2022-07

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結婚間近、婚約者の幼馴染から「私と彼の関係が最優先」と長文メール…私はどうするべき!?

婚約者と深い関係の女友だちから「彼はあなたよりも私を気にかけてる」と言われた女性。あなたはどう思う? View Entire Post ›
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カーマは気まぐれ

♪「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)」/カルチャー・クラブ 因果応報って言うでしょ? そんなことから運命は変わっちゃうんだよ 君はあっちへふらふら こっちへふらふら 君が思ってることと僕の望みが近いなら 愛し合うことは簡単なのかもしれないね 愛は赤にも金色にも緑にも変わっていくんだ この「Karma Chameleon(邦題:カーマは気まぐれ)」は、イギリスのバンド、カルチャー・クラブが1983年に発表した80年代を代表するヒット曲である。 1984年には“ビルボードHOT100”で3週連続1位に輝き、更に世界16ヵ国でも1位を獲得し、バンド最大のヒットとなった。 ボーイ・ジョージは、カルチャー・クラブという名前についてこう語っている。 「4人のルーツがそれぞれ違うことからつけたんだ。僕はアイルランド系、ジョンはユダヤ人、ミッキーはジャマイカンでロイがイングランド。4つの文化が集まったから、カルチャー・クラブにしたんだよ。」 カルチャー・クラブは80年代にリリースしたデビューアルバムのうち3曲が米国でトップ10にランクされるヒットとなり、これはザ・ビートルズ以降初めての快挙であった。 当時、世界中でシングル一億枚とアルバム5,000万枚を売り上げ人気絶頂だった最中「この曲は単なる言葉遊びだ」という批判が巷で沸き起こった。 これに対してボーイはこう反論し、歌詞の解釈の仕方まで説明している。 「そんなことを“したり顔”で噂している連中は馬鹿なんだよ。」 「この曲は自分に正直に、そして感じたように行動しないと、カーマのように報いを受けることになるよ、ってことを歌っているんだけどね。」 ボーイ・ジョージは、本名をジョージ・アラン・オダウドといい、ベクスリー・ロンドン特別区で“男の子”として生まれた。苗字の“オダウド”はアイリッシュ系の氏である。彼の化粧は学生時代からのもので、その頃から「オカマ」と呼ばれていたという。 ボーイは当時のことをこんな風に回想している。 「学校は退屈な場所だったし、周囲の目を自分に向ける方法もなかった。たいてい目立っていたのは粗野な乱暴者で、彼等以外が自分の存在をアピールするなんて無理だったんだ。そこで僕は“自分が目立つにはどうしたらいいか?”を考えて、このやり方を思いついたんだ。」 つまり、ここに歌われている“カーマ(Kar..
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ミロール〜売春宿で育った伝説のシャンソン歌手エディット・ピアフの代表曲

おいでよ ミロール かけなさいよ 足のばしてさ なにもかも お任せな ミロール 不思議そうな 顔しないでさ あんたは顔見知りさ ミロール 港みなと渡りあるく 私だもの (日本語歌詞:岩谷時子) この「ミロール」は、伝説のシャンソン歌手エディット・ピアフが1959年に歌いヒットさせたもの。 ミロール(Milord)とは英語My Lord をフランス語風に言い換えた言葉で、もともとは英国の貴族などに対する敬称だった。 いわゆる金持ちの紳士を指す“客への呼びかけの言葉”として使われており“旦那”といった意味(ニュアンス)が近いという。 この歌はそんな紳士=旦那に声をかける娼婦の歌。 ピアフの父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。 幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。 ほとんどの時間をひとりで過ごし、人気のある名曲や歌謡曲を憶えることにいつも没頭していた。 13歳になった彼女は、親戚の家での肩身の狭い生活を離れ、パリの道端で歌う仕事を選択する。 パリのあまり裕福でない地区ピゲールの路上で、観光客や住人相手に歌い続け、聴き入る人たちに使い古しの帽子をまわして生活費を得る暮らしを何年もの間続けていたという。 その小さな体で歌う姿から“ラ・モム・ピアフ(小さなスズメ)”と呼ばれたことをきっかけに、ピアフ(スズメ)という芸名がつけられた。 本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。 この「ミロール」には、港みなとを渡り歩く娼婦(日陰の女)の“粋”が描かれている。 売春宿で育った経験のあるピアフならでこそ出せる持ち味で、哀しい娼婦の身の上話や、男の失恋のいきさつなどが唄い語られた名曲である。 作曲をしたのは、ピアフの代表曲「愛の讃歌」などを手掛けた女性ソングライターのマルグリット・モノー。 そして作詞はジョルジュ・ムスタキ。 当時ピアフの恋人でもあったムスタキという男はどんな人物なのだろう? エジプトはアレキサンドリア生まれのギリシャ人という生い立ちを持つ彼は、17歳の時に一人パリに移り住み、ピアノバーなどで働きながら、当時の音楽シーンの有名人達と知り合う。 シャンソン界の大御所ジョルジュ・ブラッサンスを信奉していた彼は、ある日、音楽仲間からピアフを紹介される。 二人は一瞬で惹かれあったという。 彼は妻子..
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メリーに首ったけ〜日本の映画館でも珍しく至る所で爆笑が湧き起こっていた

