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コヨーテ・アグリー〜実在するNYのバーを舞台にしたロック度99%映画

『コヨーテ・アグリー』(Coyote Ugly/2000) 1997年。アメリカの雑誌『GQ』に掲載された1本のコラムが、ことの始まりだった。それはNYのクラブバー「コヨーテ・アグリー・サルーン」で働いた経験があった作家エリザベス・ギルバートの記事。 この店には毎晩のように男たちが押し寄せて、バーテンダーたちのワイルドでセクシーな接客に酔いしれているというもの。カウンターに上がって踊り、派手に酒を注ぎ、時には火を吹くなど、過激なパフォーマンスを繰り返す彼女たちに魅せられる者が後を絶たず、もはや見逃せない人気スポットになっていたのだ。 これを読んだ女性脚本家が店の常連になるにつれ、映画化の話が動き始めた。80年代に『フラッシュダンス』で空前のダンスブームに火をつけたプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーが製作を担当。『コヨーテ・アグリー』(Coyote Ugly/2000)は、田舎町の女の子が大都会に出てきて、厳しい現実に直面しながらも夢を掴む姿を描いた、好感の持てるストーリーとなった。 リアルさを演出するため、女優たちにはほとんど無名の新人が起用された(スーパーモデルのタイラ・バンクスもキャスティング)。彼女たちは一流のバーテンダーと振付師から特訓を受け、主題歌は人気ソングライター、ダイアン・ウォーレンが書き下ろして、人気カントリー歌手リアン・ライムスが歌った。そんな中、喧騒とは無縁の父親役を演じた名優ジョン・グッドマンの静かな存在が光る。 店のジュークボックスからはロックファンにはたまらない曲の数々が大音量で流れているが、中でもブロンディの「One Way or Another」を歌い踊るシーンは印象的。コヨーテ・アグリーとは、酔っ払って翌朝ベッドに見知らぬ相手が隣にいて、腕を噛み切ってまで逃げ出したいと後悔することを意味する。 ニュージャージーの田舎町でのウェイトレスを辞め、大都会NYへ旅立つヴァイオレット(パイパー・ペラーボ)の夢は、ソングライターになること。亡くなった母親と同じ夢だ。寂しがる父親(ジョン・グッドマン)を振り切って、さっそくNYでデモテープの売り込みを開始するが当然誰も相手にしてくれない。安アパートは泥棒に入られ、すぐに生活資金も底をついてしまう。 そんな時、終夜営業のカフェで大金片手に楽しそうにお喋りをする女たちと遭遇。全員「コヨーテ・ア..
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ザナドゥ〜ELOの音楽と伝説のスターが救ったオリビア・ニュートン=ジョン主演作

『ザナドゥ』(Xanadu/1980) 70年代半ばから80年代前半にかけて、オリビア・ニュートン=ジョンの人気は凄まじかった。ヒットチャートを見てもそれは一目瞭然。4曲のNo.1ヒットと11曲のトップ10ヒットを放っている。可憐なルックスと透明感のある声もあって、日本でも当時ファンだった人は多い。 「Let Me Be There」(1973年/全米6位) 「If You Love Me (Let Me Know)」(1974年/全米5位) 「I Honestly Love You」(1974年/全米1位) 「Have You Never Been Mellow」(1975年/全米1位) 「Please Mr. Please」(1975年/全米3位) 「You’re the One That I Want」(1978年/全米1位)*映画『グリース』 「Summer Nights」(1978年/全米5位)*映画『グリース』 「Hopelessly Devoted to You」(1978年/全米3位)*映画『グリース』 「A Little More Love」(1978年/全米3位) 「Magic」(1980年/全米3位)*映画『ザナドゥ』 「Xanadu」(1980年/全米8位)*映画『ザナドゥ』 「Physical」(1981年/全米1位) 「Make a Move on Me」(1982年/全米5位) 「Heart Attack」(1982年/全米3位) 「Twist of Fate」(1983年/全米5位)*映画『セカンド・チャンス』 映画『ザナドゥ』(Xanadu/1980)は、そんなオリビアが人気絶頂の頃に主演したミュージカル・ファンタジー。ギリシャ神話のミューズ(音楽と踊りの女神)として、様々なコスプレと脚線美でセクシーなダンスやタップを踊ったり、ローラースケートを履いてたまらない笑顔で微笑んでくれたりする。 早い話、映画としての作品性やクオリティは低い。でもオリビアのファンならそんなことはどうでも良かった。彼女の美しさはそれくらいの威力があった。 ではこの映画を今観るならその程度の気持ちで見るべきか? いや、少し視点を変えると感慨深いものがある。ミュージカル映画の全盛期を支えた伝説のスター、ジーン・ケリーがタップを踏んだ最後の作品でもあるからだ..
