2022-08

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月の歌〜Moon Dew

♪「Moon Dew」/ジョー・コッカー 君の瞳からこぼれ落ちる月のしずく 最愛の涙が空に昇る そして暗闇の中で独り…君は眠れずにいる 来る夜も来る夜も君は涙を流し…その心を鎖でつなぐ この美しくロマンチックな歌はジョー・コッカーの隠れた名曲だ。 1969年に行われたウッドストック・フェスティバルでの熱演、そして翌年に行った大編成ツアー『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』での彼の活躍は、ロックファンの中で伝説となっている。 だけど彼の存在が一般的に認知されたのは、やはり映画『愛と青春の旅立ち』(1982年/主演リチャード・ギア)の主題歌「Up Where We Belong」だろう。 ジェニファー・ウォーンズとのデュエットが彼のキャリアにおいて最大のヒットとなった。 その6年前にリリースした“知る人ぞ知る”6thアルバム『Stingray』(1976年)に収録されているこの「Moon Dew」。 LA産スワンプ・ロックの雄レオン・ラッセル一派として知られるダニエル・ムーアの弟マシュー・ムーアが書いた珠玉のバラードである。 曲の素晴らしさも然ることながら、このアルバムのバックミュージシャン達が凄い! 後にフュージョン界の大御所として君臨することとなる白人黒人の混合バンド“スタッフ”のメンバーが集結しているのだ。(クリス・パーカーを除く) それはボブ・ディランにとってのザ・バンド、リンダ・ロンシュタットにとってのイーグルスのような存在(関係)にも似ている。 また、このアルバムにはスタッフのメンバーの他に参加ミュージシャンとして、エリック・クラプトンの名前もクレジットされている。 裏ジャケを見ると、後にスタッフとなるメンバーが全員映っている。 (なぜかジョー・コッカーは、ジョージ・ハリスンのTシャツを着ている) 左から、コーネル・デュプリー(Gt)、ジョー・コッカー(Vo)、スティーヴ・ガッド(Dr/Per)、リチャード・ティー(Key)、ゴードン・エドワード(Bass)、エリック・ゲイル(Gt) 楽曲のクレジットを見るとボブ・ディラン、レオン・ラッセル、ボビー・チャールス、そしてファンクの大御所ジョージ・クリントンなど、素晴らしいアーティスト達の曲によって構成されている。 白人と黒人が交わることによって生まれるグルーヴ感。 それはまさに“フュージョン(融合)”..
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デトロイト・ロック・シティ〜KISSのコンサートが地獄への片道切符だった頃

『デトロイト・ロック・シティ』(Detroit Rock City/1999) 2019年12月、キッス最後の来日ツアーがスタートする。1977年に最初の来日公演を行って以来、今回で12回目。このラストツアーは集大成的なショウになること必至で、参加できるファンはラッキーだと思う。(*2022年12月に「End Of The Road World Tour」と題して来日公演が決定) キッスといえば、まさにロックンロール・サーカスとでもいうべき計算し尽くされたステージパフォーマンスが有名。派手なメイクや衣装で装ったメンバーたちが動き回り(しかも時には火を放ち)、完璧な演奏をしながらファンを長時間楽しませてくれる姿は、はっきり言って驚異的。 「キッスアーミー」と呼ばれる熱狂的なファンは、レコードやCD、DVDや書籍はもちろんのこと、キャラクターグッズの収集にも余念がない。1970年代前半、キッスを自腹の金で売り込んでデビューさせたマネージャーのウィリアム・オークウェンは、自らの名前でバンド名や楽曲、メーキャップなどの著作権を次々と登録し、25%の売り上げを懐に収め続けたらしいが、それだけこのバンドに可能性を感じていたのだろう。 そんなキッスの最初の絶頂期が1978年。メンバーもキッスアーミーの年齢もまだ若かった頃。彼らを有名にした地、デトロイトのコボホールでのコンサートをクライマックスに描いた映画がある。『デトロイト・ロック・シティ』(Detroit Rock City/1999)だ。 ジーン・シモンズ、ポール・スタンレー、エース・フレーリー、ピーター・クリスのオリジナルメンバーで活動していたキッスは、1978年に初のベスト盤『Double Platinum』をリリース。各メンバーのソロアルバムも発売され、前年の『Love Gun』はバンド最高の売り上げを記録。全米ツアーも盛況を続けていた頃。 中西部のとある町。ホーク、ジャム、トリップ、レックスの高校生4人組は、キッスのコピーバンドを結成し、明日に迫ったデトロイトでのキッスのコンサートに行くことを生きがいにしている。しかし、キッスが悪魔の使者以外の何者でもなく、コンサートは地獄への片道切符である決めつけるジャムの厳格な母親が、あろうことかチケットを燃やしてしまう。 4人はあらゆる悪知恵を使ってチケットを入手しようとする..
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オアシス:スーパーソニック〜1996年8月10日に世界の頂点に立ったギャラガー兄弟

