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【5 PICS・音楽⑨】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年12月2日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑨】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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無縁坂〜母の人生を坂道に喩えながら綴ったさだまさしの名曲

この「無縁坂」は、さだまさしが23歳の時(1975年)にグレープの6枚目のシングルとして発表した楽曲である。 東京都文京区湯島4丁目に実在する坂を舞台に、年老いた母に対する息子の想いが歌詞に綴られている。 この何か意味ありげな名前を持つ坂。 一体どんな坂なのだろう?そして、この歌はどんな経緯で紡がれた歌なのだろう? ──東京・上野の不忍池(しのばずのいけ)を背に、本郷方面へと歩くと東西に延びた200mほどの坂道がある。 南側には三菱財閥の創設者である岩崎家の石垣が続く。 北側には火事の多かった江戸の町から今なお現存している防火建築漆喰(しっくい)造りの講安寺や、東大医学部が広がっている。 その坂はかつてここにあった寺の名前(無縁寺)に由来して“無縁坂”と名付けられたという。 江戸時代の地図にもその名が残っている坂である。 明治の文豪・森鷗外の小説『雁』は、この界隈を舞台にしていて、主人公の青年は、無縁坂を散歩道としてよく歩いていたとされている。 時を経て…昭和の時代になって、再びこの坂を有名にしたのが、さだまさしが書いた「無縁坂」だった。 まだ若かった頃のさだの母が、幼い僕=さだの手を引いて「この坂を登るたび いつもため息をついた」というフレーズから始まるこの歌は、不遇だった自分の母親のことを大人になってから想い起すという設定の歌である。 この「母」と「僕」の二人はなぜこの坂を登ったのだろう? さだ自身の“人生の軌跡”に誕生秘話があったという。 彼は1952年に長崎県長崎市で生まれた。 長崎は平らな道が少なく、道の多くは坂道か階段だという。 坂の下には長崎湾が広がる風景が、少年の頃から彼の脳裏に焼きついていた。 彼は幼年期から恵まれた家庭に育ち、バイオリンに熱中した。 照れ屋だったため、母とも手を繋いで歩いたことがなかったという。 バイオリン教室に通う時は、いつも母が付き添ってくれた。 その“腕”を磨くために、彼は中学一年から単身で上京することとなる。 12歳から一人で暮した街で、彼は寂しさを紛らわすように歴史を訪ねる散歩を重ねたという。 鷗外に魅せられて、この坂道を何度も歩いたという。 高校に入学すると音楽以外に小説にも興味を抱き、ペンを走らせるようになる。 歌の出だしとなる言葉は、彼が当時書いた小説の一節だった。 彼は、この短い詩を自分の心の引き出しにしまったま..
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マンハッタンの哀愁〜都会の孤独とマル・ウォルドロンの「オール・アローン」

『マンハッタンの哀愁』(Trois chambres à Manhattan/1965) ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』を初めて観た時、衝撃というよりは全編に漂うそのムードに完全にやられてしまった。モノクロフィルムにとらえられたパリの街並み、夜を彷徨う男と女の姿、マイルスのトランペット……すべてが混ざり合ったそのムードがどこまでも心地良かった。 これまでTAP the SCENEで取り上げた映画の中には、実はそんなムードを重視した作品がたくさんある。練られたストーリー、映像の凄さ、俳優の存在感で魅了するだけが映画ではないのだ。 今回の『マンハッタンの哀愁』(Trois chambres à Manhattan/1965)もそんな作品の一つ。