
死んだ男の残したものは〜鉄腕アトムの主題歌で知られる詩人・谷川俊太郎が書いた反戦歌
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
この「死んだ男の残したものは」という歌は1965年(昭和40年)に生まれた。
作詞は、あの「鉄腕アトム」の主題歌を手掛けた日本を代表する詩人・翻訳家・絵本作家・脚本家の谷川俊太郎(当時34歳)によるもの。
1965年といえば…アメリカがベトナム戦争に本格的軍事介入した年で、海の向こうではビートルズが「イエスタディ」を、ローリング・ストーンズが「サティスファクション」を、そしてボブ・ディランが「ライクアローリングストーン」をリリースし、日本では美輪明宏(当時・丸山明宏)が「ヨイトマケの唄」を発表し、加山雄三が「君といつまでも」を大ヒットさせた年でもある。
谷川は、その年の4月に東京で開かれる“ベトナム平和を願う市民の会”のためにこの詞を書いたという。
「明日の市民集会のために曲をつけてほしい!」
谷川が依頼したのは、世界的に知られた現代音楽の作曲家の武満徹(たけみつとおる・当時35歳)だった。
無茶ぶりとも言える急な作曲を依頼された武満は、たった1日で曲を完成させたという。
さらに谷川は、依頼の際にこんな手紙を添えて渡している。
「メッセージソングのように気張って歌うものでなく、映画『愛染かつら』の主題歌(旅の夜風)のような感じで歌える曲にしてほしい。」
武満が仕上げた短調の曲は、日本人の琴線に触れる切なくも力強いものだった。
4月24日(資料によっては22日)お茶の水の全電通会館ホールで行なわれた集会で、バリトン歌手の友竹正則の歌唱によって初めて披露されたという記録が残っている。
ベトナム反戦を訴えるさまざまな団体やグループを結集したこの日の集会で“ベトナムに平和を!市民文化団体連合”という名称の組織が結成される。
彼らの運動は、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則だった。
そこには労働組合や学生団体などの様々な左翼団体のみならず、学生、社会人、主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者が集まったという。
翌1966年には、名称を“ベトナムに平和を!市民連合”に変更し、略称「ベ平連」で広く知られるようになる。
反戦運動の集会のために書かれたこの歌は、その後、..