2022-05

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真夜中のカーボーイ〜激動の60年代と70年代をつなぐ1969年が生んだ傑作

『真夜中のカーボーイ』 都会と呼ばれる空間は、常に弱者を見つけようとする過酷な性格を併せ持つ。夜になると歪んだ正義や悪知恵も蔓延する。金さえあれば何でも許される拝金の風潮や見せかけだけのセレブなムードを醸し出す虚飾は、よほどの強い信念と美学、あるいは都市生活慣れした免疫を持った人間でない限り、そのあまりの眩しさに簡単に誘惑されて堕ちてしまう。それは世界中の都会に言えることであり、東京都心も例外ではない。 『俺たちに明日はない』『卒業』『イージー・ライダー』『明日に向かって撃て!』などに続いたアメリカン・ニューシネマの『真夜中のカーボーイ』(Midnight Cowboy/1969)は、紛れもなく都会への憧憬と現実を描いた物語だった。 主演は共に舞台俳優出身のジョン・ボイトとダスティン・ホフマン。ジョンはこれが初主演作で、ダスティンは前作『卒業』とは打って変わった役作り。原作は1965年に出版されたジェームズ・レオ・ハーリヒーの小説で、監督はイギリス人のジョン・シュレシンジャー。映画は60年代最後のアカデミー賞作品賞受賞作となった。 物語は、テキサスの田舎町のレストランで皿洗いとして働く長身でハンサムで除隊したばかりの若者ジョーが、大都会ニューヨークを“約束の地”に定めて一旗上げるべく、新調したスーツやテンガロン・ハットやブーツに身を包んで意気揚々とバスに乗り込むところから始まる。道中、田舎町での辛い過去がジョーの脳裏を横切るが、それでもラジオの電波がNY局に変わると期待と希望に満たされるのだった。 都会には男を買う婦人がたくさんいる。テレビやラジオや雑誌で仕入れた三文記事を信じ込んで踊らされているだけのジョーは、次第に男娼や弱者には微笑んでくれないニューヨークの厳しい現実にあっけなく飲み込まれていく。文無しで安ホテルさえ追い出され、男らしいカウボーイを求める夜の男たちに身を売ることになる。 そんな時に出逢ったのが廃墟に暮らす浮浪者で、肺を病んだ片足が不自由なリコ。彼には太陽が輝くマイアミに行くというささやかな夢があった。パームツリーとココナッツの匂いに包まれて健康を回復したい。 やがて奇妙な友情で結ばれた二人は、最底辺の生活から抜け出そうとあらゆる手段を使って金を稼ごうとする。ヒップな人々が集まるパーティで初めて顧客を見つけたジョーは、リコを連れてマイアミ行きのバ..
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デューク・エリントンを偲んで〜ジャズ界に偉大な功績を残した“公爵(デューク)”の足跡