フランス映画の巨匠マルセル・カルネがマンハッタンの街を舞台に喪失感に包まれた男と女を静かに描いていく。そこには煙草と酒、モダンジャズといった夜の文化があり、都会でしか生きられない者の愛と孤独が鼓動する。 また、モノクロの中のマンハッタンは切ないほどに美しく、例えばウディ・アレンなどは間違いなくこの映画に心を奪われたに違いない。当時60歳近かったカルネ流のヌーヴェルヴァーグ。そんな印象を受けた。 原作はフランスの推理作家ジョルジュ・シムノンの小説『マンハッタンの三つの部屋』。音楽を担当したのはチャールズ・ミンガスとの仕事や晩年のビリー・ホリデイの伴奏者を務めたことでも有名なマル・ウォルドロン。男女の感情の起伏を盛り上げるサウンドトラックには聴きどころが多く、中でも映画のテーマ曲である「All Alone」は今も日本のジャズファンに人気が高い。 主演はフランス映画と言えばこの人的な名優の一人、モーリス・ロネ。そして映画をよく観ると大発見がある。何とロバート・デ・ニーロが出ているのだ。と言ってもこの頃は彼も駆け出しの無名役者。エキストラでレストランの客役でセリフもない。パリにいた頃、たまたま舞い込んだのがこの仕事だった。もらったギャラはすぐに消えたそうだ。 パリの安宿に泊まり、街の芸術家たちと仲良くなった。でも金がなく、食費にも事欠く始末。一ヶ月くらいブラブラして小劇団に参加していた時、映画に出演したんだ。 フランソワ(モーリス・ロネ)はパリで妻に逃げられ、今は仕事を求めてマンハッタンで暮らしている。ある夜、酒場でケイ(ア..
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Something〜ジョージ・ハリスンの最大のヒット曲はこうして生まれ、歌い継がれてきた

あの娘の仕草のひとつひとつが ほかの誰よりも強く僕をひきつける 愛をささやく時の何かが… もうあの娘を離したくない 心からそう思う 本当に この歌は、1969年9月にビートルズが発表したイギリス盤公式オリジナルアルバム『Abbey Road』に収録された曲であり、同年10月にシングルカットされ21枚目のオリジナルシングル曲ともなった。(※両A面曲で片面は「Come Together」) ジョージ・ハリスンの作品で、リードボーカルもジョージがとっている。 ビートルズ時代の公式発表曲の中で唯一シングルのA面収録曲となったジョージの作品であり、ビートルズ並びに彼の代表作として知られる。 「Something in the way she moves」という曲の冒頭の歌詞は、当時アップルレコードに属していたジェームス・テイラーの楽曲のタイトルから引用されている。 ジョージは自伝の中で、この楽曲に関してこんな風に語っている。 「Something」は、ビートルズのアルバム『The Beatles(通称・ホワイトアルバム)』(1968年)のレコーディング中にピアノを使って書いたんだ。 ポールが他の曲のオーバーダビングをやっているあいだ時間があったので、誰もいないスタジオ(アビイロード第一スタジオ)へ行って書きはじめたんだ。 比較的にすらすらと書けたんだけど、中間部分をまとめるのにやや手間どったのを憶えているよ。 当時、ホワイトアルバムはすでに全曲を録り終えていたので、この曲は収録されなかった。 それでジョー・コッカーに譲り、一年後にビートルズでもレコーディングして『Abbey Road』(1969年)に収録したんだ。 このメロディーは確か、上下5音の範囲内に収まっていたはずだよ。 たいていのシンガーは自分の声域の中で無理なく唄うことができるはずだよ。 おそらく僕が作った曲の中では一番のヒット作だろうね。 僕の知る限り150種類のカヴァーバージョンが出ている。 その中でも気に入っているのは、ジェームス・ブラウンのものだね。 あれは素晴らしかった! 実はこの曲を書いた時、レイ・チャールズが唄っているところを想像していたんだけど…何年か後に本当に唄ってくれることになるなんて! <引用元・参考文献『ジョージ・ハリスン自伝』著:ジョージ・ハリスン/訳:山川真理(河出書房新社)>..
