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いとしのエリー〜桑田佳祐が至上の愛を歌い捧げた“エリー”の正体とは!?

泣かした事もある 冷たくしてもなお よりそう気持ちが あればいいのさ 俺にしてみりゃ これで最後のlady エリー my love so sweet 「いとしのエリー」は、サザンオールスターズの3枚目のシングルとして1979年3月25日にリリースされた。 1983年よりTBS系の人気ドラマ『ふぞろいの林檎たち』の主題歌として起用され、ドラマには様々なサザンの楽曲がBGMや挿入歌として使われており、1997年の完結に至るまでシリーズを通して“物語のデーマソング”として愛されることとなった。 発売当初、この曲はオリコンチャートでは1位にならなかったが、「涙のキッス」(1992年の31thシングル)が大ヒットするまでのサザンの歴代シングル売上げでは1位をキープし続けた楽曲である。 桑田佳祐は原由子と結婚する前に一度別れることとなった。 しかし、程なくして「やはり自分には彼女しかいない」と悟り、原への「ごめんなさい」の気持ちを込めてこの歌を作曲したと言われている。 原の著書『娘心にブルースを』によると、彼女は1979年に桑田佳祐からプロポーズを受けたという。 その数日後、桑田は原に完成したばかりの「いとしのエリー」を聴かせて愛を語ったというエピソードが綴られている。 では、諸説ある“エリー”の正体とはいったい誰のことなのか? 一説によると桑田が敬愛し、原と思い出を共有するエリック・クラプトンをイメージした曲であり、完成前の曲の仮のタイトルは「心に翼を持つ男」だったということから“エリック”を略名にしたものだという。 また、桑田の実姉が名がエリコ(岩本えり子)であることから、歌詞には姉への想いが込められているのではないか?とする説もあった。 しかし、桑田本人がラジオ番組でこの件に触れ「どちらの説も当時のインタビュー等で適当に語ったものだ」と話し、真相は“エリー”という言葉の響きの良さから決めたものだと明かしたという。 同曲はレイ・チャールズやボーイズ・Ⅱメンなどもカヴァーし、国外でも愛される日本を代表する名曲となった。 あなたがもしもどこかの遠くへ行きうせても 今までしてくれたことを 忘れずにいたいよ もどかしさもあなたにゃ 程よくいいね エリー my love so sweet こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。..
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ノッティングヒルの恋人〜エルヴィス・コステロが歌い上げて蘇った名曲「She」

『ノッティングヒルの恋人』(Notting Hill/1999)は、日本でも大ヒットしたイギリス産のロマンチック・コメディ。主演はヒュー・グラントとジュリア・ロバーツ。ジュリアといえば、トム・クルーズの遊び発見映画と並んで「恋の発見映画」と言われるほど、90年代に特に女性から絶大な人気があった女優だ。 彼女は忘れられない面影 僕の喜び それとも後悔 僕の宝物 それとも高い代償 彼女は夏が奏でる調べ それとも秋がもたらす肌寒さ 彼女は何でもなり得る たった一日の中で 主題歌はエルヴィス・コステロが歌い上げた「She」。これはフランスの歌手シャルル・アズナヴールの作品で、彼自身の歌唱で1974年にヒット。邦題は「忘れじの面影」だった。 映画ではもともとこのオリジナルが使用される予定だったが、観客の反応を見て(知名度を考慮して)急遽コステロがカバーすることになったという。結果的に名曲が蘇ることになった。また、シャニア・トゥエイン、ビル・ウィザース、アル・グリーン、スペンサー・デイヴィス・グループらの曲もサウンドトラックとして使用されている。 映画はあの名作『ローマの休日』を彷彿とさせる恋のお伽話。観た人は誰もが感じたように、物語には終始一貫したポジティヴな雰囲気が流れ、エンドクレジットと向き合う頃には何とも言えない温かい心に包まれる。つまり、また観たくなるような前向きな魅力があるのだ。 この作品には誰かをディスるようなネガティヴな笑いは一切ない。ただ人々の個性や人間味によって笑いが生まれている。だから価値がある。これは脚本家の物語力と監督の演出力によるところが大きい(余談だが高視聴率を記録したTVドラマ『やまとなでしこ』のスタッフはこの映画に大いに刺激を受けたに違いない)。 眠れない夜に時々、もし僕が毎週1度は夕食を食べに行っている友人の家に、マドンナやダイアナ妃やカイリー・ミノーグとか、当時世界で一番有名な女性を連れて行ったらどうなるだろうと考えてたんだ。 リチャード・カーティスは1994〜98年という4年もの歳月をかけて脚本を執筆した。 そこから膨らませていって、友人たちはどんな反応をするんだろう? 夕食はどんな感じになるだろう? 後からみんなに何て言われるだろう? それが脚本の、本当に平凡な人間がとても有名な人間と付き合ったら、それが彼らの生活にどう影響するのか..
