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時代おくれ〜バブル景気の真っ只中に阿久悠が見据えていた“日本の姿”とは?

目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つけつづける 時代おくれの男になりたい 1986年(昭和61年)と言えば、日本がバブル景気に突入した年。 そんな時代に河島英五がCBS・ソニー移籍第1弾として発表したのがこの「時代おくれ」だった。 発売当初の売り上げは芳しいものではなかったというが、白鶴酒造のコマーシャルソングに起用され、サラリーマン世代やシニア層に支持された結果、同年の『日本有線大賞』で特別賞を受賞した。 作詞は阿久悠、作曲は森田公一によるもので、二人は1972年にヒットを記録した和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」を手がけたコンビでもある。 この歌詞について、阿久悠はこんなことを語っている。 「バブル景気に浮かれた社会ではなく、あえてそんな景気に左右されない人たちに目を向けました。しかし、その姿勢は過去ではなくて“その先に来る未来”に向けたものだったんです。」 数年後、株価は市場最高値(3万8,915円)を記録。 都心の地価は一気に3~4倍に高騰。 日本では、多くの企業や個人が“財テク”に狂奔する時代が到来した。 しかし、1990年代に入るとバブル経済は一気に崩壊し、1992年には株価が1万4,309円と63%も下落することとなる。 地価も下落し、それから日本経済は“失われた10年”と呼ばれる長い不況の時代に突 入していく。 阿久悠は、そんな“狂騒の果て”を見越していたかのように、バブル期を振り返りながらこんな発言を残している。 「多くの人が好景気に浮れて自信満々で闊歩していた時代でした。日本が世界一の金持ちということを信じて疑わなかった。それなのに、なぜかそういう人の姿も国の有り様もどこか似合わない感じがしてならなかったんです。人は新しいもの、おもしろいもの、贅沢なものを狂ったように追い求めていました。しかし、そんな時代の空気に疑問を持つ男もいるのではないかと思ってあの曲を書きました。」 発売から5年経った1991(平成3)年、バブル崩壊が少しずつ表面化しはじめた頃に、NHK総合で放送された特別番組『阿久悠 歌は時代を語り続けた』(6月15日放送)で、河島英五が披露した同曲が脚光を浴びる。 同年の9月21日には再リリースされ、年末のNHK紅白歌合戦で唄われることとなる。 阿久悠は、この楽曲があの時期に再注目されたことに..
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エリック・クラプトンのFirst Step〜1930年代ロバート・ジョンソンが録音した29曲

彼の生い立ちは複雑だった… 母親のパトリシアは彼を産んだ当時、未婚の16歳だったという。 父親は英国に駐留していた既婚のカナダ兵だった事から、彼は祖母に預けられて彼女の再婚相手の子供(実母とは異父兄弟)として育てられたのだ。 彼は13歳の誕生日に祖父母から本物のガットギターをプレゼントしてもらい、ギタリストとしてのキャリアをスタートさせる。 毎日のように家の階段の最上段に座っては、レコードで聴いたものとソックリな“響き”を作り出して楽しんでいた。 ギターを弾き始めた頃のエリック・クラプトンに影響を与えたのは、ビッグ・ビル・ブルーンジーだった。 「彼が演奏していた“ヘイ・ヘイ”という曲にノックアウトされたんだ。メジャーとマイナーの間を行き来するブルーノートノートスケールがたくさん出てくる複雑な曲なんだ。その後、ロバート・ジョンソンを聴いた時“ロックンロールは、さらに言えばポップミュージックのすべてのルーツはここから生まれている”と確信したんだ。」 音楽が生活のほとんどを独占しはじめると、当時通っていたキングストン・スクール・オブ・アート(キングストン大学のデザイン科)での勉強が犠牲になりだした。 ある時、彼は学校側から「これ以上、やる気のない人間を置いておくことはできない」と宣告される。 「僕にとってアートスクールを追い出されたのは通過儀礼の一つだった。これからの人生、すべての扉が自分のために開くわけではなく、実際にはそのいくつかが閉じようとしていることに気づかされたんだ。僕を育ててくれた祖父母はがっかりしていたよ。そして落伍者となった僕は、家に一緒に住むつもりなら働いて金を入れるように!と言われたんだ。」 彼は翌日から祖父がやっていた仕事の助手として働くことにした。 祖父は左官屋兼大工の親方で、レンガ職人としても仕事を請け負っていた。 程なくして、彼は祖父母をどうにか説得してエレキギターを買ってもらう。 彼が選んだのは、ロンドンにある楽器屋のショーウィンドウで目をつけていた“KAY”というメーカーのセミアコギターだった。 「アレクシス・コーナーが弾いていたものと同じで、ダブルカッタウェイの最新モデルだった。当時としてはかなり先をいっていた楽器だったが、基本的にはギブソンのES-335のコピーにすぎないものだった。ギブソンは100ポンド以上したから手が届かなか..
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ピンク・フロイド/ザ・ウォール〜ロック界にそびえ建つロジャー・ウォーターズの“壁”

