と表現の代償とでも言うべき“業”だった。モダン・ジャズは間違ってもオシャレなデートやレストラン向けの音楽ではない。モダン・ジャズとは苦悩に満ちた夜の魂から絞り出される音楽のことを言う。 モダン・テナーの顔役であるデクスター・ゴードンも、そんな苦しみの中で紆余曲折しながら足跡を刻み続けた人だった。1923年に生まれ、40年にライオネル・ハンプトン楽団から始まったそのキャリアは、40年代後半にワーデル・グレイと組んだテナー・サックス・バトル・チームで最初の栄光を見る。しかし、デクスターは麻薬に溺れて50年代を棒に振ってしまう。 60年夏、ブルー・ノート・レーベルで奇蹟の復活。ニューヨークへ移るものの、酒類局から麻薬常習を理由にキャバレーカードが支給されず(クラブでの演奏ができない)、62年に仕事と理解を求めてヨーロッパへと渡った。彼は10数年をこの地で過ごしながらブルー・ノートに傑作を次々と録音。76年に帰米を果たす頃には、デクスターは偉大な影響力を持つジャズ界の伝説となっていた。 映画『ラウンド・ミッドナイト』(ROUND MIDNIGHT/1986)は、晩年のデクスター・ゴードンが主演したジャズマンの物語。 ピアニストのバド・パウエルとデザイナーのフランシス・ポードラとの友情を題材にした実話の映画化だったが、アメリカに失望して自由なヨーロッパに活動を求め、アルコール中毒や麻薬の誘惑と闘いながら最期はニューヨークで息を引き取るという内容は、この映画から4年後にこの世を去ったデクスターの人生そのものだった。演技の必要もない。ゆ..
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ジェームス・ブラウン少年時代〜食べること着るものに苦労した極貧生活、ハーモニカやオルガンに触れた幼い頃の音楽体験

2006年12月25日午前1時45分、ジェームス・ブラウン(享年73)がジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院で死去した。 当初発表された死因は、肺炎に合併したうっ血性心不全というものだった。 その後「彼は誰かの手によって殺害された」など様々な死因説が報道されたが…その真相は未だ明らかになっていない。 12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、マイケル・ジャクソン、M.C.ハマーなどの友人を含む約8,500人のファンや関係者が集まり最後のお別れをした。 20世紀に登場した音楽家・パフォーマーの中で、彼は最も大きな功績を残した一人として知られている。 彼が創り上げた“ファンク”という新しいスタイル(音楽・歌唱法・ダンス)は、マイケル・ジャクソンを始めミック・ジャガーやプリンスなど多くのアーティスト達に影響を与え、後のヒップホップ文化へと受け継がれることとなる。 極貧の生活から自身の才能だけを頼りに頂点を目指し、ついには20世紀最高峰のエンターテイナーとなった彼の原点でもある、その生い立ち・少年時代をご紹介します。 1933年5月3日、彼はジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、サウスカロライナ州バーンウェルで生まれた。(生誕年が1928年/生誕地がテネシー州プラスキという他説もある) 彼は母親のお腹から出てきた時、産声をあげなかったという。 「松林の中に建っていた一部屋だけの掘っ立て小屋で生まれたんだ。母親と叔母達は泣かない俺を取り上げて死産の赤ん坊だと。お産の手伝いに慣れていた叔母が尻を叩いたり、口に息を吹き込んだり、背中をさすったりしているうちに、俺は小さな声で泣き出したらしい。」 アフリカ系アメリカ人として生まれた彼だったが、その血筋は複雑なものだった。 父親の祖父はチェロキー族のネイティブアメリカンだったという。 母親の家系にはアジア人の血が流れていた。 「俺の体には様々な血が流れているから、特定の人種とかではなく“人類”という人種、つまり世の中の人すべてと繋がっているように感じていた。俺はアフリカ人に対する気持ちと同じく、東洋人にも近しい気持ちを寄せている。」 父親はテルペンチン(松脂から採れる精油)を採取する仕事をしていたが、その収入は少なく一家は極貧の生活をしていたという。 彼が4歳になった時、不仲だった両親が離婚..
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アメリカン・サイコ〜バブルで踊り続けたヤッピーの狂気の日々

