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伝説の歌姫・越路吹雪〜痩せっぽちでノッポの落ちこぼれ

越路吹雪。 彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。 戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。 独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。 作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、彼女が亡くなるまで連れ添った。 1980年11月7日、胃がんのため56歳でこの世を去った。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を全3回に渡ってご紹介します。 ──彼女が宝塚歌劇団に入ったには昭和12年(1937年)13歳のときである。 ちょうどその頃といえば日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていたときだった。 戦火は大陸各地で燃え上がり、その中を日本軍が進み…南京陥落を祝賀するちょうちん行列が国内の各地で行われていた頃。 街角には千人針を持った婦人たちが並び、当時の新聞は日本軍の勝利を連日報道していた。 長野県飯山高等女学校でも落ちこぼれ組だった彼女が、算術、国語、地理、歴史の試験を受けて約13倍の競争率の宝塚歌劇学校に入学したことは奇跡のような出来事だった。 彼女が宝塚を受験した理由は単純だった。 学校の成績が悪く、本人も勉強が嫌いで、それを心配した父親がすすめたからだという。 当時の宝塚の入学試験は、関東の人は東京宝塚劇場で、関西の人は兵庫県の宝塚で試験を受けた。 小学校卒から女学校卒までの受験生が集まったわけだが、その少女たちは皆色白で髪をカールし、真っ赤な口紅をつけて大人っぽく見せ、ほとんどが幼い頃から声楽やバレエを習っていた。 そんな中に雪焼けをした顔の彼女がいた。 控え室で色白の少女たちがスズメのようにおしゃべりしているのに、ゴボウのような彼女は押し黙ったまま…綺麗に着飾った周りの皆をもの珍しそうにながめていた。 そんな“土の匂い”のする少女の雰囲気を、面接を担当した先生たちの心をどうとらえたのかはわからないが…「面白い子だ!」ということで彼女は合格した。 宝塚歌劇学校での成績は、見るも無惨なものだった。 当時、声楽を教えていた斎藤登先生は彼女について..
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P.F.スローンを偲んで〜60年代に活躍した若きソングライターの光と影

2015年11月15日、シンガーソングライターのP.F.スローンがロサンゼルスの自宅で息をひきとった。 70歳で他界するわずか数週間前に膵臓癌と診断されていたという。 60年代、アメリカのポップスシーンにおいて“優秀なソングライター”として功績を残した彼。 その代表作と言えばバリー・マクガイアが歌った「Eve of Destruction(明日なき世界)」と、ジョニー・リヴァースの「Secret Agent Man(秘密諜報員)」だろう。 彼と同様に60年〜70年代に活躍したソングライターの中には、レオン・ラッセルやキャロル・キングのように自らパフォーマーとして表舞台に立って脚光を浴びたアーティストもいる。 しかし…P.F.スローンは彼らのようにステージでスポットライトを浴びることはなかった。 ずっとP.F.スローンを探している 彼の行方を知る者はいない 彼の歌を聴いた者もいない 作詞・作曲・オーケストレーションと三つの部門でグラミー賞を受賞した唯一の人物ジミー・ウェッブは、スローンのことを「僕が音楽家になろうと試みた時に憧れた人」と尊敬し、自身の1stアルバム『Words And Music』(1970年発表)に「P.F.スローン」というオマージュソングを収録している。 1945年ニューヨーク生まれロサンゼルスで育った彼は、13歳でアラディンレコードと契約を結び、1959年に“フリップ・スローン”の名義でレコードデビューを果たす。 エルヴィス・プレスリーに憧れて歌手デビューしたものの…売れない日々をしばらく経験した後、1961年(当時16歳)、アメリカの映画製作会社『スクリーン・ジェムズ』にソングライターとして採用される。 その後、少なくとも7つの名義でソロ作品をリリースしたが、いずれも商業的成功を収めることはなかった。 『スクリーン・ジェムズ』の西海岸責任者が、スローンを同じニューヨーク出身で彼と同じく歌手として成功を得られずにいたスティーヴ・バリと組むことを提案。 以降、バリとのコンビで能天気なサーフミュージックを書いていたが、60年代半ばになるとボブ・ディランの影響もありシリアスなフォークロックを量産するようになる。 この頃スローンが単独で作詞作曲し、バリー・マクガイアに提供した「Eve Of Destruction(明日なき世界)」(1965年発表)..
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【5 PICS・音楽⑦】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年11月11日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑦】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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グレープフルーツ・ムーン〜誰もいなくなった閉店後の仕事場で作曲をしていたトム・ウェイツ

