2022-07

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ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男〜すべてを失いながら彼は1969年に伝説になった

『ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男』(Stoned/2005) ロックの歴史を振り返ろうとする時、1969年は非常に意味深い年として捉えられることが多い。 それは激動の60年代最後の年であるばかりでなく、ビートルズの実質的なラストアルバムがリリースされた年であり、愛と平和と自由の象徴ウッドストックの開催と、それを覆したオルタモントの悲劇が起き、のちにイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」で「1969年以降、私どもはそうしたお酒(Spirit/精神)は用意しておりません」と歌った年。 そして、忘れられない出来事はブライアン・ジョーンズが亡くなったこと。彼の死は、60年代のポップスターやロックスターの相次ぐ死の始まりでもあった。 翌年にはジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリン、翌々年にはジム・モリソンやデュアン・オールマンが亡くなっていく。ブライアンの死は、一つの時代の終わりを静かに告げていた。1969年7月3日、自宅のプールでアルコールとドラッグの過剰摂取による原因で溺死。享年27。 『ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男』(Stoned/2005)は、ブライアン・ジョーンズの事故死を“他殺説”の観点から描いた問題作だった。 死の直前まで一緒にいた住み込みの建設業者フランク・ソログッドが1993年に「ブライアンを殺したのは私だ」と告白。事実関係を検証する前に病死してしまったので謎のまま封印されたが、監督のスティーヴン・ウーリーが10年の歳月のリサーチを経て、この説を映画化した。 1962年のロンドンでローリング・ストーンズは結成されるが、その創始者/リーダーは紛れもなくブライアンだった。数々の楽器を弾きこなす音楽スキルの高さ、男女の垣根を飛び越えた斬新なファッションセンスは、メンバーの中でも最も強いカリスマ性を放った。 この金髪の美少年の前では、ミックもキースも垢抜けない子供のように見えた。まだボトルネックが何なのかイギリスでは誰も知らない頃から、ブライアンは見事にスライドギターをものにしていた。 1965年9月、そんなブライアンに運命の出逢いが訪れる。ドイツ公演でモデル/女優のアニタ・パレンバーグと恋に落ちるのだ。似た者同士の二人は意気投合し、スウィンギング・ロンドンを象徴するカップルとなる。 しかし、ストーンズのソングライターやフロン..
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ドアーズ〜“知覚の扉”を開け続けたジム・モリソン27歳の結末

『ドアーズ』(The Doors/1991) 激動の1960年代半ば〜後半。反体制とカウンターカルチャーの象徴だったロック。そんな中で1967年のデビューから数年間、センセーションを巻き起こしたのがドアーズだった。ヒッピーたちに支えられた同時期のロックバンドとは異なり、アルバムとシングル両方でヒットチャートを駆け上がる力を持っていた彼らは“稀な存在”でもあった。 フロントマンであるジム・モリソンのカリスマ性は、レコードや雑誌だけでなくステージでのパフォーマンスにおいて限りなく昇華した。過激な歌詞や官能的なファッションはもちろんのこと、猥褻な言動が原因による地元警察とのトラブルは日常茶飯事でジムは逮捕されたこともある。 ネイティヴ・アメリカンの魂に触れながら、アルコール、ドラッグ、セックスによって“知覚の扉”を開け続けた男。残された道は“自己破壊”しかなかったのだろうか? 1971年7月3日、ジムはパリの自宅のバスルームで心臓発作で他界。「30歳以上の大人を信じるな」と叫ばれた“60年代の約束”通り、27歳の結末だった。 同時代に青春期を送っていたオリバー・ストーン監督は、ベトナム従軍中にドアーズの音楽を聴きまくっていたという。そこでの経験は『プラトーン』『7月4日に生まれて』となって描かれているが、その60年代3部作とも言うべき最終章が『ドアーズ』(The Doors/1991)だ。 映画は70ヶ所にも及ぶ南カリフォルニアのロケ地をはじめ、モハベ砂漠、サンフランシスコ、ニューヨーク、パリなどで撮影された。3万人のエキストラが集まったコンサートのシーンは圧巻。ドアーズのプロデューサーだったポール・ロスチャイルドが音楽監督を務め、生き残った元メンバーたちも演奏指導などで全面協力した。 ジム・モリソン役には、当初あのビリー・アイドルが最有力候補にあげられていた。しかし、90年にビリーはオートバイの交通事故で重傷を負い、クランクインに間に合わなくなってしまう。代わりに浮上したのが俳優のバル・キルマー。歌唱力も抜群で、口パクせずに自らあの時代のカリスマになりきって歌いこなした。なお、ビリーは松葉杖をついたまま、脇役で出演が叶った。 物語は、UCLAで演劇、映画、詩、文学に没頭するジム・モリソンが、同じキャンパスで知り合ったレイ・マンザレク(カイル・マクラクラン)ら仲間ととも..
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ヘディ・ウエストを偲んで〜その足跡と名曲「500 Miles」の源流を辿る旅