すべての始まりは、1977年7月6日に行われたピンク・フロイドのツアー「In the Flesh」の最終日でのことだった。モントリオールに建てられたばかりのオリンピック・スタジアムでの公演中。興奮した一部の観客たちが爆竹を鳴らし、殴り合っていた。 半年間にも及ぶ長いツアーで神経過敏になっていたロジャー・ウォーターズにとって、それは許し難い行為以外の何物でもなかったのだ。さらにステージのそばにいた一人の男が叫び声を上げて騒ぎ始める。我慢の限界に達したウォーターズはついにその男の前に向かいかがみ込むと、顔に唾を吐きかけてしまった。 ウォーターズは自分の行為を後悔すると同時に、こう思うようにもなった。 「自分とオーディエンスとの間に“壁”を築きたい」 『The Wall』は、ピンク・フロイドというよりもロジャー・ウォーターズの作品だった。この物語は大きく二つのパートに分けられ、ピンクとして知られるロックスターの主人公が自分の人生を回想するというもの。最初のパートはウォーターズの幼少時代が反映され、溺愛する母親、弱い者いじめをする学校の教師、そして第二次世界大戦での父親の戦死などが扱われる。 物語の後半は、実際にロックスターとなったウォーターズの実体験に、1967年のデビュー当時、バンドのフロントマンでありながらパラノイアに陥って去っていったシド・バレットの凋落にヒントを得たもの。いや、シドの亡霊に囚われたと言ってもいいだろう。主人公ピンクは、結婚生活の破綻と愛の喪失によってドラッグにより深く溺れるようになり、ホテルの一室でTVをただ眺める孤独な日々の中、やがてある狂気に蝕まれていく……。 『The Wall』はアルバム制作だけでなく、ステージショウと映画から成立するメディアミックス・プロジェクトだった。他のピンク・フロイドのメンバーたちは、“ロジャー・ウォーターズの心の叫び”とも言えるその半自伝的内容と壮大な構想に困惑したものの、やるしかなかった。バンドはイギリスの莫大な税金対策のために行った他人任せのベンチャー企業投資がほとんど失敗し、17億円近くもの大金を損失。破産寸前で早く次のアルバムを出して金を作らなければならなかったのだ。 ウォーターズはデモテープをすぐさま政治風刺漫画家ジェラルド・スカーフに聞かせてキャラクターのイラストを依頼(長年アルバムジャケットを手がけた..
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バニラ・スカイ〜“哀切な現実”と“甘美な夢”の境界線で

映画館を出た後や観終わった後、しばらくその映画のことが頭から離れないという経験をしたことがある人は意外に多い。その場限りの娯楽大作や分かりやすい内容の作品ならそんなことは滅多にないが、稀に何日も何週間経っても心の中に存在している映画というものがある。 『バニラ・スカイ』(VANILLA SKY/2001)は、そんな不思議な体験をさせてくれる映画だった。正直言って一度観ただけでは分からない。でも作品全編に漂う哀切甘美なムードに完全に魅せられた。それから4、5回は観ただろうか。すると、観る度に分からなかったことがはっきりと見えるようになったり、まったく新しい発見をすることもあった。 ただ、この作品と向き合う時の心情はいつも同じで、人生に疲れたり、希望を見出す力が弱っていたり、ポジティヴやハッピーとは程遠い状況。そんな時に必ず『バニラ・スカイ』が観たくなった。人生の苦さを知ることによって、ひとときの甘美が分かるようになる。生きることは切ない。それでも人は夢を掴もうとする。 『オープン・ユア・アイズ』という映画を観て、僕は感心した。フォークソングや寓話や詩のようであり、真夜中に誰かと話していていいアイデアが浮かぶ。そんな会話に思えた。 前作『あの頃ペニー・レインと』を撮った後、映画作家キャメロン・クロウはほぼ同じスタッフと『バニラ・スカイ』に取り組んだ。アレハンドロ・アメナバル監督・脚本のスペイン映画『オープン・ユア・アイズ』(1997)のリメイク作品だが、舞台がニューヨークに移されたほか、タイトル通りにバニラ色の空に包まれた世界ができあがった。 主演は原作映画に惚れ込んでいたトム・クルーズ。共演にペネロペ・クルス(『オープン・ユア・アイズ』にも同じ役で出演)、キャメロン・ディアス、カート・ラッセルなど。音楽の選曲の良さはキャメロン・クロウ作品の楽しみの一つで、本作ではオープニングでいきなりレディオヘッドの「Everything in Its Right Place」が聴こえてきたり、シガー・ロスやケミカル・ブラザーズから、ジェフ・バックリーやボブ・ディランまで様々な表情を持つ歌や曲がどこかで流れている。 また、サントラ盤には未収録だが、ローリング・ストーンズの「Heaven」やビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」も印象的だった。この種の映画では、音楽の..
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尾崎豊Oh My Little Girl〜本人亡き後にして“最大のヒット”となったラヴソングはデビュー前の大学ノートの中で産声をあげていた