『オアシス:スーパーソニック』(Oasis:Supersonic/2016) 日本でも公開された映画『オアシス:スーパーソニック』(Oasis:Supersonic/2016)は、2009年に解散した史上最高の英国バンドの一つ、オアシスの真の姿に追った良質なロック・ドキュメンタリー。製作総指揮はギャラガー兄弟。 90年代前半。アメリカではそれまでの商業音楽の象徴だったヘヴィ・メタルやベテラン勢の計算され尽くしたサウンドを否定するように、ニルヴァーナやパール・ジャムらのグランジ勢を筆頭とする荒々しいオルタナティヴ・ロックが隆盛。グリーン・デイらのポップ・パンクも脚光を浴びる。 こうしてロックが着実に復権されていく中、イギリスからの回答がオアシスだったのだ。1994年4月5日、ニルヴァーナのカート・コバーンが自殺してから6日後の11日。オアシスは「Supersonic」でデビューした。 中産階級代表のブラーと労働者階級代表のオアシス。これらは「ブリット・ポップ」としてUKの音楽シーンを席巻。二つのバンドのライバル対決も抜群の宣伝効果となり、95〜97年に狂乱期を迎える。英国産のカルチャーが爆発して、日本のファッションやストリートシーンにも大きな影響を与えた。当時の首相ブレアが掲げた“クール・ブリタニア”やブリット・ポップの中心にはいたのは、間違いなくオアシスだった。 最も有名なロックンロール・バンドになった彼らはその後、90年代の残りとゼロ年代を駆け抜けて解散。原因はノエルとリアムのギャラガー兄弟の度重なる確執だったのは言うまでもないが、その栄光の始まりもこの二人なくしてあり得なかった。 アイルランド人の両親のもと、マンチェスターで生まれた次男ノエル、そして5歳年下の三男リアム。アル中の父親の家庭内暴力が原因で母親に育てられた幼少時代。ノエルはやがて音楽とギターに夢中になり、リアムは喧嘩に明け暮れるようになる。そんなある日、ハンマーで殴られたことをきっかけにリアムも音楽に目覚めた。 すでに同郷の先輩バンド、インスパイラル・カーペッツのローディをしていたノエルがリアムのいるバンドに加入して1991年にオアシスが誕生。そして失業手当を頼りに地味に練習やライブを繰り返した結果、93年にクリエイションとレコード契約。必死で働いていた母親に早く楽をさせてやりたいと思っていた兄弟..
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ロッキー・ホラー・ショー〜世界中でカルト化した“観客参加”映画