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五番街のマリーへ〜700人の女性たちと乗り込んだ大型客船の中で生まれた!? 阿久悠の“無国籍ソング”

この「五番街のマリーへ」は、ペドロ&カプリシャスの5枚目のシングルとして1973年10月25日に発売された。 彼らの前作「ジョニィへの伝言」と同様にロングヒットとなり、売上枚数は21.2万枚を記録している。 作曲を手掛けたのは、ピンクレディーのプロデューサーとしても知られる作曲家・都倉俊一。 そして作詞は、昭和を代表する作詞家・阿久悠である。 五番街へ行ったならば マリーの家へ行き どんな暮ししているのか 見て来てほしい 五番街は古い街で 昔からの人が きっと住んでいると思う たずねて欲しい この歌には、作詞家・阿久悠の“新しい挑戦”があったという。 その試みは、同年の3月に本作と同じ歌手・作家によって発表された「ジョニィへの伝言」から始まっていた。 阿久悠は著書『愛すべき名歌たち〜私的歌謡曲史〜』においてこんなことを綴っている。 高橋真梨子がリードボーカルとして加わる前のペドロ&カプリシャスには「別れの朝」というヒット曲があった。なかにし礼が作詞したいい作品で、これに負けられないと思い、何か新しさを感じさせたいと思って工夫をしました。そこで一編の映画のようなストーリー性のある歌詞作りに取り組んだのです。 ジョニーが来たなら伝えてよ 二時間待ってたと わりと元気よく出て行ったよと お酒のついでに話してよ 友だちなら そこのところ うまく伝えて このどこか“日本人離れ”した感覚を持つ歌詞を、当時の関係者は“無国籍ソング”と称したという。 「ジョニィへの伝言」に続いて発表された「五番街のマリーへ」は、それまでの演歌メインの日本の歌謡界に衝撃を走らせたのだ。 ごくありふれた日常会話を使いながら、情景がスムーズに浮かんでくる歌詞、それを引き立てるメロディーが新鮮だった。 阿久悠は、この歌に関して著書『歌謡曲の時代〜歌もよう人もよう〜』で、こう綴っている。 当時、この「ジョニィ」と「マリー」のシリーズは“無国籍ソング”などと呼ばれていた。これは僕が名乗っていたことではない。世間と言おうか、業界と言おうか、音楽に近い周辺の世論がそう決めつけて、いくらか軽く扱おうとしたのだ。 実はこの「五番街のマリーへ」は、ちょっと面白いシチュエーションで生まれたという。 当時、阿久悠が立案者となって企画していた“洋上大学”の船上で作られたというのだ。 1973年の8月、1万3千トンのさく..
