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ロケットマン〜珠玉の名曲を送り出した作曲家エルトン・ジョンと作詞家バーニー・トーピン

『ロケットマン』 エルトン・ジョンの半生を描いた映画『ロケットマン』(Rocketman/2019)が公開された。 2018年に大ヒットした同じ英国人ミュージシャン、フレディ・マーキュリーの『ボヘミアン・ラプソディ』の後だけに賛否両論はある様子。でも自腹鑑賞してきた感想は、観る者がどこに軸を置くかによって楽しみ方がいかようにでも変わり広がる作品だということ。 物語はエルトンの幼少期からデビュー時期、そしてアルバム7作連続1位という黄金時代を築き上げた1970年代と嵐が去った後の1983年の姿を描く。つまり、派手な衣装とメイクのポップスター街道真っ只中と、それ以前・直後のエルトン。90年代以降の特大ヒットを入口にした世代には疑問だらけかもしれないが、ソングライティングにおける生涯の相棒バーニー・トーピンとの関係性を見れば、この時代設定以外はあり得ない。 エルトン・ジョンが世に送り出した珠玉の名曲の数々は、作詞家バーニー・トーピンなくして生まれなかった。まずバーニーが歌詞を書き上げ、それからエルトンがピアノで曲をつける。70年代にリリースしたアルバムのブックレットには二人が並んだ写真がメインに登場することが多く、いかに強い絆で結ばれたソングライターチームであったかが分かる。 最初に歌詞をもらうんだ。彼が曲のシナリオを書いて、僕がそれを仕上げるという変わった形を取っている。彼が歌詞を書くのにどれくらい時間が掛かっているか分からない。尋ねたことがないからね。でも歌詞を受け取ると、それをすぐに理解できれば、もうキーボードに手を置いて開始する。大抵、できるまで長い時間は掛からない。 両親から満足な愛を得られなかったこと。同性愛者のポップスターとなり、孤独な人生を歩んでいたこと。その同性の恋人から金銭的に利用されてきたこと。アルコール、ドラッグ、過食といった依存症の悪夢にうなされてきたこと……ショッキングな場面が流れていく中、バーニーとの出逢いや創作活動、ブレない友情こそが、映画『ロケットマン』の真髄だ。 製作総指揮を担当したエルトンは、この映画で正直であることに拘った。「彼はこんなに素晴らしかった。こんなに偉大だった」という描写だけは避けたかったという。 この映画を通じて理解してほしかったのは、名声と引き換えになった途方もない代償、子供時代が自分に与える大きな影響、中毒や..
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ポール・サイモンの秀作「ぼくとフリオと校庭で」が日本で発売された日

1972年(昭和47年)5月21日、ポール・サイモンのソロ名義2ndシングル「ぼくとフリオと校庭で」(CBS・ソニー)が日本で発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「女のみち」/宮史郎とぴんからトリオ 2位「瀬戸の花嫁」/小柳ルミ子 3位「さよならをするために」/ビリーバンバン 札幌冬季オリンピック、ミュンヘンオリンピックが開催され、自動車に初心者マーク登場、東北自動車道が開通、そして連合赤軍によるあさま山荘事件がおこった年でもある。 同曲のレコーディングでは、ジョン・レノンやポール・マッカートニーなどの作品への参加で知られるデヴィッド・スピノ(ギター)や、マイルス・デイヴィスのアルバムへの参加でその名を知らしめたブラジル出身のパーカッショニスト、アイアート・モレイラ等がバックを務めている。 アメリカのポップスでは聴き慣れないパーカッションの音は、“クイーカ”というブラジルの打楽器によるもの。 リリース以降は、コンサートでは必ず演奏されており、ポール自身も気に入っている楽曲として多くのファンに愛され続けている。 本人の思い入れもあってか、この曲のミュージックビデオはリリースから16年も経った1988年に撮影・制作されている。 歌詞の内容が謎めいていて、発表当時からファンの間であれこれ真相が推測されている“迷曲”でもある。 ママはパジャマのままベッドから飛び出した そして警察署に駆けつけたんだ ママが目にしたこと それは法律に反することだった ママは顔を下に向けると地面に唾を吐きつけた 1972年7月20日、あるインタヴュアーがポールに歌詞の意味を尋ねた。 「ママが見たものって一体何だったんですか? 世界中のファンが知りたがっています。」 「それが何なのかなんてはっきりとは言えないけれど…何か性的なものかもしれないね。僕がその“何か”を答えたとしても、みんなの理解をわざわざ妨げるつもりはないよ。どんな風に解釈してもらってもいいことだから。」 『ティファニーで朝食を』で知られるユダヤ系作家トルーマン・カポーティは、この曲に関してこのような解釈を主張していたという。 「ポール自身も具体的にはどのような犯罪行為かわからないとインタヴューなどで言っているので、それは彼の無意識レベルの表れかもしれない。」 「サイモン&ガーファンクルとしての活動を休止した後、..
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沢田研二の海外進出「巴里にひとり」

