2022-07

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1981年8月1日にMTVが開局して僕たちは音楽を“見た”。

1981年8月1日、MTVが開局。 1981年8月1日の午前零時過ぎ。“見えるラジオ”をコンセプトにした『Music Television』(以下MTV)の放送がスタートした。音楽ビデオを24時間流し続けるプログラムとして、アメリカの若い世代や時代の空気を変えてしまうことは必至の画期的な出来事だった。記念すべき最初のビデオクリップ(※)がバグルスの「Video Killed the Radio Star」だったことは、今や洒落た伝説だ。 これによって、まずMTVが観たいからCATVに加入するという現象が起き始める。当初は田舎町から始まった動きが、1983年にはNYやLAといった大都市でも開局に至った。 音楽を取り巻く環境でも当然マーケティングは変わる。レコード会社にとってMTVは、新たなプロモーションメディアに位置づけられた。売り出したいアーティストがいたら地道に各地をツアーで回るようなリスクや時間を取らせなくても、印象的なビデオクリップさえ制作すればそれ以上の効果が素早く期待できるようになったのだ。 特にデジタル機材を活用したポップなサウンドと華やかなヴィジュアル性に富んだ英国の若手アーティスト(デュラン・デュランやカルチャー・クラブなど)がその恩恵を受けた。彼らがヒットチャートを独占するいわゆる「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれる動きは、MTVならではのムーヴメントだった。 音楽は、それまでの聴くものから“観るもの”へとシフトチェンジする。画面の中で軽快に喋ったりクリップを紹介したりするビデオ・ジョッキー(マーク・グッドマン、J.J.ジャクソン、ニナ・ブラックウッドなど)がMTV黄金期のムード形成に果たした役割も忘れてはならない。音楽を視覚的に流すという拡散力は凄まじく、MTVは若者文化/ポップカルチャーの主役に一気に躍り出た。 MTVは音楽業界の仕組みを変えていった。 誰もが作り方自体を模索していたビデオクリップにも、1980年代中頃になると次の段階がやって来る。知名度の高いアーティストを中心にそれまでの宣伝ツールから、“作品主義”として転化する動きが本格化。例えば、マイケル・ジャクソンの「スリラー」は約15分にも及ぶ映像作品で、それは当然のように莫大な制作費が投下されていた。 もはやライブやステージでの演奏を単に撮影するだけでは視聴者は満..
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死刑台のエレベーター〜夜の街に漂うマイルス・デイヴィスのトランペットと完全犯罪の崩壊

『死刑台のエレベーター』(Ascenseur pour l’échafaud/1957) もう耐えられない……愛してる。だからやるのよ。離れないわ。 私もそこにいる。あなたと一緒なのよ。 ジャンヌ・モローの顔が画面いっぱいに映り、そんな台詞が囁かれる。彼女は公衆電話ボックスの中で受話器を握っている。すると今度はモーリス・ロネの緊迫した表情に切り替わる。彼はパリの街並みが一望できるオフィスの片隅で受話器を握ったまま、こう囁き返す。 愛してる……今は君の声だけが頼りだ。 愛し合う自分たちのために、この後完全犯罪へ向かって動こうとする男と女の直前の会話。そこにマイルス・デイヴィスのクールなトランペットが鳴り響く。 こんなにもスタイリッシュで色っぽい始まり方をする作品は、あらゆる映画の中でも『死刑台のエレベーター』(Ascenseur pour l’échafaud/1957)以外はすぐに思いつかない。ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとも言われる本作を監督したのは、当時弱冠25歳のルイ・マル。 たった1年の現場経験しかない新人監督がいきなり長編デビュー。しかも有名スターやミュージシャンを起用できたのは、ルイ・マルが大実業家の富豪の息子であり、父親からの莫大な援助によって実現したというのは有名な話だ。だがそんなことは抜きにして、これほど音と画の調和が全編に渡って整った作品も珍しく、その鋭い映像感覚はあまりにも衝撃的だった。 幼い頃から映画や音楽をはじめとする多くの文化に深く触れることができたマル監督は、同時期のトリュフォーやゴダールのようにカイエ・デュ・シネマ派の批評や理論とは向き合わず、初めから制作の人だった。運動に参加するというより、ただ作家として作品を創りたかっただけらしく、だからヌーヴェル・バーグの旗手のように扱われることを嫌ったという。 『死刑台のエレベーター』は3楽章の音楽に見立てて作ったと言われている。つまり、ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ、若いカップルという三者の時間の流れだ。決して出会わない関係でありながらも、マイルス・デイヴィスの静と動を使い分けたトランペットがそれぞれの登場人物の心象風景を繋げていく。 モダン・ジャズとフランス映画が最高の形で結びついたことによって、『死刑台のエレベーター』は“シネ・ジャズ”の出発点、最高傑作にもなった。数年の間で..
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ダーティ・ダンシング/ミーン・ストリート〜史上最高のラブソング「Be My Baby」

