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トミー・ドーシーを偲んで〜チャック・ベリーやフランク・シナトラにも多大な影響を与えた白人ジャズ音楽家の足跡と功績

1956年11月26日、ジャズ史上最も美しい音でトロンボーンを吹き “センチメンタル・ジェントルマン”という愛称で親しまれたトミー・ドーシー(享年51)がコネチカット州グリーンウッチにある自宅で死去した。 死因は睡眠薬の過剰摂取とされている。 1930年代から1940年代はスイングジャズの最盛期だった。 この時代、生演奏でダンスをするボールルーム(舞踏場)もアメリカ全土に広がり、数多くのバンドが個性を競い合いながら人々のハッピーな時間を盛り上げていた。 その中でも、頭ひとつ抜けて人気を博していたのが白人系のビッグバンド、トミー・ドーシー楽団だった。 炭鉱夫だった彼の父親は音楽好きで、吹奏楽器を一通りこなし、人に教えたり、町の行事になくてはならないブラスバンドのリーダーを引き受けるほどの人物だったという。 彼は1歳年上の兄ジミーと共に幼いころからトランペットを習い始める。 後に兄はサックスやクラリネットに、彼はトロンボ-ンに専念するようになる。 高校時代は兄弟それぞれ別に学生バンドを作り、人気者だったという。 学校を卒業すると、兄は父親と同じ炭鉱に勤め、彼は配達夫として働きだす。 しかし、父親の助言を受けて二人は音楽で身を立てていく事を決意する。 二十歳になった彼は兄と共にデトロイトの有名バンドジーン・ゴールドケットの楽団に加入し、次第にジャズミュージシャンとして認められるようになっていった。 1934年、29歳の時にドーシーブラザーズ・オーケストラを結成。 後に“スウィングジャズ界の巨匠”と呼ばれることとなるグレン・ミラーは、1934年から1935年までこのオーケストラに在籍していた。 翌年、兄弟は音楽性の違いを巡って大喧嘩をして、それぞれバンマスになって独立した活動を始めるようになる。 その後は、彼のテーマソングとなった「I’m Getting Sentimental Over You」やルイ・アームストロング楽団のテーマ曲でもある「On the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)」など、ビルボードチャートに137曲ものヒットソングを送り込む人気者となっていった。 ロックンロールの創始者の一人であるチャック・ベリーは、少年時代に音楽の道を選んだきっけとなった人物としてトミー・ドーシーの名前をあげている。 「マディ・ウォーターズ、..
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バーレスク〜クリスティーナ・アギレラとシェールが魅せるセクシー&ゴージャスな世界

スモールタウンのような田舎町で育った女の子が、夢を実現させるためNYやLAのような都会に出る。そこでいきなり厳しい現実と直面しながらも、必死になってきっかけを作ろうとする。やがて自分と同じような立場にいる男の子との出逢い。風変わりだけど心強い仲間たちの存在。しかし、そこに金にモノを言わせる連中が現れ、夢は誘惑に溺れながら歪んだものに変えられそうになる。だが恋や友情が進むべき道を教えてくれ、最後には女の子は笑顔と輝きを取り戻す……。 映画においてこのようなプロットは珍しくない。例えばこのコーナーでこれまで取り上げてきたラインナップの中でも、『ロック・オブ・エイジズ』(2012)や『コヨーテ・アグリー』(2000)などはその代表だろう。そして今回の『バーレスク』(Burlesque/2010)も新たにそのリストに加わった。しかもこの作品には『ムーラン・ルージュ』のような“魅せる”要素がある。 アメリカでのバーレスクとは、もともとはステージを使った歌あり芸ありの伝統的なバラエティ・ショーのこと。それが時代と場所、周辺の大衆文化を貪欲に吸収・反映させた結果、次第にストリップショーへと姿を変えていった。人気が下降して完全に廃れたこともある。ところが1990年代に入ると再評価。古典的なバーレスクのノスタルジーに、現在のテイストを加えた「ネオ・バーレスク」「ニュー・バーレスク」と呼ばれる動きが出てきた。 バーレスクは、もともと今日の僕らが思うタイプのショーではなかった。コメディ、パロディ、流行歌などのバリエーションに富んだパフォーマンスがあり、いろいろな才能が関わるエンターテインメントだったんだ。それが海を越えてイギリスからアメリカに渡って来た時、ストリップもあるようなセクシャルなショーに変革してしまった。この映画はもともとのバーレスクに敬意を捧げるものだ。(スティーブン・アンティン監督) そのスピリットはこの映画の見どころとでも言うべき、数々のセクシーなバーレスク・ダンスショーで堪能できる。スクリーンやモニターに映る世界でも目が釘付けになるのは、個性的なキャスティングが効いているから。クリスティーナ・アギレラ、シェールの存在が眩しすぎる。 ブリトニー・スピアーズらと時を同じくして1999年に大ブレイクしたクリスティーナ・アギレラには、当然映画のオファーが相次いだ。彼女が約1..
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フレディ・マーキュリー死の直前〜死を受け入れながら過ごした日々

