2022-10

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【5 PICS・音楽③】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ★ヒント 「1980年代、日本の曲」です。 ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年10月7日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ■複雑化するコンテンツ業界に「超シンプル」な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽③】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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Born in Chicagoを聴きながら…ホワイトブルースの先駆者ポール・バターフィールドの足跡を辿る

この歌は、アメリカを代表するホワイトブルースの先駆者ポール・バターフィールドが率いたバンドの記念すべきデビュー曲だ。 一部の洋楽ファンの間では「日本において過小評価されているバンドの一つ」と言われてきた彼らは一体どんな功績を残したグループだったのか? まず…“アメリカンロック”という音楽用語を紐解いてみると、こんな歴史的エピソードが浮び上がってくる。 それは「ロック」と「ロックンロール」が区別されて使われるようになった日。 諸説ある中で、アメリカでは1965年7月25日がその日だと言われている。 それはボブ・ディランがアコースティックギターをエレクトリックギターに持ち替えた瞬間だった。 その日、ディランがニューポート・フォーク・フェスティバルで初めて観衆の前でフォークとロックを融合させた時に、バックバンドとして従えていたのがポール・バターフィールド・ブルース・バンドだった。 60年代、アメリカにはフォークリバイバルの波が押し寄せ、アメリカが発祥であるはずのブルースを基調としたロックは(どちらかというと)イギリス勢のクリームやブルース・ブレイカーズ等が受け継ぐ流れが生まれていた。 しかし、シカゴ出身のポール・バターフィールドのひたむきなブルースへのこだわりは、その後に台頭するサザンロックなどへの流れに大きな功績を残すこととなる。 ポール・バターフィールド・ブルース・バンドはイギリスのブルース・ブレイカーズ同様、何人もの名プレイヤーを排出していることでも知られている。 ロック史上において重要な役割を果たしたバンドを率いたポール・バターフィールドとは、どんな男だったのだろう? 1942年シカゴのハイドパークで弁護士の父と画家の母との間に生まれた彼は、少年期にシカゴ交響楽団の下でフルートを学ぶ。 大学生時代には地元のブルースBARやクラブに出入りするようになり、マディ・ウォーターズを筆頭に“本物”の黒人ブルースマンたちの演奏を間近に見て衝撃を受ける。気がついた時には…彼は手にする楽器をフルートからブルースハープに持ち替えてたという。 そんな彼が得意とする“むせび泣く”ようなブルースハープは、名手リトル・ウォーター譲りだと言われている。 そして1961年、19歳になった彼はシカゴの大学でギタリストのエルビン・ビショップと出会い意気投合する。 2人はすぐに“The Butter..
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浅川マキ27歳〜新宿に惹かれた女、新宿が生んだアングラの女王

