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パティ・スミスとチェルシーホテル 後編

「赤貧のギタリストたち、文無しの映画監督、ドラッグ中毒の美女たち、ジャンキー詩人、フランスの俳優たち…ここを通り抜けた人は皆、何者かではあるのだ。たとえ、このホテルの外では無名でも。」(パティ・スミス) 1883年に造られたこの建物は、当初は共同アパートとして使われていた。 ホテルとなったのは1905年のこと。 以来、無名の芸術家や世間の生活習慣などを無視して放浪的な生活をするボヘミアンたちに愛され、小説、映画、音楽等々を巡る数々の神話がこのチェルシーホテルを舞台に生まれた。 アーサー・C・クラークが『2001年宇宙の旅』を書き、映画化にあたってスタンリー・キューブリックが彼を訪ねてこのホテルにやってきた。 ボブ・ディランが「ローランドの悲しい目の乙女」を書き、レナード・コーエンが「チェルシー・ホテル#2」を書いた。 パティ・スミスが盟友ロバート・メイプルソープと一緒に住んでいたのもこのホテルだった。 様々のアーティスト達が“たまり場”としていたこの歴史的ホテルでの数々の出会いが、アーティストとしての彼らを形作ったのだった。 アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、サルバドール・ダリ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスといった人間との交流が二人を大いに刺激した。 「チェルシーホテルでの出会いで、私たちに最も大きな役割を果たしてくれたのは、サンディ・デイリーだったわ。彼女は濃厚なアーティストで、私たちと同じフロア1009号室に住んでいたの。その部屋の壁は真っ白で、床も真っ白だったわ。部屋に遊びに行く時はいつも靴を脱いで入ったの。ヘリウムで膨らんだ銀色のクッションボールが頭上に浮かんでいたわ。白い床に裸足で座り、コーヒーを飲み、彼女の写真集を見せてもらった。シンプルでエレガントな写真を撮っていた彼女は、いつも片手にポラロイドを持っていた。ロバートに最初のポラロイドを貸したのは他ならぬ彼女であり、ロバートの初期の作品に関して貴重なアドバイスを与え、自信を与えてくれたのも彼女だったの。」 また、パティは同じ“チェルシーの住人”でもあった(現在は俳優としても知られる)劇作家のサム・シェパードから戯曲の共作を依頼されたりして、徐々に活動を活発化させる。 1971年、アンディ・ウォーホルの初期共同制作者であるジェラルド・マランガの、セント・マークス教会での朗読会の前..
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パティ・スミスとチェルシーホテル〜前編

「下手クソなアート作品が壁に掛けられたエントランスホールを行き来するホテルの住民たち。ここは、スタンレー・バードが家賃代わりに押しつけられた大きな邪魔くさい品々に占拠されている。このホテルは、困難を切り抜けてなんとか生きている、あらゆるジャンルの多才な子供たちにとっては、エネルギッシュで絶望的な天国だった。」 (パティ・スミス) その“伝説のホテル”は、マンハッタンの23th Street (23番街)沿い、7th Avenueと8th Avenueの間にある。 ビートニクス、ヒッピー、詩人、ミュージシャン、ロッカー、絵描き、物書き、フォトクラファーからジャンキー、アル中、浮浪者、ボヘミアン、酔っぱらい…ありとあらゆる人種やアーティストが通過していった希有な場所だ。 ここで起きた出来事や歴史は様々な人達に語られ、綴られ、映画の舞台にもなった。 1883年に建設されたが、当初は共同アパートとして使われていた。 ホテルとなったのは1905年のこと。 「私の父が1940年にホテル・チェルシーを引き継いだのです。」 そう語るのは、現在のこのホテルのマネージング・ディレクターを勤める、スタンレー・バード氏だ。 「父が1957年にリタイアし、私にマネジメントを教えてくれました。それ以来、50年以上に渡り私がこのホテルを管理しています。」 このチェルシー・ホテルを舞台に、数えきれない程の伝説や逸話が語り継がれ、そしてこの場所をテーマにいつくかの名曲が生まれた。 ジョニ・ミッチェルは、このホテルを題材に「チェルシー・モーニング」を紡いだ。 アンディ・ウォーホルが制作した映画『チェルシー・ガールズ』のためにルー・リードとヴェルヴェット・アンダーグラウンドのギタリストのスターリング・モリソンが同名の曲を共作し歌姫ニコにプレゼントした。 詩人のディラン・トマス、『トム・ソーヤーの冒険』の筆者マーク・トウェイン、『2001年宇宙の旅』の作家アーサー・C・クラーク、短編小説の名手オー・ヘンリーを筆頭に、アレン・ギンズバーク、ウィリアム・バロウス、チャールズ・ブコウスキー、アーサー・ミラー、アンディ・ウォーホル、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ジョン・レノン、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、クリス・クリストファーソン、イギー・ポップ、トム・ウェイツ、..