「波乱万丈だし、馬鹿でかい問題も抱えていたけど、でも素晴らしい人生を送ることができて悔いはないよ。やだなぁ…これじゃエディット・ピアフだね。」 1986年10月、イギリスのマスコミはフレディがロンドン・ハーレー街(上流階級の住宅地区)の診療所でHIVの血液検査を受けたと報じた。 当時、日刊タブロイド新聞ザ・サンのリポーターが日本から戻ってきたばかりのフレディにヒースロー空港でインタビューしたが、彼は病気を否定した。 パートナーのジム・ハットンはフレディのエイズ感染に関する“認識”についてこんな発言を残している。 「彼は1987年4月の後半には感染を認識していた。」 本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスメディアは1990年頃より、フレディのやせた外観、クイーンのツアーへの不参加などから、エイズに感染しているのではないかと盛んに報じた。 フレディが生前最後にステージに立ったのは、1990年2月18日にドミニオン劇場で行われたブリット・アワードの授賞式だった。 ちょうどその頃、クイーンは14thアルバム『Innuendo』のレコーディングのため、スイスのモントルーにあるマウンテンスタジオに集結していた。 人生最後の年…マスコミに追いかけ回されていたフレディは、体調の許す限り何度もモントルーに滞在したという。 ゆっくりとレコーディングを進めながら…静穏な場所に安らぎを求めるかのように。 フレディの大学時代の友人、ジェリー・ヒバートが新作のミュージックビデオのアニメーションを担当することとなった。 「彼が病気だという噂を聞いていたから、当然ながら心配していたよ。それで打ち合わせの時にマネージャーのジムに聞いたんだ。やはり病気で映像は無理だからアニメーションにするのか?ってね。そしたらジムは僕にフレディの病気に関してキッパリ否定したんだ。フレディの意思で徹底していたのかもしれない。」 アルバムの中からシングルカットされたタイトル曲「Innuendo」は、1991年1月にリリースされた。 フレディに関してマスコミが騒ぎ立てる中、バンドにとっては10年来の英国チャート首位を記録した。 フレディの存命中に発表された最後のスタジオアルバム『Innuendo』は、イギリス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダで一位を記録し、アメリカでは1984年発表の『The Wo..
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ボヘミアン・ラプソディ〜「グラムロックの残りカス」と酷評されたクイーンの快進撃

クイーン、そしてフレディ・マーキュリーの知られざる姿を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody/2018)が日本でも大ヒットしている。 クイーンがデビューしたのは1973年。その奇抜なアイメイクやファッションのせいもあって、本国イギリスの音楽メディアからは「グラムロックの残りカス」などと酷評されながらも、日本では女性ファンから火がついたというのは有名な話(ちなみにこれがモデルケースとなり、チープ・トリック、デュラン・デュラン、ボン・ジョヴィなども同じように日本では女性ファンがアイドル的に先導。その後に本国や世界規模でブレイクを果たした)。 音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票ではバンドやメンバーが1位を独占する時期(70年代後半〜80年代前半)もあり、この頃ファンだった人たちの心をしっかり捉えていることも一因だ。また、リアルタイムでクイーンを知らない世代でも、90年代以降にスポーツイベントや映画やCMなどで彼らの曲が繰り返し使用される機会があったことから、CDバブルの時代に実は後追いしていた人も少なくない。 余談だが、90年代に「ボヘミアン・ラプソディ」のリバイバル・ヒットに多大な貢献をした映画『ウェインズ・ワールド』に主演したマイク・マイヤーズが、本作ではフレディたちに嫌われるEMIレコードの社長を演じているのも面白い。 とにかく、改めてクイーンが幅広い世代から愛されている印象を受けた(アメリカのヒットチャートでは過去のアルバムが立て続けに再びランクイン)。仮に彼らの存在をまったく知らなくても、ロックに興味なんかなくても、映画の仕上がりは素晴らしく、大抵の人なら入り込んで楽しめる内容になっている。試写会や招待ではなく、自腹でチケットを買って満員の映画館で観てきた率直な感想だ。 ミュージシャンの伝記映画はこれまでたくさん作られてきたが、残念ながら興行成績に結びつくものは多くなかった。ヒップホップ・グループのN.W.A.の姿を描いた『ストレイト・アウタ・コンプトン』がこれまでそのジャンルのナンバーワン・ヒットらしいが、ロックバンドものでは『ボヘミアン・ラプソディ』がその座につくのは間違いない。 まだ公開されたばかりなので、ここで内容に詳しく触れるのはやめよう。バンドが結成された1970年から伝説となった1985年の「ライヴ・エイド..
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カジノ〜絶対に損はしない“帝国のルール”を築き上げた男と女たちの運命

