2022-06

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ブルース・スプリングスティーンとクラレンス・クレモンズ〜永遠のミッシング・リンク

ブルース・スプリングスティーンの自伝的作品「Tenth Avenue Freeze-Out」(『Born To Run』収録)にはこう歌われている。「ビッグ・マンがバンドに加わって、転機が訪れた」と。 ブルースとザ・ビッグ・マンことクラレンス・クレモンズの出会いは今や伝説だが、クラレンスは半分は作り話と認める愉快な自伝『Big Man』で、これこそが真実とする話を語っている。1971年9月の運命の夜、彼はブルースの出演していたクラブに行った。 「雨が降って風が強い日だった。俺が扉を開けたら、それが蝶番から外れて、道路の方へ飛んでいった。バンドは舞台上で演奏中だったが、入口の枠の中に立つ俺をじっと見た。それがブルースをちょっと不安にさせたんじゃないかな。だって、「君のバンドと一緒に演奏したい」と言っただけなのに「もちろん、何でもやりたいことをやってくれ」と言ったからね。 最初にやった曲は「Spirit In The Night」の初期のヴァージョンだった。ブルースと俺はお互いを見て、一言も言わなかったけど、俺たちがお互いの人生に欠けていたミッシング・リンクだとわかったんだ。彼は俺がずっと探していたものだった。やせた小柄な若造にすぎなかったけど、彼には将来を見通す力があった。彼は自分の夢を追いかけたかった。そのときから俺は歴史の一部になったんだ」 クラレンスの力強いサックス演奏はEストリート・バンドのサウンドを決定づけたが、その巨体の存在自体も同じく重要だった。1970年代には、黒人メンバーが白人のリーダーと対等に絡むロック・バンドはありえなかった。 だから、2人が演奏と舞台上の動きで表現する人種を超えた友情と信頼の絆は、公民権運動からまだ日の浅いアメリカに強いメッセージを発した。大ヒット・アルバム『Born To Run』のカヴァーをブルースがクラレンスに寄りかかる写真が飾った意義は非常に大きかったのだ。 2011年6月にクラレンスは脳卒中で倒れて帰らぬ人となったが、ブルースは感動的な弔辞の中で、自分たちの重要な仕事を「僕らの(人種を超えた)友情がそれほど例外的ではない類の場所を作った」と表現し、「その仕事はまだ完成していない」ので、「次の人生でこの道の先で、また会おう。そこで僕らは再びその仕事を始めて、やり遂げるんだ」と亡き親友に呼びかけた。 2012年3月から..
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ニューヨーク・ニューヨーク〜有名なあの曲はライザ・ミネリがこの映画で初めて歌った

『ニューヨーク・ニューヨーク』(New York, New York/1977) 2017年に日本でも大ヒットしたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』は、その名の通りLAを舞台にした“音楽を伴った男と女の愛のドラマ”だったが、ちょうど40年前にはNYを舞台にした同様の映画があったことを思い出す。『ニューヨーク・ニューヨーク』(New York, New York/1977)だ。 と言っても、この作品はミュージカルではなくミュージカルのシーンを含んだ映画。ことの始まりは、プロデュースチームのロバート・チャートフとアーウィン・ウィンクラーが1940年代の音楽の大ファンであり、それを効果的に使ったラブストーリーを企画していた。そして知り合いの売れない脚本家アール・マック・ローチに依頼してストーリー作りに着手し、マーディク・マーティンが加わって脚本が完成。 脚本を受け取ったロバート・デ・ニーロは一読して、『タクシー・ドライバー』の撮影で気心の知れたマーティン・スコセッシを監督にすることで出演をOK。相手役には『オズの魔法使』をはじめとするハリウッド・ミュージカルの全盛期の大スターだったジュディ・ガーランドとヴィンセント・ミネリ監督の娘であり、自身もスター街道を歩んでいたライザ・ミネリ。オリジナル音楽は『キャバレー』の仕事でライザをよく知るフレッド・エブとジョン・カンダーが担当した。 スコセッシ監督は絶滅しかけていた昔ながらのハリウッド映画、特にMGMミュージカルにあったような作り物の中にも確かにあったリアルさに心打たれる。そこにサックス奏者とバンドシンガーというアーティスト同士の生き方や複雑な愛情を絡めることによって、40年代映画へオマージュを捧げながらも、斬新な演出が光る“音楽を伴った男と女の愛のドラマ”に昇華していった。 撮影にはMGMのスタジオが使われることになり、ライザは自分の控え室をかつて母が出入りした部屋にしてもらった。子供の頃に父親から教わった「演技力とは相手のセリフをよく聞いて、その場で切り返す能力」であることを学んでいた彼女は、才能溢れるデ・ニーロのアドリブにも見事に対応。特に映画のクライマックスである往年のMGMミュージカルを再現した「ハッピー・エンディング」のシーンでは、ワクワクするような躍動感を与えている。スコセッシ監督自身も「最高の体験だった」と振..
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グリース〜映画もサントラ盤も大ヒットしたトラボルタとオリビアの共演作