日本では「バブル」という実体のない経済的な宴が生まれたことが2度ばかりある。1回目は1987年〜1991年を包んだ株価や地価高騰の上に成立した時代。そして2回目が世紀末やミレニアムという言葉で覆われていた1999年〜2000年のドットコム企業の上場ラッシュ。 それによって若くして大金を持つ者が必然的に現れる。いわゆる大人としての人間力を育まないまま、金という最大の武器を手にしてまう連中が増殖する。あの頃を振り返れば、少なくとも身近に一人や二人はいたはずだ。 ただ厄介なことに、札束は継続的な輝きのようなものを放ってしまう麻薬のような習性があり、世の中に浮遊する人間のあらゆる欲望(性や消費など)をほぼ買収することが、幼い子供がゲームステージを次々とクリアしていくようにあっけなく実現してしまう。 そんなことが繰り返されるうちに、まるで冗談のような虚飾に溢れた軽薄な言動が、やがて実在という意味でのリアルとして息づいていく。その空気は街の雰囲気や人々の心を覆っていく。 『アメリカン・サイコ』(American Psycho/2000)は、そんな日本の二つのバブル期ともリンクした“不快”な作品だった。見上げてしまうほどの大金を持たない多くの人間にとっては、一握りの連中が繰り広げる自己顕示欲むき出しのパーティなど、迷惑で耐えられないノイズに過ぎないからだ。 原作は『レス・ザン・ゼロ』で知られるブレット・イーストン・エリスが紆余曲折を経て発表した1991年の同名小説で、ニューヨークのウォール街周辺が舞台。1980年代後半、証券会社のエグゼクティヴである26歳のヤッピー、パトリック・ベイトマンという男が、どんな豪勢なシティライフを送り、どんな変態的な欲望を満たしていったかをただ書き連ねてあるだけの物語だった。そこに文学的な味わい深さは一切ない。 目次も凄い。流行のレストラン、クラブ、ブランド、イベント、デート相手の名前といった単語が並ぶだけだ。そんな中で印象的なのが、ポップミュージックのアーティスト名。小説や映画では「ジェネシス」「ホイットニー・ヒューストン」「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」らが、物語の途中で突如として詳細に語られる。主人公ベイトマンにとっては、音楽も自らのシティライフを彩る重要なアイテムだった(特にホイットニーの「Greatest Love of All」について..
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レインボー・フラッグの色、実はそれぞれ意味があるって知ってた?

ゲイのアーティスト、ギルバート・ベイカーさん(1951-2017)によって作られた、レインボー・フラッグ。現在は6色のレインボー・フラッグがLGBTQの象徴として使われていますが、もともとは8色あり、各色にこめられた意味がありました。 View Entire Post ›
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「なんか一緒だね」「拍子抜けした」YouTubeで話題の、ある家族を知っていますか?

3人家族のスウェーデンでの暮らしを伝えるYouTubeチャンネル「ふたりぱぱ」に、「代理母出産(サロガシー)の旅」について聞きました。 View Entire Post ›
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ビギナーズ〜暴動とロマンスと英国モッズが詰まったクールな108分間

「ティーンエイジャー」という概念が誕生したのは1950年代のアメリカだと言われている。それまでは「大人か子供か」の選択肢しかなかった中、親世代への反抗意識を持った若者としてのあり方。そんな特定の年齢層が象徴となって浮かび上がった時、「ティーンエイジャー」は輝き始めた。そして少年少女たちのサウンドトラックは言うまでもなく、同時期に生まれたロックンロールだった。 しかし、50年代後半にはロックンロールは勢いを失ってしまう。エルヴィスは陸軍に徴兵され、ジェリー・リー・ルイスは13歳の従妹と結婚していることが発覚。バティ・ホリーは飛行機事故で亡くなり、チャック・ベリーは14歳の少女とのスキャンダルで告発される。事故に遭遇したリトル・リチャードは伝道師になるために引退し、エディ・コクランは自動車事故で他界、同乗していたジーン・ヴィンセントも重傷。アメリカでのロックンロールとティーンエイジの宴はひとまず終わりを告げた。 映画『ビギナーズ』(Absolute Beginners/1986)は、そんな時代のロンドンの「ティーンエイジャー」の姿を描いた作品。アメリカの影響を受けたイギリスでは、まさにこれから少年少女たちの時代が始まろうとしていた頃。来たるべき60年代のスウィンギング・ロンドンへの出発点だった。原作は1959年に刊行された同名のカルト小説で、著者のコリン・マッキネスは「怒れる若者たち(Angry Young Men)」と呼ばれた作家の一人。 物語は1958年の異常に暑いロンドンの夏、可能性に溢れた若者たちの溜まり場ソーホーが舞台。夢と希望を抱いた仲間たちが集まって情熱的な夜が綴られていく。駆け出しカメラマンのコリン(エディ・オコーネル)とファッションデザイナー志望のスゼッタ(パッツィ・ケンジット)もそんな光景にいるカップル。コリンは下町ノッティング・ヒルでジャズ・ミュージシャンで黒人のミスター・クールたちと一緒に住んでいる。 しかし、二人のロマンスもやがて搾取と金儲けにまみれた大人たちの企みによって引き裂かれてしまう。スゼットは大物デザイナーと結婚。落胆するコリンに「キミを成功の世界へ導こう」と声を掛けてくる謎の男(デヴィッド・ボウイ)。コリンは売れっ子カメラマンとなって華やかな毎日を送るが、心はどこか虚しかった。そんな中、ノッティング・ヒルの再開発を名目にファシストた..
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真のディズニー通への挑戦状。 アリエルの身につけている貝殻は何色?

