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スティングの少年時代〜造船の街で育った貧しい日々、唯一の逃げ場だった音楽

1951年10月2日、彼はイギリス北東部にあるウォールセンドという街で生まれた。 出生名はゴードン・マシュー・トーマス・サムナー。 四人兄弟の長男だった。 幼い頃から一人で本を読んだりピアノをおもちゃ代わりにして遊ぶのが好きだったという。 「よく床に座りこんで、ピアノを弾く母の足がペダルを踏むのを飽きることなく眺めていたのを憶えているよ。」 彼が少年時代を過ごした街は、北イングランドを流れるタイン川沿いにあり、第二次世界大戦中に造船と炭鉱で栄えた地域だった。 しかし、戦争が終わると共に街の繁栄は下降の一途を辿ってゆく。 一家が住んでいたウォールセンドには、造船にたずさわる労働者たちの家が数多く立ち並んでいたという。 「小さなレンガ造りの家だった。造船所で働く男たちを見て育ったんだ。父は牛乳配達の仕事をしていた。決して裕福とは言えなかったよ。家の中では家計をめぐっていつも喧嘩が絶えなかった。」 彼は早朝から父親の仕事を手伝って牛乳を配達していたという。 十代の頃、そんな貧しい環境から逃げ出すことばかりを考えていた彼は、陸上競技で走ることに没頭してゆく。 めきめきと記録を伸ばし、全国大会で3位になるほどまでになった彼は、時を同じくしてギターを弾くことを覚える。 また、学校の成績も優秀だった彼は、地元にあったニューカッスルのカトリック系男子校セント・キャスバート・グラマー・スクールに進学する。 しかし、制服に身をつつんだ裕福な家庭の少年たちが通う学校には、どうして馴染むことができなかった。 「学校に通うことも嫌になっていた僕にとって音楽はたった一つの逃げ場だった。最初に夢中になったのはボブ・ディランだったよ。歌詞がよかった。次から次へとイメージが湧いてきたんだ。ギターで何曲も練習したものさ。“When the Ship Comes In(船が入ってくるとき)”なんか完全にマスターしていたよ。」 ある日、心に大きな傷を受けてしまう。 母親が父親の雇う従業員の1人と浮気している現場を目撃したのだ。 大きなショックを受けた彼は、現実から逃避するためますます音楽にのめり込むようになる。 音楽は辛い状況から逃げ出す唯一の手段だった。 「故郷の街に自分が根をおろせる場所はないと思っていたよ。いつかこの街を出て行こうと。14歳で走ることをピタリとやめた。そして僕の関心は音楽..
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いくらなんでも贅沢すぎだよ…!ローソンの「お肉だくだくバーガー」ジャンキーな味わいでウメェ〜!

LAWSON(ローソン)の「こだわりビーフの肉×プルドポークチーズバーガー」がジャンキーで肉肉しさ満点なんです。とにかくジューシーでやみつきになるから、一度食べたらトリコになっちゃうわ…。 View Entire Post ›
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【5 PICS・音楽⑤】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年10月22日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ©WILDFLOWERS INC. All rights reserved. ■難解で複雑化するコンテンツ業界に、誰にでも楽しめる“超シンプル”な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽⑤】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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恋人よ〜究極の“別れの歌”の誕生秘話、伝説のグループに在籍した才人の死

