2022-08

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ダーティ・ダンシング〜ダンスの躍動感や恋の歓喜が表現された伝説のオープニング

『ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing/1987) 今から思えば、1980年代後半の日本の若者文化(とりわけ都市圏の高校生/ティーン文化)は、まだまだアメリカの影響が色濃く残っていたと思う。信じられない話だが、「“白いアメリカ”の流行=クールだから真似てみよう」的なことが当たり前のように行われていた。特にファッション、メイク、音楽、映画、スポーツ、飲食店、遊び場など、“白いアメリカ”の存在価値は大きく、雑誌やTVがそんなムードを後押ししていた。 ちなみに90年代に入ると、今度は「“黒いアメリカ”がクール」という流れが起こり、渋谷のコギャルがエア・ジョーダンを履いた彼氏と一緒にヒップホップのCDを買いに行くなんてことも普通になった。 アメリカを後追いしなくなった=リアルタイム化したのは、インターネットやケータイが定着して“情報の先取り格差”がなくなり始めたゼロ年代以降のことだ。スマホやSNSアプリが主流になった2010年代では、アメリカの文化は世界の選択肢のうちの一つといったところだろう。ある意味“成熟した日本”の若者文化は、もはや“憧れのアメリカ”文化を必要以上に気にすることはなくなった。 『ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing)は、日本でバブル経済がスタートしたばかりの年、1987年11月に公開された(アメリカは8月)。都市圏の高校生やティーンの間ではアメカジやスケボーが流行った頃だ。ジョン・ヒューズ監督作やトム・クルーズ主演作をはじめとするアメリカ青春映画も全盛期を迎えていた。 それまでのアメリカ青春映画は、公開当時に映画館へ見逃さずに出向くか、数年後に民放の編集された吹き替え版ロードショーで観るかのどちらかしかなかった。だが、80年代後半のレンタルビデオの爆発的普及で後追いが可能に。誰もが“個人的に感動しやすく”なった環境の中で、89年とか91年になって『ダーティ・ダンシング』に触れた人も少なくない。 そんな「“白いアメリカ”がクール」だった時期に青春期を送った今の40代後半〜50代前半の人々にとって、『ダーティ・ダンシング』を「あの頃の思い出カタログ」の中から何の迷いもなく除外できる人はいるのだろうか。 60年代を舞台にしているにも関わらず、強烈な“80年代臭”を醸し出すのは、MTVスタイルの音楽映画だったからだろう。本国アメリ..
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ワイルド・アット・ハート〜愛する女のために歌った圧倒的な「ラブ・ミー・テンダー」

『ワイルド・アット・ハート』(Wild at Heart/1990) 恋人たちの逃避行を扱った映画と言えば、ニコラス・レイ監督の伝説的な『夜の人々』をはじめ、ボニー&クライドで有名な『俺たちに明日はない』、テレンス・マリック監督の『バッドランズ(地獄の逃避行)』、ロバート・アルトマン監督の『ボウイ&キーチ』、クエンティン・タランティーノが脚本を書いた『トゥルー・ロマンス』、あるいはゴダールの『気狂いピエロ』といったところを真っ先に思い出す。そんな中、ひときわ強い印象を残したのは、デヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』(Wild at Heart/1990)だろう。 リンチ作品は、退廃的な『ブルー・ベルベット』やまさかの高視聴番組『ツイン・ピークス』にも現れたように、色彩感覚溢れる映像美、聴こえてくるヒップな音楽だけでなく、普通ではないクセの強い登場人物、暴力や死やセックスの描写で賛否両論(好き嫌い)を呼ぶことでも知られる。それゆえ独特のリンチ・ワールドがフィルム全編に漂う。 小説の1ページ目から読者を引きつける作家がいるのと同じように、リンチは映画の最初のワンカットから観る者をその世界に誘う希少な映画作家といえる。「この人にしか作れない映画」「誰にも真似できない映画」を作れる人。しかも、商業的にも成功するから凄い。 リンチはさぞかし変人奇人かと思いきや、会う人や俳優たちは本人のいたって健全な風貌や身だしなみや態度に驚くという。規則正しい生活や食事や瞑想を好み、絵画や写真や俳優も手掛けるアーティストでもある。抽象的でもあり現実的。小道具やセットなど自らの世界観に徹底的に拘る反面、他人の意見にも寛容で取り入れたり、スケジュールや予算はきっちり収める映画人。 さらに気難しい技術的なことは一切考えずに、頭に浮かんだアイデアを整理してそれに従って撮るだけという、極めてシンプルな映画製作に対する美学。相反する性格の調和を持ち合わせているからこそ、その唯一無比さが生まれるのかもしれない。 『ワイルド・アット・ハート』で加えられたのは、地獄の連続のような道程からの、誰の手にも届かない“ささやかな一つの愛の成就”だった。物語中、愛は決してブレることはない。それによって強い救済感覚、圧倒的な力が作品に宿った。結果、カンヌ映画祭の最高賞パルム・ドール獲得など、人々は今まで..
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スコット・マッケンジーを偲んで〜フラワームーブメントを象徴する名曲を歌った男