作家の村上春樹は著書の中で、デューク・エリントンについてこんな風に綴っている。 天才というのは往々にして短気でせっかちで短命なものだが、彼はその才気溢れた人生を、まことに優雅に、まことにたっぷりと、まことにマイペースで生きた。 見事に“生ききった”と言うべきか…。 そしてその奇跡的なまでに豊かな音楽的水脈は、広い平野の隅から隅までを、余すことなく潤した。 言うまでもなく、ジャズの歴史にとっては慶賀すべきことである。 <引用元『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著> 1974年5月24日、デューク・エリントンはニューヨーク市内にある病院の一室で静かに息を引きとった。享年75。 癌に冒され死期が近くなってからも病室で作曲を続けていたという。 印税などで莫大な収入を得ながらも、お金のかかるビックバンドを率いて晩年まで旅を続けていたのは、自分の頭の中にあるサウンドをすぐに実演したかったからだと言う。 今日は“公爵(デューク)”の愛称で親しまれ、ジャズ界に偉大な功績を残した彼の足跡をあらためてご紹介します。 デューク・エリントン。 ジャズ創成期の時代に作曲家兼バンドリーダー兼ピアニストとして大活躍した男である。 生涯3000曲以上の音楽制作に携わった彼のレパートリーの中でも、特に「Take the A Train(A列車で行こう)」は、時代を超えて今もなお世界中で親しまれている一曲と言えるだろう。 「“ジャズ”という言葉も問題の一部だな。この言葉からはニューオリンズの売春宿の連想が完全に消えないんだ。私たちがやっているのは黒人音楽と呼ぶべきなんだ。」 「黒人は聴衆を楽しませればいい」という風潮の中で、彼は「我々はアーティストであってエンターテイナーではない」と、毅然と言い放ったというエピソードも残っている。 そんな“姿勢”と類い稀な音楽的才能によって、彼は後世の黒人ジャズメンの精神的支柱となってゆく。 彼は1899年4月29日にワシントンD.C.で生まれた。 なぜ“公爵(デューク)”という愛称で呼ばれるようになったか? 一説では、父親がホワイトハウスの執事であったからだという。 また、子供の頃から身のこなしが優雅で、きちんとした服装をしていたことからつけられたという説もある。 小学生の頃からピアノを習い始め、ハイスクールでは学校行事でピアニストとして..
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【激ムズ】最新ピクサー作品のキャラクター、何人知ってる?

全問正解できたら、すごすぎる…! View Entire Post ›
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テルマ&ルイーズ〜大人の女の中に潜む自由な少女

『テルマ&ルイーズ』 幼い頃、例えばディズニーアニメが描くようなシンデレラストーリーを観た経験があると思う。あの虹色の世界観に掻き立てられる想像力の旅。圧倒的な憧れを抱いたままベッドの眠りの中で物語が続けられた静かな夜。 そして……時は重なって社会との交流を経ながら、少女はやがて現実というものが決してアニメのようなファンタジーではないことを悟る。少なくとも他人の心の痛みが分かるようになり、世の中のシステムに気付くような大人になる。自由な夢の世界に彷徨っていた少女が、今、タフな現実の中で大人の女として存在する。 リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(THELMA&LOUISE/1991)を観ると、そんなことを想ってしまう。独り身になって生活をすることの重み。お金を稼ぐための労働。結婚生活は何も幸せのゴールではなく、それが愛のないものであるなら空しい毎日の始まりに過ぎない。こんな日々から抜け出して何かをやってみたいと思うのは、心がまともな証だろう。 1969年に『イージー・ライダー』で描かれたキャプテン・アメリカとビリーの旅は、アメリカの自由とアメリカの現実との闘いだった。自由とは自らの信念に従い貫くことだとすれば、彼らの自由は現実にとって脅威であり不安に映った。二人の旅は死で終わったが、テルマとルイーズの旅はどうなのか? 舞台はアーカンソー州のスモールタウン。ウェイトレスで生計を立てるルイーズ(スーザン・サランドン)と専業主婦のテルマ(ジーナ・デイヴィス)は親友の仲。ルイーズはまるで家政婦のような扱いを受けて暮らすテルマを誘って、友人の山荘にドライブ旅行へ出掛ける。息抜きのヴァカンスになるはずだったが、自宅からなぜか銃を持ち出したテルマにルイーズは驚く。テルマは自由を満喫していた。 途中で立ち寄った酒場で見知らぬ男とダンスするテルマ。その後、駐車場で男は嫌がるテルマをレイプしようとする。脅しのために銃を向けたルイーズ。しかし男は侮辱の言葉を浴びせニヤつくだけ。ルイーズの銃弾が男をブチ抜いた。彼女たちのヴァカンスは一転して逃避行の旅に変わった。警察に事情なんて話しても無駄だとルイーズには分かっていた。 次の日、殺人を犯した現実と少ない所持金に苛つく彼女たちの関係。ルイーズはオクラホマ州で昔の恋人ジミーと落ち合って自分の全財産6700ドルを立て替えてもらう。それは..
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エルモア・ジェイムスを偲んで〜“スライドギターの王様”と呼ばれた男の偉大な足跡と功績