1969年、浅川マキは劇作家・寺山修司によってその才能と存在感を見出され、シングル「夜が明けたら/かもめ」で再デビューを果たす。 それは、彼女が27歳になった年の出来事だった。 学生運動、70年安保闘争という時代の中、彼女は「アングラの女王」と呼ばれるようになる。 そんな“再デビュー”に至るまで彼女はどんな日々を過ごしてきたのだろう? ──1942年1月27日、彼女は石川県石川郡美川町という漁師町で生まれる。 家が五軒しかないという集落で、妹と共に過ごした幼い頃に「美空ひばりを聴いて育った」という。 高校を卒業した彼女は町役場に就職し、国民年金の窓口係を担当する。 しかし、ほどなくして役場を辞め、夜行列車に乗って東京に向かった。 「法律の勉強をするため」と言い残すも…ただ町を出たかったのかも知れない。 彼女は、新宿の街に惹かれた。 思い切り裾の広がったドレスを買うと、あちこちのキャバレーの裏口のドアを叩いた。 「あの、こちらで歌手としてオーディションをしてみてもらえないかしら?」 一枚だけのドレスは、日を追うごとに汗のにおいがしみつく。 それを大きなバッグに詰め込んで、新宿の街を歩く…。 彼女はよく深夜のジャズ喫茶の片隅に座った。 始発が出る頃まで目を閉じている。 黒いスピーカーから大音量で流れているモダンジャズの中で、時には奇妙な安らぎのような不思議な眠りに落ちた。 ジョン・コルトレーンやチャーリー・パーカーのサキソフォン…それは黒人の男の体温だった。 そしてマへリア・ジャクソンが歌う黒人霊歌と、ビリー・ホリディの歌声にのめり込んでいった。 その後、彼女は沖縄米軍キャンプや新宿の歌声喫茶『灯』でゴスペルやブルース、ジャズを歌い始めた。 1967年、当時25才だった彼女は“最初のデビュー”を経験する。 しかしそのデビュー曲「東京挽歌」は、彼女が歌いたかった世界とはあまりにかけ離れていた。 デビューはしたものの…レコードの売り上げも芳しくなく、彼女が歌う場所はキャバレーが主で、それも月に3回くらいしか仕事がない状態にあった。 寺山修司が知人の音楽プロデューサー、寺本幸司に誘われて銀座にあったシャンソン喫茶『銀巴里』に出かけたのは、1968年の秋口のことだった。 「ちょっと面白い歌手がいるから見に来てくれないか」 寺山修司はひと目で浅川マキを気に入った。 「“夜が明け..
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バート・ヤンシュを偲んで〜ジミー・ペイジ、ノエル・ギャラガー、ジョニー・マーに影響を与え“英国のボブ・ディラン”と呼ばれた男の足跡と功績

2011年10月5日、バート・ヤンシュ(享年67)がロンドン北部ハムステッドのホスピスで亡くなった。 後日、死因は癌と発表された。 彼のトリビュートライヴがロンドンのロイヤルアルバートホールで開催されたのは、その死から2年経った2013年12月3日だった。 ステージには発起人のレッド・ツェッペリンのロバート・プラント、彼が率いたバンド、ペンタングルのメンバーのほか、同郷(スコットランド)のドノヴァンや、同世代のSSWとして知られるラルフ・マックテルらが登場し、才人を偲んだという。 彼は1960年代に活躍したギタリストのデイヴィ・グレアムや、フォークシンガーのアン・ブリッグスからインスパイアされたギタープレイを武器に“英国のボブ・ディラン”と称されることもあったという。 しかしディランとは違い、歌詞ではなくインストゥルメンタルでの表現を得意としたアーティストである。 ニール・ヤング、ポール・サイモン、ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ノエル・ギャラガー(オアシス)、ジョニー・マー(ザ・スミス)、バーナード・バトラー(スウェード)、ニック・ドレイクなど幅広い世代のアーティストに影響を及ぼしたことでも知られる才人だった。 1943年11月3日、スコットランドで生まれた彼は、10代の頃にギターと出会い、音楽の道へ進むこととなる。 ウディ・ガスリー、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ライトニン・ホプキンス、ブラウニー・マギーなどを聴いて青春時代を過ごした彼は、高校卒業して庭師として働いていたという。 1963年、二十歳となった彼はヨーロッパ各地を放浪しながら、バーやカフェで演奏する生活を始める。 あちこちへとヒッチハイクしながら旅をしていた彼だったが、1965年にモロッコのタンジールで赤痢に感染し、その後イギリスへと送還されることとなる。 療養後すぐにロンドンで初録音し、同年には自身の名前をタイトルにした1stアルバム『Bert Jansch』をリリース。 1966年には『It Don’t Bother Me』『Jack Orion』『Bert and John』(ジョン・レンボーンとの共作)と立て続けに3枚のアルバムを発表している。 1967年には、後に英国トラッドフォーク界きっての名バンドとなるペンタングルを結成し、イギリスの音楽シーンに大きな功績を残す。 ペンタング..
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