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ジム・クロウチを偲んで〜飛行機事故で夭折したシンガーソングライターの足跡

1973年9月20日、アメリカのシンガーソングライター、ジム・クロウチ(享年30)が飛行機事故で亡くなった。 その日彼はノースウエスト・ルイジアナ大学での公演を終えた後、バンドのメンバーと共に約112キロ離れたテキサス州シャーマンへ向かうためにナッチトチェス飛行場でチャーター機に乗り込んだ。 飛行機は離陸後まもなく飛行場内に1本しかないぺカンの木に接触しバランスを失い墜落…彼を含む乗員全員が即死した。 墜落事故の原因は諸説あるが、パイロットの冠動脈疾患のせいで意識を失ったという説が有力である。 それは偶然にも新曲「I Got a Name(アイ・ガッタ・ネーム)」 がリリースされる前日の出来事だった。 曲がりくねった道に沿った松の木のように 僕には名前がある 僕には名前があるんだ 歌を口ずさむ鳥や沿道で鳴くカエルのように 僕には名前がある 僕はこの世に生まれたのさ 彼の死を悼むかのように、翌月からこの曲はBillboardチャートで17週間もランクインし続けたという。 前年の1972年にメジャーのABCレコードと契約を交わし、ソロ名義のシンガーソングライターとしてようやく日の目を見はじめた矢先の悲劇だった。 奇しくも彼の遺作となったこの曲の作詞作曲は、別の人物が手掛けたものだった。 この歌は同年に公開された映画『ラスト・アメリカン・ヒーロー』(1973年)の主題歌として作られたもので、作詞はチャールズ・フォックス、作曲はノーマン・ギンベルが担当した。 彼等は、ロバータ・フラックのヒットで知られる「やさしく歌って(Killing Me Softly With His Song)」の作者でもあり、数々の名曲を生み出したゴールデンコンビだ。 この曲で歌われている「〜so life won’t pass me by(人生が僕を追い越していかないように)」とは、何を云わんとしていたのだろう? 29歳でデビューに漕ぎつけ、30歳にして幸先よくヒットを飛ばし“まさにこれから”という時に事故死したジム・クロウチの人生に重ね合わせると…悲しくも皮肉に聴こえてくる。 ハイウェイをまっすぐ進むんだ ハイウェイを転がりながらでも進むんだ 前へ前へと そしたら何かが見つかるはずさ 北風がピューピュー空に吹き付けるように 僕には歌がある 僕には歌があるんだ 夜に鳴く鳥や赤ちゃんの泣き声の..
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ダウン・バイ・ロー~トム・ウェイツの歌がもとで撮られた“悲しくて美しい世界”

『ダウン・バイ・ロー』(DOWN BY LAW/1986) 前作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で世界中のヒップな人々から熱い支持とクールな評価を得た映画作家ジム・ジャームッシュは、次の作品に取り組むにあたってトム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニという友人でもある3人の俳優の存在を思い浮かべたという。 トム・ウェイツは、僕にとって歌を書く人間という以上の存在だ。彼は詩人だ。詩人は僕の真の英雄だ。ルイジアナにロケハンに行った時も彼の歌が耳に残っていて、撮影するショットのリズムのインスピレーションを受けた。僕のアイデアは彼の歌に影響されていた。 トム・ウェイツの音楽を心に響かせながら、行ったこともないニューオーリンズの場末やルイジアナの湿地帯を想い、たった2週間で脚本を書き上げた。そして1985年11月~1986年1月にかけての6週間を使って、オールロケで撮影したのが『ダウン・バイ・ロー』(DOWN BY LAW/1986)だ。 この映画のスタイルに名をつけなければならないとしたら、時に悪夢、時にお伽噺である雰囲気を持ち、ストーリー的には従来のジャンルをオープンに受け入れる、「ネオ・ビート・ノワール・コメディ」と呼びたいね。 「ダウン・バイ・ロー」とは、もともとは1920年代に南部から北部に移った黒人たちが、街に馴染んだ時に「自分でやっていける」という意味で使ったストリート・トーク。その後、70年代後半までは黒人社会と刑務所の中だけで口にされ、「アウトサイダーだから信用できる」という意味になった。 また、ミュージシャンにも受け継がれて「気が合う仲間」「頼りになる仲間」といった感覚のアウトロー・スラングとしても使われる。要するに「システムに縛られずに自由に生きる連中」の血が流れた言葉。ヒップなジム・ジャームッシュだからこそタイトルにできた。 モノクロで撮ることについては、ストーリーを書き上げて配給のあてを探していた頃、カラーだったらもっと金を出すのにと言われ続けて、それでむきになってよりいっそうモノクロで撮る意欲がかきたてられた。子供じみているかもしれないけど、実際にこの映画はモノクロだという美学的な確信があったんだ。 出演したのは、コッポラ監督の『ワン・フロム・ザ・ハート』『ランブルフィッシュ』『コットンクラブ』などで役者経験を積んでいた..
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ジミ・ヘンドリックスを偲んで〜Purple Haze(紫のけむり)の謎めいた誕生秘話

