2022-07

未分類

スーパーフライ〜『黒いジャガー』と並ぶ“ブラックスプロイテーション”の名作

『スーパーフライ』(Super Fly/1972) タイトルを聞くと、すぐに音楽やスコアを手掛けたアーティストが出てくる映画がある。例えば『死刑台のエレベーター』ならマイルス・デイヴィス。『パリ、テキサス』ならライ・クーダー。『ブレードランナー』ならヴァンゲリス。『デッドマン』ならニール・ヤングといったように。あの音一つで、映画全体のムードを作ってしまうような音楽。 今回の『スーパーフライ』(Super Fly/1972)なら、もちろんカーティス・メイフィールドだ。映画は『黒いジャガー』(こちらはアイザック・ヘイズ)と並ぶ1970年代前半の“ブラックスプロイテーション”を代表する傑作。 “ブラックスプロイテーション”とは、黒人による黒人のための映画であり、公民権運動やニューシネマを経たことで生まれたジャンル。それまでの道徳劇の中に出てくるような優等生的な黒人より、都市部の貧民街に生きる黒人の姿をリアルに描こうとしたもの。よって犯罪や麻薬といった過激なものが多いが、内容がどうであれ、黒人としての誇りがメッセージとして込められているのが特徴。『スウィート・スウィートバック』(1971)がその先駆けと言われている。 『スーパーフライ』は、スタッフもキャストも、資金源もすべてが黒人の手によるもの。監督は『黒いジャガー』を手掛けたゴードン・パークスの息子。映画に出資した18人の中には、投資家、経営者、医者から売春宿の主人や女将、麻薬の売人までがいたという。まさにハーレム社会の縮図だ。 低予算だったのでほとんどがノーギャラで、街頭でのゲリラロケとなったらしいが、それゆえにフィルム全体に強烈な色気と体臭が漂うことになった。カーティス・メイフィールドのサントラ盤はビルボード総合チャートで4週に渡って1位に輝き、「Superfly」「Freddie’s Dead」もトップ10入り。 なお、90年代になってスパイク・リーらのブラックムービー、あるいはLAのギャングスタ・ラップが一大ムーヴメントを巻き起こすが、『スーパーフライ』は映画・音楽の両面でこの動きに多大な影響を与えた。 舞台はNYのハーレム。麻薬売人のプリースト(ロン・オニール)が、手持ちの30万ドルで30キロのコカインを仕入れ、4ヶ月で100万ドルの金に変え、恋人と新天地と自由を求めて、どうしようもない世界から脱出するとい..
未分類

伝説の起業家リチャード・ブランソン〜ヴァージン・レコード設立と『チューブラー・ベルズ』

伝説の起業家リチャード・ブランソン①〜ヴァージン・レコード設立 「ねえ、ヴァージンっていうのはどう? 私たちってビジネスに関してはまったくのヴァージンでしょ?」 1970年のある日、リチャード・ブランソンたちは仕事場である教会の地下室に集まって、新しくひらめいたレコード通販ビジネスに名前をつけようと必死に考えていた。すると、一人の女の子がおもむろに言った。 「それにこの辺ではあんまりヴァージンは残ってないしね」 誰かが笑うと、ブランソンは興奮しながら言った。 「素晴らしい! ヴァージンに決まりだ!!」 リチャード・ブランソン──音楽ファンでこの名を知らない人はいないだろう。レコード店やレコード会社を出発点に、80年代以降は航空、鉄道、金融、通信、飲料、化粧品、健康、映画、放送、出版、そして宇宙旅行といった分野へと事業を拡大。巨大企業集団ヴァージン・グループの会長としてビジネスや社会貢献活動に取り組むだけでなく、時には熱気球による冒険家として世界に旅立つことでも有名だ。その原点にはどのような風景があったのか? 1950年にロンドン郊外で生まれたブランソンは、学生のためのオピニオン雑誌「スチューデント」の創刊に専念するためにパブリック・スクールを17歳で中退。そして学生相手のビジネスの利益を上げることに夢中になっていた頃、イギリス政府が小売価格維持契約を廃止したにも関わらず、どの店もディスカウントでレコードを販売していないことに着目。「スチューデント」を使ったレコード通販のビジネスを思いつく。 ターゲットの学生たちは、ロックのレコードが少しでもヴァージンの方が安いと分かるとすぐに飛びついた。ちなみにブランソンは「スチューデント」を売却するために、他の雑誌社の役員たちに将来の展望を熱く語った。20歳の若者はこの時すでに、航空や鉄道のプランも視野に入れていたという。 1971年に入ると、郵便局員の労働組合が思わぬストライキを起こし、客は小切手を送れず、会社はレコードを送れず、通販ビジネスは倒産の危機に陥ってしまう(当時はもちろんネットなどなかった)。そこでブランソンはどんな事態に巻き込まれてもレコードを売り続けるために、今度は小売店を開くことを決断。そこにはちょっとしたアイデアもあった。 1971年のレコード小売業界は、二つの大型チェーンに牛耳られていて、どちらも退屈で..
未分類