1975年(昭和50年)5月5日、沢田研二の13thシングル「巴里にひとり」(ポリドール)が発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「昭和枯れすゝき」/さくらと一郎 2位「シクラメンのかほり」/布施明 3位「想い出まくら」/小坂恭子 4位「時の過ぎゆくままに」/沢田研二 5位「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 山陽新幹線博多まで開通、第二次ベビーブーム、天皇が史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問、双子デュオ歌手ザ・ピーナッツが引退、ローソン設立、マルちゃんのきつねうどん(東洋水産)、ペヤングソース焼そば(ペヤング)、「オヨヨ」(桂三枝)、「死刑!」(漫画ガキデカ)が流行した年でもある。 ジュリーはこの曲での海外進出を「日本での宣伝のための活動だった」と述懐している。 つまり“箔付け”のためであって「本気で世界進出を目指したわけではなかった」と言い切っているのだ。 さかのぼること2年…1973年、当時25歳だった彼は6thシングル「危険なふたり」で日本歌謡大賞の大賞を受賞し、タイガースの“ジュリー”からソロ歌手・沢田研二へと転身しつつ“次へのステップ”を強く意識しはじめていた。 翌1974年の1月にはフランスへ渡り、MIDEM(毎年1月カンヌで開催される世界最大規模の国際音楽産業見本市)に参加するのを皮切りに、9月には再びヨーロッパを訪れ、ロンドンのポリドールで12曲、フランスのポリドールにて3曲レコーディングを行う。 そして1975年1月、イギリスにてシングル「The Fugitive(愛の逃亡者)」と同タイトルのアルバムを、フランスにてこの歌「Mon amour, je viens du bout du monde(巴里にひとり)」をリリースし海外デビューを果たす。 当時レコーディングにおいて、本人はフランス語を話せないため「発音に関してかなり苦労した」というエピソードが語られている。 振り返ればこれまでも国内で一定の成功を収めたポップス系歌手が海外進出を試みてきたが…誰一人として異国の地でヒットを飛ばすことはなかった。 ところが“KENJI SAWADA”こと沢田研二の海外進出は、他の歌手とは違うものだった。 フランスで「Mon amour, je viens du bout du monde(巴里にひとり)..
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シング・ストリート 未来へのうた〜80年代にMTVを見つめバンドを組んだ人たちに捧ぐ

『シング・ストリート 未来へのうた』 1981年8月1日、午前零時過ぎ。『Music Television』(以下MTV)の放送がスタートした時、80年代の音楽シーンは幕開けたと言えるかもしれない。前年にはジョン・レノンが逝き、この年にはストーンズが史上最大規模の全米メガツアーを開始。かつて反体制の象徴だったロックスターたちは、遥か遠い世界に去ってしまった。それで充分だった。 “見えるラジオ”をコンセプトにした音楽ビデオを24時間流し続けるプログラムの登場は、アメリカやイギリスの若い世代の間に漂う空気を次第に変えていく。特に広大なアメリカではMTV観たさにCATVの加入が急激に伸び、その動きは田舎町から都市へと広がった。 音楽ビジネスやマーケティングももちろん変わった。レコード会社にとってMTVは、新たなプロモーションメディアに位置づけられた。売り出したいアーティストがいたら地道に各地をツアーで回るようなリスクや時間を取らせなくても、印象的なビデオさえ制作すれば、それ以上の効果が素早く期待できるようになったのだ。 その一番の恩恵を受けたのは、デジタル機材を活用したポップなサウンドを奏でるヴィジュアル性に富んだイギリスの若手アーティストたち。デュラン・デュランやカルチャー・クラブらニューロマンティクス勢がヒットチャートを独占する、いわゆる「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれる動きは、MTVが巻き起こしたムーヴメントだった。こうしてMTVは若者文化/ポップカルチャーの主役に一気に躍り出る。 ミュージック・ビデオやビデオ・クリップなどと呼ばれた映像は予算化・作品化し、マイケル・ジャクソンやプリンスやマドンナといったスターを育み、青春映画がMTV化してサウンドトラックにも続々ベストセラーが生まれた。 日本においても、80年代に十代の多くを過ごし、洋楽に慣れ親しんだ世代にとって、MTVは特別な輝きを放っていた。現在40代後半〜50代前半の人々なら、『ベストヒットUSA』『SONY MUSIC TV』『ザ・ポッパーズMTV』の名を知らない人はいないだろう。真夜中に放送されたそれらの情報番組は、音楽を愛する少年少女たちにとって、親が寝静まった後に訪れる夢のような時間だった。印象的なジングルとMTVのロゴは今でも強烈なクリエイティヴだ。 *このあたりのことは以下のコ..
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あんたのバラード〜解散を決めていたバンドが掴んだレコードデビューのチャンス、裏事情を抱えながら世良公則がプロを決断した理由とは?