1970年9月18日、ジミ・ヘンドリックスがロンドンのホテルに滞在中に薬物の過剰摂取により他界した。 死因は睡眠中の嘔吐による窒息で、寝る前に飲んだ大量のワインと睡眠薬の過剰摂取が引き金となったと言われている。 ジミの死については医療ミス、自殺、他殺など様々な説が囁かれているが、今となっては真相を知る由もない。 その死因がなんにせよ、当時彼がドラッグによって身も心もボロボロに破壊されていたことは明白だ。 彼の代表曲と言えば、やはりこの「Purple Haze(紫のけむり)」だろう。 1966年に作られて1967年に録音されたこの曲は、彼の2枚目のシングルとしてイギリスとアメリカの両国で発売された。 「これは海の中を歩いている夢について書いたものだよ。」 “Purple Haze(紫のけむり)”とは、60年代後半に紫色のカプセルに入って販売されていたLSDを指す隠語である。 では、この言葉はどこから来たのだろう? 実は“Purple Haze”というフレーズ自体は、ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの小説家チャールズ・ディケンズの代表作『大いなる遺産』(1861年頃の出版)の54章に部分に登場することが確認されている。 There was the red sun, on the low level of the shore, in a purple haze, fast deepening into black… この楽曲は1966年12月のボクシング・デー(クリスマス後の最初の平日)に、出演していたクラブの楽屋で書かれたと言われている。 ジミがバックステージで何気なく弾いていたリフを聴いたマネージャーのチャス・チャンドラーが「そのリフに歌詞をつけたらどうか?」と提案したことがきっかけだったという。 「歌詞はもともと1000語くらいあった大作だったのに、録音するにあったてチャスが削ろうと言い出したんだ。あんなに削っちまったら、もはや俺のイメージしていたものとは違う作品だよ。腹が立ってしょうがない!」 チャスは自分が推敲(カット)したことを強く否定しているが、特定の曲名は挙げない形で、当時二人の間で歌詞について様々なやり取りを行なっていた発言を残している。 「あの頃は彼が曲の歌詞を思いつくと、僕がアドバイスをしていた。彼が書く歌詞はいつも長くて、曲にすると..
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キース・リチャーズとグラム・パーソンズ〜涙の川を渡った男たちの心の風景

キース・リチャーズにカントリーの真髄を伝承したグラム・パーソンズ 発掘中だった音楽の鉱脈を掘り当てた。グラムとの出逢いが自分の弾くもの、書くものの領域を広げてくれたんだ。そこから束の間の友情が始まった。長い間行方知らずだった弟と再会したような感じだった。今でも寂しくてたまらない。 1968年、キース・リチャーズは英国に来ていたグラム・パーソンズと出逢った。意気投合した二人は、キースの自宅レッドランズでひと夏を過ごす。キースはグラムからピアノを教わりながら、カリフォルニア州ベイカーズフィールドのホンキー・トンク(※1)音楽のメロディや歌詞をはじめ、カントリーの良質な部分(※2)を吸収していった。 「あいつがカントリーに蒔いた種のいくつかは今も俺とともにある」とキースが話すように、この出逢いが後になってローリング・ストーンズの珠玉のカントリーナンバー(※3)を生み出すことになるのは有名な話だ。 グラム・パーソンズ──彼は生粋のミュージシャンだった。カントリーにロックとソウルを融合させた“コズミック・アメリカン・ミュージック”あるいはカントリーロックの創始者。ヒット曲なくして音楽を変えた男。当時はその重要性はさほど語られなかったが、90年代以降になって再評価が高まり、今ではその功績はチャック・ベリーやジミ・ヘンドリックスに匹敵する(※4)とまで言われている。 アメリカ南部の巨大な果樹園を経営する富豪の長男として生まれたグラム。しかし彼が12歳の時、「グラム、愛してる」とだけ書き残して父親が頭を撃って自殺する。母親はボブ・パーソンズと再婚(※5)。しかし今度はアルコール中毒だった母親が亡くなってしまう。ハーバード大学に入学したグラムは、この頃妹に宛てた手紙にこう記している。「人生が混乱し、逃げ場を失った人から学ぼう」。痛みを持ったこの心の風景は彼の音楽に反映されていく。 経済的な心配もなく音楽だけに没頭することができたグラムは、一単位も取らないままハーバードを退学。NYヘ渡ってインターナショナル・サブマリン・バンドを結成して、LAでレコードデビューを果たす。1968年、21歳の時だった。そしてすぐさまザ・バーズに加入。自作「Hickory Wind」を含む不朽の名盤『Sweetheart of the Rodeo』は、すべてのカントリーロックの指標となった。 キースと出..
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ブルーベルベット〜デヴィッド・リンチ監督の独特な世界とロイ・オービソンの悲しみの名曲