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私たちの望むものは〜“フォークの神様”と呼ばれた男が紡ぎ出した強烈なメッセージソング

岡林信康の実家は教会だった。 父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていたという。 しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。 その時期に宣教師に出会い牧師となって大阪の神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。 1946年7月22日、彼はそこで生まれた。 近江兄弟社中学を出て、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。 彼はそれまで熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ、その後社会主義運動に身を投じる中で、フォークシンガー高石ともやに出会いギターを始める。 1968年、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビューを果たす。 翌年までに「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」などを作り、その内容から、多くの曲が放送禁止となった。 当時は“フォークの神様”などとも言われたが、労音(勤労者音楽協議会)との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップが出来て、彼はすでにプロテストソングに行き詰まりを感じるようになったという。 そしてロックへの転向を模索するようになる…。 それは1969年9月6日の出来事だった。 彼は大阪労演公演への出演をすっぽかし、同月23日の東京公演直前に「下痢を治してきます」と言ったまま失踪する。 当時、彼は連日のハードな地方公演に加えて「コマーシャリズムに隷属し、レコードを作って金儲けをしているヤツ」としてフォークゲリラ(1968年ごろから大阪・東京などで自然発生的に始まった学生・市民の反戦集会)から批判されたりして、精神的に滅入っていた。 数ヶ月の間、姿をくらませた彼は、翌1970年の4月8日に東京・神田の共立講堂で行われた音楽舎主催の『メッセージコンサート』に登場する。 「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう。」 アコースティックギター1本でパフォーマンスをしてきた彼だったが、この日は明らかにそれまでとは違う佇まいだった。 彼は、渡辺勝をはじめとする通称「グループQ」をバックバンドとして従えて、ロックのリズムにのってエレキサウンドを放ちながら歌い出したのだ。 その後も細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂による(当時はまだ無名だっ..
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パティ・スミスとチェルシーホテル 後編

「赤貧のギタリストたち、文無しの映画監督、ドラッグ中毒の美女たち、ジャンキー詩人、フランスの俳優たち…ここを通り抜けた人は皆、何者かではあるのだ。たとえ、このホテルの外では無名でも。」(パティ・スミス) 1883年に造られたこの建物は、当初は共同アパートとして使われていた。 ホテルとなったのは1905年のこと。 以来、無名の芸術家や世間の生活習慣などを無視して放浪的な生活をするボヘミアンたちに愛され、小説、映画、音楽等々を巡る数々の神話がこのチェルシーホテルを舞台に生まれた。 アーサー・C・クラークが『2001年宇宙の旅』を書き、映画化にあたってスタンリー・キューブリックが彼を訪ねてこのホテルにやってきた。 ボブ・ディランが「ローランドの悲しい目の乙女」を書き、レナード・コーエンが「チェルシー・ホテル#2」を書いた。 パティ・スミスが盟友ロバート・メイプルソープと一緒に住んでいたのもこのホテルだった。 様々のアーティスト達が“たまり場”としていたこの歴史的ホテルでの数々の出会いが、アーティストとしての彼らを形作ったのだった。 アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、サルバドール・ダリ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスといった人間との交流が二人を大いに刺激した。 「チェルシーホテルでの出会いで、私たちに最も大きな役割を果たしてくれたのは、サンディ・デイリーだったわ。彼女は濃厚なアーティストで、私たちと同じフロア1009号室に住んでいたの。その部屋の壁は真っ白で、床も真っ白だったわ。部屋に遊びに行く時はいつも靴を脱いで入ったの。ヘリウムで膨らんだ銀色のクッションボールが頭上に浮かんでいたわ。白い床に裸足で座り、コーヒーを飲み、彼女の写真集を見せてもらった。シンプルでエレガントな写真を撮っていた彼女は、いつも片手にポラロイドを持っていた。ロバートに最初のポラロイドを貸したのは他ならぬ彼女であり、ロバートの初期の作品に関して貴重なアドバイスを与え、自信を与えてくれたのも彼女だったの。」 また、パティは同じ“チェルシーの住人”でもあった(現在は俳優としても知られる)劇作家のサム・シェパードから戯曲の共作を依頼されたりして、徐々に活動を活発化させる。 1971年、アンディ・ウォーホルの初期共同制作者であるジェラルド・マランガの、セント・マークス教会での朗読会の前..