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サミー・デイヴィスJr.を偲んで〜片目を失った“史上最高のエンターテイナー”の生い立ちと、成功への軽やかなステップ

1990年5月16日、サミー・デイヴィスJr.は64歳でこの世を去った。 もともと葉巻を片手にステージに立つほどのヘヴィースモーカーだったことから喉頭癌を患い、ビバリーヒルズにある自宅で静かに人生の幕を降ろした…。 その亡骸はカリフォルニア州グレンデールにある墓地に埋葬された。 歌手であり、俳優であり、ダンサーでもあった彼は、死後何年経っても“史上最高のエンターテイナー”として世界中で愛され続けている。 1925年12月8日、彼はニューヨーク州のハーレム地区でアフリカ系アメリカ人の父とプエルトリコ系ユダヤ人の母の間に生まれた。 ボードビルショー巡業を生業とする一家のもとで育った彼は、幼少の頃から歌やダンスのレッスンを受け、3歳のときにはすでに舞台に立っていたという。 旅回りが多く、学校に通うこともできなかった彼は、通信教育で高校卒業資格を取得する。 「俺のようなチビの鼻まがりのニグロとユダヤの混血には、これ以下ということがないんだ。だから、いつだって俺は昇り坂さ。」 ユダヤ系の血も引く黒人だった彼は、小柄で痩せていて、特にスタイルが良いわけでもなく、けっして美男とは言いがたい容姿だった。 黒人やユダヤ人への人種差別が蔓延していた当時のアメリカの社会において、彼もまたその被害者の一人だった。 19歳で徴兵されアメリカ陸軍に入隊した彼は、第二次世界大戦に一兵卒として参戦したものの、その経歴から最前線の兵士としてではなく、兵士向けのショーなどを行う慰問部隊に配属される。 除隊後すぐにショービジネス界に戻り人気を集めてゆく。 そして1954年、彼は28歳の時に高速道路で交通事故に遭い左目を失明する。 しかし、そんな怪我を物ともせずに同年に初のレコードデビューを果たす。 そのエンターテイメント性と音楽的才能が幅広い層から高い評価を受けて、彼はスターへの階段をいっきに駆け上ってゆく。 空洞だった左目にはアイパッチをつけて活動を続け、その姿も一時は彼のトレードマークとなる。  1956年、30歳でミュージカル『ミスター・ワンダフル』の主演でブロードウェイデビューを果たす。 さらに翌年には映画『ポーギーとベス』でハリウッドデビューも果たし、1960年に『オーシャンと11人の仲間』で、フランク・シナトラやディーン・マーチンといった当時の大スターと共演するまでとなる。 特にシナトラと..
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都会のアリス〜チャック・ベリーも出演したヴィム・ヴェンダース伝説のロードムービー

ヴィム・ヴェンダース監督の記念すべきロードムービー第1作として知られる『都会のアリス』(Alice in den Städten/1974)。“ロードムービー”というたまらない響きは、ここから始まったと言ってもいい。のちに自身のプロダクションを「ROAD MOVIES」と名付けたことからも分かるように、このジャンルはヴェンダース映画の代名詞となった。 前作『緋文字』について、ヴェンダースは「完全な失敗作」と吐き捨てている。性に合わない歴史映画に手を出したことは、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手であるヴェンダースから自信を奪ってしまった。 映画は必ずしも自分に合った仕事ではない。今やっていることは、恐らく間違ったジャンルの映画作りだと思ったりもした。やることなすことうまくいかなかった。 だが、唯一の収穫もあった。青年リュディガー・フォーグラーと少女イェラ・ロットレンダーの二人が出演するシーンに何か閃くものを感じたのだ。そして「車やガソリンスタンド、テレビや電話ボックスの登場しない映画はもう作らない」と決意。「よし、この二人が出る映画を作ろう」 一つの考えから始まる映画はもう作るな。今度こそは人物から出発して自分自身の必然で作れ。と言い聞かせた。この映画が自分の仕事の、自分の職業の、自分の映画の始まりだという思いだけで、何かを成し遂げたいと思った。 映画作りはいくつかの要素がベースとなった。例えば、ポラロイドとアメリカ。ヴェンダースは以前、アメリカ旅行をしながら無数のポラロイド写真を撮影したことがあった。それは1分待ってから引き剥がせば写真が出来上がるというものだったが、映画の企画に入った頃、撮ってから次第に画像が見えてくる新機種ができたことを知る。ヴェンダースはさっそくポラロイド社に手紙を書き、特別に2台貸してもらった。 あるいはロック好きのヴェンダースが何度も聞き入ったチャック・ベリーの「メンフィス・テネシー」。これは最後まで聞くと、必死に電話をつなごうとしている相手が6才の少女だと分かる。ヴェンダースにはすでに映画の風景やそこで出逢う二人の姿が見えていたに違いない。 ストーリーを書き上げたヴェンダースは再度アメリカに渡るが、出向いたプレス試写会である“事件”が起こる。ピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ペーパー・ムーン』を観て、余りにも自分が書いた内容とそっ..