『ミーン・ストリート』(Mean Streets/1973) 『ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing/1987) これから観る映画のオープニングに、期待に胸躍らせる人は多いと思う。 ──長い予告編が終わってスクリーンが広がり、映画会社のロゴマークが現れていよいよ本編が始まる。これから映し出される物語の入口。観る者の心の鼓動を左右する大切な数分間。 そんな中、誰だって釘付けになるような、ひときわ印象的なオープニングを放つ映画がある。その余韻が次のシーンになっても呼吸していて、全編に渡って一貫したスピリットを与えている。 今回紹介したいのは、ジャンルはまったく違うのに奇しくも幕開けに“同じ曲”を使用した映画2本。その曲があったからこそ、長く語り継がれるような作品になっているかもしれないほど、そのオープニングのインパクトが余りにも大きい。曲と場面が完璧に溶け合っていて、何年経っても何度観ても胸が熱くなってしまう。 スコセッシ監督の音楽センスが光る『ミーン・ストリート』 まともに暮らそうと心の葛藤に苦しむチャーリー(ハーヴェイ・カイテル)と、その親友で酒・女・ギャンブル・借金とトラブル続きの日々を送るジョニーボーイ(ロバート・デ・ニーロ)のどうしようもない友情を軸に、チンピラな青春模様を“みすぼらしい街角”を舞台に描いた『ミーン・ストリート』(Mean Streets/1973)。 監督はあのマーティン・スコセッシで彼自身の自伝的作品。デ・ニーロとの黄金コンビの記念すべき第1作目となる。本作によって二人の輝かしい70年代のキャリアがスタートした。 物語は、チャーリーが暗闇の夢から目覚めるところから始まる。薄汚いアパートのチープなベッド。映像的には暗く決して美しいものではない。だが、チャーリーが物思いに耽るように再びベッドに倒れ込んだ瞬間、あの「ドッ・ドドッ・ドッ」という世界一有名なドラム音が響く。フィル・スペクター不滅の名曲として知られるロネッツの「Be My Baby」だ。 そこから手持ちのカメラで撮らえた、リトル・イタリー街の人々と主人公チャーリーとの交流フィルムをバックにクレジットが流れていく。聴こえるのはストリングスの調べ、甘美な声とコーラス、極上のポップなラブソング。はっきり言って世界観は一致していない。でも、そこが痺れる。 大編成のミュージシャ..
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ジミー・ペイジ27歳〜築200年の石造建物でのレコーディング、前代未聞の“無題アルバム”を発表