『グリース』(Grease/1978) ニューヨーク市の中心部マンハッタンは、南北をアヴェニュー(番街)が、東西をストリート(丁目)が縫う、折れ目正しい街並を形成している。マンハッタン島南端からやや北西に向けて走り、7番街と42丁目の交差点で斜めに交わる通りがブロードウェイだ。 「ブロードウェイ」は一般的に街路の名称というよりはむしろ、タイムズ・スクエアを中心とする劇場街の代名詞となっている。現在、ブロードウェイには40ほどの大劇場がひしめき合い、連日、数多の演劇作品を上演している。ミュージカルはこの地を拠点として、この100年以上、繁栄と進化を遂げてきた。(『ミュージカル史』/小山内伸著より) ジム・ジェイコブスとウォーレン・ケイシーによって書かれたミュージカル『グリース』(Grease)は、1971年6月にシカゴの小さな劇場で初演され、翌年2月にオフ・ブロードウェイ、6月にはいよいよブロードウェイに進出。以降、3388公演という当時のロングラン記録を更新(現在は歴代15位)しながら、幅広いファンに愛されてきた。トニー賞では無冠に終わっているが、知名度という点では1978年に映画化されたこともあり、日本でも馴染み深い作品の一つだろう。 主演は『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)でダンスフロアとスクリーンのスーパースターとなったジョン・トラボルタ。そして可憐なルックスでカントリー・ポップ調のヒット曲を連発してアイドル的人気の頂点(今のテイラー・スウィフト的なポジションか)にいたオリビア・ニュートン=ジョン。 トラボルタはまだ駆け出しの頃、『グリース』のミュージカル版で端役についたことがあった。舞台裏ではずっと主役のダニーに憧れていたそうだ。念願叶うと、相手のサンディ役にはオリビアを推薦(人気者の女の子に会いたいというミーハー心もあった模様)。一方、オリビアは映画出演に自信がなく、スクリーンテストを自ら申し出た。ダンスもこなしたオリビアは撮影中に才能を次々と発揮。冒頭では初めてのキスシーンも披露した。 製作はショービジネス界の帝王として君臨していたロバート・スティグウッド。数々のロック・ミュージカルを仕掛け、赤い牛のロゴで有名なレコード会社RSOを設立。そんな彼が『サタデー・ナイト・フィーバー』の次に用意したのが『グリース』。映画化にあたっては懐古的な構成の..
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ザ・クラッシュの名曲「ハマースミス宮殿の白人」がリリースされた日