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ラブ&マーシー 終わらないメロディー〜ビーチ・ボーイズとブライアン・ウィルソンの物語

1982年11月、ビーチ・ボーイズのメンバーから「解雇」を言い渡されたブライアン・ウィルソンは、その言葉がしばらく理解できなかった。「ビーチ・ボーイズを創ったのは僕なんだぞ!」と叫んでも、ドラッグやアルコールに溺れた退廃的な生活のせいで、遂に体重150キロ以上にまで達した彼の姿は、まるでグッドイヤーの飛行船のような身体だった。 当時の僕は、ドラッグ・トリップを繰り返す不幸な60年代を引きずったままの麻薬常用者だった。僕は深い霧のかかったような状態の中で生きていた。 頭の中に入ってくる知覚や心象は、理解できる記号にだけ置き換えられ、現実はキュビストの作品のように歪み、砕け散っていた。 僕はいつでも死ぬことができた。何度も自分にそう言い聞かせ、ただひたすら来るべき瞬間を期待して待っていた。いつも死に向かうジェットコースターの最前席に座っていた。 バンドが稼いだ金を引き続き得るためには、精神分析医のユージン・ランディに診てもらうことが条件と告げられる。選択肢などない。しかし、それは延々と監視される中での薬漬けの地獄のような日々の始まりでもあった……。 映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』(LOVE&MERCY/2015)は、そんなブライアン・ウィルソンの監視された80年代と、『ペット・サウンズ』や『スマイル』といった“本物の音楽”の創造に取り組む60年代の姿が描かれた、すべての音楽/ロックファン必見の物語だ。 一人の人物を二人の役者が競演しているのも見どころで、60年代のブライアンを演じるのはポール・ダノ。80年代を演じるのはジョン・キューザック。監督は『ペット・サウンズ』を聴きまくっていたというビル・ポーラッド。 ビーチ・ボーイズと言えば、“夏のサウンドトラック”として思い浮かべる人が多いと思う。そこにはサーフィン、車、女の子、海、ビーチ、青い空といった風景が流れ、音楽も太陽の陽射しのように明るい。実際に1962年のデビューから4年間、ビーチ・ボーイズはヒット曲を量産して、同時代のバンドと比べても驚異的なペースで12枚ものアルバムをリリースした。そのほとんどがブライアンの曲であり、プロデュース作だった。 「Surfer Girl」「Fun, Fun, Fun」「I Get Around」「Don’t Worry Baby」「All Summer Long」「..
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【適性診断】あなたに向いている職業は?

自己分析のヒントに、職業診断やってみる?もう働いているあなたも、どんな仕事が自分に向いているか興味あるのでは…👀 View Entire Post ›
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B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。 「神のご加護がありますように」 男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。 「なかなかうまいぞ、坊主」 「ありがとうございます」 「その調子で歌い続けるこった」 男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴスペルの“私の主”が“俺のベイビー”になったくらいだ。 「そういうブルースをどんどんやってくれ」 すると、あの男がまたやって来て言った。 「その調子で歌い続けるこった」 肩をポンと叩くと、今度はポケットから小銭を取り出して、B.B.少年の手に握らせた。 B.B.キング──あらゆるジャンルのミュージシャンと交流・共演して、ブルース音楽を世界中に広げたその功績は余りにも大きい。チョーキングを主体とする泣きのスクィーズ・ギターとゴスペル的な感覚のこぶし回し(メリスマ)でシャウトする歌唱で1950年代にブルースの新時代を築き、以来「モダン・ブルースの顔役」として自らのバンドとバスを従えて、年間平均330回公演という巡業生活を40年以上も続けた。この男から影響を受けたアーティストは数知れず。どんな大スターでもB.B.の前では憧れを抱いた無垢な子供のような瞳になる。 B.B.は1925年9月16日に、ミシシッピ州インディアノーラ付近の小さな村で貧しい農家の子として生まれた。本名ライリー・B・キング。4歳の時に両親が離婚、9歳の時に一緒に暮らしていた母親を亡くす。南部の都会メンフィス行きを夢見つつ、ゴスペルやカントリー、ジャズやブルースを聴いて育った。ブラインド・レモン・ジェファーソンやロニー・ジョンソンがアイドルだった。 その後、T・ボーン・ウォーカーの洗練された都会的なブルースとエレクトリック・ギターの色気に完全に魅せられ、音楽で生計を立てることを決意。メンフィスで従兄と暮らしながら働く。地元のラジオ局WDIAにDJ兼ミュージシャンとしての職を得ると、「ビール・ストリ..