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Kansas City〜人種、宗教、国境を超えたロックンロールナンバー

ビートルズがカヴァーしたことによって広く知られることとなったこの曲は、1940年代末からアメリカのブルース界を中心に活躍したユダヤ系白人のシンガーソングライター、ジェリー・リバーとマイク・ストーラーが書いたもの。 曲が誕生したのは1952年。 当初の曲タイトルは「K.C. Loving」だった。 最初に歌ったのは黒人ピアノ弾きのリトル・ウィリー・リトルフィールド。 彼は得意のブギウギスタイルでクールに歌い上げたが、残念ながらヒットには結びつかなかった。 それから7年の歳月が流れ…1959年にR&Bシンガー、ウィルバート・ハリスンが「Kansas City」というタイトルで同曲をリリースすると、今度は全米チャートの首位を記録するほどのヒットとなる。 ビートルズによるカヴァーは1964年12月4日に発売された4枚目のイギリス盤公式オリジナルアルバム『Beatles for Sale』のA面7曲目に収録された。 彼らのヴァージョンは、リトル・リチャードが1959年に発表した「Hey, Hey, Hey, Hey」とのメドレーを踏襲している。 当時ビートルズのレコード表記には「Kansas City」としか書かれていなかったが、著作権問題もあって、ある時期から「Kansas City/Hey, Hey, Hey, Hey」と記載されるようになった。 ユダヤ系白人コンビが書いた曲を、アメリカの黒人達が歌い、それをイギリスの片田舎(リバプール)で生まれたアイリッシュ血統のバンドがカヴァーして世界的に有名な曲となったこの「Kansas City」。 様々な差別的傾向が強かった時代に、肌の色、宗教、国境を超えたロックンロールナンバーとして覚えておきたい一曲だ。 さらには、ビートルズから多大な影響を受けた日本のロックバンド、キャロルの1stアルバムにもこの「Kansas City」は収録されており、初期のキャロルファンにはとても人気の高い一曲だったことも忘れてはならないだろう。 ※キャロルが歌ったバージョンは↓こちらのYouTube動画(音源のみ)で聴けます https://www.youtube.com/watch?v=pOeiju3qOwQ <引用元・参考文献『ロック&ポップス名曲徹底ガイド①』音楽出版社> こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ ..