グレープフルーツみたいな月と光る星がひとつ 僕を照らしている あの歌がもう一度聴きたくて 焦がれている僕のことがわかるかい? あのメロディを聴くたびに 心の中でなにかが壊れてしまうから グレープフルーツみたいな月と光る星がひとつ 潮の流れを戻すことなんて出来ないのさ 幼い頃に両親の離婚を経験したトム・ウェイツは、12歳から母親と共にサンディエゴで暮していた。 15歳になった頃からピザハウスで深夜の雑役をしていた彼。 その仕事内容は、閉店後から明け方にかけての皿洗いやフロアの掃除だった。 夜に生活する人たちから様々なことを学びながら二十歳を過ぎた彼は、あるナイトクラブのドアマンとして働くようなった。 彼はそこで見聞きする“真夜中の風景”や“不起用な人間の姿”を詩に綴り、閉店後の誰もいなくなった店内でピアノやギターを弾き、曲を書くようになったという。 トム・ウェイツが24歳の時に発表した1stアルバム『Closing Time』(1973年)に収録されたこの「グレープフルーツ・ムーン」は、きっとそんな日々の中で紡がれたのだろう。 乗り越えられない運命なんてなかったのかもしれない 君は僕にインスピレーション(大切なもの)を与えてくれたけど それはとてつもなく大きな代償だったよ あのメロディを聴くたびに 心の中でなにかが壊れてしまうから グレープフルーツみたいな月と光る星がひとつ もはや隠しきれはしない トム・ウェイツにまつわる書籍『酔いどれ天使の唄』(大栄出版)、『素面の、酔いどれ天使』(東邦出版)の著者パトリック・ハンフリーズは、この曲が書かれた頃のトムの作曲スタイルについてこんなことを語っている。 『Closing Time』のジャケットは、彼が描いた“音”のイメージに近い。 時計の針は3時22分を指している。 午後ではない、午前だ。 くたびれたシンガーが、バーの傷だらけのピアノの前に座っている。 ライ麦ウイスキーをグラス一杯、ビールを一本、灰皿は吸殻でいっぱいだ。 そしてインスピレーションが湧いてくるのを待ちながら、煙草をギリギリまで吸う。 この(ジャケット)写真は、彼がジェームス・テイラーやキャロル・キング、ニール・ヤングやジョニ・ミッチェルと同じ時代に、新進気鋭のシンガーソングライターだった何よりの証拠だ。 遥か太古から…人類は月を眺めながら想いに耽ってい..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜酒と煙草と大めし食らい

“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手、越路吹雪。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を全3回に渡ってご紹介します。 ──彼女が宝塚歌劇学校にいた時代のこと。 当時、宝塚の近くに『おまっとうさん』という店があった。 彼女はそこの常連だったという。 キツネうどんやあんみつを食べさせる店だ。 彼女はほぼ毎日顔をだしていた常連だったから、いくら食べてもツケでよかった。 ある時、彼女は両親から“ギターを買うため”としてお金を送ってもらった。 彼女の父親はサラリーマンだったので、特に裕福な家庭でもなく、生活をきりつめて送金してきたに違いない。 ところが彼女は楽器屋に行くこともなく、なんと全額『おまっとうさん』に持っていったという。 まさかギターを買うお金が全部食べ物に変わったと言うわけにもいかず…悪知恵の働く彼女は「ギターは買ったんだけど、今度はバレエに使うトゥーシューズを買わなくちゃいけないからお金を送って欲しい」と両親に手紙を書いた。 そんなことをくり返しながら、彼女の胃袋はますます大きく丈夫になっていった。 宝塚時代だけではなく、退団後シャンソン歌手になってからも、人の3倍は食べたという。 「コーちゃんこれ食べると体にいいそうよ」と誰かに言われると、たとえそれが不味い食べ物であっても…目をつむり、噛まずに飲み込んでいた。 考えようによっては、それだけ自分の身体や健康に気をくばっていたのである。 そんな彼女だから、宝塚歌劇学校時代にはそうとうの“大食い”として有名だった。 先輩や先生たちから「食べるくらい熱心にレッスンもすれば、将来は有望!」と冗談を言われていたほどだ。 彼女はこの頃、食べるだけではなく、酒も煙草をやるようになる。 酒はそれほどでもなかったというが、煙草は周囲から“ニコチン中毒”と言われるほど吸うようになる。 さらに本科生になってからの楽しみが、もう一つ増えた。 1ヶ月に1度だけ、先輩たちが出演する宝塚大劇場を見学させてもらえるのだ。 本科生たちの席は3階の最上段だった。 そこから上級生や大先輩の公演を観るのだが…彼女は舞台を観るよりも、休憩時間にうどんを食べるのが何よりの楽しみだったという。 同期生の皆は上級生らの演技を観て、感じたことや..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜生肉と餅と“虎”のおまじない