『ロッキー・ホラー・ショー』(The Rocky Horror Picture Show/1975) 真っ暗なスクリーンに、赤い口紅を塗った真っ白い歯を覗かせた唇がアップになり、そして音が鳴って静かに歌い出す。 『地球の静止する日』の時、マイケル・レニーは病気だった。 それでも私たちに立場を教えてくれた。 銀色の衣装のフラッシュ・ゴードンや、 『透明人間』のままのクロード・レインズや、 仲が悪くなったフェイ・レイとキングコング。 みんな映画ラッシュの渦の中へと消えていった。 そんな時空の彼方から届いた素敵なメッセージ。 SF怪奇映画二本立て。 ドクターXが人造人間を作って、 ジャネットとブラッドも登場。 そしてアン・フランシス主演の『禁断の惑星』。 始まるよ、深夜の二本立て映画。 映画『ロッキー・ホラー・ショー』(The Rocky Horror Picture Show/1975)はこうして始まる。ロックファンや映画ファンなら、一度はこのタイトルを耳にしたことがあると思う。さらにその先には強烈な印象を残すティム・カリー扮するフランクの女装ルックス(タイトル画像/上)の微笑みも必ず現れるに違いない。公開から40年以上が経った現在でも、世界のどこかの都市のミッドナイト・シアターで上映され続けているという、超ロングラン・ムービーだ。 すべては1973年6月、ロンドンにある僅か60席ほどの小劇場で始まった。売れない役者でソングライターだったリチャード・オブライエンが10歳の子供でも楽しめることを前提に書いたミュージカルは、R&RノスタルジーとホモセクシャルとSFとB級ホラーを融合した奇抜すぎる舞台だった。当時のロンドンはグラム・ロック全盛時。時代と流行に味方され、倒錯した世界を描いた舞台はまさかの大ヒット。その人気はアメリカに飛び火してブロードウェイにも進出し、NYでも大ウケした。 2年後には早くも映画化されるが、試写会では客が次々と中途退場したというエピソードが象徴するように、こちらはほとんどヒットしなかった。『ロッキー・ホラー・ショー』興業はそれで終わるはずだった。しかし、映画館にはいつも同じ客ばかりが観に来る、いわゆるリピーター現象が起こっていた。映画会社はすぐさまミッドナイト・シアター向けに配給を開始した。 そして、1977年1月。ニュージャージーで高校の教師..
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精霊流し〜長崎出身のさだまさしが描いた儚くも美しい鎮魂歌

精霊流し(しょうろうながし)とは、長崎県の各地、熊本県の一部及び佐賀市でお盆に行われる、死者の魂を弔って送る仏教行事のこと。 毎年8月15日の夕暮れ時になると町のあちらこちらから「チャンコンチャンコン」という鐘の音や「ドーイドーイ」という掛け声、そして大きな爆竹の音が鳴り響くのだという。 初盆を迎えた故人の家族らは、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて“流し場”と呼ばれる終着点まで運ぶ。 精霊船は山車(だし)を連想させる華美なものであり、多くの見物客が集まり賑わう。 去年のあなたの想い出が テープレコーダーからこぼれています あなたのためにお友達も 集まってくれました この楽曲を作詞作曲した長崎出身のさだまさしは、精霊流しについてこんなことを語ったことがある。 「1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下されたときのこと…壊滅的な被害(被爆)にあった中で、多くの人々が6日後に迫っていた精霊流しのことを思い『死んでしまったら誰が自分の精霊船を出してくれるのだろうか?』と、気にかけながら亡くなっていったというのです。」 幼い頃から仲のよかった母方の従兄が水難事故で亡くなったことがきっかけとなり、さだはこの曲を書いたのだという。 亡くなった従兄の恋人だった女性の心模様を繊細に描いたこの「精霊流し」は、グレープの2ndシングル曲として1974年にリリースされた。 以前、さだは自身が綴った歌詞をこんな風に解説した。 「あなたの愛した母さん」が着ている“浅黄色の着物”は、精霊流しでは親族が着るものだのだという。 つまり「私」が“浴衣”を着ているという事は、「私」は「あなた」の親族ではない。 亡くなった彼(あなた・さだの従兄)と主人公の女性(私・従兄の彼女)は“結婚はしていない”という事を表現している。 また“ギターの弦でくすり指を切った”という歌詞は、恋人同士だったという事を暗示しているのだとも。 当時、グレープはまだデビューしたばかりの無名のフォークデュオであっため、楽曲の初動売り上げは芳しいものではなかった。 そんな中、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』のアナウンサーだった蟹江篤子が、自分の担当曜日で毎週のように流し続けたことが功を奏し、この番組の放送エリアである名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16..
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恋はフェニックス〜シナトラに“最も偉大な失恋の歌(トーチソング)”と言わしめたジミー・ウェッブの名曲

