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夜の大捜査線〜アメリカ南部の相反する世界を“夜の熱気の中”で描いた歴史的名作

『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night/1967)を観るまで、実は随分と時間が掛かってしまった。もちろんアカデミー賞の作品賞にも輝いたこの映画の存在は知っていた。だが、邦題の影響もあって長らく敬遠してしまったのだ。そう、似たタイトルを持つあのテレビドラマ/テレビ映画の存在である。後者のイメージがこの素晴らしい映画を遠ざけていた。こんな理由でまだ手をつけていない人も意外と多いかもしれない。 いきなりオープニングの秀逸さにやられてしまった。南部の熱い夜に流れるレイ・チャールズが歌う「In the Heat of the Night」。これだけで何が始まるのか釘付けだ。本当のタイトルは『夜の熱気の中で』とすべきだろう。そして南部の汗のように全編に染み渡るクインシー・ジョーンズの音楽。原作となったジョン・ボールの同名小説はこんな書き出しで始まる。 午前2時50分。ウェルズの町はぐったりと暑気の中に沈潜していた。1万1千の住民の大部分はイライラと寝返りを打って、寝につく気にもなれない少数の人は、息詰まるような夜の空気を動かしてくれる微風の、かけらすらない空を恨んでいた。 主演は黒人映画俳優の先駆者シドニー・ポワチエ、そして本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得したロッド・スタイガーの二人。映画は単なるミステリーやサスペンスの枠を超え、「アメリカの重要な断面を捉えた鮮度の高い」社会派ドラマとして、公開当時大きな話題になったという。言うまでもなく、南部における白人の偏見と黒人への差別だ。 キング牧師が先導した公民権運動は、法の上では1964年7月に一応は成立した。だが“現場”ではそう簡単に新しいルールは始まるわけがない。『夜の大捜査線』はそんな時期に作られた。これは北部と南部、黒人と白人、都会と田舎、知性と感情、未来と過去といった二つの相反する世界、その間における微かな歩み寄りを描こうとした名作だ。 アメリカ南部、ミシシッピの田舎町。深夜、いつものようにカントリーソングを聴きながらパトカーで巡回していた警察官のサム(ウォーレン・オーツ)は、路上で男の死体を発見する。殺されたのは町の実業家ということもあり、署長のビル(ロッド・スタイガー)は犯人逮捕に躍起になる。 その頃、駅の待合室にはバージル(シドニー・ポワチエ)がいた。次の列車を乗り継ぐためにたまたま..
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ロード・トゥ・メンフィス〜伝説のブルーズマンたちの帰郷

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ロード・トゥ・メンフィス』(The Road To Memphis/リチャード・ピアース監督)。テネシー州メンフィスのビール・ストリートを舞台にしたブルーズマンたちの物語だ。 ビール・ストリートとは、1920〜50年代にかけてストリート・ライヴや劇場でのショーが盛んだったメンフィスの黒人商業地区のメインストリートの名称。現在ではすっかり観光地化されて全盛期の面影はほとんどなくなったそうだが、それでもB.B.キングのクラブをはじめ、ブルーズ発祥の町として多くの音楽ファンを魅了し続けている。 映画はW・C・ハンディ賞での記念ステージを披露するために、この地が育んだブルーズマンたちが各地から帰郷してくる姿を描く。伝説の顔ぶれが同じフィルムに収まっている事実も凄いが、ロードムービー風の追いかけ方も秀逸な傑作となった。 駆け出しの頃のB.B.キングもこの通りに立ってブルーズを歌っていた一人。地元のラジオ局WDIAにDJ兼ミュージシャンとしての職を得ると、「ビール・ストリート・ブルーズ・ボーイ」というニックネームで呼ばれた。長いので「ブルーズ・ボーイ」となり、「B.B.」になった。綿花畑を抜け出した“音楽畑”での新しい人生がスタートした。 そんなB.B.に最初のチャンスを与えたとされるのが、全米で黒人最初のDJとなったWDIA局のナット・D・ウィリアムズ。彼は素人コンテストの司会や150万人以上のデルタ地区の黒人たちに自分たちの音楽を届けた。 また、エルヴィス発掘まではビール・ストリートのブルーズマンたちを録音していたサン・レコードのサム・フィリップス。1951年にメンフィスにやって来たアイク・ターナーは一緒に仕事をしたサムに、当時を振り返ってこう言う。 その頃、黒人たちの音楽は「レイス・レコード」と呼ばれ、白人向けのラジオ局では絶対に流せなかった。そこでサムは閃いたのさ。白人に黒人のように歌わせればいい。R&Rの..
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ジミヘンがナポレオンジャケット(軍服)を身にまとうようになった理由