宿命の女、ニコを偲んで…

ジム・モリソン、イギー・ポップ、ブライアン・ジョーンズ、ボブ・ディラン、そしてアラン・ドロン…みんな彼女の恋人だった。 「カヴァーガールの女王」 「アンディ・ウォーホルの静かなスーパースター」 「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのディートリッヒ」 「月の女神」 「パンクのガルボ」 「最後のボヘミアン」 そのすべてが彼女にふさわしい肩書きだった。 彼女の名前はニコ。 本名はクリスタ・ペーフゲン。 60年代中頃から70年代初期にかけて歌手、女優、ファッションモデルとして活躍をした彼女はまさに時代の“Femme Fatale(宿命の女)”だった。 一般的にはヴェルヴェッド・アンダーグラウンドでの短期間の活動と、アンディ・ウォーホルとの関係でその名を知られた存在である。 1988年の7月18日、彼女はスペインの地でこの世を去った。 地中海西部のバレアレス諸島にあるイビサ島の自宅近くで自転車で転倒し、頭を強く打って病院に運ばれ…レントゲン写真で脳内出血が確認され、数時間後に息を引き取った。 享年49とされているが…その真相は謎めいたままだという。 彼女は生まれながらの嘘つきだった。 幼い頃からたくさんの嘘をついていたという。 彼女はそれを“お話”と呼んでいた。 その嘘は大人達から“ロマンティックな夢想”と呼ばれ、笑顔で見逃されていた。 そして彼女は…この世を去る日まで嘘をつきまくった。 友人達は皆、その“ちょっと変わった癖”を許した。 生年月日や収入や恋愛に関して嘘をつくのは、ごく当たり前のことだったという。 その出生の記録も確かなものではない。 1944年にブタペストで生まれたのか?あるいは1943年にベルリンで生まれたのか? それとも1942年ケルン、1938年ポーランド…諸説あってどれが本当なのか?誰も知らないのだ。 両親がロシア人なのか?それともロシアとトルコのハーフなのか?ロシアとポーランドとドイツとトルコのクオーターなのか? 彼女の死亡記事にはそんな不確かな生い立ちが自信なさげに書かれていたという。 ロンドンの新聞『タイムズ』紙は“〜と思われる”“おそらく〜だろう”を多く使ってその記事を書くはめになった。 『インディペンデント』紙が選んだのは“さまざまな説があり”や“おそらく〜だろうが、違う可能性もある”という言い回しだった。 『ニューヨークタイムズ』紙は、彼..
未分類

【診断】あなたをASTROメンバーに例えると誰?本人たちもやってみた

5月16日に3rd Full Album『Drive to the Starry Road』でカムバを果たしたASTRO(アストロ)🌟メンバーの素顔に迫ります! View Entire Post ›
未分類

