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ジョン・レノンが亡くなる数時間前に最後の写真を撮っていたアニー・リーボヴィッツ

アニー・リーボヴィッツ──彼女の名前を聞いて一体何を思い浮かべるだろう? あらゆるミュージシャンの表情をとらえたロックなカメラマン。 映画スターや経済人たちセレブリティ御用達のカメラマン。 最先端のファッションメディアで斬新なイメージを撮り続けるカメラマン。 政治や戦争の代償を切り取るジャーナリストとしてのカメラマン。 世界中を年中飛び回るスターカメラマン。 そして家族や風景といった素朴な写真を愛するカメラマン。 そのどれもが彼女の本当の姿であり、世界で最も有名な肖像写真家であることには間違いない。 アニーは1949年10月、大家族の三女としてアメリカのコネチカット州で生まれた。軍人だった父の影響で引越しが多く、そのたびに車に乗って移動した。幼い女の子は車窓というフレームを通して常に人々や風景を観察していたのだろう。ベトナム戦争の赴任でフィリピンにも移り住んだことがあるようだが、アニーは高校生になるとサンフランシスコへ戻った。 時は1960年代後半。シスコの街にはヒッピーが集い、愛の思想を世界に広げようとしていた。アニーは美術学校で写真を学ぶことになり、通りで反戦運動を撮ったり、アパートでロックミュージックに目覚めていった。 ちょうどその頃、シスコではヤン・ウェナーが『ローリング・ストーン』誌を創刊させる。自由な編集方針で書き手たちに好きなことを書かせて、ロック・ジャーナリズムの礎を築こうとしていた。アニーはすぐに編集部を訪れ、自分を売り込んだ。 必死で仕事をしていると、ジョン・レノンのインタビュー撮影の機会に恵まれた。20歳という若さ、無名のカメラマンの自分。そんな不安はすぐに現場で吹き飛んだ。ジョンは彼女を一人の人間として変わらずに扱ってくれたという。 数年後、チーフカメラマンとなったアニーは、『ローリング・ストーン』を舞台にあらゆるミュージシャンたちをフィルムに収めていく。ロック界のスターたちはいつも一緒にいるアニーをそのうち気にしなくなり、空気のような存在になったので、心を許して自由に写真を撮らせた。 しかし、ローリング・ストーンズの1975年のツアー同行は、周囲に猛反対された。そこにはドラッグの誘惑があり、ヤンに言わせれば「みんなヤク中になって帰ってくる」のがオチらしい。この頃のツアー先のホテルでの記憶が一切ないというキース・リチャーズは、アニーが撮った自..
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二人の友情〜ジョン・レノンの名盤『Rock ’n’Roll』の選曲にミック・ジャガーも関わっていた!?

1960年代、イギリスで誕生したビートルズとローリングストーングは人気を二分しながらもよきライバル関係でもあった。 ミック・ジャガーはジョン・レノンと初めて会った時に、とても謙虚さを感じたことを憶えているという。 「1963年、俺達はまだレコードを作る前で、何者でもなかった。当時、彼らはすでに超大物だった。ミュージシャンというだけじゃなく、まるでアイドルのようでね。確か革のコートを着てたよ。そう、俺達にはまだ買えなかった革のコートをね。」 その年の出来事だった。 結成してまだ間もないローリングストーンズがリッチモンドのクラブでR&Bやブルース、そしてチャック・ベリーの楽曲を中心に演奏していたある夜に(革のトレンチコートを着た)ビートルズのメンバーが突然現れて観客の傍らに立っていたという。 ミックはステージ上で彼らの存在に気がついてはいたものの、目を合わせることはしなかった。 ステージ後に、関係者から互いのメンバーを紹介される。 ミックはジョンと初めて交わした言葉を憶えていた。 ミック 「君がハーモニカを吹いているんだよね?」 ジョン 「いや、僕は君らのようには吹けないよ。吸って吹くだけ。僕達はブルースはたいしてできないんだ。」 それが初めて出会いだった。 以降、ビートルズはストーンズの演奏を聴きにやってきたという。 とくにジョンは他のメンバーよりも頻繁に現れた。 ストーンズも人気者になり始め、少しずつ距離を近めていく両バンド。 ある夜、ジョージ・ハリスンがミックに向かってビートルズがストーンズよりいかに多くのレコードを売っているか熱弁をふるった。 ミックはその時のことを鮮明に憶えていた。 「確かにそれは疑いようのない事実だったよ。ジョージはとてもそのことを強調したがっていたんだ。」 その時、ジョージの隣りにいたジョンがミックにこんな一言をかけてきたという。 「ジョージのことは気にすんなよ。こいつレコードが売れていることがまだ嬉しくてしかたないんだ。」 ミックはこのことをきっかけにジョンに好意を抱くようになった。 「俺はジョンが大好きだったよ。ビートルズのメンバーの中で一番気の合った男だった。大の親友ってわけじゃないけど、いつもフレンドリーだったよ。でもビートルズもストーンズもクラブで演奏をするのをやめると、お互いにあまり合わなくなったんだ。」 ..
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それはあの悲劇が起きる3年前の出来事だった〜ジョン・レノンとデビッド・ボウイと過ごした“香港での想い出”を語るイギー・ポップ