『ブルーベルベット』(Blue Velvet/1986) 『イレイザーヘッド』というインディー出身のカルト監督ながら、『エレファント・マン』(1980)でメインストリームの名声を得たデヴィッド・リンチは、続く『デューン/砂の惑星』(1984)で莫大な予算4000万ドルを使い切る。しかしこれが大コケしたことから、かねてから温めていた『ブルーベルベット』で映像作家として再起を図ることになる。 きっかけはボビー・ヴィントンの「Blue Velvet」という歌だった。聴いているとアイデアが浮かんできた。数年かけて4回も書き直して脚本を完成させたんだ。『ブルーベルベット』は新たな出発だった。いい映画を撮れそうな手応えはあったよ。 当初の1000万ドルから半減した低予算と引き替えにファイナル・カットの権利を手にしたリンチは、水を得た魚のように新作映画に取り組んだ。俳優たちは安い報酬で迎えられたが、リンチの映画に出られるので誰も文句は言わなかった。 中でもアメリカ映画界の伝説的存在デニス・ホッパーは、薬物と酒のリハビリで暗闇から抜け出したばかり。エージェントには強く反対されたが、素晴らしい復帰作となることを知っていたのだろう。「この世の悪党どもは自分のことをいい奴だと思ってる。そんな役だった」。 美しさの裏に潜む醜さ、平和な世界の隣り合わせに存在する暴力へと案内する『ブルーベルベット』(Blue Velvet/1986)は、公開当時は賛否両論を呼んだ。いや、不評の声の方が大きかった。従来のハリウッド映画式スリラーの公式を完全に無視していたからだ。 多くの人々が「アメリカのシュールレアリズム」(デニス・ホッパー談)の描写に嫌悪感を抱いた。むしろ真実を捉えすぎていたのだ。だがこの作品は次第に評価が高まり、今ではリンチの代表作であるだけでなく、映画史を語る上で避けて通れないマスターピースとなった。 もともと画家になろうとしていたリンチは、ボストンの美術学生時代にヨーロッパへ留学したことがあった。町があまりにも綺麗で整い過ぎていて創作の題材を求められなかったこと。ビルの地下でトカゲが壁を這っているのを見て一番近いマクドナルドが7000マイルも離れていると思ったこと。そんなことが原因でたまらくなって二週間ほどで帰国してしまう。 その後、フィラデルフィアの美術学校に通いながら工場街に下宿..
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シングルス〜シアトル発グランジの熱狂を映し出したキャメロン・クロウ監督作