日一日と深まってゆく秋。 皆さんは“秋の歌”といえば、どんな楽曲を思い浮かべますか? それぞれの想い出と共に“季節(いま)の歌”は存在することでしょう。 「実りの秋」「食欲の秋」「スポーツの秋」など豊かで元気なイメージとは対照的に、秋になるとどことなく物悲しさを感じる人も少なくはないと思います。 今回は、別れ、人恋しさ、運命の無情さを歌った日本の名曲「恋人よ」をご紹介します。 この究極の“別れの歌”について、作者は次のように語っている。 「やっぱり別れというのは本当に嫌なもので…昨日までいた人がね、突然いなくなってしまうというこの現実。 “冗談だよと笑ってほしい”それはもう心底出てきたようなフレーズですね。」 この歌は、シンガーソングライター五輪真弓が29歳の時に作詞作曲をしたもの。 1980年の日本レコード大賞において金賞を受賞し、彼女にとってはデビュー以来8年目にして初のNHK紅白歌合戦への出場を果たした。 東京都中野区で生まれた彼女の名前「五輪(いつわ)」には、どんなルーツがあるのだろう? 1992年に他界した彼女の父親の出身地は、長崎県にある五島列島の一つの島、久賀島(ひさかじま)の“五輪地区”(ごりんちく)という場所で、父は終戦前までその地に暮していたという。 近くにキリスト教徒が多くいた場所で、長崎で迫害された“隠れキリシタン”が集まった島でもあった。 音楽好きだった父は、自宅ではバイオリンやギターを弾き、近くの五輪教会(ごりんきょうかい)から請われてオルガンを弾いていたという。 そんな父もまた敬虔なカトリック信徒だった。 五輪真弓(いつわまゆみ)という名前は、この五輪地区からとったものだという。 彼女は、ある番組のインタビューでこんなことを語っている。 「自分に受け継がれているものは“愛の精神”なのではなかろうか?」 「愛を信仰するという遺伝子が自分の中にも受け継がれていると感じています。」 それは1980年の春の出来事だった。 21歳の時にアルバム&シングル『少女』でデビューして以来、17枚のシングルを発表してきた彼女は「次作では究極の別れの歌を作りたい」と思っていた。 そんな矢先、デビュー時からプロデューサーとして関わり、家族ぐるみで彼女を可愛がり支えてくれた男・木田高介(きだたかすけ)が突然の交通事故で亡くなったとう衝撃的な訃報が彼女のもとに届..
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ジム・モリソンのFirst Step〜人生初のステージはシールドを抜いたギターの“当て振り演奏”だった!?

ロックの歴史において“孤高の詩人”として多くのアーティストに影響を与え続けてきたジム・モリソン。 彼はどんなきっかけで詩を書き始め、バンドを始めることとなったのか? 彼の“First Step(はじめの一歩)”とも言える時代のエピソードをご紹介します。 「耳鳴りのように内側から音楽が聴こえてきて、俺はそのメロディーに合わせて詩を作る。音が聴こえてきても俺はそれを譜面にする方法なんて知らない。覚えておくためには、詩を書きとめておくしかないんだ。だから多くの場合は詩だけ残ってメロディーは忘れてしまうんだ。」 彼は14歳の時に、とても夢中になった本があったという。 それはジャック・ケルアックが放浪体験を元に書き上げた小説『On the Road(路上)』だった。 「あれは1957年の冬だったよ。ビートジェネレーションを題材にした内容だった。」 また高校時代の英語教師が読書家だった彼との間で、こんなエピソードがあった。 教師はその時のことをこんな風に語っている。 「彼が16世紀や17世紀の悪魔学に関する本のことをレポートに書いてきた時に“本当にそんな本があるのか?”と疑ったことがありました。ちょうどアメリカ議会図書館に行くことになっていた別の教師がいたので、たのんで確認してもらったところ、確かにその本は存在していました。彼はおそらくアメリカ議会図書館でしか読めないような本も読んでいたんだと思います。私はそのレポートをもう一度読み返して感銘を受けました。」 その頃から彼は作家を志すようになる。 ランボーに関する逸話や、ボードレールやアレン・ギンズバーグ、ディラン・トーマスなど苦悩の中に自己主張を押し通した芸術家たちの作品が彼の心を捉えて離さなくなっていた。 新聞の切り抜きを集めたり、雑誌の広告、会話の断片などを大学ノートに書き留めることが日常となってゆく。 高校2年になってからは、詩の量が増えていったという。 その大学ノートは、彼の心を映す鏡でもあった。 ドアーズの初期の楽曲「Horse Latitudes(放牧地帯)」などは、そのノートから生まれたものだった。 高校卒業後、彼はフロリダ州立大学に入学する。 同級のルームメイトたちとシェアハウスで暮らしながらキャンパスライフを謳歌していた彼は、いつも酒に酔い、仲間たちとドンチャン騒ぎをして、毎夜エルヴィス・プレス..
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【5 PICS・音楽④】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年10月15日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ■複雑化するコンテンツ業界に「超シンプル」な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽④】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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ニーナ・シモン27歳〜一夜にして彼女をスター歌手にした伝説のコンサート、その後一変した生活