1977年に香港でジョンに会った。 2歳くらいだったショーンと旅行中で、日本にいるヨーコに会いに行く途中だった。 俺はデビッド・ボウイと彼の友人でアシスタントでもあるココ・シュワープと一緒で、俺のツアーで日本からヨーロッパに帰る途中だった。 デビッドとジョンは友人で、香港に行く途中、ジョンもちょうど俺達の滞在中に同じホテルにいることを知った。 エレベーターの扉が開くと、だぼだぼのバスケのジャージを着たジョンがホテルのロビーにいた。 彼はデビッドを思いきり抱きしめ、笑顔で出迎えた。 俺はイギリスの大物が、そんなあたたかさを示すのを見て驚いた。 バスケットボールのジャージを着た彼もスーパークールだったぜ!(ミーハーで失礼・笑) 夜にショーンが寝たあと、俺達4人で数回ディナーに行った。 トップレスバーにも一度行ったし、気取ったカントリークラブでも 一度お茶した。 彼は騒ぎたてようと思えば、とことん騒ぎたてることのできる人だった。 給仕がなかなか行われないと、トップレスバーでもカントリークラブでも立ち上がって「ねぇ!ビートルズって知ってる!?」って冗談半分に叫んでいた。 ジョンはこれを楽しんでいた。 俺は楽しくて仕方なかったよ(笑) ジョンはたった一度だけ俺に直接話かけた。 「君のショーをニューヨークで観たよ。かなりよかったよ。」 彼はなにげなく俺に素晴らしい贈り物をくれた。 薄明かりが灯った真夜中の香港の海岸通りを彼が散歩していたのを憶えているよ。 口には爪楊枝、ブルージーンズをはき、ジャケットをはおっていた。 路上を歩く彼を取り囲むのは空間だけで、彼はその空間を満喫していた。 俺の心にはその時の映像がずっと焼きついているのさ…。(イギー・ポップ) イギーはジョンに会ったその年にデビッド・ボウイのプロデュースの下、アルバム『Lust for Life』を発表してこんな歌を収録している。 この「The Passenger(乗客・旅人)」に、異国の地で散歩を楽しむあの日のジョンの姿を重ねたのだろうか…。 旅する乗客よ 一体なぜ揺られて行くんだい? 旅する乗客よ どこまででも乗っていく 窓から眺めているけど 一体何を見てるんだい? 暗い空と輝く星を眺めている 今夜の綺麗な星を眺めている 街の裏通りを眺めている 曲がりくねった海岸線を眺めている そんな香港での“想い出”から3..
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ザ・エージェント〜ある日突然会社を解雇された男が生きる歓びを感じて口ずさんだ歌とは?

