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Before The Rain〜雨音も爽やかに聴こえるハーモニカの調べ

「Before The Rain」/リー・オスカー デンマークのコペンハーゲン出身のハーモニカの名手リー・オスカー(67歳)が、37年前に発表した名曲である。 1969年、彼はアニマルズ解散直後のエリック・バートンとの出会い新バンド“War(ウォー)”を結成する。 ジャズ、ロック、ファンク、レゲエ、リズム&ブルースを融合したクロスオーバーなバンドとして、長く音楽ファンから愛され続ける存在となった。 バンド活動と平行してソロプレイヤー・作曲家としても才能を発揮する。 TVのCMや番組のBGM、そして映画のサントラ用にリー・オスカーの楽曲が起用されることが多く、日本では1977年に資生堂の人気CM(うれしくて、バラ色)で「The Promised Land (約束の地)」が使われて一躍注目を浴びた。 40代から50代の人には、聴き憶えのある懐かしいメロディなのかもしれない。 「The Promised Land (約束の地)」/リー・オスカー 資生堂 CM(1977年)うれしくて、バラ色 今回ご紹介するこの曲は、彼がWar在籍時に出したソロアルバム『Before The Rain』(1978年)に収録されたもの。 バンドでのファンキーなアプローチは違い、抒情的な美しいハーモニカの音色が心を癒してくれる。 「Before The Rain」/リー・オスカー 1994年、彼を初めWarの主だったメンバーはプロデューサーであるジェリー・ゴールドスタインの元を離れる。 Warというグループ名の権利がジェリー・ゴールドスタインにあった為、彼らのヒット曲「Low Rider」からとった“Lowrider Band”として現在も活動している。 結局Warに残ったのがロニー・ジョーダン(keyboards)のみという事を考えれば、Lowrider BandこそがWar の本流と言えるだろう。 「Low Rider」/ War(ウォー) リー・オスカーと云えば、ハーモニカの設計者としても知られており、彼の作ったハーモニカは日本でも発売されている。(現在の代理店は島村楽器) 【Lee Oskar Harmonicas】 http://www.leeoskar.com リー・オスカー『Before The Rain』 (1978/ Elektra) iTunes Amazo..
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ロード・オブ・ドッグタウン〜小さな町から起こったスケボー少年たちの革命

『ロード・オブ・ドッグタウン』(LORDS OF DOGTOWN/2005) サーフィンやスノーボードと並んでXスポーツ(エクストリーム)の代名詞であるスケートボード。日本でも1987年にサーファーやハードコアパンクス両サイドからのアプローチで“スラッシャー”のムーヴメントが起こり、原宿のホコ天や渋谷の代々木公園などでは、ネルシャツやロング&ショートスリーブシャツの重ね着ファッションの彼らを数多く見かけることができた。スーサイダル・テンデンシーズのようなスケーター・ロックが鳴り響いていたことを思い出す。2020年には東京オリンピックの正式種目にも決定した。 音楽やファッションとの結び付きも深いこのストリートアイテムを描いた最高にクールな映画がある。その名は『ロード・オブ・ドッグタウン』(LORDS OF DOGTOWN/2005)。斬新なスタイルで1970年代のアメリカ西海岸発カルチャーを築いた若者たちの物語。クレジットに“BASED ON THE TRUE STORY”とあるように、実話の映画化だ。 (以下ストーリー。ネタバレ注意) 1975年、カリフォルニア州ベニスビーチ。すべてはドッグタウンという小さな町で始まった。まだ10代半ばのジェイ、トニー、ステイシー、シドたちは、いつものようにサーフィンやスケートボードに明け暮れている。 兄貴分的存在のスキップ(ヒース・レジャー)のサーフショップ『ゼファー』が彼らのホーム(たまり場)だ。ジェイは貧しい家庭環境の中でいつも苛立っている。気が荒いトニーは厳しい父親の監視に窮屈さを感じ、真面目で冷静なステイシーはスキップに認めてもらえないでいる。シドは優しい性格で病気がち。 ある日、彼らをダシにスケートチームで一儲けを企むスキップ。揃いのTシャツや特製のボードをジェイたちに提供して“Z-BOYS”を結成。大会に送り込む。ブラック・サバスの「Iron Man」をBGMにセットするスキップ。彼らの闘争心むき出しのストリートな滑りは瞬く間に注目を浴びることになり、記録係のクレッグがカメラにそんな姿を収め続ける。計画通りにスキップの店は繁盛する中、ジェイたちは水不足のご時世で空になったプールで新しい滑りを試みる。しかしそれは留守中の豪邸に勝手に忍び込むという、悪さのやりたい放題だった。 大会を荒らしていくうちに、彼らにも転機が訪れ..
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恋はみずいろ〜全盛期のビートルズの売り上げを超えた!?インストゥルメンタルの金字塔