1990年の『グッドフェローズ』の成功で手応えを感じたマーティン・スコセッシ監督は、再びノンフィクション作家のニコラス・ピレッジと脚本に取り組み、ロバート・デ・ニーロとジョー・ぺシをキャスティング。舞台を1970年代のラスベガスに変え、続編的なムードを漂わす『カジノ』(Casino/1995)を撮影した。 今でこそラスベガスやカジノは大資本が投下され、徹底したビジネスマニュアルが行き届き、年間数千万人もの観光客が訪れる家族向けの健全なエンターテインメント・リゾートの位置付けを確立しているが、70年代前半はまだまだ裏でマフィアが仕切り、眩しいネオンの陰で怪しげな体臭が充満するような、如何わしい場所だった。 だからこそスコセッシは映画化の価値を嗅ぎ取り、食いついたのだ。観光客に用はない。面白いのは裏金や既得権を好き勝手に操るどうしようもない奴ら。そこは色情、友情、犯罪、裏切りが渦巻く世界でもある。マフィア、政治家、金融屋、富豪、娼婦、詐欺師、イカサマ師、そして虎視眈々と組織壊滅を狙うFBI。 カジノの経営は、警備のない銀行で強盗をやるようなもんさ。 ラスベガスは、罪を洗い流してくれるモラルの洗車のようなものだね。 『カジノ』では、帝国のルールを築いた実在した人物がモデルとなっている。ロバート・デ・ニーロが演じる元締めサム・“エース”・ロススティーンは、フランク・”レフティ”・ローゼンタール。ジョー・ぺシが演じるヤクザ者ニコラス・“ニッキー”・サントロは、アンソニー・”トニー”・スピロトロ。シャロン・ストーン演じるビッチ妻ジンジャー・マッケンナは、ジェリー・マクギーといったように、すべての役がリアルだ。 また、スコセッシ映画と言えば、サウンドトラックの充実も避けて通れない。今回は何と61曲が選曲され、3時間ほぼ流れっぱなしという怒涛のような展開。担当したのはロビー・ロバートソン。ザ・バンドの楽曲を一切選曲していないのがまたいい。 ロック勢からはローリング・ストーンズ、クリーム、ジェフ・ベック、フリートウッド・マック、ロキシー・ミュージック、ディーヴォなど。トラディショナル・ポップからはトニー・ベネット、ディーン・マーチン、サミー・デイヴィス・ジュニア、レス・ポール、そしてホーギー・カーマイケル。ブルーズ/R&B勢にはマディ・ウォーターズ、B.B.キング、レイ・チャール..
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時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷(アメリカ編)