「いいメロディーは常に勝ち残る、そしていいメロディーにいいメッセージが乗っていれば、常にいつの時代でも絶対に勝ち残る。これは雑多とした録音だった。マーキーの裏にあるスタジオの薄暗い中でこそこそと録音してた。外で行列を作る大衆を避けながら、見つからないように車の後ろにうずくまったりしてね。でもそこから素晴らしい曲が出来あがった。呼びかけるような逸話を歌に入れたジョーのやり方はみんなの心を打ち、人々にとっての素晴らしい証言となった。ジョーの葬式でこの曲を流したのはとてもいい事だと思ったよ。」 (ジョニー・グリーン/当時のクラッシュのツアー・マネージャー) 1978年6月16日、ザ・クラッシュは「(White Man) In Hammersmith Palais(ハマースミス宮殿の白人)」という楽曲をリリースした。 7インチシングルとして発表されたその歌のクレジットには作詞作曲:ジョー・ストラマー/ミック・ジョーンズと記されている。 後に米国版のデビューアルバム『The Clash/白い暴動』にも収録されることとなったこの歌は、彼らが当時台頭してきていたパンクシーンから頭一つ抜きん出るきっかけとなった“重要な曲”としてファンから愛され続けてきたという。 「なぜクラッシュが特別なバンドなのか聞きたいかい?ジョーやミックや俺達の世代は本当に音楽にのめり込んでいたんだ。それは反体制の姿勢としての音楽だった。それがクラッシュのようなバンドと今の全てのくだらないバンドとの違いだ!もうクラッシュのようなバンドは現れはしない。クラッシュを真似するのは難しいよ…ほとんど不可能に近いね!」 (ドン・レッツ/DJ・映画監督) この曲のタイトルにもなった“Hammersmith Palais(ハマースミス宮殿)”は、ロンドン西部ハマースミス・アンド・フラム・ロンドン特別区にあった建物で、正式名称は“Hammersmith Odeon”だった。 1992年以降は正式名称が変更されてながらも、一般的には“Hammersmith Apollo”と呼ばれるイベント会場として現在も実在する。 歌詞には、デリンジャー、リロイ・スマート、デルロイ・ウィルソンというレゲエミュージック界のスターの名前が登場し、当時その会場で行なわれたオールナイトのレゲエショーをジョー・ストラマーが体験したところから始ま..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜どんなに売れてもオンボロの車を乗り回していたスター歌手の金銭感覚

越路吹雪。 彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。 戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。 独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。 作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、彼女が亡くなるまで連れ添った。 1980年11月7日、胃がんのため56歳でこの世を去った。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪の金銭感覚にまつわるストーリーをご紹介します。 ──越路吹雪が他界した直後、ある週刊誌に“骨肉の争い”という見出しが躍った。 その記事を読んだ政治評論家の細川隆元は、出版元の編集部に電話をかけてこう言い放った。 「越路には争うほどの財産なんかないぞ!」 細川の妻が彼女のファンだったということもあり、夫妻は越路と深い親交を持ちながらその私生活を知る存在でもあった。 細川の発言通り、彼女はいくつかの宝石と毛皮しか残さなかったのだ。 全盛期の越路は文字通り“トップクラス”のスター歌手だった。 圧倒的な表現力と歌唱力。 一流の劇場で、一流のドレスを身にまとって行なうコンサート。 「越路吹雪の公演チケットは日本一手に入れにくい」とも言われるほどの人気ぶりだった。 その出演料も高く、おそらく(当時)他の歌手の追従を許さなかった。 とくにホテルでおこなわれるディナーショーやクリスマスショーのギャラは一晩で数百万円だったとも言われている。 彼女がもしも“その気”になったら、高価な外車や、高級マンションは簡単に買えたに違いない。 しかし、彼女は平凡なサラリーマンが住むようなマンションに住み、乗っていた愛車も古い国産車だったという。 美容室では新人の女優や若い歌手の方がよっぽどいい車に乗って来ていたという。 彼女が通ったヘアサロンのスタッフがそのことを証言している。 「駐車場の中で、とにかく一番ボロっちい車が越路さんの愛車でした。」 越路は取材などで何度もこんな質問を受けた。 「越路さんらしく豪華な車を買われたらいかがですか?」 いつも答えは決っていた。 「オンボロの方が私にピッタリだか..
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マレーネ・ディートリヒの「リリー・マルレーン」が日本で発売された日