2012年8月18日、アメリカのシンガーソングライター、スコット・マッケンジー(享年73)がロサンゼルスの自宅で死去した。 難病のギラン・バレー症候群を患い、入退院を繰り返していたという。 1967年、彼は「San Francisco(Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)邦題:花のサンフランシスコ」のヒットによって一躍“時の人”となる。 この曲は、モントレー・ポップ・フェスティバル(1967年6月にカリフォルニア州で開かれた大規模な野外コンサート)のプロモーションのために製作されたものだった。 作詞・作曲は「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」のヒットで有名なママス&パパスのジョン・フィリップス。 スコットとジョンは以前同じグループで音楽活動を共にしていた旧知の仲でもあり、友情の証しとして提供されたものだった。 “Be Sure to Wear Flowers in Your Hair(君の髪に花を飾るべきだ)”という長い副題が付いているのは、同名の別の曲と区別するためだったという。 1939年1月10日、彼はフロリダで生まれた。 少年時代はノースカロライナ州やヴァージニア州で過ごす。 ハイスクール時代からバンドを組み音楽活動をスタートさせる。 卒業後にジョン・フィリップスと出会い、意気投合した二人は地元でグループを結成。 より本格的に音楽に取り組むために二人はニューヨークへと渡り、1961年にトリオ編成の“ジャーニーメン”を結成。 キャピトルレコードから3枚のアルバムをリリースしたが…グループは解散してしまう。ジョンはママス&パパスを結成しロサンゼルスに移る。 一方スコットはソロ名義での活動をスタートさせる。 1965年、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」がビルボードのシングルチャートで4位を記録する大ヒットとなる。 1967年にはスコットが歌った「花のサンフランシスコ」も同じくビルボードのシングルチャートの4位を獲得し、さらにはイギリスを始め、アイルランド、ドイツ、フィンランドなどでは1位を記録するほどの世界的ヒットとなる。 スコット・マッケンジーやママス&パパスが活躍した60年代後半とはどんな時代だったのか? 彼らは、当時ウェストコーストロックの特徴でもあったフォークロックの先駆者であり、サ..
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イントゥ・ザ・ワイルド〜アラスカの荒野に消えた青年が孤独な旅で綴り続けた心の言葉