1959年9月12日、当時26歳だった彼女はニューヨークのTown Hallで初のホールコンサートを成功させる。 それまでクラブでの活動が中心だった彼女にとって、このステージは大きな転機となった。 「その日、私は舞台袖から満席になった客席を見渡したわ。観客はきちんと並んで席に付き、飲み物のグラスを手にした人など一人もいなかった。煙草売りの女の子がステージの前を横切ることもない。これまでやってきたグラブでの仕事は、すべてこの日のためのリハーサルだった。何年もかけて経験を重ね、確固とした自信が持てる演奏テクニックとステージでの振る舞い方は身につけていたわ。」 当時彼女が所属していたコルピックスレーベルは、その日のステージをライブアルバム『Nina Simone at Town Hall』として発売した。 彼女はこのコンサートによって絶賛され、一大センセーションを起こしたのだ。 「まるで映画のストーリーのように、私は一夜にしてスターになった。」 翌1960年2月、彼女は27歳を迎える。 あのTown Hallでのコンサートから約5ヶ月間、様々なマスコミが彼女を取り上げ、街を歩けば声をかけられ、アメリカ中からコンサートの依頼が殺到した。 彼女がそれまで作ってきたレコードはヨーロッパでも発売された。 「確かにあの夜の客席の反応はいつもと違っていたわ。何年もステージの仕事をしてきたけれど、あんな大喝采は初めてだった。」 伝説となったTown Hallでのコンサート以降、音楽評論家たちは彼女の音楽がどのジャンルに属するのか議論し始めた。 クラシックピアノの技術を用いてポピュラーを演奏し、そこにナイトクラブでの経験で得たジャズのテイストを織り交ぜていた彼女の音楽。 さらに黒人霊歌や、当時頭角をあらわしていたフォークミュージックも歌っていたのだから…議論は尽きなかった。 結局、彼女は“ジャズのようなものを歌う歌手”として分類されることとなった。 「私にとってジャズとは生き方だった。あるいは歩き方、話し方、考え方、行動のとり方、アメリカの黒人がする全てのことを意味するものだった。その点では私をジャズシンガーと呼んでも問題なかったけど、他のあらゆる点で私はジャズミュージシャンではなかった。」 彼女の身辺は劇的に変化していった。 頻繁にツアーに出るようになり、新しいアルバムの..
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“キング・オブ・スキッフル”と呼ばれた男の偉大な足跡と功績