もしも今勤めている会社を突然解雇されたら、あなたならどうするか? もしも高給な仕事に就き、毎日金儲けやビジネスのことばかり考えていたのに、ある日突然すべてを奪われてしまったら? 付き合っている異性にどう説明する? 相手は君のことをクールに稼ぐ人間だと思っている。 周囲の友人や仲間たちにどう顔向けする? みんなは君のことを人生のパーティを知り尽くした愉快な人間だと思っている。 さて、どうするか? トム・クルーズがプロスポーツ選手のエージェントに扮した『ザ・エージェント』(Jerry Maguire/1996)は、まさにそんな状況に追い込まれた主人公が、逆境の中でもがき苦しみながら、愛ある人々との関わりや支えを通じて長らく忘れていた大切な世界や時間、そして生きる歓びを取り戻していくという物語。観終わった時、真っすぐな勇気と強い希望で心を満たしてくれる温かい人間ドラマだ。 この映画には見どころが実に多い。大手スポーツエージェンシーの稼ぎ頭として働くジェリー(トム・クルーズ)はある日、お抱えのスター選手たちがスポンサーやチームとの高額な契約に振り回される言動と、その人間味が欠ける原因を作った自分の仕事自体に疑問を抱く。 「俺は最低だ」と思った夜、突如としてクライアントを減らして原点回帰することを促す提案書を書くことに取り憑かれる。スポーツ・エージェントの元祖的人物ディッキー・フォックスの言葉を思い出しながら。 この仕事の原点は、選手との人間関係だ。 脚本・監督のキャメロン・クロウが実際に一晩かけて書いたという提案書。27ページにもなったそうだ。『ザ・エージェント』パンフレットより しかし、“禁断の提案書”は当然のように失笑を買い、おまけにライバルからは屈辱のクビ勧告。自分の契約選手を次々と横取りされてしまう中、信じてくれたのは落ち目のわがままなアメフト選手(キューバ・グッディング・ジュニア)ただ一人。そして子育てに追われる経理部のドロシー(レニー・ゼルウィガー)だけだった。ここからジェリーの長い旅が始まっていく。 この作品の脚本/監督は、キャメロン・クロウ。若い頃にローリング・ストーン誌でロック・ジャーナリズムを書いていたキャリアを持つ映画作家。使われる曲がとにかく抜群なのは言うまでもない。 会社を解雇されてフリーになったジェリーが心機一転。ドラフトを控える有望な大学選..
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シザーハンズ〜ティム・バートン監督の孤独な思春期が投影されたストレンジ・ワールド

1990年に、リスペクトしていたカルト・ムービーの帝王ジョン・ウォーターズの『クライ・ベイビー』で映画初主演となっジョニー・デップ。同年にはもう一つ、彼のキャリアにおいて重要な出逢いがあった。ティム・バートンとの仕事である。今やデップの名を知らない人はいないが、この頃はまだ将来を期待された若手スターの一人に過ぎなかった。 その『シザーハンズ』(Edward Scissorhands/1990)は、ティム・バートン自身によれば「映像を通じて初めて自己確認ができた作品」。それまでの彼は自分の感情を完全に表現する機会を一度も与えられたことがなかった。 というのもバートンの思春期は、コミュニケーションが苦手で友達もできず、誰とも接触しない暗黒の日々だったという。「10代の頃、一人でいると凄くドラマチックな感情に突き上げられることが度々あった。ヴィンセント・プライスが出ている映画が好きで、エドガー・アラン・ポーのアイデア、孤独というテーマが好きだった」。 『シザーハンズ』にはそんなバートンの孤独な少年期に体験した映画の数々、例えば『フランケンシュタイン』『オペラ座の怪人』『ノートルダムのせむし男』『キングコング』『大アマゾンの半魚人』『ロミオとジュリエット』などの悲しみのホラーやお伽噺が融合されている。 さらに前年の『バットマン』(1989)でゴッサムシティという大都会のダークサイドを描いたのとは対照的に、本作では意表を突いて郊外住宅地を舞台にカラフルな色彩感覚を魅せる。ただ一点、主人公のエドワード・シザーハンズ(ジョニー・デップ)が生まれ育った不気味なゴシック調の城を除いては。こういったところに映画作家の拘りと真髄がある。 この映画でエドワードが恋するキム(ウィノナ・ライダー)は、チアリーダー的な典型的なヒロイン。そのボーイフレンドはハイスクールで誰もが知ってるようなタイプ。「僕はいつもこの種の奴に恐怖を感じていた。いつも奴らにはガールフレンドが何人もいて、フットボールのキャプテンみたいで、アメリカン・ドリームの若者版のイメージがあるから。それでいて奴らは暴力的だ」。バートンは登場人物にも自ら見てきたものを投影させた。 エドワードは発明家の博士によって生み出された人造人間。生みの親が急死したため両手はハサミのままで、以来、山の上にある薄暗い屋敷の中で寂しく閉じこもって暮らし..
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Xmasの歌〜ミネアポリスの女からのクリスマスカード