『イントゥ・ザ・ワイルド』(INTO THE WILD/2007) 1992年、夏。アメリカの最北部アラスカ州の荒野。捨てられた古いバスの中で一人の若者の遺体がヘラジカのハンターによって発見された。名前はクリストファー・マッカンドレス(以下クリス)、年齢24歳。日記やカメラ、ソローの『ウォールデン/森の生活』など何冊かの小説もそばにあった。 クリスは東海岸の裕福な家庭で育ち、南部のエモリー大学を優秀な成績で卒業。その直後、2万4千ドルの貯金を全額慈善団体に寄付し、1990年のある日突然旅に出た。名前を変えて2年間の放浪の末に遺体が発見されるまで、両親や妹は彼が何処にいるのかもまったく知らされることはなかった。 クリスがなぜ旅に出たのか? なぜ死んだのか?という謎は全米の二ュースになり、ノンフィクション作家のジョン・クラカワーが追跡取材を重ねて1995年に発表した『荒野へ』は大きな反響を呼んだ。印税の20%はクリス名義の奨学資金に寄付された。 俳優であり監督でもあるショーン・ペンは、LAの書店で『荒野へ』をたまたま見かけて、雪で埋まるバスの表紙写真を見て心を捉えられたという。ショーンはその夜、むさぼるようにこの本を読んだ。そして映画化の権利獲得に情熱を傾け、心の傷が残ったままの遺族の了承を得ることができた。 脚本の原案を書くためにテーブルに向かった時、初めて本を読んだときから10年の歳月が経っていたけど、再び読み返すことはしなかったよ。自分の中に宿っていることをただ書き下ろすだけでよかった。 映画『イントゥ・ザ・ワイルド』(INTO THE WILD/2007)は、映画作家ショーン・ペンとしての最高傑作となった。彼は品位を崩すことなく、厳しい試練と孤独に耐え続けるクリスの姿と心を描き切った。発見された実際のバスは両親とクリスに敬意を表して撮影には使わず、再現したものを使用した。 主演したエミール・ハーシュは、アラスカで飢餓に苦しんだクリスの役作りのために、18キロも減量した。最終的には52キロまで落ちたという。 クリスはたくさんの困難を経験し、これらの冒険を通じて様々な感情に正面から立ち向かおうとしたんだと思う。彼は果てしなく興味深い人物だ。だからこの役にのめり込みたいと思った。それはとても名誉なことだった。 撮影は『モーターサイクル・ダイアリーズ』のエリック..
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チャーリー・セクストンの20年〜復活する男の肖像

チャーリー・セクストンはアイドル扱いされた10代に別れを告げ、本物の音楽を追求した 1985年。若くてハンサムで背が高く、歌もギターも驚異的にうまい。そんな才能に溢れた17歳がシングル「Beat’s So Lonely」とアルバム『Pictures for Pleasure』でデビューした──その少年の名はチャーリー・セクストン。 アメリカはもとより世界中がこの若者に夢中になった。シングルは17位、アルバムは15位を記録するヒット。MTVが開局した間もない頃で、マイケルやマドンナなどの洋楽が今よりも影響力を持っていた時代。日本でも「チャリ坊」なんて呼ばれ、同世代のファンは数多かった。 1986年夏には待望の来日。新人としては異例ともいえる東京だけで7回公演。そしてメディアの取材ラッシュ。チャーリーが「どこへ行った? 何を食べた? 何を買った?」など、まるでアイドル並みの報道だった。ジェームズ・ディーンとマット・ディロンを足して割ったようなルックス。実際、彼には十分すぎるほどの魅力があったのだ。 当時日本で一番人気が高かった音楽雑誌の表紙の常連だった。 1968年、テキサス州サン・アントニオに生まれてオースティンで育ったチャーリー・セクストン。13歳で早くもプロミュージシャンとして活動をスタートする。ブルース、カントリー、ロカビリーなど、南部出身らしいルーツミュージックを心から愛する少年だった。 ドン・ヘンリー、スティーヴィー・レイ・ヴォーン(以下SRV)、キース・リチャーズ、ロン・ウッドとも共演を果たし、最も期待されるギタリストとまで言われる。ジミ・ヘンドリックスの再来とまで評価した音楽関係者もいた。 しかし、LAのレコード会社と契約後に制作されたのは、ルーツロックではなく、ビリー・アイドル風なエレクトロニクスを多用したハードなロックンロールだった。そのレコードを聴いた地元テキサスファンの失望は大きかったという。裏切られた気持ちになったのだろう。 おかしな話だけど、MCAからはテキサス・ブルース的なアルバムを作れと言われたんだ。でも俺はブルースを歌うのが本意でなかった。あの歳でそんなアルバムを作るのは不可能だったよ。作曲力も十分でなかったし、アーティストとしてまだまだ発展途上だった とにかくチャーリーはわずか17歳で成功を手にした。今ではその年齢でポップスター..
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ストーンズやツェッペリンが100万ドル積んで欲しがったロバート・ジョンソンの“3秒半”