「これまでに書かれた最も偉大な失恋の歌(トーチソング)だ!」 ――フランク・シナトラ この「By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)」は、21歳という若さでグラミーを授賞した天才ソングライター、ジミー・ウェッブが受賞の一年前(20歳)に書いた楽曲だ。 もともとは当時ロックンロール歌手兼プロデューサーとして活躍していたジョニー・リヴァースのアルバム曲として書かれたもので、初出は1966年という記録が残っている。 この切なくも美しいメロディーに乗せられた歌詞の内容は、当時ウェッブが交際をしていたスーザン・ホートンという女性との別れだった。 恋人のもとを黙って去った男が、フェニックス(アリゾナ州)→アルバカーキ(ニューメキシコ州)→オクラホマ(こちらは州名)と西から東に移動する間に「彼女は今頃○○をしているだろう」と推測する内容となっている。 当時のアメリカと言えば、ヒッピー文化が花開き、フラワーチルドレンが街を闊歩していた“サマー・ オブ・ラヴ”の全盛期。 スチューデントパワーやブラックパワーが吹き荒れた政治の季節でもあった。 この歌の背景には、そんな若者たちが自由を求めて西海岸を目指し、恋に落ちていた時代が描かれているという。 僕がフェニックスに着く頃 彼女は目を覚ますだろう そしてドアに貼ってあるメモに気づくはず 「僕は出て行くよ」って書いてあるのを見ても 彼女はきっと笑って取り合わないだろうね だって今まで何度もそんなことがあったから… ジョニー・リヴァースが自身のアルバムに収録したものを、カントリー歌手として人気を博していたグレン・キャンベルがドライヴ中にたまたま聴いて一発で気に入ったという。 翌1967年に、キャンベルがシングルリリースしたバージョンが大ヒットしてビルボードのカントリーチャートで2位を記録。 翌年のグラミー賞においてキャンベルは最優秀男性歌手賞と最優秀現代男性ソロ歌手賞を受賞することとなった。 キャンベルとウェッブのコンビは、その後「Wichita Lineman」(1968年)、「Galveston」(1969年)とヒットを連発する。 カンザス州の都市ウィチタや、テキサス州南東部の都市ガルベストン、そしてこのアリゾナ州のフェニックスからスタートする歌は、キャンベル&ウェッブの名コンビよる“ご当地ソ..
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オリビア・ニュートン・ジョンが歌ったカントリーロード

カントリーロード 僕を連れていってよ 僕が育ったあの場所へ ウェストバージニアの母なる山々へ 僕を連れていってよ カントリーロード この「カントリー・ロード」は、オリビア・ニュートン・ジョンが1973年にリリースしたアルバム『Let Me Be There』からのシングルカット曲として発表された。 当時、アメリカのビルボードチャートでは119位にとどまり、イギリスでは15位を記録している。 その3年後となる1976年(昭和51年)10月20日、この「カントリー・ロード」(東芝EMI)が日本で発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「およげ!たいやきくん」/子門真人 2位「ビューティフル・サンデー」/ダニエル・ブーン 3位「北の宿から」/都はるみ モントリオール五輪が開催され、鹿児島で日本初の五つ子生まれ、アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦に日本中が熱狂し、焼そばUFOやどん兵衛(共に日清食品)がヒットし、「記憶にございません(ロッキード事件の国会証人喚問で、証人質問に対する言い逃れ)」という言葉が流行した年でもある。 日本のTV番組『おはよう700』(TBS)の看板コーナーでのテーマ曲として使用されたことをきっかけに国内リリースされ、オリコン洋楽チャートで15週連続1位を獲得する大ヒットとなった。 その日本でのヒットから20年の時を経て…1995年に公開されたスタジオジブリ制作のアニメ映画『耳をすませば』(映画東宝配給)のオープニングテーマとして起用され、主人公(月島雫役)を演じた声優・本名陽子が歌った主題歌と共に再び注目を集めることとなった。 通称「カントリーロード」として知られているこの楽曲は、もともとアメリカのシンガーソングライター、ジョン・デンバーの歌唱によって1971年3月8日にリリースされ、ミリオンセラーとなっている。 以降、70年代のアメリカを代表曲するフォーク&カントリーソングとして親しまれ、歌詞に繰り返し“ウェストバージニア”が登場することから、2014年にはウェストバージニア州の4番目の州歌になった。 同曲のクレジットには、作詞にビル・ダノフ、作曲にはタフィー・ナイバートの名前がジョン・デンバーの共作者として記されている。 1960年代の終わり頃、ビルとタフィーはワシントンDCにあるジョージタウン大学の学生で“ファット・..
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地獄の黙示録〜ジャングルの奥地に潜むクレイジーな静寂世界