1960年代…ビートルズ、ストーンズを始め、英国のロックミュージシャンたちの多くが身に纏っていたミリタリーファッション。 例えばビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のアルバムジャケットで着ていたあの衣装。 そしてアメリカからイギリスの渡ってブレイクしたジミ・ヘンドリックスが着ていたあの上着。 それらはファッションシーンなどで“ナポレオンジャケット”とも呼ばれている軍服のことである。 60年代の後半には世界的な流行となり、日本でもGS(グループサウンズ)のバンドメンバーがステージ衣装として取り入れていた。 ミリタリージャケットと呼ばれる多くのものは、第一次世界大戦時の英国軍の将軍の礼服だった。 ジミヘンは1966年に渡英してまもない頃、ロンドンのヴィンテージショップでゴージャスな軍服を見つけ、チャス・チャンドラー(アニマルズのベーシストでもあり当時ジミのマネージャーを担当)にベースを売って工面してもらったお金で購入した。 チャスは、アニマルズ時代にイメージ戦略(衣装や写真)の重要性をよく理解したので、なんの躊躇もしなかったという。 「あの服はイギリス王立獣医軍団のものさ!1898年製だったっけ?軍服としてはかなりの代物だ。」 ジミは十代の頃に(一時期だけ)アメリカで陸軍に志願入隊している。 陸軍第101空挺師団(別名スクリーミング・イーグルス)に所属し、実際に軍服に身を包んだ経験のある数少ない若手ロックミュージシャンの一人だった。 「16歳で学校を中退して暇を持てあましてたし、俺が生まれ育ったシアトルの町では面白いことなんてなんにもなかったんだ。法的に入隊が許可される17歳になるのを待って陸軍に志願したんだ。そしたら驚くべきことに、軍人生活の方がずっとつまんなかったんだ!気温が0度以下で腕立て伏せ。飛行機からの落下訓練。軍隊は俺の根性を叩き直そうとした。俺が泥の中でも眠れるかどうか試したかったんだ。」 1966年9月24日、ジミ・ヘンドリックス(当時22歳)はロンドンのヒースロー空港に降り立った。 当時まだ無名だった彼は、その後、音楽シーンに革命をもたらすこととなる。 アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされた彼は、アメリカからの渡英を決断する。 当時、チャスにジミの情報をもたらしたのは..
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ジミ・ヘンドリックス最期の言葉〜死の直前、死後の出来事