ディズニーキャラクターの体や洋服の一部が違う色になっているよ。問題は全部で11問。全問正解できるかな?🎨 View Entire Post ›
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パープル・レイン〜真のスーパースター誕生の瞬間を描いたプリンスの自伝的映画

2016年はデヴィッド・ボウイやイーグルスのグレン・フライなど大物ミュージシャンが相次いで亡くなったが、その度に彼らの過去の代表作やベスト盤を購入する人が多かったようだ。同年4月21日に亡くなったプリンスも、直後の5/7付のビルボードチャートで1位・2位・6位とTOP10に3枚も突如ランクインした。1位と6位はベスト盤で、2位が『パープル・レイン』。これはプリンスと言えば、やはり『パープル・レイン』を思い浮かべる人が多いことを証明した結果だろう。 1984年のリリース当時を思い返すと、あの衝撃の大きさは凄かった。前作『1999』によって機は熟していたことは追悼コラム「プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才」でも触れた通りだが、プリンスが真のスーパースターになったのは紛れもなく『パープル・レイン』。 MTV時代が本格的に幕開けてヴィジュアル性に富んだアーティストたちが増殖し、現在よりも“洋楽”が若者文化に深く浸透・作用していた1980年代。デュラン・デュランやカルチャー・クラブやワム!といったUKポップ、ヘヴィメタル勢、サントラ映画群、そしてマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーやマドンナらの動向を追いかけることがポップカルチャーの最先端だったあの時代。そんな頃にプリンスはあまりにも眩しくブレイクしたのだ。 ミック・ジャガーはその数年前から「プリンスがどんなに凄い奴か君らには分からないだろう」と言っていたし、デヴィッド・ボウイは「彼は今、一番気になる存在だ」とコメントした。ここで1983年と1984年のビルボード・チャートでナンバーワンを記録したアルバムを並べて、あの時代の風景を再生してみよう(数字は1位を獲得した週数) ○1983年 Business as Usual/Men at Work ⑮*前年分含む Thriller/Michael Jackson ㊲*翌年分含む Flashdance/Soundtrack ② Synchronicity/The Police ⑰ Metal Health/Quiet Riot ① Can’t Slow Down/Lionel Richie ③ ○1984年 Footloose/Soundtrack ⑩ Sports/Huey Lewis & the News ① Born in the ..
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プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才

1983年。マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻している頃、彼と同い年の二人のアーティストが翌年迎えることになる大ブレイクを前に、その魅力をゆっくりとポップミュージックの最前線に浸透させていた。 一人はニューヨークのダンスフロアを揺るがせていたデビューしたてのマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』やシングル「Little Red Corvette」で初のTOP10ヒットを放っていたプリンス。その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに慣れ親しんでいた若い世代ならみんなこう思ったはずだ。「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」と。 プリンス・ロジャー・ネルソンは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。複雑な家庭環境によって孤独な幼少時代を過ごすが、彼には音楽があった。と言ってもミネアポリスは白人の土地であり、黒人の人口比率はわずか3%。ネットやSNSなどなかった1970年代、プリンスの耳と心は自然にラジオから流れてくるロック・ミュージックを捉えていく。中でもカルロス・サンタナのギターがお気に入りだった。 1978年4月、19歳の時にアルバム『For You』でワーナーからデビュー。新人としては異例のセルフ・プロデュース権を得て、アレンジ、作詞作曲、歌、演奏すべてを一人でやってのけた(単独多重録音)。経費削減のためにシンセサイザーを活用してファルセット・ヴォイスを多用したこの作品はヒットこそしなかったものの、早熟の孤高の天才として忘れてはならない原風景だ。 その後年1枚のペースでアルバムを発表。しかし、ジャンル分けなどできない唯一無比なサウンドに加え、官能的すぎる歌詞やヴィジュアルワークは当時のメインストリームの音楽ファンには理解不能だった。1981年にローリング・ストーンズの公演の前座を2日間経験して、大ブーイングを喰らってモノを投げつけられて開始20分でステージを下りたのは有名な話だ。プリンスは屈辱に耐えられずに人知れず涙していたという。 だが、自らのバンドを“ザ・レヴォリューション”と名づけた『1999』から一気に状況が変わっていく。一部のヒップな若者たちから支持されていたプリンスは、遂に1984年『Purpl..
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