あんたにあげた 愛の日々を 今さら返せとは 言わないわ 酔いどれ男と 泣き虫女 しらけた笑いに 厚化粧ひとつ この世良公則&ツイストのデビューシングル「あんたのバラード」は、1977年11月25日にリリースされた。 クレジットには作詞作曲:世良公則と記されている。 この発売前月に同曲がポプコン本選会でグランプリを獲得した。 フォーク系シンガーの登竜門として知られたポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのは初めてのことで、当時はひとつの“事件”として大きな話題となった。 翌月に開催された第8回世界歌謡祭でもグランプリに輝き、わずか12日後の11月25日にキャニオンレコードからリリースされたのだ。 このグランプリの受賞直後に世良はインタビューを受け、こんなことを語っていた。 「このバンドでプロとしてやるかどうかはわからない。大阪に帰ってみんなと相談します。」 この“みんな”とは誰のことだったのだろう? 世良には(当時のメンバーの)ツイストで歌い続ける意志がなかったという。 実は、バンドは大学の卒業を機に解散することが決定していたというのだ。 ポプコンに出場したのは、その“ケジメ”をつけるためだった。 コンテスト終了後は、世良と同じ大阪芸術大学大学の同級生で別バンドにいて仲の良かったふとがね金太と新バンドを結成しようと約束していたというのだ。 結局、世良はふとがねとの約束を守り、バンドは予定通り解散させ神本宗幸を残し、ふとがねと新メンバーを急ぎ探した。 ふとがねの金太バンドにいた大上明と、関西で名前が知られていた鮫島秀樹、太刀川伸一を勧誘して1977年12月21日、新メンバーで“世良公則&ツイスト”を結成した。このメンバーが、後に一般に知られるツイストなのだ。 そんな裏事情を抱えながら…世良は幸か不幸かコンテストに勝ち抜いてレコードデビューまで果たしてしまったのだ。 最終的に、世良にプロデビューを決意させたのは“悔しさ”だったという。 一体どういうことなのだろう? 世良は当時のことをこう振り返る。 「俺がプロを目指して日々頑張っていたとき、おふくろが“お前のやっている音楽はどんなものなんだ?”と訊いてきたから“矢沢永吉って知ってる?”と答えると“知らない!”という。ものすごく歯がゆかった。俺がプロになりたいと思っている職業を世間はあまり知らない。古賀政男や美空ひばりの..
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レイ・マンザレクを偲んで〜ドアーズの天才キーボーディストの偉大な功績