こんなにも騒がしい街並に たたずむ君は とても小さく とっても寒がりで 泣きむしな女の子さ この「Oh My Little Girl」は、尾崎豊の13枚目(企画作品を含むと15枚目)のシングルとして1994年の1月21日に発表された。 記録によると、自身最大のヒット曲だという。 当時26歳だった尾崎が他界したのが1992年の4月25日だから…本人亡き後にしての異例の再リリース→大ヒットというわけだ。 きっかけはテレビドラマのタイアップだった。 1994年の1月10日から3月28日までフジテレビ系列“月9枠”で放送されたドラマ『この世の果て』の主題歌となり、放送に合わせシングルカットが決定したのだ。 発売初週のオリコンシングルチャートでは、初登場2位を記録。 発売2週目には1週目を上回る売り上げを記録し、尾崎にとって初のオリコンシングルチャート1位を獲得することとなった。 その後も順調に売り上げを伸ばし、最終的に107.8万枚を売り上げ、オリコン、日本レコード協会双方の集計でミリオンセラーを達成するまでに至ったという。 2001年公開の映画『LOVE SONG』では「Forget-me-not」と供に主題歌として使用され、2014年公開の映画『ホットロード』でも主題歌として抜擢され話題となった。 尾崎の死からすでに二十数年…時代を超えて愛され続けるこのラヴソングは、どんな経緯で誕生したのだろう? もともとは尾崎のデビューアルバム『十七歳の地図』(1983年)に収録されており、2枚目のシングル「十七歳の地図」(1984年)のB面曲としても収録されていたもの。 原題は「セーラー服とリトルガール」で、デモテープ完成時には「となりのリトルガール」となり、プロデューサーの須藤晃の助言で「Oh My Little Girl」となったという。 1981年。 尾崎豊は、16歳の時にCBSソニーが行なっていたオーディションに応募する。 そのオーディションを主宰していた稲垣博司(当時ソニーミュージックに在籍)は、当時の尾崎の印象をこう語る。 「それまで過去3回の優勝者は、全てスタッフの紹介者だったが、彼は一般公募から初めて誕生した記念すべき優勝者だった。ほとばしる若さ、そのベースにある若者の傷ついたメンタリティを感じた。」 初のオープン応募から合格者となった尾崎豊のディレクター兼プロデ..
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ミーン・ストリート〜NYの下町に流れた不朽のラブソング「Be My Baby」