甘い、甘い、恋は甘いわ 私の世界は甘いの あなたの腕の中にいれば 甘い、甘い、恋は甘いわ 私の世界は甘いの あなたのそばにいれば 1968年2月10日、全米のミュージックチャート史において歴史的な出来事が起きた。 フランス人アーティストによるインストゥルメンタルの楽曲が1位に輝いたのだ。 その記念すべき曲の名は「Love Is Blue」。 フランス語の原題は「L’amour est bleu」、日本タイトルは「恋はみずいろ」と付けられた。 クレジットには作詞ピエール・クール、作曲アンドレ・ポップと記されている。 この曲は1967年に行なわれたユーロビジョン・ソング・コンテストのためにルクセンブルグ大公国の代表曲として書かれたもので、当時ギリシャの船会社主の娘ヴィッキー・レアンドロス(当時18歳)が歌い4位に入賞している。 翌年、イージーリスニング界の第一人者ポール・モーリアがアレンジしたインストゥルメンタル版がアメリカでリリースされて大ヒットを記録する。 (1968年2月〜3月のBillboard Hot 100で5週連続第1位) 当時はまだ“ムード音楽”として軽視されていたジャンルが“イージーリスニング”という新しい呼び名を冠されて、ヒットチャートを駆け上る快挙を遂げたのだ。 当時、音楽誌では「ビートルズの“ハロー・グッバイ”の上昇を妨げた曲」として、紹介される場面もあったという。 ヴィッキーの歌唱版もポール・モーリア版のヒットと共に各国で注目されるようになる。 同年には漣健児訳詞による日本語版「恋はみずいろ」が作成され、6ヵ国語を使い分ける語学力を持っていたヴィッキーは初来日の際(1970年)に日本語バージョンを披露したという。 その後、森山良子や天地真理、山本リンダといった人気歌手が歌唱し、日本でも広く親しまれるようになる。 現在でもBGMの定番のひとつとして様々な映像作品のシーンやTV番組などで用いられており、世界中で多くの人々に親しまれている曲である。 ちなみに…この曲のタイトルに用いられている“bleu”。 日本では悲しいイメージに結びつけがちな青色“みずいろ”と訳されているが、フランスではこの青系の色は美しく明るいイメージで用いられることがほとんどなのだ。 この曲でも、恋の美しさや素晴らしさをあらわす色として用いられている。 フランスの北部の気..
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みずいろの雨〜その美しいメロディーを生んだのは北海道の景色と原宿の歩道橋だった

1978年9月5日、八神純子の5thシングル「みずいろの雨」がリリースされた。 当時、約60万枚を売り上げてオリコンチャート2位となったその歌は、彼女のキャリアの中で最高セールスを記録した代表曲となった。 クレジットには作曲・八神純子、作詞・三浦徳子、編曲・大村雅朗と記してある。 曲の発表からさかのぼること数ヶ月…。 その年の初夏、彼女は札幌でコンサートをするために千歳空港に降り立った。 当時、彼女は気分的に落ち込んでいた。 空港から札幌市内に向かう車の中で、ふと口をつくメロディーがぼんやりと浮かんだという。 彼女は当時のことをこんな風に回想している。 「私の場合いつもキーポイントになるメロディーが浮かぶのは、落ち込んでいる気分が少し上向きにかげんになってくる時なんです。確かあの時もそうでした。」 当時“落ち込んでいた”という理由。 彼女に一体何があったのだろう? 彼女は八神製作所(医療機器の専門商社)の4代目会長の長女として生まれ、名古屋にある3千坪の大邸宅で育った。 3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習うほどの英才教育を受ける。 幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を唄い続けていたという。 高校生になるとボーカルスクールにも通い、自作の歌を創作し始める。 1974年、初めて作詞作曲した「雨の日のひとりごと」で第8回ポプコンに出場する。 彼女は16歳にして見事優秀曲賞を受賞し、同年の12月にはキャニオン・レコードAARD-VARKよりプレデビューを果たす。 その後も彼女は音楽業界から大きな注目と期待を集めながら、学生時代を過ごす。 そして20歳の時に満を持してメジャーのレコード会社(ディスコメイトレコード)と契約。 デビューシングルの「思い出は美しすぎて」(1978年)も売上12万枚のスマッシュヒットとなり、歌手活動も順風満帆と思われていた…。 ところが、同年にリリースしたメジャー2作目で彼女はつまずくこととなる。 当時のレコード会社の関連のコンテストに出場し、グランプリを取ったアーティストが、メジャーデビューをせずに引退。 いわゆる“大人の事情”で、彼女がそのグランプリ曲「さよならの言葉」をカバーしてリリースをするのだが…不発に終わる。 初めての挫折。 これまで応援してくれていた両親は、一転して「もう歌..
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「ほんとに完全だった…」日清が作った「完全メシ」シリーズがいろいろ完全でなんかすごい