“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手、越路吹雪。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を全3回に渡ってご紹介します。 ──全身全霊を込めて歌い、楽屋に戻ってきたときの彼女の背中はいつも汗でびっしょりだったという。 彼女の舞台に漂う、一種独特の熱気。 きらびやかなドレスは、彼女の汗で光る肌にべったりとはりついていた。 それは大スターを照らし出す強いライトのせいかもしれないが、実は極度の緊張によるものだった。 開演1分前になると、いつも舞台のそでで震えていたという。 彼女の写真を撮り続けていたカメラマンの松本徳彦氏は、当時を振り返ってこんな風に語った。 写真家としての僕が一番好きなのは、幕が開く直前の緊張した姿でしたが、彼女の場合はシャッターの音にもこちらが気をつかいたくなるほどでした。 はりつめた空気をほんのちょっとした音でぶち壊すような気がしたんです。 彼女の持つ舞台への緊張感は大変なもので、その日の朝から始まっていたという。 朝食前に紀州産の梅干しを口に入れ、日本茶と京都・伊勢忠の根昆布を漬け込んだ水を飲む。 朝食後、脚を広げてカエルのように前かがみになって何回も屈伸運動をしたり逆立ちをする。 その後、ミキサーで作った野菜の皮や果実がゴロゴロと入っているジュースとハチミツを飲んでから入浴をする。 昨晩の睡眠薬を汗と一緒に排泄し、肝臓の薬とビタミン剤を野菜ジュースと一緒に飲み、ヨーグルトを食べる。 舞台のある日は、朝からよくしゃべった。 特別な発声練習などはしなかったが「ア〜」とか「ミィ〜」とか、車の中で声を出しながら他の人よりも早く楽屋に入り、裏方さんとしゃべりまくる。 彼女は日頃からこんなことを言っていた。 声帯も筋肉と同じで遊ばせておいたらダメ。 使い過ぎてもいけないから、適当に運動させて初日の幕開けに上手に持っていくの。 スタッフとしゃべるのも計算のうちなのよ。 開演前、楽屋に主治医の杉村公美医師が咽喉の診察にやってくる。 次に新宿・小守マッサージの井上良太氏が体を揉みほぐしにくる。 それが終わると、まるで儀式のような食事が始まる。 食べたくないなぁ。 でも今食べないと計算が狂うからね。 ようし!イトちゃん(お手伝いさんの愛称)食べち..
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土曜の夜(Looking for) The Heart of Saturday Night〜70年代初期にトム・ウェイツが描いたアメリカの寂れた裏通り

行き交う車のエンジン音、クラクション、靴音… 夜の街の雑踏に溶け込んでゆくような穏やかなイントロに導かれて、あの“しゃがれ声”が語るように歌い出す。 カワイコちゃんをちょいと口説いて 自慢の車の中でその娘の肩に腕をまわす そんな事を想いながら… 土曜の夜の相手を求めて車を飛ばす 1974年に発表されたトム・ウェイツの2ndアルバム『The Heart Of Saturday Night』のタイトルナンバー「土曜の夜(Looking for) The Heart of Saturday Night」について、ローリングストーン誌は、こんな風に評した。 「永遠の若さという幻想の残酷さを歌った、もっとも印象的で鮮烈な曲の一つ。」 前年の1973年に1stアルバム『Closing Time』をリリースしたトム・ウェイツは、自身のデビュー作の出来映えに満足できなかったという。 「もっとジャズ寄りの音にしたかった」とのこと。 そんな気持ちもあってか、この2ndアルバム『The Heart Of Saturday Night』ではボーンズ・ハウをプロデューサーに迎え、ジャズ色を全面に押し出す音作りを行なっている。 ボーンズ・ハウと言えば、オーネット・コールマンの代表作『The Shape of Jazz to Come(ジャズ来たるべきもの)』(1959年)やエラ・フィッツジェラルドのレコーディングエンジニアとして頭角をあらわした男。 60年代の始めには、フランク・シナトラやメル・トーメのアレンジも任されるようになる。 ママス&パパスのヒット曲のエンジニアも務め、1965年にはザ・タートルズがカヴァーしてヒットさせたボブ・ディランの曲「It Ain’t Me Babe」(チャート首位)で初めてプロデューサーとしての仕事を経験する。 以降、ハウは“サマー・オブ・ラブの時代”そして“モンタレー・ポップ”を象徴するサウンドを作った立役者の一人として知られるようになる。 後にハウはトム・ウェイツとの初対面の思い出をこう語っている。 「私は彼に、君の曲と詞からはケルアックの影響が感じられると言った。すると彼はひっくり返りそうになって驚いてたよ。わたしがジャック・ケルアックを知ってるなんて夢にも思わなかったんだろう(笑)」 本作には、トム・スコット(サックス奏者)やマイク・メルヴォイン(ピ..
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ミシシッピ・ジョン・ハートを偲んで〜70歳で返り咲いた伝説のブルースマンの偉大な足跡と功績