1963年5月24日、“スライドギターの王様”と呼ばれた男エルモア・ジェイムス(享年45)がシカゴにて急逝した。 死因は心臓発作と発表された。 28歳の時に心臓病で入院を経験しており、その後も何度か心臓マヒを起こしたという。 「俺はいつ死ぬかわからない」と周囲に言いながら、その恐怖から逃れるかのように…いつも酒を呑んでいるような生活をしていたという。 伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンに手ほどきを受けたという逸話もある彼のスライドギター(ボトルネック奏法)は、ブルースからロックが誕生する道筋に大きな功績を残すこととなった。 唯一無二とも言える彼のギタープレイは、後にローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、フリートウッド・マック、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなどに大きな影響を与えた。 ジミー・ヘンドリックスは“最も強い影響を受けた人物”として彼の名を挙げている。 日本でも憂歌団の内田勘太郎や近藤房之助が、彼のフォロワーとして知られている。 1918年、彼はアメリカのミシシッピ州で私生児として生まれる。 十代の頃から自らを「クリーンヘッド」「ジョー・ウィリー・ジェームス」と名乗り、地元やアーカンソー州ヘレナで活動を始める。 当初は19歳年上のブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIにくっついて、あちこちの酒場でギターを弾くようになる。 その後、キャリアを重ねながらハウリン・ウルフ、ホームシック・ジェイムス、スリーピー・ジョン・エステス等と活動を共にする。 ある日、流れ者のロバート・ジョンソンの演奏を見た瞬間に衝撃を受けて、手ほどきを受けるようになる。 そこで彼のデビュー曲ともなる「Dust My Bloom」を伝授されたということらしいが…音楽と共に女癖と酒癖の悪さも教わったという。 初録音は遅く、1951年(当時33歳)だった。 ミシシッピ州ジャクソンのトランペットレーベルでのスタジオでロバート・ジョンソン直伝の「Dust My Bloom」をレコーディングする。 彼は、この曲のヒットで一躍“名の知れたブルースマン”の仲間入りを果たす。 当時を振り返ってトランペットレーベルの女社長リリアン・マクマリーはこんな言葉を残している。 「彼は偉大なギタリストだったけど、料理も上手だったの。彼が作ったフライドチキンは今までで最高の味だったわ。」 以降..
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ビリー・ザ・キッド/21才の生涯〜「天国への扉」を生んだボブ・ディラン出演の西部劇

『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』 名匠サム・ペキンパー監督作品『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(Pat Garrett and Billy the Kid/1973)は、邦題だとまるでビリーが主役のような映画に思えるが、実際は原題にあるように、これはパット・ギャレットとビリーの二人の物語である。 ビリー・ザ・キッドは1859年生まれで、アメリカの西部開拓時代のアウトローとして数々の西部劇で描かれてきた人物。母親を侮辱した男を殺したのが12歳の時。以来、強盗や泥棒を繰り返したが、弱く貧しい人々の味方で、町を牛耳る権力者やそれにつく暴漢ばかりを殺したという。そんなこともあり文化作品ではヒーローのように扱われることもある。21歳の若さでパットによって殺された。 対するパット・ギャレットはビリーより10歳年上。パットも無法者であったが、開拓時代の終焉と文明の幕開けを肌で予感。時代の移り変わりと家庭を持つ中でいつしか「安定した人生」を求めるようになり、ビリーの存在を疎ましく思う町の権力者たちから雇われて保安官になった。一匹狼となってビリーを追い続け、闇討ちで射殺。その後は牧場経営に転身したが、59歳の時に土地を巡るトラブルで殺された。 ビリーに扮するのはジョニー・キャッシュ、ジャニス・ジョプリン、デニス・ホッパーらとの仕事で知られていた人気カントリー・ミュージャンのクリス・クリストファーソン。パットは名優ジェームス・コバーンが演じて味わい深さが加わった。また、ミュージャンも多数出演。クリスの恋人のリタ・クーリッジはラブシーンを演じ、キース・リチャーズがファンとして有名なドニー・フリッツはビリーの仲間。そしてボブ・ディランが同じくビリーを慕う物静かな青年役で登場。サウンドトラックも担当した。 『ワイルドバンチ』『わらの犬』『ガルシアの首』『ゲッタウェイ』などで知られるサム・ペキンパーは、本作撮影時、映画会社MGMの経営陣と激しく対立していた。反骨精神旺盛なサムは『ワイルドバンチ』の続編的なものを求める会社に反発したので、ロケ現場の雰囲気は最悪だった。おまけに会社の帳簿上の都合で、公開日を急かされてMGMが手配したチームと出来上がったフィルムを編集する日々。結果、現在では公開版とディレクターズ・カットの2種類が存在する(大きな違いはないが、どちらも素晴らしい)。 本作は..
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尾崎紀世彦の大ヒット曲「また逢う日まで」の誕生エピソード