CDやアルバムが売れなくなったと言われて久しい。アメリカでは1999年からCDの売り上げは下降線を辿っているし、日本でも音楽CDとしてのミリオンセラーを望むのは今や困難な状況。しかし一方で2000年代から本格化したインターネット時代は、画期的な音楽配信サービスを産み落とした。iTunesなどのダウンロード、Spotifyなどのストリーミング、YouTubeなどのネット動画は、聴き手にとって好きな曲や興味のある曲だけを気軽に(金銭的にも)楽しめる環境を整えてくれた。 これによって従来のアルバムの持つ物語的な意味合い(楽曲の並べ方)が薄くなってきた。アーティストがレコードやCDのセールスで十分稼げた時期はとっくに終わった。アルバムを売るためのツアーやビデオが全盛だった70年代や80年代とは違って、今は逆にツアーがアーティストにとって収入の要だと言われる。2014年に話題になったU2のアルバム無料配信は、大規模ツアーのための恰好のプロモーションになるに違いない。 ──こういった類いの話はそろそろやめよう。取り立てて嘆くようなことでもないのだから。スターが永遠にその人気を維持できないのと同じように、音楽を取り巻く環境も変わっていくのが必然。時代は常に新鮮な空気を必要とする。ただ、それだけのことだ。 そんな“アルバム不況”の中、例外も起こるから面白い。こんな時代に『21』を全米だけで1000万枚以上、世界で3000万枚近くを売ったアデルだ。2011年2月にリリースされたこのアルバムは、ここ10年で最も売れたタイトルになった。 聴いたことのある人なら分かると思う。最先端のポップでもなくヴィジュアルも素朴な彼女が、失恋の歌だけで魅了する作品。耳を傾けながら流れていく時間は、実に強くてどこまでも優しい。“類いの話”に付け加えたいのは「歌の力、音楽の繋がりや物語を放つ作品は、やはり時代を超える」ということだ。 今回はこれを機に、全米だけで1000万枚以上(ダイヤモンド・アワードと呼ばれる)を売ったアルバムを並べながら、時代毎の音楽的動向を振り返っていきたい。ただし、音楽は決して売り上げだけで語られるものではない。ルーツミュージックに代表される“本物”の味わい深い音楽ほど売れない事実もあるので、壮大な音楽探究のきっかけとなることを願って記してみよう。 *数字は1952年に設立された全米..
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小学校の得意教科がバレる…世界の都市名クイズ!

世界の都市名クイズ!2択から選んでください。 View Entire Post ›
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生きながらブルースに葬られ〜ジャニス・ジョプリン27歳、彼女が死んだ夜の足跡

それはジャニス・ジョプリンの遺作となったアルバム『PEARL』のレコーディング中におきた悲劇だった。 1971年にリリースされた本作は、ジャニスが新たなバックバンド“Full Tilt Boogie Band(フル・ティルト・ブギー・バンド)”を従えての期待作として注目を集めていた。 プロデューサーは、長い間ドアーズを手掛けてきたポール・A・ロスチャイルド。 1970年の9月からロサンゼルスのスタジオで開始されたレコーディングは、完成に向けて快調に進められていた。 そして、いよいよ最終局面を迎えた10月3日、アルバムのA面ラスト(5曲目)に収録された「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」のオケの録りが行われる。 翌日に行われるジャニスのボーカル録音の準備を整え、メンバーは23:00にスタジオをあとにして帰宅した。 ジャニスは泊まっていたランドマークホテルに戻る前、いつものようにBarney’s Beanery(バーニーズ・ビーナリー)というバーに立ち寄った。 レコーディング中もスタジオで酒を飲んでいたのだが…彼女はカウンターで2杯だけSouthern Comfort(サザン・カンフォート)を流し込んでホテルに戻る。 彼女は普段、仕事の後にホロ酔いのままホテルのプールでくつろぐことも多かったが、その夜は午前1時頃に煙草を買いにロビーへ行っただけで部屋から出ることはなかったという。 自分の部屋に戻ったあと、彼女はブラウスにパンティという姿でベッドに座って…眠る前の“儀式”に耽る。 そしてベッドの横にあったテーブルに煙草を置き、お釣のコインを手に持ったまま前に倒れた。 その時、顔がテーブルにぶつかり唇を切る。 10月4日、ジャニス・ジョプリンの死亡が確認された。 検死の結果、彼女が眠る前に使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが死因であるとされる。 それは奇しくも、ローリング・ストーンズの創設者ブライアン・ジョーンス(1969年7月3日)やジミ・ヘンドリックス(1970年9月18日)に続く“27歳の死”だった。 ジャニス・ジョプリン──誕生から60年を迎えたロック史上で、ひときわ異彩を放った女性シンガーである。 その個性的な声質とブルージーな歌唱法は、まさに“唯一無二”だった。 生前、米紙ニュー..
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オジー・オズボーン27歳〜酒に溺れてゆく日々、ブラック・サバスからの脱退、危篤状態の父が口にした最期の言葉