『地獄の黙示録』(Apocalypse Now/1979) その壮絶な映像や演出で貫かれた長時間フィルムを通じて、観る者に一定の体力や緊張を要求してくる映画があるが、真っ先に思い浮かぶのは『地獄の黙示録』(Apocalypse Now/1979)。 伝説の俳優マーロン・ブランドをはじめ、ロバート・デュバル、マーチン・シーン、デニス・ホッパー、ハリソン・フォードといった顔ぶれが登場するだけでも決して見逃してはならないが、それにしても製作エピソードのクレイジーさには事欠かない映画だ。 1976年3月に始まった撮影は、当初1200万ドルの予算で4ヶ月間で終わるはずだった。しかし、監督のフランシス・コッポラが「映画製作のプロセスが次第に映画のストーリーと似通ったものになっていった」と言うように、密林の奥地へと徐々に入り込んでいく。 フィリピンで行われた撮影自体も日増しに狂気沙汰に巻き込まれ、あげく天災に襲われてセットが破壊されるなどして、結果的に3100万ドル(当時のレートで約90億円)と1年半の期間に膨れ上がった。 ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』を原作に脚本化したにも関わらず、シナリオは連日変更され、新しいアイデアが次々と加えられ、いつのまにかオリジナルとは大幅に違う形となったことは言うまでもない。 しかも映画会社の資金だけでは補え切れず、コッポラは『ゴッドファーザー』で得た収入すべてをこの映画に投下した(他に抵当に入れて借金もしたようだ)。さらに彼はフィルムの編集作業に2年以上も費やした。 『地獄の黙示録』よりも後からクランクインした同じベトナム戦争を扱った『帰郷』や『ディア・ハンター』が先に完成して公開される始末。ちなみに映画は未完成のままカンヌ映画祭に出品して、グランプリを受賞してしまうほどの反響の大きさだった。 生涯を懸けた大作であり、フィルム・オペラとして目論んだというコッポラ。ストーリーの設定は確かに泥沼化していたベトナム戦争だが、この狂気と静寂に覆われた世界観はあらゆる場所や状況に置き換えても起こり得る。 まだ観ていない方はまずを。次に約50分の未公開シーンを加えたの順にオススメしたい。目的地に辿り着くまでの緊張感やマーロン・ブランド登場の凄みを体験できる。 この映画は難解ではない。変に理屈っぽく観るからそう思うのだ。恐怖は人間を支配し、異常な状態へ追..
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グレン・キャンベルを偲んで〜ポップスとカントリーの垣根を超越した伝説のミュージシャン