1975年(昭和50年)6月15日、ベルリン出身のハリウッド女優マレーネ・ディートリヒが歌った「リリー・マルレーン」(ビクター)が日本で発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「昭和枯れすゝき」/さくらと一郎 2位「シクラメンのかほり」/布施明 3位「想い出まくら」/小坂恭子 4位「時の過ぎゆくままに」/沢田研二 5位「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 山陽新幹線博多まで開通、第二次ベビーブーム、天皇が史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問、双子デュオ歌手ザ・ピーナッツが引退、ローソン設立、マルちゃんのきつねうどん(東洋水産)、ペヤングソース焼そば(ペヤング)、「オヨヨ」(桂三枝)、「死刑!」(漫画ガキデカ)が流行した年でもある。 彼女の代表曲としても知られるこの「リリー・マルレーン」。 その楽曲は女性の名前をタイトルにした不思議な魅力を持つ歌だった。 第一次世界大戦の最中、ハンブルクで教師をしていたハンス・ライプ(作詞者)はドイツ軍に召集され、ロシアと対峙する東部戦線へ出征した。 当時、彼にはリリーという名の彼女(食料品店勤務)がいた。 1915年、彼は戦場へ出兵する前に一篇の詩をしたためていたという。 そこには、恋人を想う兵士のやるせない心情が綴られていた。 もう門限の時間がやってきた 「ラッバが鳴っているぞ!遅れたら懲罰房3日だ!」 「わかりました!すぐに戻ります!」 僕たちはお別れを言った 君と一緒にいるべきだったのか リリー・マルレーン 第一次世界大戦後、ハンスは22年前に綴っていた詩を1937年に『Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht(歩哨にたつ若き兵士の歌)』というタイトルで出版した。 翌年、その詩にドイツの作曲家ノルベルト・シュルツェが曲をつけ「リリー・マルレーン」という楽曲が誕生した。 この歌と運命的な出会いをしたドイツの歌手ララ・アンデルセンは、レコード発売のチャンスを掴む。 それは第二次世界大戦が開戦した1939年の出来事だった。 当時はドイツ国内で約700枚がリリースされただけで、しかも売り上げは60枚だったという。 販売店に山積みになってしまった売れ残りを、店員がドイツ軍の前線慰問用レコードの中に紛れ込ませたことにより「リリー・マルレー..
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Goodnight Saigon〜ビリー・ジョエルが紡いだ究極の反戦歌

「この曲を最後まで仕上げるのは、とてもヘヴィーなことだったよ。当時、世の中の人々には、受け入れる準備がまだできていないと感じていたんだ。きっと思い出すことさえ辛いことだろうと。他の誰よりも、かつて兵士だった人たちを傷つけてしまうだろうと。」 「Goodnight Saigon」は、ビリー・ジョエルが1982年にリリースしたアルバム『The Nylon Curtain(ナイロンカーテン)』のA面ラストに収録されていた。 約7分におよぶその歌は、それまで彼が発表してきた作風とは一線を画すシリアスな内容だった。 ビリーは1979年から約3年の歳月を費やしてこの曲を書き上げたという。 『ローリング・ストーン』誌の評論家スティーヴン・ホールデンは、この曲についてこんなコメントを残している。 「歌の内容が明らかになっていくにつれ、彼が歌う“We”は、生者も死者も問わず、東南アジアで戦ったすべてのアメリカ兵を意味するものとなっていく。」 俺たちはパリスアイランドで魂の友として出会った 俺たちは同士として海兵隊新兵訓練所の施設から旅立った 僕たちは研ぎ澄まされたナイフのようだった 俺たちは塹壕(ざんごう)を深く掘って 目に見えるものを撃ちまくった そして全身全霊で神に祈った この歌が発表された1982年といえば…ヴェトナムからアメリカが撤退して10年という節目の年を迎える直前だったという。 彼はアルバムの製作に取りかかって間もない頃に、オートバイ事故を起こして左手首を骨折し、約一ヶ月の入院生活をおくっている。 商売道具の「手」を負傷してしまい、自己嫌悪に陥り、鬱々と過ごす病室で彼はさらなる試練を受けることとなる。 デビュー時からマネージャーとしても彼を支えてくれた妻エリザベスとの離婚話が持ち上がる。 そんなある日、彼は病室のナイロン製のカーテンを眺めているうちに、新作アルバムのタイトルを思いたという。 度重なる試練が、彼の心をそれまでとは異なる世界へと向けさせたのだ。 それまでヒットチャートに叩き込んできた作品『ストレンジャー』(1977年)や『ニューヨーク52番街』(1978年)と比べ、社会問題をテーマにした楽曲を主軸に持ってきたのだ。 「兵士たちが戦場で溝に身を潜めながら考えているのは、ヒトラーや毛沢東のことなんかじゃない。自分の尻が吹き飛ばされやしないかと、それだけを心配..
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ヨコハマの歌〜煙草が似合う俳優達が歌い継いだブルースのルーツ