メタル界のレジェント的存在として絶大な人気を誇る歌手オジー・オズボーン。 幾度もの変遷を経ながら…約50年に渡って活動し、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルと並ぶ“三大ハードロックバンド”に数えられるブラック・サバスの創設メンバー(在籍期1968年-1977年、1978年-1979年、1985年、1997年-2017年)としても知られる男である。 ブラック・サバスは2017年に活動を終えたことを正式に発表している。 オジーはブラック・サバスとしての最後のツアーについて『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙に次のように語っている。 「素晴らしい時間を過ごせたわけではなかったんだ。俺は9年か10年をブラック・サバスに費やしたわけだけど、20年近くバンドからは離れていたわけだからね。彼らといる時の俺は単なるシンガーでしかないんだ。自分1人であれば、やりたいことをできるわけでね。オジーでいると、彼らとは馬が合わなくてね。分からないんだけどさ、一体他に誰になればいいんだっていうね。」 オジーが26歳の時に発表した6thアルバム『Sabotage』(1975年)まで、バンドは全英・全米ともにアルバムチャート上位にランクインしている。 特に5thアルバム『Sabbath Bloody Sabbath(血まみれの安息日)』(1973年)までの作品は、いずれも全米で100万枚以上の売り上げを記録。 そして、オジーが27歳となった1976年頃から、新たな音楽の波“パンク/ニュー・ウェイヴ”のムーブメントが到来する。 それまでのロックミュージックは徐々に勢いを失ってゆく。 ブラック・サバスも例外ではなく…当時、方向性の相違からメンバー間に不協和音が漂い始める。 当時、オジーは重度のアルコール問題を抱えていた… 「バンド内でもめ事が起こっている一方で、俺達は7作目となるアルバムの制作に取りかかっていた。マイアミのスタジオを押さえ、機材もスタッフも全部イギリスからアメリカに持ち込んでやろうとしていた。新作のタイトルは“Technical Ecstasy”に決まった。この頃になると、俺達のアルバム制作費用は馬鹿馬鹿しいほどの金額になっていたよ。」 音楽シーンの過渡期も重なり…この頃からブラック・サバスのアルバム売り上げは下降線を辿ってゆく。 レコード会社も徐々に予算を渋りはじめ、..
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アイム・ノット・ゼア〜女優ケイト・ブランシェットが“ボブ・ディラン”を演じた初公認映画

1962年のデビュー以来、自らを覆うイメージの破壊と再生を繰り返しながら、“生ける伝説”となったボブ・ディラン。自分自身を発明し続けた男は、2016年10月にノーベル文学賞まで授賞。彼の歌を一度も聴いたことがない世代までその名は再び知れ渡った。 音楽やポップカルチャーの長い歴史を振り返ろうとする時、決して避けて通ることはできない存在。それがボブ・ディランという“リアル”だろう。当然、この男の音楽と人生をテーマにした映画は幾度となく企画されたものの、本人の許可がおりずにどれも実現までには至らなかった。しかし2007年、初めて本人から公認された真のディラン映画が登場する。『アイム・ノット・ゼア』(I’m Not There)だ。 実現させたのはトッド・ヘインズ監督。ディランの長男でインディペンデント映画監督のジェシーを通じて、マネージャーのジェフ・ローゼンと知り合って企画をアプローチした。 資料の一番上には映画のタイトル「I’m Not There」(私はそこにいない)と記された。これは1967年、後のザ・バンドと行った『ベースメント・テープス』セッション時に録音された曲のタイトルで、海賊盤として流通していたレアな曲。トッドにとっては、詩人アルチュール・ランボーの「私は一人の他者である」という詩節を想起させた。 ジェフはこちらの投げかけに対して、ディランを天才だとか、現代を代表するシンガーとは形容しないように注意した上で、1枚の紙にコンセプトをまとめて送ってくれるように言ってきた。まとめた用紙と自分の過去の映画ビデオを送ったら、数ヶ月後にディランから「イエス」という返事があった。未だに自分でも信じられないんだけどね。 トッドとディランのコミュニケーションは唯一このプレゼン資料だけ。その後、一度も会ったり話したりすることはなかった。望めば可能だったかもしれないが、敢えてそうしなかった。監督はディランの歌や詩、自伝、インタビュー映像、ドキュメンタリー映画だけでなく、ディランが影響を受けた音楽や文学や映画、あるいは社会的背景、制作活動を行った場所や住んでいた場所を訪れるなど、徹底的にリサーチを行った。  彼について書かれている本はすべて読んだ。でもそれを書いた人に取材したりはしなかった。本物のディランや真実のディランを探すために出版された伝記はどれも失敗しているように見..
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