フィルムに写り込んだ男はあの伝説のロバート・ジョンソンなのか? ことの起こりは、ミシシッピ州ルールヴィルというスモールタウン。町の古い映画館の倉庫から、埃が積もった16ミリのフィルムの束が見つかったのだ。 オーナーのベムは何十年も前に、16ミリのサイレントでルールヴィルの日常生活や通りを行き交う人々を撮影。彼は当時、そのフィルムを自分の映画館で上映して、スクリーンで実物大以上に映る自分を見た観客たちから大好評を博していた。 見つけ出したのは、祖母がこの映画館で働いていたレオ・オールドレッド。彼はメンフィスの人気ラジオ局でブルーズ番組を担当するほか、ツーリストで賑わう有名なビール・ストリートでブルーズ雑貨店を営むほど、ブルーズを心から愛する男だった。リスナーや店の常連たちは親しみを込めてテイター・レッドと呼んでいた。 貴重なフィルムは、保存のために可能な限りビデオに移し替えられ、マスターテープが制作された。コピーはもちろんテイターの手にも渡った。ある夜、ビデオを観ていたテイターは、わずか3秒半の街角のシーンで思わず息を止めることになった。そこには映画館の近くで“ギターを弾く若きブルーズマン”の姿。 「こいつには見覚えがある」 そう思ってビデオを一時停止し再生しては、この短い映像を何度も食い入るように見続けた。 「そんな馬鹿な。そんなワケはないだろ……いや、でももしかすると……どう見てもあの男にそっくりじゃないか」 テイターは自分のコレクションから“ロバート・ジョンソン”の写真を取り出し、ビデオに映っている男と比較した。 「これは間違いないぞ!」 世界中の注目を浴びたロバート・ジョンソンの“3秒半” このフィルムがどれだけの話題を呼び、歴史的な価値があるか分かっていたテイターは、問題の男をブローアップしてプリントした。そしてブルーズに詳しい知り合いに回覧して判断を仰ぐことにした。 みんなが口を揃えて“ロバート・ジョンソン”か、瓜二つの誰かだろうと判定を下した。もちろんロバート・ジュニア・ロックウッドら“ロバート・ジョンソン”を知っていたブルーズマンたちにも確かめた。「あいつだ!」と彼らは何のためらいもなく断言した。 3秒半のフィルムの断片に関する噂は、急速に世界のマスコミに広がった。次第にテイターのもとには、電話や問い合わせ、訪問者や記者たちの取材が相次いだ。来る日..
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奇跡のロックオペラ〜60年代の終りにThe Whoが放った『Tommy』の誕生秘話

「Overture」/ザ・フー ビートルズのフォロワーとしてデビューし、当時そこそこヒット曲を飛ばしていたザ・フーのピート・タウンゼントは、60年代の音楽シーンに嫌気がさしていた。 飽きられたらそれまで、まるでバブルガムのようにポイと捨てられる。 多かれ少なかれ、60年代のポップミュージックとはそういうものだったのだろう。 「ポップミュージックに終わらない音楽を創りたい!」 そう考えた才能あふれる若きソングライターは、秘かに壮大な構想を練っていた。 それは口がきけず、耳がきこえず、目もみえない少年が、空想の世界を楽しむという物語をつくることだった。 実はその頃、ピートはインドにいるグルー(導師)の教えに関心を抱いていたことろだった。 「私の存在は人に教えることではなく目覚めさせること」 1925年から1969年の1月に他界するまで40年以上も「沈黙」を守りながら精神活動を続けていたミハー・ババ。 ババの教えの中に、次のようなものがある。 すべてのものは創造(Creation)された後、進化(Evolution)する やがて、それは生まれ変わり(Reincarnation)、退化(Involution)するが そこでやっと悟り(Realization)を得る ピートが生み出した奇跡のロックオペラ『Tommy』のストーリーには、ババの教えが色濃く反映されていたのだ。 【創造→進化】三重苦の少年を創造したピートは、彼に不思議な力を与える。 【生まれ変わり→退化→悟り】その少年は、やがて病気が治ってから自らを救世主だと思うようになるが、独善がすぎて…ようやく大切なものに気づく。 かつてピートは作品に対して、こんな事を語ったという。 「ストーリーや設定を抽象的にしたことが、かえって万人受けしたのかもしれない。」 「つまり年齢や経験が異なるリスナー達が、このテーマをどう解釈してもいいように柔軟性を持たせて創作したんだよ。」 「I’m Free」/ザ・フー このようにして誕生した奇跡のロックオペラ『Tommy』は、1969年5月23日にザ・フーのアルバムとして世に放たれた。 70年代へのカウントダウンと共に、この作品の登場は当時の音楽シーンにとっても“古い時代の終結”と“新しい時代の始まり”を意味していた。 当時は、ベトナム反戦運動の高まり、物質文明への批判、よりスピリチュ..
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我が窮状〜稀代のスーパースター沢田研二の反骨精神

麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが  忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない 英霊の涙に変えて 授かった宝だ この窮状 救うために  声なき声よ集え 我が窮状 守りきれたら  残す未来輝くよ 【窮状(きゅうじょう)】という言葉を辞書でひいてみる。 「困っている状態」「大変苦しい立場にいるようす」「痛々しい状態」などと書いてある。 この歌は、日本を代表する人気歌手“ジュリー”こと沢田研二が2008年に発表した還暦記念アルバム『Rock’n Roll March』に収録されている。 作詞は彼自身の手によるもので、作曲は沢田の盟友でもあり日本を代表する作曲家、大野克夫によるものだ。  麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ 老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ 諦めは取り返せない 過ちを招くだけ 以前、彼は新聞のインタビューでこんなことを語っている。 還暦の前のあたりから『言いたいことを言わなきゃ』と思うようになった。 60歳越えたら余生、死ぬ準備をしているようなものだから。 アイドル時代は『表現の自由』がなかった。 華麗なジュリー、セクシーなジュリーに似合わないことは言えなかった。 芸能界で今“言いたいこと”を堂々と歌える歌手は多くない。 様々なしがらみが、様々な形でつきまとうから。 僕も『テレビに出られなくなるよ』と言われたことがある。 それでいい。 18歳でこの世界に入り、いつまでもアイドルじゃないだろ。 昔はジュリー、今はジジイ(笑) 太ったっていいじゃない(笑) 好きな事を、コツコツとやっていこうと思っている。 昔の名前を利用しながら…ね(笑) [2012年5月4日付朝日新聞より抜粋] 彼はザ・タイガースでデビューした19歳から現在に至るまでの約55年間、毎年欠かすことなくレコーディングし、作品を発表し、ツアーを行ってきた。 この実績は、日本はおろか海外でも類を見ない偉業といえるだろう。 還暦を過ぎて“言いたいこと”を歌うスタイルをより濃く打ち出しながら現在もコンサートを中心とした活動を続けている。 また、ここ数年は『自分はテレビに出られない(正確には出ない)』という理由でNHK紅白歌合戦からの(過去のヒット曲での)出演オファーを何度も断っているという。 彼はナツメロを唄う“昔の歌手”ではなく、現役のアーティストである。 彼のコンサート..
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クロスロード〜ロバート・ジョンソンの“幻の30曲目”を探して