♪「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」/松田優作 ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスは ブルースの色 たとえばトム・ウェイツなんて聴きたい夜は YOKOHAMA HONKY TONK BLUES この「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」は、俳優の藤竜也、原田芳雄、松田優作、石橋凌などが歌い継いできた“ヨコハマ”の名曲だ。 1960〜70年代というのは、戦後のベビーブームで生まれた団塊の世代による「新しい若者文化」が台頭してきた時代だった。 戦後生まれの若い世代が社会的な発言を始め、そこで一部の若者たちの発言と行動は反社会的なものにまでエスカレートしていく。 それと同時に、若者達は「新しい音楽」「新しいファッション」「新しい生き方」を模索していた。 そんな70年代が幕を降ろそうとしていたある日、人気俳優として頭角を現していた藤竜也がトム・ウェイツの曲にインスピレーションを受けて“ヨコハマ”を舞台に一編の歌詞を綴った。 その出来上がったばかりの歌詞を渡されのは、彼の高校の後輩でもあったゴールデン・カップスのエディ藩だった。エディは数日も経たないうちに野毛(横浜市の下町)の立ち呑み屋で競馬中継を見ながら曲をつけたという。 そんな“いかにも”な逸話が残っているのも実に“ヨコハマ”らしい。 ♪「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」/エディ藩 この歌詞の中で歌われている「オリジナルジョーズ」とは1953年創業の、横浜では最も古い老舗イタリアンレストランのことだ。 横浜市中区相生町3丁目、JR関内駅南口を出て徒歩5分の場所にあったその店は、2011年10月に惜しまれながら閉店した。 創業58年という長い歴史を持つこの老舗レストランに、今は亡き名優達も足を運んでいたという。 ♪「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」/原田芳雄 ♪「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」/石橋凌&宇崎竜童 ♪「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」/山崎ハコ あなたの影を 探し求めて ひとり彷徨った この街角 本牧あたりの昔の話さ YOKOHAMA HONKY TONK BLUES ♪「Nobody Knows You When You’re Down and Out」/デレク・アンド・ザ・ド..
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クリス・クリストファーソン〜デビューするために“空から売り込み”をした男