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【5 PICS・音楽⑧】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年11月11日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑧】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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ルース・ブラウンを偲んで〜“アトランティックの看板娘”と呼ばれた歌姫の偉大な功績と足跡

2006年11月17日、R&B黎明期から偉大な功績を残し“アトランティックの看板娘”と呼ばれたルース・ブラウン(享年78)が、ラスベガス近郊の病院で息を引き取った。 亡くなる数週間前に外科手術を受けていたが…死因は心臓発作と卒中だったと発表された。 パワフルな歌声とダイナミックなパフォーマンスでアメリカの音楽シーンを席巻した彼女の愛称は“Miss Rhythm(ミス・リズム)”。 Rhythm & Bluesの「R」と「B」は、Ruth Brownの頭文字と言われたほどの大スターだった。 1949年、21歳で発表したデビュー曲「So Long」がアメリカのR&Bチャートで4位を獲得。 翌1950年には2ndシングル「Teardrops From My Eyes」で早くも1位を記録。 以降、同チャートにおいて通算5曲で1位に輝き“アトランティックレコード最大の功労者”として大きな功績を残している。 1928年1月31日、彼女はヴァージニア州ポーツマスで7人兄弟の長女として生まれる。 彼女の父親は、港湾労働者として働きながら、地元の教会で聖歌隊の指導も行っていた。 その影響もあり、幼い頃から彼女も教会でゴスペルを歌っていたという。 やがてアメリカ軍人主導のボランティア組織や、ナイトクラブで歌うようになった彼女は17歳の時にジミー・ブラウンというトランペット奏者と駆け落ちして旅回り興行の世界に入る。 十代にして毎夜酒場で歌う日々、一時はキャブ・キャロウェイ楽団のリーダーを務めていたジャズ界の才人ラッキー・ミリンダーのオーケストラに一ヶ月ほど所属したこともあったが…酒癖の悪さから解雇されてしまったという。 当時、別の楽団を率いていたキャブ・キャロウェイとブランシュ・キャロウェイの姉弟は、首になった彼女を誘いワシントンのナイトクラブでの公演で数曲歌わせる。 そこで彼女の才能に確信を持ったキャロウェイ姉弟は彼女のマネージメントを買って出る。 当時ワシントンで人気ディスクジョッキーだったウィリス・コノバーも彼女の唱歌力を評価し、アトランティックレコードの創始者であるアーメット・アーティガンとハーブ・エイブラムソンに「素晴らしい逸材がいる!」と紹介する。 まさに“捨てる神あれば拾う神あり”という運命の出会いを体現した彼女は、二十歳を迎えた1948年に創設されたばかりのアトランティ..