『クロスロード』(CROSSROADS/1986) アメリカ南部ミシシッピ州の田舎町で2本道が交差して、一本の寂しげな木が立っている場所。人はそれを「クロスロード」と呼ぶ。例えば、クラークスデールのハイウェイ61号線と49号線が交差するあたり。 そこで野望を持った若きギタリストは、テクニックと作曲、名声と富を手にすることができる。だが忘れてはいけない。それは夜の零時の少し前だ。間違いなくそこにいること。そして手にしたギターを弾いてみろ。黒い大男がやって来て、ギターを取り上げてチューニングをし始める。大男はギターを一通り弾き終えると、黙ったまま返してくる。するともう、何だって好きなように弾けるようになる。ただし、悪魔と取引しなければならない。自分の魂と引き換えに。 1936年11月23日、テキサス州サンアントニオ。若きギタリストは古いホテルの廊下を歩き、ドアをノックする。白人の録音エンジニアが彼を招き入れる。「録音の経験は?」と訊かれると、首を横に振る。彼はエンジニアに背を向けて椅子に腰掛ける。ウィスキーを一飲みして、スライドバーを指にはめる。その演奏にエンジニアは思わず顔を上げた。 ──この有名な伝説の持ち主は「キング・オブ・デルタ・ブルーズ」のロバート・ジョンソン。ブルーズやロックファンでこの話を知らない人はいないだろう。 彼が弾くボトルネックギターがどれほど人の心を掴んだかというと、例えばローリング・ストーンズのキース・リチャーズとブライアン・ジョーンズのエピソードがその凄さを代弁してくれる。まだロンドンの下町の薄汚い部屋で共同生活をしながら、ブルーズを研究するために毎日のようにレコードを聴きまくっていた頃、ギタリストはロバートの他にもう一人いて、“二人が同時に弾いている”と思い込んでいたというのだ。 そんなロバート・ジョンソンは1938年に27才の若さでこの世を去った。毒殺や刺殺など様々な説があるが、とにかく十字路での取引があった時点ですでに呪われる運命にあったということか。生前にたった29曲しか録音しなかったこともこの男を伝説にした。ところが、実は幻の30曲目があるという。それを知るのは今ではただ一人。ロバートと行動を共にしていたハーモニカ吹きのウィリー・ブラウンだけ。 映画『クロスロード』(CROSSROADS/1986)は、この永遠のロマンを描いたロー..
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ロバート・ジョンソンの“クロスロード伝説”や“悪魔との契約説”はなぜ広まったのか?

ロバート・ジョンソンのクロスロード伝説と悪魔との契約説 デルタ・ブルーズマンのサン・ハウスが、ウィリー・ブラウンらと組んでジューク・ジョイントを回っていた1930年代初頭のある土曜の夜のこと。一人の少年が何度も自分を見に来ていることに気づく。少年はギターを弾きたがっていて、両親が寝静まった後、窓からこっそり抜け出して3人の演奏を聴きに来ていたのだ。 休憩の時間になると、俺たちはギターを置いて外に出る。夏の間は無茶苦茶な暑さだから、身体を冷やしてたわけだ。で、俺たちのいない隙に、あいつはギターを持ってジャカジャカやりだすのさ。やたらうるさいだけだったから、それを聴かされる客はたまらない。「あんたでもウィリーでもいいから、あのガキをやめさせてくれないか。みんな頭が変になりそうだ」って。あんなの、犬だって聞いてられないぜ。俺は言ってやったんだ。「もうやめるんだ、ロバート。お前にはギターは弾けないよ」 それからロバートの姿を誰も見なくなった。しかし、2年後の夜。サン・ハウスらがいつものようにプレイしていると、ギターを背負ったロバートが突然入ってきた。人混みをかき分けながら、ロバートは彼らの前に立った。 「お前、まだギターを持ってるのか。宝の持ち腐れだろう?」 「今はあんたらの休憩時間かい?」 「お前、何がしたいんだ? またみんなを死ぬほどウンザリさせたいのか?」 「いや、ちょっと弾かせてほしい。席を代わってくれ」 「いいだろう。口だけじゃないことを祈るぜ」 数分後、サン・ハウスたちは驚きのあまり言葉を失ってしまった。遂に“ロバート・ジョンソン”が本領を発揮し始めたのだ。「あいつは俺たちの誰よりも、ブルーズをたっぷりプレイできるようになっていた」 クロスロード伝説の始まり ロバートはなぜここまでブルーズの技量を上達させることができたのか。それは「クロスロードで悪魔に魂を売って名声を得る契約を結んだからだ」……という余りにも有名な伝説がある。 ことの発端は、ロバートよりも10年ほど前に有名になっていたトミー・ジョンソン(ロバートと血縁関係はなし)。弟のリデルは、ろくにギターも弾けなかったのに、帰ってきたら熟練したミュージシャンになっていた兄を不思議に思った。そして理由を尋ねると、 自分のやりたい楽器の弾き方や、自分で曲を作るやり方を覚えたかったら、ギターを持って道が..
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