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パティ・スミスとチェルシーホテル〜前編

「下手クソなアート作品が壁に掛けられたエントランスホールを行き来するホテルの住民たち。ここは、スタンレー・バードが家賃代わりに押しつけられた大きな邪魔くさい品々に占拠されている。このホテルは、困難を切り抜けてなんとか生きている、あらゆるジャンルの多才な子供たちにとっては、エネルギッシュで絶望的な天国だった。」 (パティ・スミス) その“伝説のホテル”は、マンハッタンの23th Street (23番街)沿い、7th Avenueと8th Avenueの間にある。 ビートニクス、ヒッピー、詩人、ミュージシャン、ロッカー、絵描き、物書き、フォトクラファーからジャンキー、アル中、浮浪者、ボヘミアン、酔っぱらい…ありとあらゆる人種やアーティストが通過していった希有な場所だ。 ここで起きた出来事や歴史は様々な人達に語られ、綴られ、映画の舞台にもなった。 1883年に建設されたが、当初は共同アパートとして使われていた。 ホテルとなったのは1905年のこと。 「私の父が1940年にホテル・チェルシーを引き継いだのです。」 そう語るのは、現在のこのホテルのマネージング・ディレクターを勤める、スタンレー・バード氏だ。 「父が1957年にリタイアし、私にマネジメントを教えてくれました。それ以来、50年以上に渡り私がこのホテルを管理しています。」 このチェルシー・ホテルを舞台に、数えきれない程の伝説や逸話が語り継がれ、そしてこの場所をテーマにいつくかの名曲が生まれた。 ジョニ・ミッチェルは、このホテルを題材に「チェルシー・モーニング」を紡いだ。 アンディ・ウォーホルが制作した映画『チェルシー・ガールズ』のためにルー・リードとヴェルヴェット・アンダーグラウンドのギタリストのスターリング・モリソンが同名の曲を共作し歌姫ニコにプレゼントした。 詩人のディラン・トマス、『トム・ソーヤーの冒険』の筆者マーク・トウェイン、『2001年宇宙の旅』の作家アーサー・C・クラーク、短編小説の名手オー・ヘンリーを筆頭に、アレン・ギンズバーク、ウィリアム・バロウス、チャールズ・ブコウスキー、アーサー・ミラー、アンディ・ウォーホル、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ジョン・レノン、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、クリス・クリストファーソン、イギー・ポップ、トム・ウェイツ、..
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【5 PICS・音楽⑧】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年11月11日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑧】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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ルース・ブラウンを偲んで〜“アトランティックの看板娘”と呼ばれた歌姫の偉大な功績と足跡

2006年11月17日、R&B黎明期から偉大な功績を残し“アトランティックの看板娘”と呼ばれたルース・ブラウン(享年78)が、ラスベガス近郊の病院で息を引き取った。 亡くなる数週間前に外科手術を受けていたが…死因は心臓発作と卒中だったと発表された。 パワフルな歌声とダイナミックなパフォーマンスでアメリカの音楽シーンを席巻した彼女の愛称は“Miss Rhythm(ミス・リズム)”。 Rhythm & Bluesの「R」と「B」は、Ruth Brownの頭文字と言われたほどの大スターだった。 1949年、21歳で発表したデビュー曲「So Long」がアメリカのR&Bチャートで4位を獲得。 翌1950年には2ndシングル「Teardrops From My Eyes」で早くも1位を記録。 