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これが本当の80年代サウンド⑭〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) リチャード・マークス「Don’t Mean Nothing」(1987年/全米3位) 1987年からわずか3年の間に、3つのナンバーワン・ヒットと4曲のトップ5ヒットを放ったリチャード・マークス。ライオネル・リッチーやケニー・ロジャースとの仕事で鍛え上げ、満を持してのデビューだった。当時はAORファンからも支持が高く、バラード歌手として日本の女性からも人気があった。94年の「Now and Forever」が最後のヒット。その後、ソングライターやプロデューサーとして活躍の場を移すが、自身のアルバムもコンスタントにリリースし続ける。 ジュース・ニュートン「The Sweetest Thing (I’ve Ever Known)」(1981年/全米7位) 70年代半ばにジュース・ニュートン&シルヴァー・シュプールとしてデビュー。しばらくは不遇の時代を送ったが、1981年に「Angel of the Morning」(4位)、「Queen of Hearts」(2位)、そしてこの曲が立て続けにカントリーチャートとポップチャートでクロスオーバーする特大ヒットを記録。一躍注目を集めた。メランコリックな歌声が活かされた名曲だ。 ネイキッド・アイズ「Always Something There to Remind Me」(1983年/全米8位) この「僕はこんなに」と続く「プロミセス・プロミセス」が連続してアメリカでヒットした彼らは、イギリス出身のシンセポップデュオ。いわゆる「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」の波に乗って束の間の人気を博した。80年代前半から半ばは、この種のUK/ニュー・ウェイヴ系バンドがチャートを駆け上がることが珍しく..
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キース・リチャーズ〜“逃亡先”で生まれた最高傑作

ブライアン・ジョーンズの死やオルタモントの悲劇など、激動の1969年を終えたローリング・ストーンズの次なる試練は、ずばり“金”だった。 驚くべきことにメンバー全員が破産寸前だったという。原因はバンドの財政を握っていた弁護士アレン・クラインとの金銭トラブル、そして当時のイギリスにおける高額な税金徴収にあった。 こうしてストーンズ一行は1971年4月、南フランスへ“逃亡”することになるが、母国を捨てることは、それまでのファンに愛想を尽かされるかもしれない。バンドにとっては致命傷になるとまで言われ、移住計画は大きな賭けだった。 しかし、頂点を迎えつつあった彼らは心機一転、自身のローリング・スートンズ・レコードを設立(ベロマークで有名)。キース・リチャーズ曰く「音楽のエリート集団に加わったような気分だった」R&B/ソウルの名門アトランティック・レコードと販売契約を果たし、5月にはレーベル第1弾となる『Sticky Fingers』をリリースして、賭けに成功する。 この頃、リヴィエラ海岸が一望できるコート・ダジュールの絢爛豪華な“ネルコート宮殿”で、事実上の妻アニタ・パレンバーグや息子マーロンとともに暮らしていた27歳のキース・リチャーズは、仲間たちと一緒に地中海での気まぐれなボート遊びや極上のドラッグタイムに耽る日々の中、次のアルバム制作を主導していく。 「ロマンチックな場所。時間の感覚がなくなって、まるで夢のようだった」とアニタが惚れ込んだ1890年に建てられたこの別荘には、次第にメンバーやサポート・ミュージシャンたちが長期滞在するようになる。南フランスの田舎町でのスタジオ探しが難航する中、ネルコートはやがて必然的に、常識外れのレコーディングの場へと姿を変えていった。 「マイティ・モービル」と名付けられた8トラックの録音装置を備えた自前の移動式スタジオ。モービル・ユニットのトレーラーがネルコート宮殿の正面玄関に強引に停められ、コンセントにつなげられる。 湿気にまみれた地下室に、好きな時間帯に集まってくるメンバーやゲストたち。巨大な迷路のような空間を行き交いながら、真夜中から朝方にかけて毎日のように続けられる音探しや演奏。 一見無謀とも思えるこうした作業を経ながら、次のアルバム用の曲が出来上がった。ドラッグ漬けだったキースは、この時最長9日間も眠らずに仕事に没頭したという(..
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