2013年5月20日、レイ・マンザレクは入院中だったドイツの医療センターで息を引き取った。 ザ・ドアーズ(The Doors)のFacebookには、こんなコメントは発表された。 「ザ・ドアーズのキーボーディストで創設メンバーのレイ・マンザレクが、本日午後12時31分、胆管癌との長い闘いの末、ドイツのローゼンハイムにある病院で亡くなりました。74歳でした。妻のドロシー・マンザレク、兄弟のリックとジェイムス・マンザレクに囲まれる中、静かに息を引き取りました。」 1965年の夏、彼らはカリフォルニア州ヴェニスビーチで誕生した当初から、真の意味でのバンド=創造的なエネルギーの集合体だった。 その伝説はUCLA(カリフォルニア大学ロス校)の映画学科で学んでいたジム・モリソンとレイ・マンザレク(オルガン・ピアノ)との出会いから始まったという。 ちなみに、後にドアーズの楽曲「The End」を映画『地獄の黙示録』(1979年)の挿入歌として使用したフランシス・F・コッポラ監督は、彼らと同じ教室で学んだ同級生でもある。 シカゴで育ったレイは、クラシックピアノの素養もあったが、土地柄も影響しブルースに深い愛情を持っていた。 レイはドアーズの代表的な楽曲の作曲を数多く手掛け、キーボードを演奏しながら同時に左手でベースラインを弾いて、サウンドをメロデックにドライブさせた。 クラシック風の華やかさを纏ったリック・ウェイクマン(ストローブス、イエス)やジョン・ロード(ディープ・パープル)、あるいは独特のブルースフィーリングを漂わせるイアン・マクレガン(フェイセズ)らの他のキーボード奏者とは大きく異なり、レイのキーボードプレイには楽器そのものが生み出すエレクトリックな機械音をそのまま自らのサウンドとして自在に操るようなユニークさがあった。 加えて、レイがオルガンのフットペダルによって創り上げるベースラインは(フットペダルゆえに)複雑なラインを刻むことができず、結果的にシンプルかつ機械的に刻み続けられる無機質なベースラインがドアーズサウンドにおけるサイケデリックな特色を際立たせる要因として作用した。 彼の名を有名にしたのは、ドアーズの第2弾シングルであり、全米No.1ヒットとなった「Light My Fire(ハートに火をつけて)」のイントロのオルガンフレーズだった。それは“約10秒のプレイ..
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コールマン・ホーキンスを偲んで〜失敗を怖れずに果敢に腕を磨き続けたジャズメンの偉大な功績と足跡

1969年5月19日、“ジャズ・サックスの父”と呼ばれた男コールマン・ホーキンスが肺炎を悪化させこの世を去った。享年64。 スウィングジャズ世代のミュージシャンとしては珍しく、第二次世界大戦後はビ・バップの分野で活躍し、サックス奏者に限らず多くの後進ミュージシャンに影響を与えた。 “Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれた彼は、どんな音楽人生を歩んだのだろう? 今日は彼を偲んで、その偉大な足跡と功績をご紹介します。 1904年11月21日、ミズーリ州のセントジョゼフで産声を上げた彼は、音楽家の母と電気工事作業員の父のもとで大事に育てられたという。 一人息子だった彼は、母親の影響もあって5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時にプレゼントにもらったサックスとの出会いをきっかにジャズに興味を持つようになる。 十代の前半にもかかわらず、劇場のオーケストラやヴォードヴィル楽団に駆り出され、周囲の大人達を驚かせていたという。 息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていた母親は黒人でも一流の教育が受けられるシカゴへ息子を送り出す。 その後、カンザス州都トペカのハイスクールに進学した彼は、日に日にジャズの魅力に取り憑かれてゆく。 トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカと言われたカンザスシティだった。 そこで彼は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー等がニューオーリンズから持ち込んだエッセンスを吸収し、将来ジャズメンとして生きる夢を抱くようになる。 十代の後半になると「サックス奏者としてもっと腕を磨きたい!」と決意し、ジャズの道に進むことに反対する母親を説得する。 18歳になった彼は念願叶ってニューヨークに移り住む。 当初、ミズーリ州の田舎者だった彼は、周りのミュージシャンたちから“Greasy(脂ぎった奴)”と呼ばれ馬鹿にされていたという。 数ヶ月もすると彼はすっかり都会に馴染み、後にはジャズ界を代表する“洒落男”と言われるまでとなる。 ジャズメンとして人一倍身なりにも気を使っていたという彼には、野球をする時でさえタキシードを着ていたという逸話が残っている。 1923年にフレッチャー・ヘンダーソン楽団のメンバーとして演奏するようになる。 翌年、同楽団に加入してきたルイ・アームストロングから大いに刺激と影響を受けたという。 荒々..
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ムーラン・ルージュ〜“秘密の歌”とボヘミアンたちの世紀末