ある曲を聴くと、特定の映像や風景を思い浮かべることがある。人によってそれは個人的な想い出であったり、ミュージック・ビデオのワンシーンかもしれない。例えば、不朽の名曲であるロネッツの「Be My Baby」。あの冒頭の「ドッ・ドドッ・ドッ」というドラム音が響くと、反射的に2本の映画のオープニングが蘇る。 1つは『ダーティ・ダンシング』。そしてもう一つは今回紹介する『ミーン・ストリート』(Mean Streets/1973)。前者がこれから始まる青春の躍動の示唆的役割を果たしているのに対し、後者ははっきり言って世界観がまるっきり一致していない。映っているのはNYの下町の薄暗いアパートにチープなベッド。完全に意表を突く選曲なのだ。 (このあたりのことはこちらのコラムで) ダーティ・ダンシング/ミーン・ストリート〜史上最高のラブソング「Be My Baby」 『ミーン・ストリート』は、マーチン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロのコンビ第1作としても知られ、反逆精神溢れる両者はこの作品を機にアメリカ映画界のメインストリームへと踏み込んでいく。チンピラやギャングを描かせたら右に出る者はいないスコセッシにとって、本作は後の『タクシー・ドライバー』『グッドフェローズ』『カジノ』『ディパーテッド』などへの布石となった。 「幼馴染みたちが違和感を感じたら失敗作。でも気に入ってくれた」と語っているように、リトル・イタリー地区で育ったスコセッシの自伝的要素が強い作品。自らが抱えていた想いや葛藤が詰まった当時の集大成と言い切る。 たった一ヶ月、夜の街をロケに撮影したというだけあって、『ミーン・ストリート』にはリアルな空気が呼吸している。そこが特筆すべき点だ。1973年といえば、『エクソシスト』『スティング』『燃えよドラゴン』など“完璧な映画”がヒットしていた年。 また同年は、ジョージ・ルーカスが『アメリカン・グラフィティ』を、テレンス・マリックが『地獄の逃避行(バッドランズ)』を、ピーター・ボグダノヴィッチが『ペーパームーン』を撮り上げ、続々と新しい才能が開花していた。そんな中で最も革新的だったのがスコセッシだった。 NYの下町、リトル・イタリー地区。厳格なカトリックの教養とマフィアの叔父の仕事との間で揺れ動くチャーリー(ハーヴェイ・カイテル)は、いつか救済されることを願いながら葛藤の日..
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【激ムズ】四字熟語の意味を当てるクイズ

全問正解できたらすごい! View Entire Post ›
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モスキート・コースト〜心に刺さるリバー・フェニックスの静かなモノローグ

“情報”や“消費”や“流行”に踊らされることがまだまだクールだった時代がある。日本では1986年〜1991年におけるバブル期がそれにあたる。もちろん惑わされたり、囚われたりしたこととは無縁の人もいただろう。だが都市部(特に東京都心)ではまるでパラレルワールドのように、そうすることが賢明というような空気が街々に確かに漂っていた。 当然、金を持っていること。マーケティングに長けていることが賛美され、そしてスタイリッシュかつ虚飾を気取れる恋愛がもてはやされた。毎日がパーティであること。最新を追求すること。リッチ&トレンディがドレスコードになった。 『モスキート・コースト』(The Mosquito Coast/1986)は、そんな真っ只中の1987年2月(アメリカは1986年12月)に公開された。バブル的価値観とは真逆を行くようなこの映画は、浮かれた人々には到底理解できなかった。しかし、“情報”や“消費”や“流行”といった文明に疲労を感じ取り、人間本来のあり方を夢見始めた人は大きな共感を覚えたはずだ。 こういう考えはインターネットが浸透したゼロ年代以降、特に強くなった感がある。アレックス・ガーランドの小説『ザ・ビーチ』はそんな気分を代弁していた……。 原作はポール・セローが1982年に発表した小説。監督と主演は『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)に続いてコンビを組んだピーター・ウィアーとハリソン・フォード。脚本は『タクシー・ドライバー』のポール・シュレイダー。そして特筆すべきは息子役を演じたリバー・フェニックス。『スタンド・バイ・ミー』(1986)で圧倒的な存在感を示し、本作での起用が決まった。 アメリカの便利さ、文明社会が卑劣な犯罪や殺人の温床になっていると嘆き、嫌悪するアリー・フォックス(ハリソン・フォード)は、妻と子供4人を連れて中米ホンジュラスのジャングルへ移住する。 モスキート・コーストと呼ばれる未開の密林地帯に面食らう長男のチャーリー(リバー・フェニックス)たち。何もない土地に理想郷を築き上げようとする父親に従うことが精一杯だ。だが、大自然の緑の中に、巨大な製氷機や冷房装置など次々と実現していくアリーの行動力と率先力を誇りに思ってもいる。 皮肉にもジャングルに文明を作り上げてしまうフォックス一家。それを面白くないと思う連中も現れ、武装集団の侵入で理想郷は..
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オノ・ヨーコ27歳〜日本を代表する財閥の“お嬢様”だった彼女が経験した貧しい結婚生活、前衛芸術家としてキャリアをスタートさせた頃