2005年7月3日、名曲「500 Miles(500マイルも離れて)」で知られるアメリカの歌手ヘディ・ウエストが闘病の末に癌で亡くなった。享年67だった。 今日は女性フォーク歌手の草分け的存在だった彼女を偲んで…その足跡と名曲にまつわるエピソードをご紹介します。 1938年4月6日、ジョージア州ギルマー郡で生まれた彼女は4歳でピアノを始め、ハイスクール時代にはバンジョーを弾き作曲をしていたという。 12歳頃から地元のフォーク系イベント(Asheville Annual Folk FestivalやMountain Youth Jamboree等)に出場し、大人達を驚かせていた。 1959年、21歳になった彼女は単身でニューヨークに渡り、マネス音楽院で音楽を学び、さらにコロンビア大学で演劇の勉強に勤しむようになる。 在学中にシカゴやニューヨークのコーヒーハウスで歌うようになり、詩人だった父親の友人ピート・シーガーにその才能を見出される。 卒業後にはジョーン・バエズなども在籍していたVanguard Recordsと契約を結ぶ。 1961年、23歳になった彼女は1stアルバム『HEDY WEST』を発表。 その記念すべきデビュー作に収録されたのがこの「500 Miles(500マイルも離れて)」だった。 それは彼女が幼少時に祖母から習った曲で、ジョージア州で古くから歌われてきた伝承曲とされている。 心に沁み入るようなそのメロディーは、“ホーボー”と呼ばれた放浪者たちが口々に歌い継いできたものだった。 アメリカが大不況時代を迎えていた頃、ホーボーたちは街から街へと出稼ぎをしながら食いつないでいた。 当然、車など買えるはずもなく、汽車での移動が主だった。 彼らはお金がないので、無賃乗車があたりまえだったという。 ひとたび故郷を後にすれば、帰ってくることはかなり難しい時代。 この曲の歌詞には、そういった惜別や故郷への哀愁が綴られている。 僕を乗せた汽車の汽笛は100マイルも先から君の耳に届く… 100マイル、200マイル、300マイル、400マイルそして500マイル 僕は懐かしい故郷を後にして遠い彼方へ去っていく もうシャツ1枚さえ持っていない 自由に使える小銭もない これじゃもう故郷に帰れない とてもこんなありさまでは… 一般的に作詞作曲のクレジットはヘディ・ウエストと..
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L.A. Woman〜ジム・モリソンが死の直前に放った最高傑作、ブルース用語“mojo”の正体とは!?

この街にやって来たのは ほんの一時間前 俺はあたりを見回した 風向きを見るために L.A.の女 L.A.の女 日曜日の午後に L.A.の女 L.A.の女 日曜日の午後に  L.A.の女 L.A.の女 日曜日の午後に ロスの郊外を車で走り抜けて お前の沈んだ心へ…お前の沈んだ心へと入り込む 「この曲は僕にとって“真にドアーズ的な歌”と言える。どうやって出来たのかは憶えていないんだけど…とにかくこの曲は絶えず練り上げていたよ。やっているうちにジムが歌詞をつけていって、まだステージで生でやったわけでもないのに、歌は自然に成長していったんだ。バンドメンバー全員にとって労作と言えるだろうな。」ロビー・クリーガー(The Doors/ギタリスト) 27歳でこの世を去ったジム・モリソン。 彼の音楽キャリアにおいて、生前最後のオリジナルアルバムとなった『L.A. Woman』がリリースされたのは1971年4月のことだった。 同作の表題曲として発表されたこの楽曲は、ブルースを基調としながら独自のサウンドを追求してきたドアーズの楽曲の中でも特にスピード感溢れる一曲として知られている。 1967年のデビュー以降、ドアーズは破竹の勢いでトップバンドとなり、革パンツでフェロモンを炸裂させるジムはセックスシンボルとして注目を集めた。 そんな中、ジムは過度の飲酒癖とドラッグ漬けで様々な問題を起こす。 1969年11月、マイアミ公演のステージ上でズボンを下げ自慰行為を見せたのはシャレにならず、ジムは史上初めてライブ本番中に逮捕されたミュージシャンとなる。 こうしたことから彼等は反社会的とレッテルを貼られ、コンサート会場が貸出しを渋るなど、次第に活動が困難になっていく。 このスキャンダラスな行為によって起訴されたジムは、以後1年半近く裁判に時間を浪費することとなる。 この「L.A. Woman」は、そんな鬱屈した日々を晴らすような勢いとエネルギーに満ちた楽曲と言えるだろう。 ローリングストーン誌はレコードガイドでこんなコメントと共に高い評価を示している。 「このLPはドアーズをこれほど興味深いバンドに仕上げたすべての要素を取り混ぜて詳細に紹介したものと言える。」 アルバムがリリースされて3ヶ月も経たないうちに悲劇は起こった…。 1971年7月3日、ジムはパリの自宅アパートのバスタブで死体となって発..
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【15分でできた】意外に簡単!? 最大2万円分の「マイナポイント」第2弾スタート。手順を解説します