この時期つかえる“Xmas雑学”をちょこっと。 それは12月25日にイエス・キリストの降誕を祝うキリスト教の年中行事。 一説によると、キリスト教伝来以前にゲルマン人やケルト人が盛大に祝っていた冬至の祭が起源で、これと結びついたのではないか?とも言われている。 記録によると、日本で最初にXmasが祝われたのは戦国時代。 ザビエルが日本にキリスト教を伝えた3年後の1552年、山口県で行われた礼拝が最初。 当時はキリスト教の“隣人愛の精神”にのっとって、Xmasには貧しい農民への寄付や救済が行われていたという。 その後、1612年に出された禁教令を皮切りに日本は鎖国。 長崎など一部の外国人居留地をのぞいて、Xmasは日本から一旦姿を消す。 再び復活したのは、鎖国が解かれた明治時代だった。 1873年(明治6年)にキリスト教が解放。 最初は国内在住の外国人がパーティをする程度のイベントだった。 1904年(明治37年)、初めてデパートにXmasツリーが飾られ、1910年にはXmas用のデコレーションケーキが発売された。 1930年代になって、本格的なXmas商戦がスタート。 このあたりで現在のXmasの原形がほぼ完成したと言われている。 そして1980年代のバブル期から、若者向けの雑誌でXmas特集が組まれるようになり「恋人達にとって特別な日」という、縁もゆかりもないジャパニーズスタイルXmasが定着した。 ♪「Christmas Card From A Hooker In Minneapolis」/トム・ウェイツ ねぇ チャーリー 私 妊娠しているのよ ヤクはもうやめたわ ウイスキーもやめたの 旦那はトロンボーン吹きよ お腹の子供は彼の子供じゃないけど 彼は愛してくれてるわ この曲は、トムウェイツが1978年に発表した6枚目のアルバム『Blue Valentine』に収録されている。 この手紙のような歌詞は、ビートジェネレーション以降のアメリカを代表するアングラ作家チャールズ・ブコウスキーの詩集『The Roominghouse Madrigals』の中の「Charlie, I’m pregnant」という詩を下地にしているらしい。 クリスマスカードの差出人の主人公(おそらく娼婦)は、元カレのチャーリーという男(カードの受け取り人)に、自分の(現在の)夫は楽器を演奏し..
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トム・ウェイツが初めて音楽を手がけた映画作品『ワン・フロム・ザ・ハート』

「映画音楽を作るのは、他人の夢に曲を付けるようなもんさ。」(トム・ウェイツ) 「ストーリーを歌で語るような映画を作りたかった。演出は基本的に音楽による寓話で、カップルが結ばれ、別れ、それぞれ別の恋をして、また寄りを戻す。ただそれだけの単純なストーリーに、美しい音楽と歌。それだけでいい。」(フランシス・フォード・コッポラ) 1970年代、フランシス・フォード・コッポラは同世代の映画監督の中でも一目置かれる存在となった。 マーティン・スコセッシ、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルバーグといった監督も、その後の映画界に新風を巻き起こしていった“革命児”だったが、スタジオシステムの内部まで入り込んで作品を作る“映画界の悪ガキ”の先駆けといえば、やはりコッポラだった。 1972年の3月から公開されたコッポラ監督の『ゴッドファーザー』は、まさにアメリカ映画の歴史を塗り替えた作品と言えるだろう。 それまで入場者数において不動のナンバーワンを維持してきた『サウンド・オブ・ミュージック』を、公開から数週間で上回り、興行収入も前代未聞の“1日数百ドル”という記録を打ち立てたのだ。 アメリカを代表する映画会社パラマウントピクチャーズコーポレーションの推計では、3年間で1億3200万人の観客が映画館で鑑賞されたとされている。 『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』もなかった時代に『ゴッドファーザー』は衝撃的な記録を打ち立てた作品だった。 しかしコッポラは、そこで手に入れた名声に酔いしれたり、巨万の金を浪費することはほとんどしなかったという。 翌1974年の12月に公開された続編『ゴッドファーザー PART II』は、前作を上回る成功を収めることとなる。 その後、コッポラは長きに渡る製作期間を経て…1979年に戦争映画『地獄の黙示録』を発表し、映画ファンに大きな衝撃を与えることとなる。 超一流の監督としての地位を確立したコッポラが次に手掛けたのは『ワン・フロム・ザ・ハート』というラスヴェガスを舞台とした恋愛映画だった。 1982年の2月に公開されたコッポラの新作は…世間の期待と予想を大きく裏切って興行的に大失敗となり、自身が持っていた製作会社を倒産させてしまう結果となった。 ラスベガスを舞台とした物語だったが、全編ハリウッドにあるコッポラ所有のスタジオ(ゾーイトロープ・..
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ちょっとだけ妄想してみてください… 海外セレブとデートするなら誰と?何する?