“完全なメシ”がこんな簡単に食べれて良いのか…!? View Entire Post ›
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雨の日と月曜日は〜アメリカンポップスの最高峰カーペンターズを支えた作曲家と名奏者たち

「Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)」/カーペンターズ この「Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)」は、カーペンターズが1971年にリリースした3rdアルバム『Carpenters(カーペンターズ)』のオープニングナンバーとして収録されたもので、日本人にも長く愛されてきた“雨の歌”を代表するメロディだ。 それはジョン・レノンが「イマジン」を発表した年でもあった。 作詞・作曲は、カーペンターズが前年にカヴァーしてヒットさせた「We’ve Only Just Begun(愛のプレリュード)」のソングライターコンビであるポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルズによるもの。 1974年にはあ、作者であるポール・ウィリアムズが自身のアルバム『Here Comes Inspiration(友に捧げる詩)』で、この曲をセルフカヴァーした。 「Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)」/ポール・ウィリアムズ もともとは、60年代のカリフォルニア・サウンドを代表する男女混声の黒人5人組コーラスグループ“フィフス・ディメンション”のために書かれた楽曲だったが、この曲のデモテープを聴いたリチャード・カーペンターが、カーペンターズで取り上げることを決めたという。 発売当初Billboard Hot 100で2位となり、カーペンターズにとって4作目の全米トップ10シングルとなった。 ビルボード誌のイージー・リスニング・チャート(後のアダルト・コンテンポラリー・チャート)では4週に渡って1位を獲得。 1971年当時、イギリスではチャート・インせず1993年に再発シングルが63位、日本のオリコン順位では72位という記録が残っている。 ところで、このカーペンターズのバージョンのイントロの哀愁漂うハーモニカの音色を憶えているだろうか? 奏者はトミー・モーガンというハーモニカ演奏歴50年を超える伝説の巨匠である。 「Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)」の他にも、ビーチボーイズの「Good Vibrations」、リンダ・ロンシュタットの「Skylark」、ニール・ダイアモンドの「I’ll Be Home For Christmas」、さらにはエルヴィス・プレスリー、クインシー・ジョーン..
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アカシアの雨がやむとき〜日本の歌謡曲の潮流を変えた歌、その時代背景と誕生秘話

アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日がのぼる 朝の光のその中で 冷たくなったわたしを見つけて あの人は涙を流してくれるでしょうか 1960年4月にリリースされたこの歌は、歌手・西田佐知子(関口宏の妻)のヒット曲である。 日本では一般的に“アカシア”といえば、明治時代に輸入されたニセアカシアのことをさす。 このニセアカシアは、和名でハリエンジュ(針槐)とも呼ばれている北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木で、春には白く可憐な花をつけることでも知られている。 日本の歌謡曲や童謡の歌詞で“アカシア”として歌われているのは、たいていこのニセアカシアのことだという。 西田佐知子が歌ったこの「アカシアの雨がやむとき」が誕生したのは1960年(昭和35年)。 当時の日本はいわゆる“60年安保闘争”の真っただ中。 アメリカとの間の相互協力や安全保障条約の調印を発端とした反対運動で世の中は騒然としていた。 「安保反対!!!」と叫ぶ学生やデモ隊が、各地で機動隊と衝突を繰り返す日々。 1960年6月15日、悲劇は起こった…。 暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモ隊の先頭近くにいた東京大学文学部4年生の樺美智子(かんばみちこ)が圧死した。 21時に開かれた国会敷地内での全学連抗議集会で訃報が報告されたことで、警察車両への放火等を行うなど一部の学生が暴徒化し、負傷学生約400人、逮捕者約200人、警察官負傷約300人に上った。 国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。 また、浅沼稲次郎(社会党委員長)が演説中に17歳の右翼少年に刺殺されるなど、国内は大きな転換期を迎えようとしていた。 それはちょうど日本でカラーテレビの本放送がスタートした年でもあった。 そんな混沌とした年の春にリリースされたのがこの「アカシアの雨がやむとき」だった。歌に漂う挫折感と、民衆の絶望感とが重なりあって、当時この歌はあたかも“時代の歌”のように扱われたという。 しかし、この歌が誕生した経緯は安保闘争とはまったく無関係だった。 1956年に西田佐智子の名前でマーキュリーからデビューをしていた彼女は、ちょうどポリドールに移籍をして心機一転をはかり“..
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Rain Dogs〜トム・ウェイツが80年代に発表した名盤にまつわるいくつかの逸話

壊れた置き時計の中 ワインをまき散らす 雨の犬たちと一緒になって… タクシー、俺たちゃ歩いた方がよさそうだ 雨の犬たちと一緒に戸口めざし一目散 だって俺も雨の犬だからね… このタイトルナンバーを含むアルバム『Rain Dogs』は、1985年にトム・ウェイツがリリースした名盤だ。 “レイン・ドッグ”とは、雨で匂いが消えてしまい家に帰れなくなった迷い犬のことらしく、解釈によっては浮浪者やホーボーといった意味も含まれるという。 印象的なジャケットに写っている男は(雰囲気が本人に似ているのだが)トム・ウェイツではない。  ストックホルム出身の写真家アンダース・ぺーターセンが、ハンブルグのバーでのナイトライフを撮ったシリーズ作品から起用されたもの。 この一枚の写真に魅せられたトムは、ジャケットについてこんなことを語っている。 「写真はダイアン・アーバス(48歳で自殺した伝説の女流写真家)の作品とどこか通ずるものがあった。酔いどれ水兵がイカれた売春婦に抱かれる姿。女はケラケラ笑っているけど…男はすっかり酔いがさめていた。俺はこの写真を初めて見た時、しばらく釘付けになったんだ。」 本作は発売当時あまりヒットしなかったらしいが、後にトムの代表作の一つとなる。 アメリカの音楽メディア“ピッチフォーク (Pitchfork)”が選出した80年代トップアルバム100枚で8位に選ばれている。 ローリングストーン誌は、アルバムの完成度を高く評価し、こんなコメントを出した。 「ストリートに築かれた悲劇の王国の肖像として、これ以上のものはない。」 またR.E.M.のマイケル・スタイプは、当時、特に愛聴したアルバムとして本作を挙げている。 アルバムを聴いたU2のボノは、こんな言葉で賞賛したという。 「どうしてトム・ウェイツがアイリッシュじゃないんだ!」 エルヴィス・コステロは、インタビューでこんな事を語っている。 「Rain DogsとSwordfishtrombonesが世に出た時、なんて大胆な変身だろうと思ったよ。彼には完全に定着したイメージがあったからね。ケルアックやブコウスキーの影響を受けたヒップなテイストが売りだったし、音楽的にもビートジェネレーションのジャズの匂いがムンムンだった。ところが突然、ハウリン・ウルフやチャールズ・アイヴスみたいな音楽をやりだした。正直、彼がうらやましかっ..
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欲望〜スウィンギング・ロンドンと60年代ポップカルチャー