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スラッシュ27歳〜酒と女に溺れた大規模な世界ツアー、エアロスミスやレニー・クラヴィッツと共演したパリ公演の興奮

1991年、ガンズ・アンド・ローゼズは4年ぶりのスタジオアルバム『Use Your Illusion I』と『Use Your Illusion II』を2作同時にリリースする。 当時は世界中のチャートで1位2位を独占し、現在までに累計約3000万枚を売り上げている。 同年秋、バンドからギタリストのイジー・ストラドリンが脱退。 翌1992年、彼らはオリジナルメンバーから形を変えながらもワールドツアーを続行していた。 フロントマンのアクセル・ローズと共に、バンドのキーパーソンとなっていたスラッシュ(当時26歳)はその頃のことをこう振りかえっている。 「俺達は東京ドームで3回ライブを行なった。俺自身はその時5回連続で東京ドームでプレイをしたんだ。マイケル・ジャクソンと一緒に2回、ガンズで3回。二組の観客の間にこれほど大きなコントラストを感じたことはなかったよ(笑)ステージの上を飛び回り、楽屋には子供達がいて、たくさんのオモチャが置いてあるマイケルとのライブから、二日後に始まったガンズ。これほど超現実的な変化を経験したのは他にないね。それもすべてがまったく同じ場所で行なわれたんだから。しかも俺は二つのライブの合間に休暇をとって東京ディズニーランドに行ったんだから(笑)」 スラッシュが27歳を迎えた年の夏、ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとのダブルヘッドライナーでツアーを行なった。 当時、これ以上大規模なロックンロールバンドの顔合わせはあり得なかったという。 メタリカはアルバム『Metallica』をリリースしたばかりで、ガンズも『Use Your Illusion I』と『Use Your Illusion II』で、世界中のロックファンを熱狂させていた頃だった。 アイルランドのダブリンから始まったそのツアーは、ヨーロッパを巡り、アメリカへと舞台を移していった。 「全米を回っていた頃、俺は恋人のルネーと別れた。俺達の取り巻きの誰かが、ツアー中に俺がいかに彼女を裏切っていたか彼女に話してしまったせいでね。“絶対にしない”と、俺が彼女に約束してたことの一つが浮気だった。ライブとライブの間はできる限り楽しい時間を過ごそうとしていた俺の弱さだ。大酒を呑むのと同じく、俺にとっては感情面のアップダウンや、心理的な陰陽、そして乱気流のような感情の動きを乗り越えるために必要な存在..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜痩せっぽちでノッポの落ちこぼれ

越路吹雪。 彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。 戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。 独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。 作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、彼女が亡くなるまで連れ添った。 1980年11月7日、胃がんのため56歳でこの世を去った。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を全3回に渡ってご紹介します。 ──彼女が宝塚歌劇団に入ったには昭和12年(1937年)13歳のときである。 ちょうどその頃といえば日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていたときだった。 戦火は大陸各地で燃え上がり、その中を日本軍が進み…南京陥落を祝賀するちょうちん行列が国内の各地で行われていた頃。 街角には千人針を持った婦人たちが並び、当時の新聞は日本軍の勝利を連日報道していた。 長野県飯山高等女学校でも落ちこぼれ組だった彼女が、算術、国語、地理、歴史の試験を受けて約13倍の競争率の宝塚歌劇学校に入学したことは奇跡のような出来事だった。 彼女が宝塚を受験した理由は単純だった。 学校の成績が悪く、本人も勉強が嫌いで、それを心配した父親がすすめたからだという。 当時の宝塚の入学試験は、関東の人は東京宝塚劇場で、関西の人は兵庫県の宝塚で試験を受けた。 小学校卒から女学校卒までの受験生が集まったわけだが、その少女たちは皆色白で髪をカールし、真っ赤な口紅をつけて大人っぽく見せ、ほとんどが幼い頃から声楽やバレエを習っていた。 そんな中に雪焼けをした顔の彼女がいた。 控え室で色白の少女たちがスズメのようにおしゃべりしているのに、ゴボウのような彼女は押し黙ったまま…綺麗に着飾った周りの皆をもの珍しそうにながめていた。 そんな“土の匂い”のする少女の雰囲気を、面接を担当した先生たちの心をどうとらえたのかはわからないが…「面白い子だ!」ということで彼女は合格した。 宝塚歌劇学校での成績は、見るも無惨なものだった。 当時、声楽を教えていた斎藤登先生は彼女について..