『メリーに首ったけ』(There’s Something About Mary/1998) 度肝を抜かれるおかしさ。こいつはビョーキだ。信じられないシーンのてんこ盛り。超下品な笑いとポップなノリでガンガン攻めまくる不気味な奴らが勢揃い。死ぬほどくだらない映画が最高だ! (ローリング・ストーン誌) ここ数年、日本で劇場公開された洋画の中で『テッド』が予想外のヒットを飛ばしたが、「可愛いテディ・ベアの縫いぐるみが出てくるファミリー映画」と勘違いして途中で焦った人も少なくないと聞く。 それで思い出したのが『メリーに首ったけ』(There’s Something About Mary/1998)で、この映画も「デートで観に行く爽やかな恋愛映画」と思って劇場に二人で足を運び、上映開始10分あたりで“異常事態”に気づいた人も多いはず。それでも離席する人はなく、日本の映画館では珍しいことに、笑い声や爆笑が至る所から聞こえていた。 テーマやメッセージ、映像美。そんなものは一切ない。あるのは「どうしようもない男たちが、どうしようもなく魅力的な女に、ありえない手段で愛を告白する」ムードだけ。それが分かっているから、下品な台詞もやや困惑する描写もギリギリ許される。コメディに変化する。昇華する。 脚本/監督のファレリー兄弟(兄ピーターと弟ボビー)は前作『ジム・キャリーはMr.ダマー』のアスペンに引き続き、本作ではマイアミを舞台に選んだが、彼らはリゾート地の光景が人々を解放的にして子供心に戻すことを知っていたのだ。この映画のヒット以降、日本の配給会社ではこの種のタイトルやヴィジュアル(ポスターやチラシ)によるPRが増殖した。ちなみに兄ピーターは20年後の2018年に『グリーンブック』でアカデミー作品賞と脚本賞を受賞。 主演は当時『マスク』出演後にスター街道を歩み始めていたキャメロン・ディアスと、今では監督としても『ライフ』など良質な作品を撮り続けるベン・スティラー。クセの強い連中の一人にクールな役が多かったマット・ディロンがキャスティングされていることにも注目。また、NFLのスーパースターのブレット・ファーヴが登場したり、狂言回し役にはあのモダン・ラバーズのリーダーとしてカルト的なロックファンを持つジョナサン・リッチマンを起用。 ストーリーは、1985年の思い出から始まる。歯の矯正でさえ..
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ピンク・パンサー〜クルーゾー警部とアニメとテーマ曲を生んだ破壊的コメディ