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パフォーマンス/青春の罠〜「三流のクソ映画」とキースが吐き捨てたミック初主演作

『パフォーマンス/青春の罠』(Performance/1970) 公開時は斬新な映像で話題を振りまいた作品が、5年〜10年経つと逆に古臭いものとなって忘れられる。そして今度は20年くらい後に当時を知らない世代に新鮮に迎えられ、強烈に時代を感じさせる作品として再評価されていく。これは映画の面白さの一つだ。ミック・ジャガーが主演した英国映画『パフォーマンス/青春の罠』(Performance/1970)もそんな一つだった。 1968年。ゴダールの前衛映画『ワン・プラス・ワン』にローリング・ストーンズが出演したことをきっかけに、ミックの演技に対する興味に火がついた。ロックシンガーとして頂点を極めたと感じていたミックには音楽以外で何かをやりたい気持ちが高まったのだろう。映画製作者のドナルド・キャメルが頭のおかしくなったロックスターの役を持ちかけると、ミックはこの話に飛びついた。 当時のミックの恋人であるマリアンヌ・フェイスフルは、台本読みに付き合いながら「自分をブライアンだと思ってやってみて」とアドバイスした。 あの自暴自棄になって、中性的で、薬浸けになってる彼を意識するの。でもタフで法律も気にしていないようなキースの面も取り入れなくちゃダメよ。二人をうまくミックスすればいいわ。 一方、もう一人の主演俳優であるジェームズ・フォックスが演じるのはギャング役。上流社会のエレガントで典型的なイギリス紳士を売り物にしていた彼は、役作りのために本物の裏社会に紛れ込んだ。ファッションや言葉遣いだけでなく、あっという間に気が短くて攻撃的な性格に仕上がったという。 ストーンズは当時、反体制の象徴のような存在だった。しかも悪魔のイメージを好んで受け入れた。しかし撮影に入ると、ミックは不平を言わず、わがままでリッチなロックスターの素振りすら見せなかった。撮影クルーたちの素人扱いが悔しかったのかもしれない。音楽同様、本物の役者になろうと必死に努力をしたのだ。 映画はドナルド・キャメルとニコラス・ローグの共同監督で1968年秋にクランクイン。翌年には完成する。しかし映画会社のワーナー・ブラザースはすぐに公開に踏み切らなかった。最低な映画と酷評したのだ。これは完全な失敗作であり、とても興行的に成功するとは思えないというのが重役たちの一致した見解だった。 裏社会でスマートに生きるチャス(ジェームズ..
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テネシーワルツ物語・後編〜江利チエミが愛した歌、彼女を愛した高倉健

戦後間もない1947年頃、日本にはアメリカの文化が怒濤のように流れ込んできた。 当時の若者たちは、アメリカの映画に熱中し、アメリカのポップ音楽に耳を傾けていた。ラジオや街のそこかしこから聴こえてくる耳新しい歌の中でも、この「Tennessee waltz」は、特に日本人の心を惹きつけたという。 1949年、家計を支えるため、12歳の頃から進駐軍キャンプ回りをしながら“歌で稼いでいた”江利チエミが、一人の進駐軍兵士からプレゼントされたレコードが、この「Tennessee waltz」だった。 歌手になることを志していた彼女は、この曲でデビューを果たすことを心に決め、レコード会社のオーディションを受け始めた。 ところが現実は厳しく…どの会社からも不合格の通知しか届かない日々が続く。 背水の陣で臨んだキングレコードのオーディションにようやく合格したのが、14歳の時のことだった。 1950年にパティ・ペイジが録音してから2年も経たないうちに、江利チエミはレコード会社の大人たちをうなずかせて、現実に録音を果たしたのだ。 1951年11月にレコーディングされた、彼女の「Tennessee waltz」は、年をまたいで翌1952年の1月23日に発売された。 当時、キングレコードとしては“14歳の天才少女”として売り込みたかったらしいが、1937年1月11日生まれの彼女は(発売日には)15歳になっていたために「嘘をつくのは嫌だ!」と渋った彼女に対して、レコード会社も折れ…そのキャッチコピーは幻になったという。 これは、彼女の誠実で一徹な性格がよく表されたエピソードとして、後々まで語り継がれることとなる。 「Tennessee waltz」の歌詞といえば、男性歌手が歌えば主人公は男性に、女性歌手が歌えば主人公は女性になる歌としても有名である。 だが、なぜか江利チエミが歌う日本語訳詞では、主人公が男性になっている。 この日本語訳が生まれたのには、どんな経緯があったのだろう? 当時、彼女のキング入社をゴリ押しした初代・音羽たかし(訳詩のペンンネームで、歴代・江利チエミの担当デレクターが襲名する名)こと和田寿三が「チャンポンで行こう!」というアイデアで、英語と日本語の混ぜ合わせた歌詞でのレコーディングとなる。 そんな中、最初に出来た歌詞が彼女にはどうしても納得がいかなかった。 オーディシ..