1966年11月2日、ボブ・ディランにも大きな影響を与えた伝説のブルースマン、ミシシッピ・ジョン・ハート(享年74)がシシッピ州グレナダにて死去した。 死因は心臓発作とされている。 柔らかく暖かいタッチのフィンガーピッキングギターと、深みのある歌声で人気を博した彼の音楽人生はまさに“返り咲き”という言葉がふさわしいものだった。 ミシシッピ州キャロル郡テオクで生まれた彼は、幼い頃にアヴァロンに移り住み、貧しい家庭で育つ。 9歳の時に母親から1ドル50セントのギターをプレゼントしてもらい、独学で弾き始め、ユニークなスリーフィンガー奏法を身に着けたという。 少年時代は大好きなギターを練習するかたわら、一日のほとんどを農作業に費やして過ごす。 10歳の時に学校を退学し、その後は小作人として働きながら地元でバンドを組んだり、路上で歌ったりしてわずかばかりの金を稼いで生計を立てていたという。 転機が訪れたのは1928年(34歳)だった。 当時、演奏パートナーだったフィドル奏者のウィリー・ナムールが、フィドルのコンテストで優勝してオーケー・レコーズで録音するチャンスを得てくる。 その時、ナムールはオーケー・レコーズのプロデューサー(トミー・ロックウェル)にジョン・ハートを推薦する。 その結果「Monday Morning Blues」が気に入られたこときっかけに、彼はメンフィスとニューヨークで行われたレコーディングのセッション(13曲)に参加することとなる。 “ミシシッピ”という名前は、この時にオーケー・レコーズによって加えられたものだった。 しかし、発表されたアルバムは商業的には失敗し、その後録音のチャンスには恵まれず…彼は再び田舎に戻ることとなる。 それから30年以上、地元の酒場などで時々演奏しながら小作農として細々と暮らしていた彼は、ブルースマニアの間で伝説化していたという。 再び転機が訪れたのは1963年(70歳)だった。 民俗音楽学者のトム・ホスキンズが、音楽業界では行方不明とされていた彼の所在を探し当てたのだ。 「Avalon, My Home Town」という自身の育った街の歌を耳にしたホスキンズは、彼に、ワシントンD.C.へ移ってもっと広い舞台で演奏を始めることを奨励した。 同年の7月、第3回ニューポート・フォーク・フェスティヴァルに出演した彼は「C.C. R..
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【5 PICS・音楽⑥】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年11月1日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑥】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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ジョニー・サンダース27歳〜ニューヨークパンクのカリスマがロンドンで過ごした季節

セックス・ピストルズ、クラッシュ、ガンズ&ローゼス、そして日本では忌野清志郎、甲本ヒロトなど数多くのアーティストに多大な影響を与えた孤高のカリスマ、ジョニー・サンダース。 1970年代前半ニューヨークのアンダーグラウンドシーンの中心的存在だった“ニューヨーク・ドールズ”のメンバーであり、自らが率いたバンド“ハートブレイカーズ”では、ロンドンのパンクシーンとも深く関わったアーティストである。 彼は生粋のニューヨーカーでありながら、英国のローリング・ストーンズやキンクスに憧れていた。 “ジョニー・サンダース”というステージネームは、1968年にキンクスが発表したアルバム『The Kinks are the Village Green Preservation Society』に収録されているバイク乗りのことを歌った楽曲「ジョニー・サンダー」が由来だという。 ブリティッシュロックに影響を受けて音楽を始め、それがニューヨークのパンクシーンを形づけるバンドになり、それに影響を受けたイギリスのパンクシーンに自ら身を投じていった彼。 ロックの歴史を振り返ると、アメリカとイギリスが“宿命的なキャッチボール”を続けていることがわかるのだが、彼はまさにそれを体現したアーティストだった。 ♪「You Can’t Put Your Arms Round A Memory」/ジョニー・サンダース とても寒くてホントに独りっきりなんだ ベイビーお前が家にいないからだよ これで俺が消えたところで なんてことはない…俺はやっぱり独りなのさ 1978年、彼は27歳の時にソロアルバム『SO ALONE』を発表した。 彼が遺した数多くのアルバムの中でも評価が高く、ファンの間では“最高傑作”とも言われている作品だ。 ライブ盤の多い彼のディスコグラフィーにおいて、数少ないスタジオ録音による名作として知られている。 このアルバムが発表される前年の秋に彼はハートブレイカーズを解散させる。 そして、彼はそのままロンドンに残り“ザ・リヴィング・デッド”というバンド名でイギリスやフランスで何度かライブを行うようになる。 その新バンドには、オンリー・ワンズのピーター・ペレット(G.Vo)とマイク・ケリー(Dr)、エディ&ホット・ロッズのポール・グレイ(B)とステーヴ・ニコル(Dr)、フランス人で元マニアックスのヘン..
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