『ピンク・パンサー2』(The Return of the Pink Panther/1975) 1970〜80年代半ばに子供時代を送り、毎日のようにテレビと向き合っていた世代にとって、今も強く記憶に刻まれた番組がある。中でも映画のロードショー番組は名解説者による名トークもあり、毎週楽しみにしていた人も少なくないはず。夜9時からの約2時間はいつものリビングルームが束の間のシアターになっていた。家庭用ホームビデオやレンタルビデオ店がまだ普及する以前の話だ。 テレビなのでCMが入ってしまう。映画も放送時間内に収まるように編集カットされている。しかも日本語吹き替え。それでも子供には関係ない。『月曜ロードショー』(荻昌弘)、『水曜ロードショー』(水野晴郎)、『金曜ゴールデン洋画劇場』(高島忠夫)、『日曜洋画劇場』(淀川長治)は、本当にたくさんの夢を与えてくれた。 いつでもどこでも好きなタイトルを視聴できる今と違い、決まった時間にいつもの場所で選べないタイトルを観る。そんな縛りのきつい状況だからこそ、強烈な印象を植え付けてくれたのだ。特に刑事・探偵・スパイものは登場人物のキャラクター性の高さもありシリーズ化されやすく、馴染みの存在となった。例えば、007のジェームス・ボンド、刑事コロンボ、ダーティハリー、エルキュール・ポワロ、そして今回のクルーゾー警部。 『ピンク・パンサー』(The Pink Panther)は、“迷”探偵クルーゾー警部とアニメーションとテーマ曲という3つのパワーコンテンツを生み出したヒットシリーズ。破壊的コメディとしてもカルトなファンに支持された。 監督はブレイク・エドワーズ、音楽はヘンリー・マンシーニ。『ティファニーで朝食を』『酒とバラの日々』の名コンビ。そして主演はイギリス人俳優ピーター・セラーズ。 ちなみにオープニングとエンディングで登場するアニメーションは、映画を飛び出してスピンオフ。124本ものテレビアニメ短編や様々なグッズが作られるほどの人気を呼んだ。 なお、1980年に亡くなったピーター・セラーズが生前に出演したシリーズは以下の通り。 第1作『ピンクの豹』(The Pink Panther/1963) 第2作『暗闇でドッキリ』(A Shot In The Dark/1964) 第3作『ピンク・パンサー2』(The Return of t..
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エイミー・ワインハウス〜普通の女の子が歌姫となって27歳でこの世を去るまで

『AMY エイミー』(2015/AMY) 2011年7月23日、この世を去った孤高の歌姫エイミー・ワインハウス。ドキュメンタリー映画『AMY エイミー』(2015/AMY)では、音楽と愛にひたむきに生きた彼女の27年の短い生涯が、本人が映った貴重なフィルムに加え、家族や親しい友人、元恋人たちや仕事仲間のインタビューとともに綴られている。 エイミーと同郷の監督アシフ・カパディアは、「私にとってエイミーは道の向こう側に住んでる一人の女の子のような存在だった。だからこそ彼女の本当の物語を調べなければ」と思った。 最初は親しい幼馴染みや元恋人たちからは警戒されてなかなか協力を得られなかったが、次第にエイミーを助けられなかったという心の重荷を解放するかのように人々は語り始めた。プライベートな映像は彼らからの提供で、そこには「メディア報道の破天荒なイメージとは程遠い普通の女の子」が映っていることが分かる。 私が10代の頃、世間で流行っていた音楽というか、発表されていた音楽は本物じゃないと感じてた。薄っぺらでくだらなくて。 1983年9月14日。労働者階級の両親のもとに生まれたエイミーは、ロンドン北部で昔のジャズ・ヴォーカルを聴きながら育つ(中でもトニー・ベネットがお気に入りだったそうだ)。しかし、9歳の頃に音楽を教えてくれた父親が別の女性を作って別居状態に。エイミーの心に深く影響を落とす。 以来、学校の勉強に興味をなくして将来性があるとはいえない状況だったが、彼女には歌があった。独特の声があった。ジャズ以外にも、ニューソウルやヒップホップやカリブ音楽などを思春期に吸収していった。 エイミーは10代でレコード契約して、20歳になったばかりでデビューアルバム『Frank』をリリース。「彼女の歌を聴いた瞬間、本物だと思った。まるで65歳の熟練のジャズ歌手みたいな歌い方だ。18でこれじゃ25になった時どうなるんだと思った」(サラーム・レミ/プロデューサー) 私の音楽は一般受けしないから。売れたらいいと思う時もあるけど、私は有名にはなれないわ。もし有名になったら対処できなくて頭が変になる。 この頃、同じように子供の頃から心に傷を持つブレイク・フィールダーと恋に落ちるが、同時にアルコールへの依存も高まっていく。さらに最愛の祖母が亡くなり、大きなショックを受ける。 2006年、セカン..
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少年少女を夢のような音楽探求の旅へと誘った伝説の『ミュージック・ガイドブック』