ゴースト/ニューヨークの幻〜撮影直前に黙ってバッサリ髪を切った主演女優と「アンチェインド・メロディ」

『ゴースト/ニューヨークの幻』(Ghost/1990) 1990年、日本はまだ好景気に浮かれていた。大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂し、大企業や権力者たちは投資や買収という名のマネーゲームを強気に繰り返し、最新の追求と優越感に囚われた都市部の男と女たちが恋愛ゲームに明け暮れていた頃。 そんなある日、『ゴースト/ニューヨークの幻』(Ghost/1990)は公開された。この映画は本国アメリカだけでなく世界中で大ヒット。日本でもその年一番人気の劇場公開作品となり、デミ・ムーアのショートカットや物語中に出てくる陶芸にも話題が集まった。あまりにもヒットしたので、この路線を真似た映画やドラマが量産されたほどだ。 その理由は、真っ直ぐでピュアな愛を描いたこと。虚飾にまみれた時代とは真逆の世界観に、多くのまともな心が本来の自分たちが理想とする姿を捉えたのだろう。それに映画としても『ゴースト/ニューヨークの幻』は、非常に優れた作品だった。ロマンス、ファンタジー、コメディ、サスペンス、スリルの調和が絶妙だ。 主演したパトリック・スウェイジ(2009年に亡くなった)は、この役を仕留めるために相当の努力と想いがあったという。最初この役を打診されたのは有名なハリウッド・スターたち。しかし誰一人、“死人”の役はやりたがらない。パトリックは台本をありったけの感情移入で読み上げてスタッフたちを泣かせ、大逆転の末にキャスティングを決めた。 もう一人の主演デミ・ムーアは難なく決まったそうだが、クランクイン直前にパリに出向いて長い髪を自分の判断でバッサリ切ってしまい、監督を大いに悩ませた。だが撮影されたフィルムを観て、それが正解だったことが分かった。また、二人をつなぐ重要な霊媒師役には、当初はティナ・ターナーが有力視されていた。結果的にウーピー・ゴールドバーグの演技がこの作品に光を与えることになった。彼女はアカデミー助演女優賞を受賞。 主題歌はライチャス・ブラザースが歌う「アンチェインド・メロディ」。1965年にフィル・スペクターのプロデュースでリリースされて全米4位を記録したバージョンで、この映画の大ヒットと効果的な使用、歌詞がストーリーを代弁していたこともあってリバイバル・ヒット。名曲が突如として蘇った。 物語はニューヨークが舞台。銀行に勤務するサム(パトリック・スウェイジ)は恋人で陶芸家のモ..
未分類

KISSのジーン・シモンズが初めて火を吹いた日

1973年9月下旬、KISSはいよいよデビューアルバムのレコーディングをスタートさせる。 54丁目とブロードウェイが交わる場所にあるベル・サウンド・スタジオという小汚い二流スタジオだった。 ジーン・シモンズは当時のことを鮮明に憶えていた。 「スタジオでの仕事はてきぱきと進められた。俺たちは全員同じ部屋に入ってかなりの速さで録音を終えた。あの時はほとんどオーヴァーダブもやらなかったよ。」 こうしてレコーディングが完了し、バンドはジャケット用の写真撮影も済ませた。 リリース後に予定されていたツアーに向けてミーティングが行われた。 事務所の会議室でニール・ボガート(キッスが初めてレコード契約を交わしたカサブランカ・レコードの創立者)がメンバーにこんな提案をしてきた。 「ドラムセットが宙に浮いたりする舞台技術があるのだがやってみないか?それと、メンバーの誰かが口から火を吹くパフォーマンスはどうだろう?」 翌日、事務所には早速マジシャンが呼ばれ、彼らの目の前で勢いよく火吹き芸を披露した。 「これを誰がやる?メンバーは明らかに嫌がっていたよ。誰も希望者はいない…その時、俺の好奇心がムクムクと頭をもたげたんだ。俺がやる!そう言って俺は右手をあげた。それで決まったんだ。」 1973年の12月31日、彼らはニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックで行われたライブに出演した。 それはデビューアルバムが発売される直前のプロモーションの一環だった。 この日はイギー・アンド・ザ・ストゥージズとブルー・オイスター・カルトをメインアクトに、イギリスのバンド、フレイミング・ユースやニューヨークの地元のティーンエイジ・ラストらも出演した大規模な大晦日コンサートだった。 「4000人を前に俺たちに与えられた演奏時間は30分だけだった。ド派手な衣装に身を包み、俺たちが登場しただけで観衆は大喜びだった。ポールが一曲目の“Deuce”のイントロを弾いた瞬間ホールが揺れだした。」 曲が進むにつれて観客たちは彼らの勢いに巻き込まれていくようだった。 3曲目の「Firehouse」では、舞台に大量のスモークが焚かれ、サイレンが鳴り響く演出が施された。 ジーン・シモンズが剣の形をした種火を手にすると、客席から悲鳴のような歓声が沸き起こった。 ジーンの口には特殊な液体が仕込まれている。 一歩一歩ゆ..
未分類