ジミー・ペイジといえば…1970年代に“最も成功したロックバンド”レッド・ツェッペリンの中核を担ったギタリスト兼リーダーである。 若い頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッションギタリストとして活躍し、ジョー・コッカーのバックバンド、ニコのプロデュース、ザ・フーのレコーディングへの参加、ヤードバーズへの加入を経て、1968年にレッド・ツェッペリンを結成する。 1971年1月9日、彼は27歳の誕生日を迎えた。 その頃バンドは、4枚目となるアルバムのレコーディングに突入した矢先だった。 デビュー以来、3年間に3枚のアルバムを連続でヒットチャートに叩き込み、コンサートでは世界中で興行記録を塗り替えていた彼らは、これまでの作品を凌ぐものを作りたいという野心を燃やしていた。 ジミーは当時のことを鮮明に憶えているという。 「まずはロンドン西部にあるアイランドスタジオでのセッションから始めた。その後、3rdアルバムで使用したヘッドリィ・グランジにローリング・ストーンズの車載スタジオを借り入れて録音をスタートさせた。一流エンジニアのアンディ・ジョンズを雇い、築200年の石造建物を世界最大級のレコーディングブースに作り変えたんだ。俺達が目指したのは、従来のレコーディングスタジオから作られるサウンドじゃなかったんだ。四角い部屋の標準的な響きじゃ嫌だったから、アンプやマイクを階段口や戸棚など、家のあちこちに動かして新しいレコーディング空間を作りだしたんだ。それは間違いなく聴き手の潜在意識に影響をおよぼすことなんだ。それは俺達が1stアルバムのころからずっと展開してきたアイディアなんだけどね。ヘッドリィでの作業でさらに“次の階段”に進むことに成功したんだ。」 そこはロンドンから2時間ほど離れたイングランドのハンプシャー州ヘッドリィ村にある古い建築物だった。 1795年に近隣教区の救貧院として建てられたという。 19世紀後半から個人所有の邸宅となり、数度持ち主を変え、1961年から空き家となっていた。 旅行者や学生のための宿泊施設として利用されながら、それまでフリートウッド・マックなどがリハーサルスペースとして使用していたこともあった場所である。 豪勢というにはほど遠かったが、野趣溢れた雰囲気はジミーの好みだったという。 「古い古いその建物には、何か“気配”があったんだ。普通の快適な暮..
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カサブランカ・ダンディ〜男がピカピカのキザでいられた時代とは?

ボギー ボギー あんたの時代はよかった 男がピカピカのキザでいられた 1979年2月1日、沢田研二の26枚目のシングル「カサブランカ・ダンディ」がポリドールレコードから発売された。 この年のジュリーと言えば同曲に始まり「OH!ギャル」を経て「ロンリー・ウルフ」、そして年末にはアルバム『TOKIO』をリリースし、とにかくノリにノッていた時期である。 さかのぼること4年… 彼は公私共に“変化の時期”を迎えている。 1975年6月4日、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。 同日、沢田の比叡山フリーコンサートにおいて夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行う。 彼はそのコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドウをしてファンの前に現れる。 お茶の間に流れるテレビ番組では控えていた奇抜なヴィジュアルも、この時期から徐々にエスカレートさせていく。 1977年に一世を風靡した「勝手にしやがれ」ではパナマ帽を客席に飛ばすというパフォーマンスを、「サムライ」ではナチスを彷彿とさせる衣装に刺青、「ダーリング」では水兵のセーラー衣装、「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ血で染まった包帯を手に巻いた。 さらに「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、「OH! ギャル」では女優マレーネ・ディートリヒを真似たメイクで登場。 そして「TOKIO」では250万円の電飾衣装にパラシュートを背負い、「恋のバッド・チューニング」では青や金色のカラーコンタクトを装着するパフォーマンスを披露し、日本中に“ジュリー旋風”を巻き起こしてゆく。 そんな“黄金時代”の代表曲の一つ「カサブランカ・ダンディ」。 タイトルの“カサブランカ”は、1942年度のアカデミー作品賞を受賞した名画『Casablanca』に由来するもの。 曲のサビで繰り返される“ボギー”という男性の名前が、映画の主演を務めた名優ハンフリー・ボガードのニックネームだということは、ジュリーファンならずとも多くの人が知っている話だ。 この時代のジュリーが歌う曲の歌詞のほとんどを手がけているのが阿久悠。 この楽曲の他にも「勝手にしやがれ」「サムライ」「ダーリング」はすべて映画の題名からとったものだという。 曲のモチーフになっ..
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天国の日々〜その余りにも美しい映像で伝説化したテレンス・マリック監督作