『ミュージック・ガイドブック』で音楽の繋がりと流れを知った。 いわゆる「洋楽」と呼ばれる音楽の情報入手先が、まだ雑誌やラジオやTV番組、レコード店やライナーノーツくらいしかなかった1980年代前半。 (少し個人的な話になるが)中学生だった少年の耳には、歌謡曲やニューミュージックなどの慣れ親しんだ「邦楽」、家の棚で埃まみれになった数枚のクラシックのレコード、カセットテープに録音されたイージーリスニング集といったものが音楽のラインナップすべてだった。 そんなある日、少年は駅前の小さな本屋の音楽コーナーで一冊の本と出逢う。手に取ったのは『ミュージック・ガイドブック』という400ページ弱の1,200円の分厚い本。 本能的に「ここには自分の知らないこと、知りたいことの何かがある!」と思ったのだろう。家に帰って貪るように読んだことを思い出す。マイケル・ジャクソンの『スリラー』やポリスの「見つめていたい」や『フラッシュダンス』が流行り、MTVが開局して間もない1983年のことだ。 『ミュージック・ガイドブック』(写真中央)は、これから壮大な音楽探求へ旅立とうとする少年少女にとっては夢のような書物だった。 雑誌「ミュージック・マガジン」の増刊号であり、編集/発行人は中村とうよう氏。ロックの歴史が長門芳郎/小倉エージ/北中正和/大貫憲章氏らによる4章立てで展開された後に、天辰保文氏による日本ロックの流れも綴られる。人名辞典では国内外のアーティストのプロフィールが五十音順に調べられるようになっており、ロック名盤やロック用語集へと続く。ここまでで120ページ。ロックすら知らなかった中学生には完璧な読書体験だ。 しかし、この本の凄いところはこれから。世界中の音楽案内が本格的に始まる。ポピュラー・ミュージック、ブラック・ミュージック、ラテン・ミュージック、20世紀、レコードと再生装置、シンセサイザー音楽の各歴史と年表で全体像をつかんだら、今度はブルース/R&B/ソウル、モダンジャズの歴史(こちらも人名辞典、名盤選、レーベル、用語集つき)へと誘う。 サルサ、レゲエ、ハイチ、カリプソ、ブラジル、フォルクローレ、タンゴから、フォーク/カントリー、トラッド、シャンソン、カンツォーネ。さらにはアフリカ音楽や世界の民俗音楽や現代音楽から、音楽ビジネスの100年史まで。広告であるはずの全国レコード店ガイ..
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洗練された楽曲が生まれた時代、シンガーソングライターたちが台頭した70年代

ジェイムズ・テイラー、エルトン・ジョン、キャロル・キング、ギルバート・オサリバン、ビリー・ジョエル、ジョン・デンバー…そしてブルース・スプリングスティーン。 彼らは皆、1970年代のミュージックシーンにおいてその才能を開花させた“シンガーソングライター”である。 1970年代…それはミュージシャンとリスナーの年齢の幅がどんどん広がりつつあった時代。 ミュージシャン達は30歳を超えても引退しようとせずに、自分の年齢に見合う音楽を作るようになった。 1950年代にエルヴィスを、1960年代にはビートルスやボブ・ディランを聴いて育ってきた若者達は大人になってもロックを聴き続けたのだ。 いつのまにか“Don’t trust anyone over 30(三十歳以上の奴は信じるな)”という言葉は忘れ去られていった…。 ロックはティーンエイジャー達の“反抗の音楽”から、大人向けの洗練された娯楽までを広くカヴァーする音楽となりつつあった。 それまでの音楽業界はレコード会社を中心に「プロの作詞家・作曲家が曲を作り」→「プロの編曲家が音作りを担当し」→「プロデューサーの仕切りの下で歌手が歌う」という図式があった。 だが1960年代の中頃からは、ボブ・ディランやサイモン&ガーファンクルをはじめ、多くのアーティスト達が自作曲を歌うことによって、より直接的に“想いを伝える”という手段を手に入れたのだ。 歌手は美声でなくてはならないという、それまでの常識は葬り去られ…より説得力のある歌詞、過剰に飾らないアコースティックをベースにしたサウンド作りなど、これまでになかった魅力を備えたアーティストと楽曲が多数誕生したのは70年代だったのだ。 ヴェトナム戦争を背景に平和や反戦を訴える楽曲は陰を潜め、アーティスト自身の実体験や人生経験を下敷きにした楽曲が好まれるようになったのだ。 70年代の初頭にジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリスンという稀代のロックスター達が次々と(奇しくも皆27歳の若さで)この世を去り、それまでの時代を席巻していたサイケデリックムーブメントの魔力は完全に失われることとなった。 70年代、それはロックやポップスがより身近な言葉や高い作曲能力によって新たな輝きを放ち始めた時代だった。 ジャズ、ブルース、カントリーミュージック、ロックンロール、R&B…脈々と続くミュ..
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越路吹雪のFirst Step〜宝塚歌劇学校での日々、エデイット・ピアフとの運命的な出会い