1971年(昭和46年)3月5日、当時28歳だった尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(日本フォノグラム)が発売された。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 若かりし頃の尾崎は「芸能界は嫌いの上に大がつくほど。歌う場所があるからいるだけ。」と、公言していたという。 英会話を学べるホテルマンを養成する専門学校に通っていた時に、ハワイアンバンドを結成。 続いてウエスタンバンド、コーラスグループ「ザ・ワンダース」にギター担当で参加。 解散後にナイトクラブなどで歌っていたところ、オーディションに通りデビューへの切符を手にする。 それは1970年のことだった。 心機一転、ソロ歌手としてキャリアをスタートさせた彼にとっての2ndシングルとなったのが同曲である。 楽曲のクレジットには、日本の歌謡/ポップス界の作家陣で最高峰とも言える阿久悠(作詞)と筒美京平(作曲)の名が記されている。 この歌は当初、三洋電機のルームエアコンのCMソングの候補曲として筒美京平が作った曲にやなせたかし(アンパンマンの生みの親)が歌詞を付けて、女性歌手の槇みちる(60年代を代表する元祖アイドル的な存在)がレコーディングをしている。 しかし、スポンサーの方針変更により最終段階でボツとなり、その後、同じ曲に阿久悠が安保闘争で挫折した青年の孤独をテーマにした歌詞を付け「ひとりの悲しみ」というタイトルで作り直す。 それをズー・ニー・ヴーというグループが歌ってリリースしたのだが…後に黄金コンビとなる阿久・筒美をしてもヒットにはいたらなかった。 当時、尾崎紀世彦を担当していたプロデューサーがこの曲を聴き「このメロディーをどうしても彼に歌わせたい!」として、阿久に詞の書き換えを求めたところ、阿久は「一度出したものを変..
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ボブ・ディランとジョーン・バエズ〜グリニッジ・ヴィレッジで出会った二人の恋物語