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P.F.スローンを偲んで〜60年代に活躍した若きソングライターの光と影

2015年11月15日、シンガーソングライターのP.F.スローンがロサンゼルスの自宅で息をひきとった。 70歳で他界するわずか数週間前に膵臓癌と診断されていたという。 60年代、アメリカのポップスシーンにおいて“優秀なソングライター”として功績を残した彼。 その代表作と言えばバリー・マクガイアが歌った「Eve of Destruction(明日なき世界)」と、ジョニー・リヴァースの「Secret Agent Man(秘密諜報員)」だろう。 彼と同様に60年〜70年代に活躍したソングライターの中には、レオン・ラッセルやキャロル・キングのように自らパフォーマーとして表舞台に立って脚光を浴びたアーティストもいる。 しかし…P.F.スローンは彼らのようにステージでスポットライトを浴びることはなかった。 ずっとP.F.スローンを探している 彼の行方を知る者はいない 彼の歌を聴いた者もいない 作詞・作曲・オーケストレーションと三つの部門でグラミー賞を受賞した唯一の人物ジミー・ウェッブは、スローンのことを「僕が音楽家になろうと試みた時に憧れた人」と尊敬し、自身の1stアルバム『Words And Music』(1970年発表)に「P.F.スローン」というオマージュソングを収録している。 1945年ニューヨーク生まれロサンゼルスで育った彼は、13歳でアラディンレコードと契約を結び、1959年に“フリップ・スローン”の名義でレコードデビューを果たす。 エルヴィス・プレスリーに憧れて歌手デビューしたものの…売れない日々をしばらく経験した後、1961年(当時16歳)、アメリカの映画製作会社『スクリーン・ジェムズ』にソングライターとして採用される。 その後、少なくとも7つの名義でソロ作品をリリースしたが、いずれも商業的成功を収めることはなかった。 『スクリーン・ジェムズ』の西海岸責任者が、スローンを同じニューヨーク出身で彼と同じく歌手として成功を得られずにいたスティーヴ・バリと組むことを提案。 以降、バリとのコンビで能天気なサーフミュージックを書いていたが、60年代半ばになるとボブ・ディランの影響もありシリアスなフォークロックを量産するようになる。 この頃スローンが単独で作詞作曲し、バリー・マクガイアに提供した「Eve Of Destruction(明日なき世界)」(1965年発表)..