『シングルス』(Singles/1992) 2018年後半以降、「平成」を回顧する企画や特集を書籍や番組、ネットやイベントなどで目に触れる機会が多くなった。 西暦にすると1989年から2019年。バブル経済の崩壊とITの浸透を通過した約30年の歴史を振り返る手法は、社会、事件、経済、カルチャー、ヒット商品など切り口は様々。懐かしんだり、再発見したりと楽しみ方は尽きない。 書き手自身も1997年に『バブル80’sという時代/1983-1994 TOKYO』という書籍を監修・執筆した際、一つの時代の始まりと終わりを描いたことがある。あの後奇しくも、世紀末やゼロ年代になってインターネットがすべてをのみ込んでいった。 なお、若者文化や東京のポップカルチャーという観点からは、『TOKYO POP CULTURE STORY〜東京に描かれた時代と世代の物語1970-2020』(外部サイト)で描写・ストーリー化しているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。 洋画の観点から1989年を思い出すと、ある映画作家のことが思い浮かぶ。その名はキャメロン・クロウ。この年『セイ・エニシング』で監督デビューした彼は、この30年間寡作ペースながらも、一貫して「生きる」ということの歓びや哀しみをその力強い作品を通じて教えてくれた。 『ザ・エージェント』『あの頃ペニー・レインと』『バニラ・スカイ』『エリザベスタウン』『幸せへのキセキ』はその証。個人的にこれらの映画を観て何度救われたことだろう。 1957年生まれのキャメロン・クロウは、15歳の時にローリング・ストーン誌で最年少記者になった。その後、プレイボーイやペントハウスといった雑誌で記事やコラムを執筆。大学卒業後に高校生の生活を描きたくなって“潜入学”。この時書き上げたのが『初体験リッジモント・ハイ』で、1982年には映画化されてヒット。クロウは脚本も担当した。 その後84年の『ワイルド・ライフ』でも脚本を手掛け、人気ロックバンドのハートのナンシー・ウィルソンと結婚(現在は離婚)。映画における音楽の使い方や選曲のセンスが抜群なのは言うまでもない。パール・ジャムやデヴィッド・クロスビーの音楽ドキュメンタリーも撮っている。 洋楽の観点から1989年といえば、2年後に全米で社会現象を巻き起こすシアトル発のグランジがあった。ニルヴァーナがサブポッ..
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安室奈美恵の引退〜“コギャル”の時代に奏でられたティーンエイジ・シンフォニー

安室奈美恵と時代と世代 安室奈美恵が自身のオフィシャルサイトを通じて、2018年の9月16日をもって引退することを発表した。 ──若くして出産・母親となる一方で、苦難を乗り越えながら果敢にセルフプロデュースしていくその姿は、可愛らしさや美しさに磨きをかけながらも男に媚びず、タフさと優しさを兼ね備えた女として生きて行くんだという、“自立する新しい女性像”のアップデートそのものであり、多くの人々の道標となった。 キャリア初期で“女子高生”や“コギャル”たちのカリスマとなった彼女。そのルックスやファッションは多大な影響力を放ち、“アムラー”なる流行語や社会現象も生まれた。1996年にリリースされた『SWEET 19 BLUES』のラストを飾るタイトル曲が日本中の少女たちの心を打った理由とは? 年齢とともに常に新しい魅力を創り出し、歌い手としてブレない進化を遂げてきた安室奈美恵というアーティストが、時代と最もシンクロしていた頃について。 ──すべてを変えていった“女子高生”の登場 バブル80’sに青春を過ごした世代がジュリアナ東京で“最後のパーティ”に明け暮れていた頃、若者社会ではひっそりと地殻変動が起こっていた。1992年頃になって頻繁に話題に上ることが多くなった“女子高生”の登場だ。 “高校生の半分”である彼女たちは、女子大生やOLを蹴落として消費や流行の中心に躍り出る。さらに若者社会の主導権という意味でも、それまでの20代の社会人からの低年齢化を促した。 しかも高校生としてではなく、“女子高生”として握ってしまう。ここで重要なのは、本人たちが自分自身を“女子高生”として意識していたということ。放課後の渋谷に集まる高感度な彼女たちは、自分たちに十分な商品価値があることを知っていたのだ。 この“女子高生”は何も突発的に生まれたものではない。その源流は1980年代半ばに見ることができる。その頃、東京の高校生が渋谷の街を舞台に独自の流行や現象を生み出し始めた。先導したのは「受験なし・都心在住・経済的余裕」といった“遊べる環境”にいた男子付属高生たち。団塊世代の親の影響もあってアメリカナイズされた文化に慣れ親しんでいた。 例えば、当時話題になったアメカジや渋カジやキレカジなどの男女共有のカジュアルファッションはすべて彼らのアンテナで広まったもので、決してファッション雑誌..
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パリ、テキサス〜再会と別離と放浪を描くロードムービーの最高峰