『天国の日々』(Days of Heaven/1978) 映画監督の中には、技巧よりも映像美を優先する人がたちがいる。その筆頭格と言えば、テレンス・マリック監督の名を挙げる人は多い。ハリウッド・システムとは距離を置きながら、良質なアメリカ映画を撮り続ける彼は、寡作家としても知られている。近年でこそコンスタントに作品を立て続けに発表しているが、80〜90年代は1作品しか残しておらず、行方不明扱いさえされたほど。 そんなマリック監督の代表作『天国の日々』(Days of Heaven/1978)は、今でも世界中の映画ファンを魅了する名作。アメリカ映画なのにどこかヨーロッパ的な趣を感じるのは、撮影監督にフランソワ・トリフォーやエリック・ロメールらフランス映画の監督たちとの仕事で知られるスペイン人、ネストール・アルメンドロスを起用したことも一因だろう。しかも音楽を担当したのは、イタリア人の巨匠エンニオ・モリコーネだ。 タイトルは旧約聖書から取られた。語り手となるのは一人の少女。この手法は1974年のデビュー作『バッドランズ』(地獄の逃避行)と同じで、逃避行ものなのにどこかお伽噺のようなムードを漂わせる効果がある。『天国の日々』は男と女の物語であると同時に、少女リンダの物語でもあった。 映像第一主義者のマリック監督は、この作品で「マジックアワー」「マジックタイム」と呼ばれる撮影用語を広めることになった。これは太陽が地平線に沈んだ後もまだ20分ほど光が残る時間帯のこと。この時、撮影すると自然や人物が最も美しく劇的な状態で映像に収めることができるという。 それは黄金色の広大な麦畑をはじめ、季節の移り変わりや息づく動物たちの描写となって、アンドリュー・ワイエスやエドワード・ホッパーの絵画にも通じる奇跡的な風景を捉えることに成功。カナダのアルバータ地方(物語の設定上はテキサスのパンハンドル地方)でロケした映像詩人たちの仕事には、アカデミー撮影賞云々より一貫した揺るぎのない美学を感じる。 (以下ストーリー) アメリカが第一次世界大戦に参戦する直前の1916年。少女リンダ(リンダ・マンズ)は兄のビル(リチャード・ギア)とその恋人アビー(ブルック・アダムス)の3人で放浪の毎日を共にしている。シカゴの鉄工場をいざこざで辞めたビルは、二人を連れてテキサス行きの蒸気機関車の屋根に飛び乗る。吐き..
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ボビーに捧げる歌

♪「Song to Bobby」/キャット・パワー ♪「Song to Woody」/ウッディ・ガスリー 「ボビー」 ボブ・ディランのことをそう呼ぶのは、元恋人ジョーン・バエズだけだ。 そんなボビーに憧れ「この心はあなたのことでいっぱいなの」と、歌にした女性シンガ・ーソングライターがいる。 彼女の名は“キャット・パワー”ことショーン・マーシャル。 1972年1月21日、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ生まれ。 女性シンガー・ソングライターの中でも異彩を放ち、常に音楽的のみならずカルチャー的アイコンとしても独特の存在感で注目を集めている彼女。 そのためパール・ジャムのエディ・ヴェダーやフー・ファイターズのデイヴ・グロールなど、ミュージシャンにも多く支持されている。 1962年、ボブ・ディランはデビューアルバムに「Song to Woody」(ウディに捧げる歌)を収録した。それは敬愛するウッディ・ガスリーに捧げた歌だった。 それら45年後…彼女は、このタイトルの「ウッディ」の部分を「ボビー」に変えて「Song to Bobby」という曲を書いた。 あなたに伝えたい ずっと伝えたかった でも言う機会がなくて 初めて会った時から ずっとこの心はあなたのことでいっぱいなの 彼女はインタビューで「共演したい人は?」と訊かれた時、 迷わずに「ボブ・ディラン」とだけ答えていた。 ある記事では、こんなことも発言している。 「彼は私にとってヒーローだったわ。彼の社会とのスタンスが好き。 素晴らしい詩人だし、英語という言葉を使った“職人”でもある。 アメリカの音楽史や、アメリカの詩心を力強く体現している人だと思うわ。」 彼女は、幼い日のことを思い出しながら、こう続けた。 「9歳、10歳の頃からボブ・ディランとかオーティス・レディングに聴き入るように なったわ。おばあちゃんのコレクションからは、ハンク・ウィリアムスとか。 パンクロックも聴いたけど、私はボブ・ディランとの静かな時間を楽しんでいたの。」 パリのスタジアムでわたしの歌声が響く いよいよ伝えてもいいかな? やっと伝えてもいい? 「わたしの大切な人になって」と 4月にパリで会えるかな? お願い、わたしの大切な人になって 時は流れ…2007年、34歳になった春の4月23日。 彼女はパリで“憧れの彼”と対面した。 その時、..
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マリアンヌ・フェイスフル〜ミック・ジャガーの恋人、薬物・アルコール依存症を乗り越えて、老婆を好演する女優となって