スマホとマイナンバーカード、そしてパスワードがあればOK。手順やつまづきやすいポイントを解説します。 View Entire Post ›
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Celebrate Summer〜マーク・ボランが死の直前に放ったシングル曲は“夏を祝福する歌”だった

1977年、グラムロックの創始者マーク・ボランはこの世を去った。 「自分は有名になるために悪魔に魂を売ったので30歳までは生きられないと思う」 生前、本人が度々言っていたという言葉である。 若い頃にフランスで魔女と同棲していた彼は、その魔女に「あなたは若くして大成功を収めるが、30歳までに血まみれになって死ぬだろう」と預言されたのだという。 ファンタジーが大好きな彼らしい作り話であると、友人達や取り巻きは信用しなかったのだが“現実は小説より奇なり”の言葉通り…その預言は現実のものとなる。 その悲劇は、彼が30歳の誕生日を迎える2週間前の9月16日に起きた。 恋人(内縁の妻)グロリア・ジョーンズが運転する車の助手席に乗って彼はロンドン郊外にある家に帰宅する途中だった。 疾走する紫のブリティッシュ・レイランド275Gは、二人を乗せたまま木立に激突し…彼は還らぬ人となった。 長年のヘロイン服用のためすでにボロボロになっていた血管が、衝突のショックで破裂したため、まさに全身血まみれになって亡くなったという。 奇しくもそのちょうど一ヶ月前の8月16日には、ロックンロールの巨星エルヴィス・プレスリーがこの世を去ったばかりだった…。 さかのぼること数ヶ月…当時バンドのメンバーを入れ替えて“新生T.REX”を再スタートさせた彼は、台頭してきたパンクロックを評価し、自身の国内ツアーの前座にザ・ダムドを起用したりしていた。 この年の3月、彼にとって“生前最後のアルバム”となった『DANDY IN THE UNDERWORLD(地下世界のダンディ)』が発表される。 アルバム収録曲の中から「The Soul of my Suit(心はいつもロックンロール)」「Dandy in the Underworld(地下世界のダンディ)」が立て続けにシングルカットされ、彼がこの世を去る一ヶ月前の8月には、アルバムに収録されていないこの「Celebrate Summer」がシングルリリースされた。 この曲がマーク・ボラン=T.REXにとって、事実上最後のシングル曲となった。 スピード感溢れるナンバーで、特に新たに参加したベーシストであるハービー・フラワーズのプレイが光っている。 ハービーは、初期のデヴィッド・ボウイの楽曲やルー・リードの「Walk on the Wild Side(ワイルドサイドを..
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Sea Of Love〜ロバート・プラント、イギー・ポップ、トム・ウェイツもカヴァーした珠玉のラブソング

♪「Sea of Love 」/フィル・フィリップス 今回ご紹介するこの「Sea Of Love」は、1959年の7月(この季節!)全米2位に輝いたヒット曲です。 当時33歳だったフィル・フィリップス(Phil Phillips With The Twilights)が歌った“珠玉のラブソング”だ。 当時はミリオンセラーとなりゴールド・ディスクを受賞した同曲ですが、契約上の問題から、フィルは1回限りの報酬以外に著作料を得ることはなかったという。 彼は次第に音楽業界から遠ざかり、地元のルイジアナでのライブ演奏活動以外にはラジオ番組のディスクジョッキーに転身することとなる。 曲の誕生から30年後の1989年に、アル・パチーノ主演の映画『Sea Of Love』の主題歌として起用され、長きに渡って愛されるスタンダードソングとなった。 難しい言葉を使わず、同じフレーズを重ねてゆくシンプルな歌詞が印象的なこの求愛曲は、今でもアメリカ人がカラオケで歌う“テッパンの歌”として親しまれているという。 さあ行こうよ、愛しい人 海へ、愛の海へ 僕が君をどんなに愛しているか教えたいよ ただ「海を見に行こう」「海水浴に行こう」ではなく、波のように繰り返される“愛の海”という表現が、少しセクシャルな隠喩となっている“大人のラブソング”だ。 この美しいバラードを、より洗練されたアレンジでロマンチックに歌い上げ、多くのロック&ポップスファンに知らしめたのが、元Led Zeppelinのロバート・プラントだった。 1984年、ロバートは盟友ジミー・ペイジ、そしてジェフ・ベックなどを含むロックレジェンド達とセッションユニットThe Honeydrippers(ハニー・ドリッパーズ)を結成し、この「Sea Of Love」をカバーしたのだ。 同曲は、再び全米シングルチャート3位にまで上昇するヒットとなり、夏のリゾート地を舞台とした映画仕立てのプロモーションビデオと相まって、80年代のミュージックシーンに鮮烈な印象を残した。 ♪「Sea of Love 」/ロバート・プラント(The Honeydrippers) そんな、ある意味“ベタ”とも云えるこのヒット曲を、意外なアーティスト達がカヴァーしているところも面白い。 “パンク界のゴッドファーザー”ことイギー・ポップが! 独特の歌声と世界観で女性..
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