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モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作

『モ’・ベター・ブルース』(Mo’ Better Blues/1990) 2017年に大ヒットした映画『ラ・ラ・ランド』に印象的なシーンがあった。主人公の男性ジャズ・ピアニストが恋人に「ジャズは滅びかけている音楽」と悲しい表情を浮かべながら言うところ。 実際に2017年度上半期、アメリカでの音楽ジャンル別売り上げシェアを見てみると、R&B/ヒップホップ25.1%、ロック23%、ポップ13/4%、カントリー8%、ラテン5.7%、エレクトロ/ダンス4%、クリスチャン/ゴスペル2.5%、キッズ1.4%、そしてジャズはクラシックと並んで1%となっていた。 20世紀初頭にニューオーリンズで誕生したジャズは、1910年代にはリバーボートによってアメリカ各地に広がっていく。シカゴ、カンサスシティ、ニューヨークなどだ。ルイ・アームストロングをはじめ、ハーレムのコットン・クラブに出演したデューク・エリントンらが大きな反響を巻き起こした。 大恐慌の30年代になると、いわゆるスピーク・イージーと呼ばれるモグリ酒場が流行し、ここでもジャズは盛んに演奏された。不景気を吹き飛ばすかのような陽気なスウィング・ジャズもブームとなり、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーなど無数のビッグバンドが国民的人気を獲得。同時に専属のバンドシンガーも脚光を浴びることになり、フランク・シナトラはアイドル化した。 40年代に入ると、第二次世界大戦の影響もありスウィング・ジャズは終息。楽団の若き演奏者たちは、仕事を終えた後にクラブでアフターアワーズ・セッションを繰り広げた。チャーリー・クリスチャン、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーといった気鋭たちによるビバップの革命。これを機会にジャズはモダンの時代へ突入する。 マイルス・デイヴィスが開拓したクール・ジャズやモード・ジャズ、チェット・ベイカーやアート・ペッパーらのウエスト・コースト・ジャズ、ビバップから進化したハード・バップ、オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンが先導したフリー・ジャズなど、50年代のモダン・ジャズは真の黄金期と言われている。 その後60年代になると、ファンキー・ジャズ、ジャズ・ロックも生まれ、モード・ジャズから進化した新主流派も加わった。70年代は再びマイルスを筆頭にフュージョン旋風が巻き起こる一方、伝統的な4ビート・ジャズも見直され..
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テネシーワルツ物語・前編〜鼻歌とマッチ箱から生まれた永遠の名曲

カントリー、ポップス、ジャズ、ブルース、R&B…そして西洋、東洋、女性、男性を問わず数え切れないほどの歌手がカヴァーしてきた「Tennessee waltz」。 多くの人々に愛されてきたこの稀代の名曲は、実は車の中での“鼻歌”から生まれたという。 ♪「Tennessee waltz」/ノラ・ジョーンズ&ボニー・レイット それは今から約70年前…1946年の出来事だった。 カントリー&ウェスタン歌手のピー・ウィー・キングは、テネシー州ナッシュビルで公開ライブ放送のラジオ番組『グランド・オール・オプリ(The Grand Ole Opry)』に出演するため車で移動していた。 彼はその車中で、友人でもあった歌手のレッド・スチュワートと「何か共同で作曲をしよう」という話を進めていたのだ。 その時、たまたまカーラジオからビル・モンローの新曲「Kentucky Waltz」流れてきたのが二人の運命を一変させた。 キングは、さっそく「No Name Waltz (名もなきワルツ)」という仮名をつけて、聴いたばかりのモンローの新曲を鼻歌で真似るようにして歌ったという。 スチュワートは、それに応えるようにポケットに持っていたマッチ箱を取り出して、思いつくままの歌詞を綴っていったのだ。 ♪「Kentucky Waltz」/ビル・モンロー その翌日、キングとスチュワートは音楽出版事業者のフレッド・ローズを呼んで、移動中に出来上がった曲をさっそく聴かせた。 ローズはその場で、ただのくり返しだったサビ部分の歌詞を「O the Tennessee waltz, O the Tennessee Waltz」から「I remember the night and the Tennessee Waltz」という、歌の主人公の気持ちが入った言葉にすることを提案したという。 こうして永遠の名曲「Tennessee waltz」は完成していったのだ。 翌1947年の12月2日、ピー・ウィー・キングは自身のバンドであるゴールデン・ウエスト・カウボーイズと共にその曲をレコーディングした。 それは、イリノイ州シカゴにあるRCAビクタースタジオでの録音だった。 このピー・ウィー・キングのバージョンが発売された直後、ゴールデン・ウエスト・カウボーイズの元ヴォーカリストだったカウボーイ・コパスのバージョンがキング..