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【5 PICS・音楽⑦】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年11月11日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑦】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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グレープフルーツ・ムーン〜誰もいなくなった閉店後の仕事場で作曲をしていたトム・ウェイツ

グレープフルーツみたいな月と光る星がひとつ 僕を照らしている あの歌がもう一度聴きたくて 焦がれている僕のことがわかるかい? あのメロディを聴くたびに 心の中でなにかが壊れてしまうから グレープフルーツみたいな月と光る星がひとつ 潮の流れを戻すことなんて出来ないのさ 幼い頃に両親の離婚を経験したトム・ウェイツは、12歳から母親と共にサンディエゴで暮していた。 15歳になった頃からピザハウスで深夜の雑役をしていた彼。 その仕事内容は、閉店後から明け方にかけての皿洗いやフロアの掃除だった。 夜に生活する人たちから様々なことを学びながら二十歳を過ぎた彼は、あるナイトクラブのドアマンとして働くようなった。 彼はそこで見聞きする“真夜中の風景”や“不起用な人間の姿”を詩に綴り、閉店後の誰もいなくなった店内でピアノやギターを弾き、曲を書くようになったという。 トム・ウェイツが24歳の時に発表した1stアルバム『Closing Time』(1973年)に収録されたこの「グレープフルーツ・ムーン」は、きっとそんな日々の中で紡がれたのだろう。 乗り越えられない運命なんてなかったのかもしれない 君は僕にインスピレーション(大切なもの)を与えてくれたけど それはとてつもなく大きな代償だったよ あのメロディを聴くたびに 心の中でなにかが壊れてしまうから グレープフルーツみたいな月と光る星がひとつ もはや隠しきれはしない トム・ウェイツにまつわる書籍『酔いどれ天使の唄』(大栄出版)、『素面の、酔いどれ天使』(東邦出版)の著者パトリック・ハンフリーズは、この曲が書かれた頃のトムの作曲スタイルについてこんなことを語っている。 『Closing Time』のジャケットは、彼が描いた“音”のイメージに近い。 時計の針は3時22分を指している。 午後ではない、午前だ。 くたびれたシンガーが、バーの傷だらけのピアノの前に座っている。 ライ麦ウイスキーをグラス一杯、ビールを一本、灰皿は吸殻でいっぱいだ。 そしてインスピレーションが湧いてくるのを待ちながら、煙草をギリギリまで吸う。 この(ジャケット)写真は、彼がジェームス・テイラーやキャロル・キング、ニール・ヤングやジョニ・ミッチェルと同じ時代に、新進気鋭のシンガーソングライターだった何よりの証拠だ。 遥か太古から…人類は月を眺めながら想いに耽ってい..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜酒と煙草と大めし食らい

“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手、越路吹雪。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を全3回に渡ってご紹介します。 ──彼女が宝塚歌劇学校にいた時代のこと。 当時、宝塚の近くに『おまっとうさん』という店があった。 彼女はそこの常連だったという。 キツネうどんやあんみつを食べさせる店だ。 彼女はほぼ毎日顔をだしていた常連だったから、いくら食べてもツケでよかった。 ある時、彼女は両親から“ギターを買うため”としてお金を送ってもらった。 彼女の父親はサラリーマンだったので、特に裕福な家庭でもなく、生活をきりつめて送金してきたに違いない。 ところが彼女は楽器屋に行くこともなく、なんと全額『おまっとうさん』に持っていったという。 まさかギターを買うお金が全部食べ物に変わったと言うわけにもいかず…悪知恵の働く彼女は「ギターは買ったんだけど、今度はバレエに使うトゥーシューズを買わなくちゃいけないからお金を送って欲しい」と両親に手紙を書いた。 そんなことをくり返しながら、彼女の胃袋はますます大きく丈夫になっていった。 宝塚時代だけではなく、退団後シャンソン歌手になってからも、人の3倍は食べたという。 「コーちゃんこれ食べると体にいいそうよ」と誰かに言われると、たとえそれが不味い食べ物であっても…目をつむり、噛まずに飲み込んでいた。 考えようによっては、それだけ自分の身体や健康に気をくばっていたのである。 そんな彼女だから、宝塚歌劇学校時代にはそうとうの“大食い”として有名だった。 先輩や先生たちから「食べるくらい熱心にレッスンもすれば、将来は有望!」と冗談を言われていたほどだ。 彼女はこの頃、食べるだけではなく、酒も煙草をやるようになる。 酒はそれほどでもなかったというが、煙草は周囲から“ニコチン中毒”と言われるほど吸うようになる。 さらに本科生になってからの楽しみが、もう一つ増えた。 1ヶ月に1度だけ、先輩たちが出演する宝塚大劇場を見学させてもらえるのだ。 本科生たちの席は3階の最上段だった。 そこから上級生や大先輩の公演を観るのだが…彼女は舞台を観るよりも、休憩時間にうどんを食べるのが何よりの楽しみだったという。 同期生の皆は上級生らの演技を観て、感じたことや..
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