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜タランティーノ監督が伝えたかったこと

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(Once Upon a Time in Hollywood/2019) 映画作家クエンティン・タランティーノの9作目となる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(Once Upon a Time in Hollywood/2019)か公開された。今回も自腹で映画館へ観に行った。 1991年、28歳の時に『レザボア・ドッグス』で監督デビューしたタランティーノが、世界のポップカルチャーの記号となったのが94年の『パルプ・フィクション』。その後97年の『ジャッキー・ブラウン』という愛すべき作品を挟み、『キル・ビル』2部作を発表したのが03/04年。自身の作品にお気に入りの映画・テレビ・音楽・コミックといったカルチャーを次々とサンプリング/オマージュしていく手法は、まさに同時代のヒップホップアーティストのような自由と軽やかさがあった。 そんなタランティーノ作品に何やら得体の知れない重みが加わったのが09年の『イングロリアス・バスターズ』。大胆に歴史を書き換える作風の始まりで、続く12年の『ジャンゴ 繋がれざる者』も同様のアプローチ。“書き換え”という意味では、今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も同じ流れにある。そこに従来のサンプリング感が強まった。だから集大成的作品と言われる。 よくSNSや動画などで「観る前の予備知識」的な情報や投稿を見掛けるが、映画は受験勉強じゃないんだから頭の中で予習なんかする必要は一切ない。観て心が動き、そこから探求していくのがカルチャーとの触れ方。この人の作品はそんな入口となり得る希少な存在。知のツーリストではなく知のトラベラーであることが、タランティーノ作品を楽しむ秘訣ではなかったか。 チャールズ・マンソンやシャロン・テート事件を知らなくても、カウンターカルチャーやマカロニ・ウエスタンを知らなくても、そして極めて重要な1969年という時代背景を知らなくても別に構わない。この映画で一番心打たれるのは、落ちぶれつつある人間の悲しみと愚かさ。それでも現実を直視し、ささやかな光を掴もうとする姿勢だ。 まずここが軸としてあり、そこに事実の書き換えや膨大なサンプリングでストーリーやムードが肉付けされていく。こうして映画作りを心から楽しんでいる。メジャーインディー感覚を持ち合わせ..
未分類

ガープの世界〜“人生のアップデート”を力強く優しく描いたミリオンセラー小説の映画化

『ガープの世界』(The World According to Garp/1982) 一度観た映画を観直す人は少なくないと思う。「あの映画、また観たいな」と積極的にストリーミングサービスを利用したり、DVDを購入・レンタルする場合。そしてたまたまテレビの深夜放送を眺めていた時や、無料だからといって何となく視聴ボタンをクリック・タップしてしまう場合。特に後者は「あったな、この映画」のような感覚で突然懐かい気持ちになり、当時の自分を思い浮かべたりする。期待感がなかったぶん、どこか心地良さにも包まれる。 『ガープの世界』(The World According to Garp/1982)はまさにそんな映画だった。主人公ガープの数奇な人生を断片的なエピソードで描いていくこの物語は、性的・社会的な暴力に対する怒りのテーマが色濃い反面、子供好きで愛妻家という家庭回帰の幸福感も貫かれている。ハッピーエンドでないにも関わらず、現実から目を背けない精神、ユーモア、少数派であるマイノリティへの眼差しなどによって、観ている者はいつの間にか“ガープの世界”に魅了される。ストーリーの力を感じるのだ。 原作はジョン・アーヴィング。1942年にニューハンプシャー州に生まれたアーヴィングは、幼い頃から母子家庭で育つ。13歳からレスリングを始め、大学卒業後はカート・ヴォネガットに師事して作家を目指した。1968年にデビュー作『熊を放つ』を出版。大学で教職に就きながら作品を発表し続ける。 1万部弱しか売れなかった小説家に転機が訪れたのが1978年。4作目の長編『ガープの世界』がミリオンセラーに。アーヴィングはようやく創作に専念できるようになった。ほかに1981年の『ホテル・ニューハンプシャー』や1985年の『サイダーハウス・ルール』も映画化された。 『ガープの世界』はゲラ刷りの段階で、当時のワーナー副社長マーク・ローゼンバーグによって決定されていた。周囲からこの小説をどうやって映像化するのかと笑われたそうだが、本作の監督を引き受けるジョージ・ロイ・ヒルでさえ当初はそんな懐疑派の一人だった。だが無理と言われればチャレンジのしがいがあるもの。 『明日に向かって撃て』『スティング』『スラップ・ショット』『スローターハウス5』を手掛けてきた監督は、アドリブのコメディアンであるロビン・ウィリアムズを最初からガ..
未分類