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ボビー・ヘブを偲んで〜色褪せることのない名曲を生んだ男の足跡と「Sunny」の誕生秘話

サニー 昨日、僕はずっと雨の中にいた サニー そして君が微笑み痛みを和らげた 今、暗闇は去り 毎日は晴れ渡ってる 僕のサニー キラキラ輝いて 本当さ 心から君を愛してる 2010年8月3日、60’sポップスを代表する名曲「Sunny」のヒットで知られる歌手ボビー・ヘブ(享年72)がナッシュヴィルの病院で息を引き取った。 死因は肺ガンとされている。 1939年、彼はテネシー州ナッシュビルで生まれる。 両親は盲目ミュージシャンながら7人の子供達と共に音楽一家として活動をしていた。 彼は3歳の頃に兄達が出演していたタップダンスショーで初舞台を踏む。 12歳の時に『グランド・オール・オブリー』(カントリー・ミュージックの公開ライブ放送でアメリカのラジオ番組として最長寿の番組)に黒人として初出演する。 これはアフリカ系米国人として初の快挙だったという。 十代の頃にその才能を認められてボ・ディドリーの「Diddley Daddy」でバックコーラスを経験。 1962年、23歳になった彼は“ボビー&シルビア”というデュオを結成して音源を残している。 二十代にはジョージ・ハリスンが憧れたギタリストとしても知られるカントリーミュージック界の重鎮チェット・アトキンスに師事して音楽キャリアを重ねてゆく。 1966年、27歳となった彼は自作の楽曲「Sunny」でソロ歌手としてデビューを果たす。 同曲では、当時ソフトロック系のプロデューサーとして活躍していたジェリー・ロスが制作を担当した。 「Sunny」はビルボードのシングルチャートで2位を記録する大ヒットとなり、その後もフランク・シナトラやエラ・フィッツジェラルド、マーヴィン・ゲイ、ジェイムズ・ブラウン、スティーヴィー・ワンダー、ホセ・フェリシアーノら多数の大物アーティストがカヴァーすることとなる。 サニー 真実を見せてくれてありがとう サニー この世界にある全てのことを 僕の人生は風に吹き飛ばされた砂のようにバラバラだった 君が僕の手を握り その岩でつなぎとめてくれたんだ サニー 心から君を愛してる 彼の人生を大きく変えたこの「Sunny」は、一聴するとラブソングのようにも聴こえるのだが、実は恋愛とは違う体験から生まれた曲なのだ。 1963年11月22日、大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、世界中に衝撃のニュースが流れる。 その..