「That of all the girlfriend’s he’s (Jagger) ever had,He loved her(Marianne) the most(ミックはこれまでのすべての恋人の中で、マリアンヌのことを一番愛していたわ)」 これはミック・ジャガーの2番目の妻ジェリー・ホールが語った言葉だ。 父は薔薇を約束してくれた そして母は嵐を 父は頭を使うことを教えてくれた そして母は喋ることを 彼がそっと頭を撫でてくれると 私は生まれるような気分なの… ──マリアンヌ・フェイスフル。 彼女は1968年に公開された映画『あの胸にもう一度』で、裸に黒革の衣装をまとってアラン・ドロンと共演し、日本の人気漫画『ルパン三世』に登場する峰不二子のモデルとなったと言われている女性だ。 1964年のデビュー当初、そのロリータ的な美貌と透き通るような歌声で一躍英国を代表するカルチャーアイコンとなった彼女。 そしてザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとの交際が発端となり、酒とドラッグに溺れ、波乱の時期を経ながら…現在も音楽活動を続けながら女優としても活躍している。 今日はこれまで彼女がどんな人生を歩んできたのか?その生い立ちや足跡をご紹介します。 ──彼女は1946年12月29日にイギリスのロンドンで生まれた。 父親が英国人で母親はオーストリアの名門貴族の家系出身だという。 “マゾヒズム”という言葉の由来となったレオポルド・フォン・マゾッホを親戚に持つことでも有名である。 幼いころに両親が離婚し彼女は修道院で育つ。 16歳の頃には男の子たちの憧れの的になり、ボーイフレンドに誘われて大学のパーティーに行き、美術商だった最初の夫ジョン・ダンバーに出会う。 17歳でいわゆる“出来ちゃった婚”をして、1963年の11月に長男ニコラスを出産。 夫は美術商ということもあり幅広い人脈を持っており、その中にローリング・ストーンズのマネージャーを担当していたアンドリュー・オールダムがいた。 アンドリューは彼女を見て「この容姿なら売れる!」と確信し、ミック・ジャガーとキース・リチャーズに曲を作るよう指示。 翌1964年に、ミックとキースが手がけた楽曲「As Tears Go By(涙あふれて)」で、に歌手デビューを果たす。 その後、ジャン=リュック・ゴダールに見出されて映画デビ..
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ライトスタッフ〜英雄になった7人の宇宙飛行士と荒野の大空で宇宙を垣間見た独りの男