越路吹雪。 彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。 戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 そんな日本を代表する歌姫が、どんなきっかけでシャンソンを歌い始めたのか? 彼女の“First Step(はじめの一歩)”とも言える時代のエピソードをご紹介します。 彼女が宝塚歌劇団に入ったには昭和12年(1937年)13歳のときである。 ちょうどその頃といえば日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていたときだった。 長野県飯山高等女学校でも落ちこぼれ組だった彼女が、算術、国語、地理、歴史の試験を受けて約13倍の競争率の宝塚歌劇学校に入学したことは奇跡のような出来事だった。 彼女が宝塚を受験した理由は単純だった。 学校の成績が悪く、本人も勉強が嫌いで、それを心配した父親がすすめたからだという。 「あの子は歌や芸事が好きだから、どこかそういう道に進ませたい。」 父親の期待もむなしく…宝塚歌劇学校での成績は見るも無惨なものだった。 同期生だった大路三千緒の話によると、日舞・英語・国語がまるで駄目でも、彼女の体の柔軟さは誰にも負けなかったという。 廊下などでいつも脚を上げる練習をして、アクロバットと追分節を唄うのが得意で、寄宿舎では人気者だった。 1939年の春、そんな“落ちこぼれ”の彼女も“ラスト・コーちゃん”の異名をもらいながら本科を卒後した。 宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの彼女は岩谷時子と出会う。 これが一生を決定づける運命となり、その日から親友であり、盟友であり、パートナーという関係が始まった。 当時、宝塚歌劇団の編集部員だった岩谷はこんな言葉を残している。 「あの人は…とにかく醒めた人で“私はスターになれる人間じゃない。スターになる人は初めからそういうように生まれている人”と言っていたんです。先輩にしっかりしなさい!といわれても、あの人は阪急百貨店のライスカレーを食べに行くのが生きがいみたいで、エンジンのかかるのが遅い人でした。」 宝塚の舞台に立つ彼女にファンがつきはじめた。 彼女のファンには大人のファンが圧倒的に多く、当..
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ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ〜ルー・リードやマドンナを魅了したNYの音楽劇

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(Hedwig and the Angry Inch) 映画俳優をやったり、ブロードウェイの舞台にも立ったけど、あんまりパッとしなくてね。脚本も幾つか書いてみたけど、どれも成功とは言えなかった……次第に自分の言葉で語りかけたい。書きたいという想いが強くなっていく中、「今度はロックンロールを舞台でやってみたい。ロックスターの物語を書きたい!」と思うようになったんだ。 ジョン・キャメロン・ミッチェルは自らのアイデアを知り合ったばかりのソングライター、スティーヴン・トラスクに話すと、二人はすぐに意気投合。スティーヴンが音楽監督を務めるNYのクラブ「スクイーズボックス」のパンクイベントで“初演”する。1994年のことだ。 それから数年の歳月を掛けてパフォーマンスを試行錯誤しながら、ジョンがストーリーと演技を、スティーヴンが作詞作曲に磨きをかけていく。こうして少しずつ“ヘドウィグ”の完成に近づけていった。 “ヘドウィグ”には僕自身のバイオグラフィーを反映させた部分もあるし、14歳の時にカンザスシティで会った女性をモデルにしている部分もある。テーマは古代ギリシアの哲学者プラトンの『饗宴』の中の「愛の起源」を借りたんだ。 その女性はドイツ軍人の夫と離婚してトレーラーハウスに住んでいた。ジョンは彼女と親しくなるうちに、洗練された見た目の裏にとても疲れた生活があることを知った。ジョンはそんな彼女を喜ばせようと歌やダンスを披露するようになるが、いつも見知らぬ男が突然やって来て退散せざるを得なかった。彼女は娼婦だったのだ。 こうして出来上がったジョン・キャメロン・ミッチェルとスティーヴン・トラスクによる『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(Hedwig and the Angry Inch)は、1997年にオフ・ブロードウェイの劇場「ウェストベス・シアター」に進出。翌年には続演のために専門劇場「ジェーン・ストリート・シアター」が作られ、2年半以上のロングラン・ヒットを記録。 ヘドウィグの髪型のかぶり物をしたヘドヘッド(Hedhead)と呼ばれる追っかけファンも登場。また、ルー・リードやデヴィッド・ボウイらが観劇し、マドンナが楽曲の権利使用を熱望したりと、アンダーグラウンド出身のセレブたちから絶大な支持を得ていく。ジョンはすっかり有名人と..
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