沢田研二の海外進出「巴里にひとり」
1975年(昭和50年)5月5日、沢田研二の13thシングル「巴里にひとり」(ポリドール)が発売された。
同年の国内ヒットソングといえば…
1位「昭和枯れすゝき」/さくらと一郎
2位「シクラメンのかほり」/布施明
3位「想い出まくら」/小坂恭子
4位「時の過ぎゆくままに」/沢田研二
5位「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
山陽新幹線博多まで開通、第二次ベビーブーム、天皇が史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問、双子デュオ歌手ザ・ピーナッツが引退、ローソン設立、マルちゃんのきつねうどん(東洋水産)、ペヤングソース焼そば(ペヤング)、「オヨヨ」(桂三枝)、「死刑!」(漫画ガキデカ)が流行した年でもある。
ジュリーはこの曲での海外進出を「日本での宣伝のための活動だった」と述懐している。
つまり“箔付け”のためであって「本気で世界進出を目指したわけではなかった」と言い切っているのだ。
さかのぼること2年…1973年、当時25歳だった彼は6thシングル「危険なふたり」で日本歌謡大賞の大賞を受賞し、タイガースの“ジュリー”からソロ歌手・沢田研二へと転身しつつ“次へのステップ”を強く意識しはじめていた。
翌1974年の1月にはフランスへ渡り、MIDEM(毎年1月カンヌで開催される世界最大規模の国際音楽産業見本市)に参加するのを皮切りに、9月には再びヨーロッパを訪れ、ロンドンのポリドールで12曲、フランスのポリドールにて3曲レコーディングを行う。
そして1975年1月、イギリスにてシングル「The Fugitive(愛の逃亡者)」と同タイトルのアルバムを、フランスにてこの歌「Mon amour, je viens du bout du monde(巴里にひとり)」をリリースし海外デビューを果たす。
当時レコーディングにおいて、本人はフランス語を話せないため「発音に関してかなり苦労した」というエピソードが語られている。
振り返ればこれまでも国内で一定の成功を収めたポップス系歌手が海外進出を試みてきたが…誰一人として異国の地でヒットを飛ばすことはなかった。
ところが“KENJI SAWADA”こと沢田研二の海外進出は、他の歌手とは違うものだった。
フランスで「Mon amour, je viens du bout du monde(巴里にひとり)..