ティモシー・シャラメとスキューバダイビングに行くか、トム・ホランドとスノボするか、あなたはどっちを選ぶ?🤿🏂 View Entire Post ›
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ロイ・オービソン〜“ビッグ・オー”と永遠の少年たち

「1975年に『Born To Run』を作るためにスタジオ入りした時、僕はボブ・ディランのような詩を書き、フィル・スペクターのようなサウンドを作り、デュアン・エディのようなギターを弾き、そして何よりもロイ・オービソンのように歌おうと努力したんだ」 1987年、ロックンロール殿堂入りの授賞式。ブルース・スプリングスティーンはそう言って 自身のアイドル、“ビッグ・オー”ことロイ・オービソンを少年のような興奮の中で紹介した。 それまでの栄光が嘘だったかのように60年代後半からはヒットも一切出ず、長い不遇の時代を送っていたオービソン。しかし、リンダ・ロンシュタットやJ.D.サウザーら様々なアーティストによるカバーやリスペクトを受けつつ、1986年にはデビッド・リンチ監督の映画『ブルーベルベット』に代表作「In Dreams」が使用されるなど、それはゆっくりと染み込むような再評価の流れの先に見えた栄誉だった。 受賞後の9月。LAのアンバサダーホテルにて『Black & White Night』と銘打たれたステージが開演。エルヴィス・プレスリーの元バックバンドやスプリングスティーンをはじめ、ジャクソン・ブラウンやトム・ウェイツ、ボニー・レイットやエルヴィス・コステロといったオービソンを敬愛する面々をサポートメンバーに迎え(客席にはレナード・コーエンもいた)、グレイテスト・ヒッツ・ライブを披露してシーンの前線に復帰。後にTボーン・バーネットのプロデュースでライブアルバム化もされた。 また、同年には映画『レス・ザン・ゼロ』にエンディング曲「Life Fades Away」を提供して、若い世代にもその哀切な歌声の儚さは伝わることになった。 翌年にはトラヴェリング・ウィルベリーズの一員としても活動して成功を収めるが、誕生までにはこんな逸話がある。 ある日のスタジオ。自身の新曲のカップリングを依頼されていたジョージ・ハリソンが、一緒に曲作りをしていたジェフ・リン、その場にたまたま遊びに来ていたボブ・ディランやトム・ペティ、そしてオービソンを加えて「Handle with Care」を録音。その曲が余りにも出来が良かったため、レコード会社の重役がハリソンにバンド活動を勧めて実現したという。 それにしてもクセの強いメンバー全員がエゴのない夢のようなコラボレーションを楽しめたのはな..
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ロイ・オービソン〜泣いた男たちの果樹園

「どっちにしても君は歌が下手だし、弱々しい声だから、聴衆がよく聞こえるようにマイクに近づいて歌うことだな」 デビューのきっかけとなったサンレコードを辞めて他のレコード会社に移籍する際、ロイ・オービソンはレーベルの社長であるサム・フィリップスからきつく当たられた。おとなしく控えめな男だったオービソンは、ご丁寧にもその“助言”通りに歌って、皮肉にも本当の成功を掴む。 人々の胸のうちにある傷ついた感情を、こんなにもドラマチックに儚い声で歌い上げたアーティストは当時他に誰もいなかった。 しかし、そんなオービソンを二つの悲劇が襲った。1966年、妻をオートバイの激突事故で亡くし、2年後には自宅の火事で二人の息子をも失ってしまう(三男だけが生き残った)。 「葬式でロイに近づくことができなかった。人生で初めて言うべき言葉が見つからなかった」 サン時代からのレーベルメイトで、互いの曲をカバーし合ったり、20年近くもメンフィスの地で隣人同士という関係にあった親友ジョニー・キャッシュは、その時も彼に寄り添っていた。 オービソンは両親の家で引きこもりとなり、音声を消したテレビをじっと見つめていた。キャッシュはどんなに彼を必要としているか、君を救うためにやって来たと伝えた。「自分の悲しみとどう向き合っていいのか分からない」とオービソンは呟いた。 1969年、キャッシュは自身の番組である『ジョニー・キャッシュ・ショー』のゲストに、オービソンを招く。オービソンはそこで、独り残されて悲しみに暮れる男「Crying」を歌った。 そう、君はもういない これからもずっと 僕は泣くだろう クライング クライング クライング そう、泣いている 君を想って 後に立ち直ったオービソンは、焼失した家の跡地の隣に新しい家を建てた。キャッシュはその空き地を買い取って果樹園にして、その敷地を売却しないことを約束した。オービソンが再婚して新しい子供たちが生まれると、キャッシュは名付け親にもなった。 1988年12月、オービソンは疎遠になっていた三男ウエズリーを尋ねた。和解した二人は、一緒に演奏したり歌ったり曲を作ったりした。そして翌日、オービソンは心臓発作でこの世を去った。 その死から2年後のある日、キャッシュはウエズリーが果樹園をうろついていることに気づいた。尋ねると、そこにいると癒されるという。キャッシュはバス..
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