『パリ、テキサス』(PARIS,TEXAS/1984) 深く愛を失った男がいる。仕事や金、家族や友人すべてを捨て去って、男は独り旅に出る。情報も時間も関係のない場所へ。傷だらけの心に刻まれた想い出だけを背負って。その果てには何があるのか? ──こんな放浪体験をしたことがある人がいれば、映画『パリ、テキサス』(PARIS,TEXAS/1984)はきっと特別な意味を持つことになるに違いない。でも多くの人は、現実や生活のしがらみで実行を断念することだろう。 放浪には勇気と覚悟が必要、と言うのは多くの人の感覚で、実際に移動する人にとっては必然な出来事に過ぎない。しかしどちらにせよ、孤独な魂は深く愛を失った男に影のようにつきまとう。まるでタフに生きていくための試練みたいに。 監督は『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』といった本物のロードムービーを作り続けてきた映像作家ヴィム・ヴェンダース。イメージとなった原作は俳優/劇作家で知られるサム・シェパードの著作『モーテル・クロニクルズ』。そして音楽はこの人以外は考えられないという、さすらいのミュージシャンであるライ・クーダーが担当した。 ストーリーも音楽もキャスティングも撮影も何かもかもが静寂の魅力と哀しみの美学に貫かれていて、カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを獲得。ロードムービーの最高峰として知られる永遠の名作となった。 撮影前の1983年の暮れ。ヴェンダースはカメラ片手に初めてのアメリカ西部を2〜3ヶ月間、旅して回った。リサーチやロケハンと言うより、それはヒューストン、ロサンゼルス、二ューメキシコ、テキサス、アリゾナといった光をとらえるための旅だった。土地特有の風景に対する理解を深め、感性を研ぎ澄ましておきたかったのだ。彼はこれが与えられた最後のチャンスだと思って、膨大な数の写真を撮り続けた。「アメリカ西部は何かが終わり破滅していく場所なんだよ」。 物語はテキサスの荒野をさまよう男、トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)の姿から始まる。ウォーターバッグの水が切れて、たまたま辿り着いた小屋でそのまま倒れてしまう。所持品から連絡先が判明して、ロサンゼルスから弟が身元を引き取りにやって来る。トラヴィスは記憶をなくしたかのように口も利かない。ただ一言「パリ、テキサス」とだけ呟く。そこはフランスのパリではなくテキサス州の荒..
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ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」が日本で発売された日

1971年(昭和46年)9月15日、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」(日本フォノグラム)が日本で発売された。 同年の邦楽ヒットソングといえば… 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 「クリーブランドの熱心なDJがレコードをひっくり返してB面だったこの曲をかけてくれなかったら、俺は今でも誰にも知られることのない歌手だったろう。」 ロッド・スチュワートは60年代の初頭から、ロング・ジョン・ボルドリーのバンド「ザ・フーチー・クーチー・メン」をはじめ、「スティーム・パケット」「ショットガン・エクスプレス」と、様々なバンドを渡り歩きながら音楽キャリアを重ねていた。 どのバンドでも成功と言えるほどの結果には至っておらず…1967年に参加した「ジェフ・ベック・グループ」で、ようやく注目を集めるようになってきたという。 ──1969年、スモール・フェイセスのヴォーカリストだったスティーヴ・マリオットは、ピーター・フランプトンと共にハンブル・パイを結成するためにバンドを脱退する。 当時、バンドの存続に一番こだわったキーボーディストのイアン・マクレガンは、新しいスタイルとイメージを取り入れて「新たなバンドとして活動を続けていきたい」と、他のメンバー(ロニー・レーン、ケニー・ジョーンズ)に提案した。 そして3人で話し合った結果、名前を“フェイセズ”にして新たなステップを誓ったという。 彼らは、たとえ名前くらい変えたところで、3人での再スタートが容易ではないこともわかっていた。 ちょうどその頃、ジェフ・ベックグループを離れたロッド・スチュワートとロン・ウッドは3人のフェイセズと友好関係を結び、練習場でセッションをしながら次第にバンドに参加するようになる。 ヴォーカル:ロッド・スチュワート ギター:ロン・ウッド ベース:ロニー・レーン(1973年以降、山内テツ) ドラム:ケニー・ジョーンズ キーボード:イアン・マクレガン 後に英国ロック史に残るスーパーバン..
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