以降、同チャートにおいて通算5曲で1位に輝き“アトランティックレコード最大の功労者”として大きな功績を残している。 1928年1月31日、彼女はヴァージニア州ポーツマスで7人兄弟の長女として生まれる。 彼女の父親は、港湾労働者として働きながら、地元の教会で聖歌隊の指導も行っていた。 その影響もあり、幼い頃から彼女も教会でゴスペルを歌っていたという。 やがてアメリカ軍人主導のボランティア組織や、ナイトクラブで歌うようになった彼女は17歳の時にジミー・ブラウンというトランペット奏者と駆け落ちして旅回り興行の世界に入る。 十代にして毎夜酒場で歌う日々、一時はキャブ・キャロウェイ楽団のリーダーを務めていたジャズ界の才人ラッキー・ミリンダーのオーケストラに一ヶ月ほど所属したこともあったが…酒癖の悪さから解雇されてしまったという。 当時、別の楽団を率いていたキャブ・キャロウェイとブランシュ・キャロウェイの姉弟は、首になった彼女を誘いワシントンのナイトクラブでの公演で数曲歌わせる。 そこで彼女の才能に確信を持ったキャロウェイ姉弟は彼女のマネージメントを買って出る。 当時ワシントンで人気ディスクジョッキーだったウィリス・コノバーも彼女の唱歌力を評価し、アトランティックレコードの創始者であるアーメット・アーティガンとハーブ・エイブラムソンに「素晴らしい逸材がいる!」と紹介する。 まさに“捨てる神あれば拾う神あり”という運命の出会いを体現した彼女は、二十歳を迎えた1948年に創設されたばかりのアトランティ..
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スラッシュ27歳〜酒と女に溺れた大規模な世界ツアー、エアロスミスやレニー・クラヴィッツと共演したパリ公演の興奮

1991年、ガンズ・アンド・ローゼズは4年ぶりのスタジオアルバム『Use Your Illusion I』と『Use Your Illusion II』を2作同時にリリースする。 当時は世界中のチャートで1位2位を独占し、現在までに累計約3000万枚を売り上げている。 同年秋、バンドからギタリストのイジー・ストラドリンが脱退。 翌1992年、彼らはオリジナルメンバーから形を変えながらもワールドツアーを続行していた。 フロントマンのアクセル・ローズと共に、バンドのキーパーソンとなっていたスラッシュ(当時26歳)はその頃のことをこう振りかえっている。 「俺達は東京ドームで3回ライブを行なった。俺自身はその時5回連続で東京ドームでプレイをしたんだ。マイケル・ジャクソンと一緒に2回、ガンズで3回。二組の観客の間にこれほど大きなコントラストを感じたことはなかったよ(笑)ステージの上を飛び回り、楽屋には子供達がいて、たくさんのオモチャが置いてあるマイケルとのライブから、二日後に始まったガンズ。これほど超現実的な変化を経験したのは他にないね。それもすべてがまったく同じ場所で行なわれたんだから。しかも俺は二つのライブの合間に休暇をとって東京ディズニーランドに行ったんだから(笑)」 スラッシュが27歳を迎えた年の夏、ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとのダブルヘッドライナーでツアーを行なった。 当時、これ以上大規模なロックンロールバンドの顔合わせはあり得なかったという。 メタリカはアルバム『Metallica』をリリースしたばかりで、ガンズも『Use Your Illusion I』と『Use Your Illusion II』で、世界中のロックファンを熱狂させていた頃だった。 アイルランドのダブリンから始まったそのツアーは、ヨーロッパを巡り、アメリカへと舞台を移していった。 「全米を回っていた頃、俺は恋人のルネーと別れた。俺達の取り巻きの誰かが、ツアー中に俺がいかに彼女を裏切っていたか彼女に話してしまったせいでね。“絶対にしない”と、俺が彼女に約束してたことの一つが浮気だった。ライブとライブの間はできる限り楽しい時間を過ごそうとしていた俺の弱さだ。大酒を呑むのと同じく、俺にとっては感情面のアップダウンや、心理的な陰陽、そして乱気流のような感情の動きを乗り越えるために必要な存在..
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