「夫を追って日本に帰るべきか、ここにとどまるべきか…27歳の私は葛藤と同時にニューヨークでの成功が間近に迫っているかもしれないという予感も感じていました。」 彼女は小野英輔・磯子の長女として、東京で生まれた。 父親は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。 母親の祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎だった。 安田財閥といえば、金融部門で他の財閥の追随を許さないほど潤沢な金融資本をもつ日本四大財閥の一つ。 つまり彼女は、安田財閥直系のお嬢様だった。 20歳の時には、学習院大学からアメリカのサン・ローレンス大学に編入して音楽や詩を学んだという。 23歳になった彼女は、サラ・ローレンス大学に在学中に一柳慧(いちやなぎとし/当時ジュリアード音楽院の学生)と出会って結婚をする。 「彼は私にとって初めての恋人でした。だけど両親は彼が無産階級の育ちだったから気に入らなかった。結婚を猛反対され…私は大学からも家からも遠ざかるようになりました。サン・ローレンスを退学しマンハッタンのアパートで新婚生活を始めました。」 一柳慧といえば、のちに日本音楽界に衝撃を与え“実験音楽の奇才”と呼ばれることとなる作曲家であり、ピアニストである。 青山学院高等部在学中から、ピアノにおいての非凡さを発揮しており、毎日新聞音楽コンクールでは3年連続入賞(うち2回は1位)、その後は、名門ジュリアード音楽院で研鑽(けんさん)を積む。 彼女は、そんな慧の非凡なる実験音楽に惹かれ、結婚後は自らも前衛芸術家としてのキャリアをスタートさせる。 ニューヨークを活動拠点とするフルクサス(現代のアートに大きな影響を与えた前衛芸術運動)の創始者ジョージ・マチューナス等と共に活動を行うようになった彼女は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成する作品『踏まれるための絵画』(Painting To Be Stepped On)などを発表し、アーティストとして徐々に注目を集めてゆく。 「結婚を永久就職口と考えていなかった私は、やがて従順な彼に欲求不満をぶつけるようになりました。一触触発の果てしない沈黙、胸に突き刺さる不快な言葉の投げ合い、そして突然涙ながらに仲直する夜…。私たちはもはや手を繋いでマンハッタンを散歩..
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クロッシング・ガード〜娘を交通事故で亡くした父親の“復讐”を描くショーン・ペン監督作

ブルース・スプリングスティーンの「Highway Patrolman」からテーマを得た監督デビュー作『インディアン・ランナー』(1991)で、それまでの「マドンナの夫」(85〜89年)や「パパラッチへの暴力」といった世間を騒がすスターのイメージから脱却したショーン・ペン。だが、本物を知る人たちには最初から分かっていた。彼は映画界の貴重な知的良心であることを。 『クロッシング・ガード』(The Crossing Guard/1995)は、そんなペンの監督第2作。傷ついた人間の心、葛藤する姿を描こうとする至極の名作。 一人でタイプライターの前に座っていたら、「クソッ、この役はジャック・ニコルソンだ」って気付いた。それで仕上がった脚本を彼に送った。3日して彼がやるよって電話をくれた。 ニコルソンにとっては、それはたくさん送られてくる脚本の一つに過ぎなかった。 たった90ページの脚本だった。特別な衣装もメイキャップも髪型も必要ない。大げさな演技も要らない。ただエモーションがあった。ストーリーではなく“人間の振る舞い”が中心にあった。ここ何年か出演してきた映画とはまったく違う自由があったんだ。「よし、やろう」と決めた。 共演には『インディアン・ランナー』で好演したデヴィッド・モース。かつてニコルソンの私生活での同棲相手だったアンジェリカ・ヒューストン。他にザ・バンドのロビー・ロバートソン、名優ジョン・サヴェージ。日本からは石橋凌の出演も話題になった。主題歌の「Missing」はブルース・スプリングスティーンが書き下ろし。サウンドトラックにはジュエルの「Emily」も収録されている。 また、本作はペンの親友でもあった作家チャールズ・ブコウスキー(1994年3月に他界)に捧げられている。この映画はブコウスキーが描いた短編小説の世界そのものだった。心が震えるラストシーンは彼が埋葬された墓地で撮影された。 クロッシング・ガードとは「交通安全指導員」のこと。交差点で子供たちや人々を誘導する係。この映画を観れば、なぜそんなタイトルが付けられたのかが分かるだろう。これが人生となると、行くべき道は誰も教えてくれない。ニコルソンは言う。 彼はもう何も感じることはできない。心の痛みを抱えていて、酒に溺れて女にも冷たい。周りの男たちも彼のことをまったく知らない。彼は怒りのために自分自身を..
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