クリス・クリストファーソンとジョニー・キャッシュ ある日、自宅で昼寝をしていると、ジューンが叫んだ。『ヘリコプターが庭におりてくるわ!』 外に出ると、クリスがヘリコプターから出て来て僕に言ったんだ。『どうしてもこの曲を渡したかった』って。 1965年のある日、突如として空軍の任務と結婚生活を放り出したクリス・クリストファーソンは、そのままテネシー州ナッシュビルに移り住み、コロンビアスタジオの守衛や清掃(ボブ・ディランの灰皿を片付けた!)、沖合までヘリコプターを飛ばす仕事などで生活費を稼ぎながら、自分のバンドを結成する。 「何度もジョニー・キャッシュに売り込んだよ。そのうちスタジオの関係者から『売り込んでも無駄だ。ジョニーの邪魔をしたらクビにするぞ』って言われてね」 それでも今度はキャッシュの妻ジューンにテープを渡すようになり、それは山のようになった。チャーターしたヘリコプターを使ったという、伝説的な冒頭のエピソードはこの頃の出来事だ。その時はソングライターとしての経験を積むように励まされただけだった。 しかし1970年、その売り込んだ曲が『ジョニー・キャッシュ・ショー(*1)』という大舞台で全米に届けられることになる。だが歌詞にドラッグを連想させる部分があるとして、テレビで歌うことを局側に問題視され、ソングライターにとっては屈辱的とも言える代案の歌詞が用意された。 クリストファーソンは、収録場所であるライマン公会堂の二階席から心配そうにステージを見守る羽目になった。そしてキャッシュはヘリコプターの時と同様、今度は二階席にいる“売り込み男”を見上げることになった。 日曜の歩道 “ストーン(*2)”なままだったら良かったのに 日曜のこの雰囲気 たまらなく寂しくなってしまう 死んでしまうなんて この半分の切なさでしかないよ 覚めやらぬ歩道 虚ろな日曜がやって来た 「ジョニーは僕を見上げながら、元通りの歌詞を歌ったんだ! 彼はこの歌を救った。変えていたら違う歌になっていた。彼は恩人だよ」 この曲「Sunday Morning Coming Down」は、キャッシュのバージョンでカントリーチャートの1位を記録し、CMA(カントリーミュージック協会)の最優秀歌曲賞を受賞。 また、同年にリリースされたクリストファーソンのデビューアルバムにも収録され、彼はロックやフォークを..
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バックコーラスの歌姫たち〜家政婦として掃除中にラジオから自分の歌声が流れてきたダーレン・ラヴ

『バックコーラスの歌姫(ディーバ)たち』(20 Feet from Stardom/2013) シュガープラムが街に出た。ソウルフードを食べながら。 アポロシアターへ行った。見ものだったぜ。 みんなが言う。「ワイルド・サイドを歩け」。 俺も「冒険しようぜ」と。 そして黒人女たちが歌う。ドゥドゥドゥ・・・ (ルー・リード「ワイルド・サイドを歩け」/映画字幕歌詞より) バックシンガーたちがいなければ、あの曲は絶対に名曲にはならなかった。例えば、レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」、ローリング・ストーンズの「ギミー・シェルター」、デヴィッド・ボウイの「ヤング・アメリカン」、レイナード・スキナードの「スウィート・ホーム・アラバマ」、ドナ・サマーの「バッド・ガール」、フランク・シナトラの「ザッツ・ライフ」……。 彼女たちがいなければ、随分と間抜けな歌になっていたはずだ。あの印象的な歌声やコーラスがあったからこそ、誰もが知る曲になったのだ。 だが、バックシンガーの待遇は決して恵まれているとは言えない。いくら音楽を愛していても、歌うことが楽しくても、実力があっても、それだけでは生き残れない。業界での売り込みや駆け引きができずに、運から見放され、多くの歌い手たちが“名もなき者”として志半ばで去っていく。 1990年代以降になると、コンピュータ技術の急速な発達やレコーディング経費の削減によって、バックシンガー自体の必要性が問われたこともあった。 ブルース・スプリングスティーンは言う。 「数歩の距離だけど難しい。バックコーラスからセンターの位置に来るまでは。いくら後ろで歌っても目立たない。歌唱力の問題じゃない。精神的なものなんだ。前で歌う心構えをきちんと持てる人ならセンターに立てる。でも多くの人が馴染めない。強い自分がないから」 『バックコーラスの歌姫(ディーバ)たち』(20 Feet from Stardom/2013)は、トップスターの影に隠れたバックシンガーたちにスポットライトをあてた珠玉のドキュメンタリー。 どんなに傷ついても歌うことを諦めなかった6人の歌姫たちのそれぞれの物語を軸に、彼女たちに支えられたミック・ジャガー、スティング、スティーヴィー・ワンダー、ルー・アドラーといった面々によって貴重なエピソードが語られていく。 彼女たちの多くは、幼い頃に教会で触れたゴス..
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