On the Sunny Side of the Street〜人々の心に勇気と希望を与えた歌

さあ!コートを掴んで 帽子をかぶって外に出よう 悩み事なんか戸口の階段にうっちゃっておけ 足を通りの陽のあたる側に向けさえすればいいんだ 一文無しでも気持ちはロックフェラーだ 足下に落ちた塵だっていつか金(ゴールド)に変わるさ 陽のあたる通りを歩いていれば 1930年に作られたこの「On the Sunny Side of the Street」は、数あるアメリカのジャズ・ポピュラーソングの中でも、日本で最もよく知られた歌の一つと言えるだろう。 クレジットを見ると作曲はジミー・マクヒュー、作詞はドロシー・フィールズと記されている。 ジミー・マクヒューは、ピアニストとして音楽活動をスタートした後に作曲家に転身。 彼は女流作詞家ドロシー・フィールズと組んで、数々のミュージカルや映画音楽を残した人物である。 曲の初出は『リュー・レスリーのInternational Review』という舞台演劇だった。 その頃と言えば、1929年のウォール街株価大暴落から始まった世界的な経済大恐慌によって多くの人達が貧困にあえいでいた時代。 活気を失った人々の心に勇気と希望を与えヒットしたと言われている。 以降、ジャンルを問わず国内外の多くの歌手やバンドが演奏してきた名曲である。 ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ビリー・ホリデイ、フランク・シナトラ、ジュディ・ガーランド、ドリス・デイ、エラ・フィッツジェラルドなど名立たるアーティスト達がレパートリーにしてきた。 日本では「明るい表通りで」「陽のあたる道で」と訳されることの多いこの歌は、どこか戦後の日本で流行した「りんごの唄」にも通じるところがあるのかもしれない。 ■リンゴの唄〜敗戦直後の日本人の心に“希望のそよ風”を運んだ奇蹟の歌〜 http://www.tapthepop.net/imanouta/39892 また、日本語詞ではあの名曲「プカプカ」で有名な西岡恭蔵のベストパートナーとしても知られる、46歳で亡くなった(原詞と同じく女流作詞家の)KUROのバージョンが秀逸だ。 つらい別れも 明日になったら 懐かしい 想い出にかわる 口笛ひとつで 陽気になれるさ あの街じゃ そうさSunny Side of the Street 涙忘れて 一度の人生    目指すのは あのSunny Side of th..
未分類

Please Mr. Postman〜モータウン史上“初のチャート1位”を獲得した名曲

洋楽ファンのみならずとも一度は耳にしたことがある歌ではないだろうか? 今にも踊りだしたくなるリズムに、心がワクワクしてくるような掛け合いのメロディー♪ ビートルズやカーペンターズがヒットさせたことでも有名なこの楽曲。 オリジナルを歌ったのは誰?と問われると、意外と知らない人が多いという。 この「Please Mr. Postman」は、1961年にモータウンレコードからデビューした女性グループ“ザ・マーヴェレッツ”のデビュー曲としてリリースされたのが初出。 60年代以降、アフリカ系アメリカ人が所有するレーベルとしてダイアナ・ロス率いるシュープリームスやジャクソン5、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダーなどのアーティストを輩出し大成功をおさめたモータウンにとって、この歌は“初のビルボードチャート1位”に輝いた記念すべき楽曲なのだ。 曲の原案を作ったのは、デビュー前にマーヴェレッツを脱退したジョージア・ドビンスで、クレジットには”Dobbins-Garrett-Garman-Brianbert”と記されている。 (※”Brianbert”とはBrian HollandとRobert Batemanのプロデューサーコンビとしての名義) 歌詞には、戦場に行ってしまった恋人からの手紙を待ち続ける切ない女性の気持ちが綴られている。 ちょっと待って、郵便屋さん! お願いだからちょっと待ってよ! ねぇ郵便屋さん、見てみて 私宛の手紙が入っていないかしら? ねぇお願いよ、郵便屋さん ボーイフレンドから便りを聞くのに なぜこんなに時間がかかるのかしら? マーヴェレッツが快挙を果たした2年後…この歌をビートルズがアルバム『With the Beatles』(1963年)に収録した。 この選曲は、当時ビートルズが所属していたEMIがモータウンの英国内販売権を獲得したことへのプロモーションを兼ねていたともいわれている。 もちろんメンバーがマーヴェレッツのファンだったということも選曲の大きな理由である。 リードヴォーカルはジョン・レノンが担当し、ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンを交えた3人が掛け合いのコーラスを歌っている。 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった“ビートルズらしい”演奏とコーラスワークで、素晴らしいテイクが録れていたにも関わらず…英米ではシングルカットされなかったた..
タイトルとURLをコピーしました