『欲望』(BLOW-UP/1967) 1960年代のある特定の時期(つまり1965年〜67年頃)におけるロンドンは「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれて、間違いなく世界のポップカルチャーの中心だった。それはファッション、デザイン、映画、文学、アート、写真、そして音楽などに携わる人々やそれらを支持する人々が醸し出した一つの確固たる文化革命ムードであり、ロンドンが最も輝いていた時代として今でも伝説のように語られる。 それまでヨーロッパではパリがモードやカルチャーの権威だった。しかし、この時期はロンドンに眩しいくらいのスポットライトが当たる。その起爆剤になったのは「若者」「音楽」「ファッション」の三つだった。 第二次世界大戦後のベビーブームの影響で、60年代はティーンエイジャー人口が増加。その消費力はいよいよ無視出来なくなってくる。いわゆる「ティーンエイジャー」という存在が都市ロンドンでも浮上して、コリン・マッキネスの小説『アブソリュート・ビギナーズ』(アラン・シリトー『土曜の夜と日曜の朝』をはじめとする“怒れる若者たち”の作家の一人)で描かれたようなモッズ族が全盛期に入る。 “完璧な10代のライフスタイル”を追求したモッズたちはドラッグをやり、イタリアン・ルックに拘り、何よりも音楽を愛した。モダン・ジャズ〜R&B〜ロンドンのビートバンド〜モータウン・ソウル〜ブルービート/スカといった彼らがクラブで聴いて踊りまくった音楽は、そのまま「スウィンギング・ロンドン」のサウンドトラックと言える。 大人気だったTV番組『レディ・ステディ・ゴー』でザ・フーやヤードバーズはTV初出演を果たしたし、ローリング・ストーンズ、ビートルズ、キンクス、スモール・フェイセズ、エリック・クラプトン、ロッド・スチュワート、デヴィッド・ボウイ、スティーブ・ウィンウッド、ダスティ・スプリングフィールド、マーク・ボラン、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ドノヴァンもすべてが「スウィンギング・ロンドン」の一部だった(イミディエイト・レーベルも)。 ファッション界ではミニスカートとボブ・ヘアーが革命を起こした。デザイナーのマリー・クワントやピエール・カルダン、あるいはヴィダル・サスーン。ジーン・シュリンプトン、ツィギー、アニタ・パレンバーグ、マリアンヌ・フェイスフル、パティ・ボイドといった可憐なモデルた..
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アーバン・カウボーイ〜都市開発で失われつつある男たちの“汗の精神”を描いたヒット作

『アーバン・カウボーイ』(Urban Cowboy/1980) カントリー歌手として鳴かず飛ばずだったミッキー・ギリーに転機が訪れたのは1971年。テキサス州ヒューストンのビジネスマン、シャーウッド・クライヤーと意気投合し、ホンキートンク・クラブの共同オーナーになったのだ。  ヒューストンから車で30分。パサデナという町のハイウェイ沿いにオープンしたこの酒場はフットボール場がまるごと入るほどスケールが大きく8000人を収容でき、カントリー歌手やバンドのライヴ、ダンス、バー、ゲームなどを目的に、地元の人々が集った(ちなみにパートナーシップが解消された1986年にクローズ)。 訪れる人々の多くは地元の石油科学産業で働くブルーカラーの男たちとその連れの女たち。ヒューストンの近代的な高層ビルで働くホワイトカラーに比べて経済格差は一目瞭然だが、体臭と汗と色気にまみれたカウボーイ精神と男気は絵になった(それにしても今の日本の郊外/地方都市の風景に近いことに驚く)。 『アーバン・カウボーイ』(Urban Cowboy/1980) はこの巨大なホンキートンク・クラブ「ギリーズ」を舞台に、男女の関係を通じて「都会のカウボーイ」「現代のカウボーイ」精神を描いたヒット作。 主演はジョン・トラボルタ。ショービジネス界の帝王ロバート・スティグウッドと3本の映画契約を結び、『サタデー・ナイト・フィーバー』『グリース』などでトップスターとなっていた彼は、この役を同時期のスターであるリチャード・ギアと争って勝ち取った。 (以下ストーリー。ネタバレ注意) 田舎町から仕事を求めて伯父を頼りにパサデナにやってきた青年バド(ジョン・トラボルタ)が、昼はヘルメットをかぶって工場で労働し、夜はカウボーイ・ハットを装い「ギリーズ」に繰り出す姿を追う。 バドはそこでシシー(デブラ・ウィンガー)と出逢い、恋に落ちる。男勝りなシシーの言動はバドを困惑させることもあったが、二人は友人たちに祝福されてゴールイン。ローンで購入したトレーラーハウスを新居に新婚生活が始まった。 「ギリーズ」にロデオマシーンが投入され、男と女たちの熱い眼差しが集まる。仮出所中のウェス(スコット・グレン)はロデオの名手。ウェスがシシーに色目を使ったことからバドと殴り合いになるが、シシーはバドを驚かせようとしてウェスの手ほどきを受けながらロデオ..
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