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トレインスポッティング/ドラッグストア・カウボーイ〜英米ジャンキーたちの末路

『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989) 『トレインスポッティング』(TRAINSPOTTING/1996) ジャンキー(いわゆる薬物中毒者)を主役にした英米産の映画はこれまで数々と製作されてきたが、良質な作品に共通するのは、例外なく登場人物が悲惨な風景の中を彷徨うことになるという点だ。今回はそれを象徴した2本の作品を比較紹介したい。 本物のバロウズも出演した『ドラッグストア・カウボーイ』 まずはアメリカ。『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989)は、ガス・ヴァン・サント監督の35㎜デビュー作として知られる伝説的な作品。公開当初はマット・ディロンやケリー・リンチのイケてるヴィジュアルもあって、日本ではストリート/ファッショナブルな扱いをされたが、今観直してみると、けっこうヘヴィーな内容だ。 ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)は、自分たちが楽しむためのドラッグを手に入れるために、時々薬局を襲ってはアパートやモーテルを転々としている夫婦。幼馴染みのリックも仲間で、最近は若い彼女のナディーンも一緒に行動している。大抵のジャンキーはドラッグを買う金欲しさに宝石強盗をするが、彼らはどうせやるなら直接と、薬局(ドラッグストア)ばかり狙っている。 舞台は1971年のオレゴン州ポートランド。ロックの世界で言えば、ローリング・ストーンズが「Brown Suger」をリリースした頃だ。ボブたちは警察に目をつけられていて、その夜ガサ入れを喰らう。ボブは異常にジンクスに拘る男で、その一つに「ベッドに帽子を置くな」があった。 だが、新米で仲間外れ意識を抱いたナディーンは、ベッドに帽子をワザと置く。その日、珍しくドラッグ入手に失敗したボブが目にしたのは、モーテルでドラッグ過剰摂取が原因で冷たくなったナディーンの姿だった。しかもモーテルは地元警察の集会に使われる日で、窓の外はパトカーだらけ。死体を運び出すボブは、この時人知れず心に誓う。 どうかこの死体を無事に埋めさせてください。ブタ箱は勘弁です。この願いを聞いてくれたら、感謝の印に田舎へ帰ってカタギになります。 願いが叶ったボブはダイアンと別れて、薬物中毒更生プログラムに参加。工場で働きながら真面目に金を稼ぎ、荒んだ暮らしを改める。しかし、再会し..
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萩原健一27歳〜ドラマや映画での大活躍を経て、新たに音楽活動を再開させた転換期

唯一無二の個性を持った俳優/シンガーとして愛されている男、萩原健一。 “ショーケン”の愛称で親しまれている彼は、16歳の頃に地元の埼玉県でスカウトされて、当時に人気グループだったザ・スパイダースの弟分的なバンドだったザ・テンプターズのボーカリストとしてデビューを果たす。 「神様お願い!」「エメラルドの伝説」などヒット曲を連発し、その個性的な歌声とカリスマ的な魅力を武器に人気を集めていた。 1970年、ザ・テンプターズはグループサウンズブームの衰退と共に解散してしまうが、翌1971年に彼は沢田研二、井上堯之、大野克夫などと“ニューロック”という新スタイルを掲げて6人組のバンド、PYG(ピッグ)を結成する。 ライブ活動の他、ロックフェスティバルやテレビ番組にも出演し、大きな注目を集める存在となっていた矢先…彼に大きな転機が訪れる。 1972年、当時22歳だった彼は人気ドラマ『太陽にほえろ!』に初代新人刑事のマカロニ役で出演し、一躍全国的な知名度を獲得して俳優としてブレークを果たす。 その年の12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。 1974年には名匠・神代辰巳 とのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。 続いて『傷だらけの天使』、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』と連続してTVドラマ作品の主演をつとめる。 翌1975年には、それまで休止していた音楽活動を再開させて初となるソロアルバム『惚れた』をリリースする。(河島英五の名曲「酒と泪と男と女」を収録) 同年にモデルの小泉一十三と結婚し、娘を一人もうけるが…3年後には破局、離婚することとなる。 そして…27歳を迎えた彼は、あの“男はつらいよ”で人気を博していた渥美清主演の松竹映画『八つ墓村』へ出演し、俳優として役の幅を広げてゆく。 「アレ!“たたりじゃ〜”でヒットはしたけど、変な映画だったぜ。脚本を書いた橋本忍さんから話がきました。どうしようかなぁ…と思いながら“ワンカップ大関”のCM撮影のためオーストラリアに行ったんです。その機内でたまたま手にした雑誌を開いたら、ポール・ニューマンが“タワーリング・インフェルノ”という映画に出演した記事が載っていたんです。ポール・ニューマンと言えば“赤いトタン屋根の猫”や“ハスラー”でしょ!そういう俳優が、高層ビルが火事になるパニック超大..
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