1950年代末から1960年代初頭、ボブ・ディランは社会の激動と共に転機を迎える。 生まれ育ったミネソタからニューヨークへと身を移し、当時プロテストソングの先駆者として活躍していたアーティスト達から新たな刺激を受ける。 ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ジャック・エリオット、オデッタ、デイヴ・ヴァン・ロンクなどなど、ディランは彼らの歌や生き方から多くのものを学ぶ。 そしてジョーン・バエズと出会い、彼の運命は大きく変わり始める… 「私が初めてボビーと出会ったのは1961年だった。グリニッジ・ヴィレッジにあったイタリア風のバー&レストラン“ガーディス・フォークシティ”で演奏している彼を観た。よれよれの革ジャンを着て歌う彼の曲は、どれも独創的で新鮮だったわ。柔らかくて感覚的、それでいて子供っぽく、敏感で寡黙なイメージ。彼は自分の歌の中に“言葉”を吐き出していた。」 その日、演奏が終わるとディランはジョーン・バエズのテーブルに行き、立ったまま独り言でも呟くように挨拶をしたという。 彼女はシャーリー・テンプル(レモン・ライム・ソーダをベースとしたノンアルコールカクテル)を飲みながら、彼の顔をじっと眺めていた。 「ボビーという青年は今まで出会った連中とまったく別格だった。人の心を打つ何かを持っていることは間違いなかったわ。その瞬間から私の心が何かに向かって動き始めたのを憶えている。」 彼らが“特別な関係”になるまで時間はかからなかった。 のちにジョーン・バエズは当時の心境を「Diamonds And Rust」という曲の歌詞にしたためた。 あなたはいきなり登場し そしてすでに伝説 磨かれていない原石 生まれながらの放浪者 今、私たちはあの安ホテルの窓辺で微笑んでいる ワシントン・スクエア広場を望みながら 二人の息は混じり合い窓を曇らす 正直に言うわ…あの時あそこで死んでもよかったのよ ニューヨークのマンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジにあるワシントン・スクエア公園を見下ろすその安ホテルは当時一泊12ドルだった。 ルームサービスはなく、麻薬常習者や売人などニューヨークに流れ着いた怪しげな下層階級の人間がそこを定宿にしていた。 ジョーン・バエズが宿泊していた部屋でディランは我が家に帰ったかのようにくつろいだという。 「私たちは恋に落ちていた。私は彼より6ヶ月歳上なだけな..
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あなたのオーラは何色?

10個の質問に答えてね〜❤️🧡💛💚💙💜 View Entire Post ›
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ロケットマン〜珠玉の名曲を送り出した作曲家エルトン・ジョンと作詞家バーニー・トーピン

『ロケットマン』 エルトン・ジョンの半生を描いた映画『ロケットマン』(Rocketman/2019)が公開された。 2018年に大ヒットした同じ英国人ミュージシャン、フレディ・マーキュリーの『ボヘミアン・ラプソディ』の後だけに賛否両論はある様子。でも自腹鑑賞してきた感想は、観る者がどこに軸を置くかによって楽しみ方がいかようにでも変わり広がる作品だということ。 物語はエルトンの幼少期からデビュー時期、そしてアルバム7作連続1位という黄金時代を築き上げた1970年代と嵐が去った後の1983年の姿を描く。つまり、派手な衣装とメイクのポップスター街道真っ只中と、それ以前・直後のエルトン。90年代以降の特大ヒットを入口にした世代には疑問だらけかもしれないが、ソングライティングにおける生涯の相棒バーニー・トーピンとの関係性を見れば、この時代設定以外はあり得ない。 エルトン・ジョンが世に送り出した珠玉の名曲の数々は、作詞家バーニー・トーピンなくして生まれなかった。まずバーニーが歌詞を書き上げ、それからエルトンがピアノで曲をつける。70年代にリリースしたアルバムのブックレットには二人が並んだ写真がメインに登場することが多く、いかに強い絆で結ばれたソングライターチームであったかが分かる。 最初に歌詞をもらうんだ。彼が曲のシナリオを書いて、僕がそれを仕上げるという変わった形を取っている。彼が歌詞を書くのにどれくらい時間が掛かっているか分からない。尋ねたことがないからね。でも歌詞を受け取ると、それをすぐに理解できれば、もうキーボードに手を置いて開始する。大抵、できるまで長い時間は掛からない。 両親から満足な愛を得られなかったこと。同性愛者のポップスターとなり、孤独な人生を歩んでいたこと。その同性の恋人から金銭的に利用されてきたこと。アルコール、ドラッグ、過食といった依存症の悪夢にうなされてきたこと……ショッキングな場面が流れていく中、バーニーとの出逢いや創作活動、ブレない友情こそが、映画『ロケットマン』の真髄だ。 製作総指揮を担当したエルトンは、この映画で正直であることに拘った。「彼はこんなに素晴らしかった。こんなに偉大だった」という描写だけは避けたかったという。 この映画を通じて理解してほしかったのは、名声と引き換えになった途方もない代償、子供時代が自分に与える大きな影響、中毒や..
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