2002年11月3日、 “キング・オブ・スキッフル”ことロニー・ドネガン(享年71)がイングランドの東部地方にある主教座聖堂都市ピーターバラにて死去した。 死因は心不全とされている。 若かりし頃のジョン・レノンやポール・マッカートニー、そしてキース・リチャーズなど、彼が立役者となって広めたスキッフルに刺激を受けてバンドを組んだという。 まずこのスキッフルとは一体どんな音楽なのだろう? これには諸説あるのだが…音楽のジャンルというよりバンド構成を表す用語なのだ。 元々は20世紀前半のアメリカで生まれたものらしいが、1950年代にイギリスで流行したことによって一つのスタイルとして確立される。 それはアメリカの古き良き時代の音楽、ジャズ、ブルース、フォーク、R&B、カントリーミュージックを現代(1950年代当時)に甦らせるきっかけとなり、多くのイギリスのロックミュージシャンたちに影響をあたえたと言われている。 そしてこのスキッフルバンドのルーツをさかのぼれば“Jug(ジャグ)”という古い音楽に辿り着く。 では“Jug(ジャグ)”とは一体何を表す言葉なのだろう? ジャグとはもともと取っ手付きの瓶(水差し)のことで、これを吹いてベースやチューバの代用品にしていたころから、その楽器を使用するバンドが“ジャグバンド”と呼ばれるようになったという。 その空き瓶楽器に加えて、洗濯板を使ったパーカション、洗濯桶を使ったベース、そしてカズーやバンジョー、フィドルなどの弦楽器でバンドが編成されていた。 それは開拓時代のアメリカで、身近にある生活用品を使うことから生まれたアメリカンミュージックの原点だったとも言われている。 1931年4月29日、彼はスコットランドのグラスゴーで生まれる。 父親はスコットランド出身のプロのヴァイオリニストで、母親はアイルランド出身の人だった。 彼がまだ2歳の時に一家はロンドン東部のイーストハムに移り住む。 アメリカのジャズメンやブルースマン、そしてカントリーミュージックに憧れを抱きながらロンドン郊外で育った彼は、10代の後半からクリス・バーバー(英国ジャズシーンをリードしていた人物)のバンドに加わり、21歳で自らのジャズバンドTony Donegan Jazzbandを結成。 並行して英国ジャズ界の重鎮ケン・コリヤー楽団などと活動を共にしながらソロ名義での..
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エディット・ピアフを偲んで〜最期まで歌と愛に生きた人生、亡くなる一年前に結婚した20歳年下の夫

私はおそろしい人生をおくってきました。 それは事実です。 でも、素晴らしい人生でもありました。 こんなことを言うのは他でもありません。 私は人生を…何よりも先ず、人生というものを愛してきたからです。 ピアフは自分に訪れる死を意識しながら書いた自伝にこんな言葉を綴っていた。 1963年10月10日、伝説のシャンソン歌手エディット・ピアフ(享年47)がフレンチ・リヴィエラ(南フランスにある保養地として知られる地中海沿岸の名称)にある小さな町プラスカシエの別荘で死亡した。 死因は肝臓癌と公表された。 パリで行われた彼女の葬儀の日には40,000人以上のファンが集まり、多くの飲食店や商店が弔意を表して休業し喪に服したという。 第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだった。 その恋多き人生は、スター歌手として活躍する一方で、事故による怪我とリューマチ性関節炎、それらの痛みをやわらげるためのモルヒネ中毒との闘いに費やしたと言われている。 彼女は2回結婚しており、最初は37歳の時に歌手のジャック・パルと1952年〜1956年の間夫婦生活を送っている。 二度目は47歳の時に20歳年下のテオ・サラポと結ばれている。 テオは元美容師で、彼女と出会った頃は歌手・俳優に転身したばかりだった。 もともとテオがピアフの大ファンであったことが縁となり(彼女が他界する一年前の)1962年に夫婦となった。 テオは妻ピアフの死後、妻の残した多額の借金(700万フラン)を独力ですべて返済したという。 1949年、当時34歳だった彼女は最愛の恋人マルセル・セルダン(フランスのボクサー)と悲劇的な別れを経験している。 ニューヨークでの試合が決まった恋人マルセル・セルダンに対してピアフは「とても待てないの、早く会いに来て!」と手紙を書く。 マルセルは船の予約をキャンセルして飛行機でニューヨークに向かう。 しかし、その飛行機がアゾレス諸島上空で墜落事故に遭い…彼はそのまま帰らぬ人となる。 最愛の恋人を失った彼女は、あまりのショックから正気を保つことができず、酒と麻薬に溺れていってしまう。 「麻薬って、ほんとに地獄のお祭りよ。単調で、灰色で、汚いわ。それでも続けるしかないのよ…」 当時トップスターとして彼女が稼いでいた高額なギャラは、寂しさをまぎらわしてくれる取り巻きとの交..
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【5 PICS・音楽③】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ★ヒント 「1980年代、日本の曲」です。 ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年10月7日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ■複雑化するコンテンツ業界に「超シンプル」な世界を。 5 PICSのバックナンバーはこちらから ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽③】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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