人がこの世で知る最高の幸せ それは誰かを愛し、その人から愛されること ナット・キング・コールで有名な「Nature Boy」の歌詞の一節に導かれて物語が始まる『ムーラン・ルージュ』(Moulin Rouge!/2001)は、ちょっと変わった作りの悲喜劇でありながら、永遠の愛を謳った忘れ得ぬミュージカル映画だった。 この作品の撮影に入る前に私がしたことは、脚本を読んで頭の中のイメージを絵本にしていったんだ。20世紀のあらゆるものを切り取ってコラージュした。例えば、ニコール・キッドマン演じるサティーンは、1940年代の映画スター、グレダ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒ、あるいはマリリン・モンローなどのイメージを使って生み出したんだ。 監督のバズ・ラーマンが言うように、この映画の舞台は1889〜1900年という19世紀末のパリであるにも関わらず、ヴィジュアルも音楽も20世紀の既存のポップカルチャーから数多く引用されている。台詞も名曲の歌詞から取られているので、観る者は耳慣れた歌の言葉によって感情移入しやすいという利点が生まれた。 また、ジャン・ルノワールの映画『フレンチ・カンカン』、ブッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』、ギリシャ神話『オルフェウス』からのインスピレーションも強い。あらゆる文化に触れた結果、企画から完成まで4年の歳月を費やしたという。このような過去作品へのオマージュから創作を組み立てていく世界観は、思わずゴダールのあの『気狂いピエロ』を思い出した。 人生とは愛する人の死やうまくいかない人間関係などで自分にはコントロールできない出来事を僕たちに投げ掛けてくる。オルフェウスの神話によると、人はそのような出来事によって破滅するか、アンダーワールドに入ってそのようなことに直面し、成長して地上に戻っていくかのいずれかだ。 監督が話すアンダーワールドとは、つまり(赤い風車)のこと。1889年にパリのモンマルトルに開場したナイトクラブ(ダンスホールやキャバレーとも呼ばれる)だ。退廃的な世紀末において、そこは金持ちと権力者が、若者と美女と文無しに出逢う場所でもあった。 そしてモンマルトルの安アパートには画家、小説家、音楽家、詩人、劇作家など多くの貧しい芸術家が住んでいて、毎晩のように禁断の酒アブサンを酒場で傾けながら、真実・自由・美・愛といったボヘミアン精神を胸に..
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二人のシーズン〜まるでゾンビのように死んだり蘇ったり…あるバンドが辿った運命

60年代の中頃以降にアメリカのヒットチャートを賑わせたイギリスのバンド“ゾンビーズ”をご存知だろうか? 1962年にイングランドのハートフォードシャーで結成された彼らは、1stシングル 「She’s Not There」(1964年リリース) でデビューを果たす。 そのデビュー曲がイギリスでは12位、アメリカとカナダではいきなり2位を記録し、その後、短命ながらも(本国よりも)北米を中心に人気を博したバンドとして音楽シーンにその名を刻む存在となる。 そんな彼らが1965年にリリースした6thシングル「Whenever You’re Ready」のB面曲「I Love You」を、1967年に日本のグループサウンズバンド“ザ・カーナビーツ”がデビュー曲として日本語カヴァー(邦題:好きさ好きさ好きさ)し、一躍人気者となった。 そんな日本での盛り上がりを知ることもなく…同年、彼らはレコード会社を移籍し(ビートルズの人気にあやかろうと!?)アビーロードスタジオで2ndアルバム『Odyssey & Oracle』のレコーディングを始める。  しかし、諸事情により途中でスタジオが使えなくなったり、レコーディング中にメンバー間の関係が悪化し…翌年1968年、アルバムの完成とほぼ同時にバンドは解散状態となる。 彼らにとって(事実上の)ラストアルバムからの“最後のシングルカット曲”としてリリースされたのが、この「Time Of The Season(二人のシーズン)」だった。 バンドの不穏な空気はセールスにもそのまま反映され…本国イギリスのみでリリースされていたアルバムとシングルはチャートを賑わすこともなく不発に終わった。 そんな“先の見えない状況”を受けて、当時アルバム『Odyssey & Oracle』(1968年)のアメリカ発売を見送る方針でいたレコード会社CBSだったが、以前から彼らの魅力に惹かれていたプロデューサーのアル・クーパーがこの楽曲を気に入り「必ず売れるはずだ!」と異例の進言をしたという。 彼の予想通り、アメリカでシングルカットしたところ…翌1969年に全米3位を記録する大ヒットとなる。 このように(事実上)解散してしまっているバンドの曲が大ヒットするというのは珍しく、ポップス史においての“のちの語り種(ぐさ)”となっている。 当時、レコード会社は彼らに対して「何と..
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