【2022年2月16日ブルーレイ&デジタル配信リリース】 https://movie-product.ponycanyon.co.jp/item125/ 2017年8月8日、テネシー州ナッシュビルの医療施設でグレン・キャンベルが死去した。 翌日、彼の妻キム・ウーレンは次のような声明を発表した。 「非常に残念ですが、グレン・トラヴィス・キャンベルが享年81歳で死去したことをお伝えします。彼は最愛の夫であり、父親であり、祖父であり、伝説的なシンガー、そしてギタリストでした。彼はアルツハイマー病との長く勇敢な闘いを終えたのです。」 グレン・キャンベルといえば、約50年以上にも及ぶキャリアの中で「Rhinestone Cowboy」「Wichita Lineman」「By The Time I Get Phoenix(恋はフェニックス)」などをはじめ、全米チャートのトップ40に21曲ものヒットソングを送り込んだ音楽家である。 現在までに全世界で4500万枚の売り上げを記録しており、1968年にはザ・ビートルズを凌ぐ売上を記録し、同年のCMA最高賞エンターテイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。 2000年、2004年、2008年のグラミー殿堂賞を受賞し、2012年にはグラミー特別功労賞を受賞しており、さらに2005年には“カントリーミュージックの殿堂”において殿堂入りを果たしている。 また俳優として活躍した時期もあり、ジョン・ウェインが映画『True Grit(勇気ある追跡)』(1969年)に彼を出演させた際には、ゴールデングローブ賞新人賞にノミネートされている。 1980年(当時44歳)、クリント・イーストウッド主演の映画『Any which Way You can(ダーティファイター燃えよ鉄拳)』でタイトル曲を歌いカメオ出演し話題となった。 1991年(当時55歳)には、ドン・ブルース監督の映画『Rock-A-Doodle 』でエルヴィス・プレスリーに声が似た主役の雄鶏シャンティクリア役の声を担当した。 1936年4月22日、彼はアーカンソー州ディライトの近くのビルズタウンという町で12人兄弟姉妹の第7子として生まれた。 父親はスコットランド系の小作人だったという。 4歳から叔父の手ほどきを受けてギターを弾き始める。 10代の頃に実家を出た彼は、ニューメキシコ州アルバカー..
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恋しくて〜80年代の青春を魅了した“ジョン・ヒューズ学園映画”のラスト作

『恋しくて』(Some Kind of Wonderful/1987) 1980年代の映画を語ろうとする時、ある時期の“学園映画”を見落としてはならないこと。そしてその頂点に君臨していたのが「ジョン・ヒューズの学園映画6本」であったことは、『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』でも語った通り。 あれから30年以上が経ち、これまでもたくさんの学園映画が製作されてきた。だが「あの頃のヒューズ作品を超えた」という話を一度も聞いたことがない。それほど彼の映画には観る者を魅了する一貫したムードと世界観が息づいていた。そんなヒューズも1987年を最後に学園映画を撮らなくなり、2009年8月6日に59歳で亡くなった。 雑誌編集に携わりながらコメディ映画の脚本家でもあったジョン・ヒューズが、初監督を担当した『すてきな片想い』(Sixteen Candles)でデビューしたのが1984年。16歳の女の子の心情を描いたこの作品ですべてが始まった。 続く『ブレックファスト・クラブ』(The Breakfast Club/1985)では様々なタイプの高校生を登場させ、『ときめきサイエンス』(Weird Science/1985)ではギークと呼ばれるオタクを主人公にした。さらに『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(Pretty in Pink/1986)では貧富の差を超えたロマンスを実らせ、『フェリスはある朝突然に』(Ferris Bueller’s Day Off/1986)では学校をサボることの有意義さを説いた。 また、このうち3本に主演したモリー・リングウォルドは大ブレイク。「こんなコどこにでもいるよね」的な普通のルックスもあってアイドル化し、アメリカでは公開時の映画館に長蛇の列。彼女のファッションを真似る女の子たちが続出して“リングレッツ”現象も起こった。 ヒューズ映画は学校の人気者以外のタイプを主人公に設定したことが新しく、大きな共感を呼ぶことになった。それは日本の高校や教室にもシンクロして、ちょっとオシャレな高校生なら見逃す奴なんていなかった。ヒューズの愛弟子ともいえるハワード・ドゥイッチ監督は人気の秘訣を語る。 青春時代は複雑なものだということをヒューズは充分に認識している。その時代の悩みに対する様々な解決方法を彼は常に探して求めているんだ。そこには数え切れないほど..
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