『ライトスタッフ』(The Right Stuff/1983) 宇宙がまだ見ぬ未知の光景だった頃。1957年10月、ソ連は遂に人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。これを機に宇宙開発の幕が切って落とされた。そしてその一ヶ月後には、ソ連は早くも犬を乗せて2号を打ち上げ。 この立て続けの事態に一番衝撃を受けたのは、言うまでもなくソ連と冷戦状態にあったアメリカだった。“鉄のカーテン”の中の出来事を現実として受け入れざるを得なかったアメリカは、本格的な宇宙開発に取り組むべく1958年10月にNASAを設置。翌年には宇宙飛行に相応しい人材探しを始める。こうしてカプセルに人間を入れて宇宙に打ち上げるという、有人衛生計画「マーキュリー計画」が発表された。 これは軍事的レベルのプライドだ。「宇宙を制する者が世界を制す」。ソ連にこのまま先を越されてはたまらない。アメリカは躍起になって計画を進めた。飛行の候補に上がったのは、アクロバット芸人やサーファーなどの超越した体力の持ち主。冗談のようだが本当の話だ。最も適していたとされる空軍のテストパイロットたちは「無謀」「反抗的」という理由で当初は敬遠されていた。 だが、そんな綺麗ごとなど言ってられない。結局「マーキュリー計画」には奇妙な適性検査や過酷な訓練を経て、テストパイロットたちを含むプロの先鋭たちが選出された。アラン・シェパード(海軍)、ガス・グリソム(空軍)、ジョン・グレン(海兵隊)、ドナルド・スレイトン(空軍)、スコット・カーペンター(海軍)、ウォルター・シラー(海軍)、ゴードン・クーパー(空軍)ら、アメリカ初の7人の宇宙飛行士たちが誕生したのだ。 1961年1月、ケネディ新大統領が就任。“偉大なるアメリカの創造”が早急に求められていた時期。7人にはTVや新聞の報道の影響もあり、国民的ヒーローとして過剰な期待が寄せられる。一方で肝心のロケット自体の発射は爆発続き。不安な状況の中、7人は「実験室のネズミ、チンパンジー」と揶揄されながらも、“従順なるクルーカットのロボット”から脱却する。 1961年5月、ソ連のガガーリンに続き、アメリカのアラン・シェパードが宇宙に旅立つ。アランは国家的英雄に祭り上げられ、パレードや表彰、ホワイトハウスでの会食に招かれた。だが、ゴードン・クーパーによれば、偉大な開拓者は別の場所にいるという。..
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駒沢敏器が遺した幻の長編小説『ボイジャーに伝えて』

『ボイジャーに伝えて』〜駒沢敏器が遺した幻の長編小説 「あっ、駒沢さんだ」 最初のページをめくって数行読んだ瞬間、そう思った。 「駒沢さんが帰ってきた……」 駒沢敏器が遺した幻の長編小説が刊行される噂は、今年の春くらいから何となく耳にしていた。それが今、目の前にある。448ページの本を手に取った時、書物的ではない重みを最初に感じた。『ボイジャーに伝えて』── 読み手を掻き立てる想像力よりも先に、これから始まる書き手の壮大な世界や深い想いに触れてしまったような気がした。 ボイジャーとは、1977年に太陽系外惑星の探査計画としてNASAによって打ち上げられた無人探査機のこと。この時、地球外生物に発見された時のために、ボイジャーには地球からのメッセージとして“ゴールデンレコード”が搭載された。 そこには自然の音、動物の鳴き声、55の言語挨拶、そしてバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンから、グレン・グールド、ルイ・アームストロング、チャック・ベリー、そしてブラインド・ウィリー・ジョンソンなど90分間の地球の音楽も入っていた。 しかし、ページをめくっていくうちに、宇宙的な重みは徐々に一定のリズムを持った浮遊へと変わり歓喜になった。この静寂、この行間、この移動の感じは間違いなく駒沢敏器だ。主な舞台となるのはゼロ年代の横浜郊外、沖縄の風景、そして震災直前、1994年の芦屋の坂道と洋館。どのページを開いても登場人物たちのささやかな色気と体臭が風のように漂っている。 実は半分くらい読み進めたところで皆さんに紹介したくなった。正直言うと「結末を知りたくない」からだ。良質な物語だけが持つことのできる「最後のページが訪れる寂しさ」を先延ばしにしたかった。でも、そんな制御はできるわけがなかった。 主人公の女性を一人称、同じく男性を三人称で描くこの『ボイジャーに伝えて』は、小説誌『きらら』(小学館)にて2005年7月号から2007年6月号まで連載された。終了後すぐに単行本化される予定のはずが、実現まで駒沢さんの死後10年を要することになった(*このあたりの経緯については当時、担当編集をされていた稲垣伸寿さんによる巻末の解説をご覧ください)。 自分の石をひとつずつ積み上げる生き方に勝敗はない。計画的に生きるのではなく、行き当たりばったりに過ごすのでもなく、こつこつと積み上げた何かがいずれ大きな..
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