「世界を変えようなんて思っていない。ストリートをもっと色鮮やかでカラフルにしたいだけなんだ。音楽には二種類ある。人生を反映したブルースと、詞そのものにはあまり意味はないかもしれないけどサウンドに意味のある“日の光”のような音楽だ。」 1970年9月11日金曜日、レコード・ミラー誌の取材でキース・アルトハム(音楽評論家)はジミ・ヘンドリクスにインタビューを行なった。 この7日後の9月18日、ジミはロンドンのホテルに滞在中に薬物の過剰摂取により他界した。 死因は睡眠中の嘔吐による窒息で、寝る前に飲んだ大量のワインと睡眠薬の過剰摂取が引き金となったと言われている。 直接の死因は睡眠薬の多量接種ということだが、ドラッグによって身も心もボロボロに破壊されていたことは明白だ。 ジミの死については医療ミス、自殺、他殺など様々な説が囁かれているが、今となっては真相を知る由もない。 現在YouTubeには、彼が死の1週間前に受けたこのインタビューの一部(音声)が動画として公開されている。 動画はアメリカの公共放送局PBSが製作したもので、録音した声とアニメーションを組み合わせた内容となっている。 ──あなたがイギリスでデビューを果たした1966年はサイケの全盛期でしたね。 その頃と比較して、あなたはファッションや風体も落ち着いた感じになりましたね。 「誰だってそういうフェーズを潜っていくものなんだよ。俺も最初に出てきた頃にはいろんなものを着飾ってたけど、俺がああいう格好をしてたのは、単純に自分のやってることがちょっとうるさ過ぎるんじゃないかってそれが心配だったからなんだよ。だけど、ヴィジュアル面だけで煽られるのも嫌だったんだよね。やっぱりちゃんと聴いてもらいたかったし。俺の音楽をちゃんと聴いてない連中が多過ぎると感じるようになったんだ。だから髪の毛を短く切って、体中にぶらさげていたアクセサリーや指輪を全部取ったんだ。」 ──あの有名なギターを燃やすパフォーマンスについて経緯など教えてもらえませんか? 「ある時、今夜ギターを燃やしてみるのはどうだろうって口にしてみたんだよね。ギターをぶっ壊すとか、なんかそういうことをやるべきかなって。そうしたら、それいいねって話になって、本当にいいと思うかって確認しても、絶対にやったら最高だよって話で。じゃあやるには自分の怒りを煽っていかないと..
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ソウル・オブ・マン〜ヴィム・ヴェンダース監督が捉えた3人の伝説のブルーズマン

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ソウル・オブ・マン』(The Soul Of A Man/ヴィム・ヴェンダース監督)。ヴェンダースお気に入りの3人のブルーズマンの姿を通じて、その真髄に迫っていく物語だ。 1977年。NASAが打ち上げる宇宙探査船ボイジャーは、太陽系外で遭遇するかもしれない“生物”のために、地球の挨拶言葉や音が録音されたレコードも一緒に連れて行くことにした。この時、バッハやベートーヴェンやモーツァルトと並んで、20世紀を代表する音楽として一人の黒人ミュージシャンの曲も入れられた。それはブラインド・ウィリー・ジョンソンが1927年に録音した「Dark Was the Night,Cold Was the Ground」。 ヴェンダースは映画監督らしい幾つかの創作上のマジックを仕掛けた。1947年に死んだはずのこのブラインド・ウィリーが“ナレーター”となって、我々に伝説のブルーズマンたちの人生を案内していくのだ。そして、1920〜30年代当時の風景とブルーズマンを再現するために、デブリー社のパルヴォという古い手回しカメラを使用。役者やセットを昔ながらの美しい映像が捉えることができ、余りにも効果的だったので、多くの人々は未発表の記録映像だと勘違いするほどだった。 ブラインド・ウィリー・ジョンソンは妻と共に聖的な曲しか歌わず、世俗的な音楽には一切手を出さなかった。ブルーズマンというよりは、弾き語りで神の教えを説くギター・エヴァンジェリスト。彼のギターテクニック、とりわけボトルネック奏法は「ブルーズ史上屈指の素晴らしさ」と称されることになった。 スキップ・ジェイムスは1931年に初めてのレコーディングを行い、18曲を一気に録音。だが、ある日突然ブルーズを演奏するのをやめてしまい、牧師となって以来30年もの間ブルーズと縁を切った。しかし、研究家たちに再発見された彼は、入院中の病院から連れられて1964年の「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」に出演。何時間も本物の..
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フィール・ライク・ゴーイング・ホーム~故郷ミシシッピとアフリカ大陸を結ぶBLUESの旅

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』(Feel Like Going Home/マーティン・スコセッシ監督)。ブルーズの源流を求めて、ミシシッピ・デルタから西アフリカのマリまでを旅する物語だ。 冒頭はミシシッピの森のある丘陵地帯。ファイフ奏者の伝説的存在オサー・ターナーがドラム隊を従えて庭を練り歩くシーンから始まる。ファイフとは横笛のことで、竹笛と草笛の中間のような音がする。自作のファイフとドラムによるこのオールド・ニグロ・スピリチュアルは、南部黒人の音楽の中でも最も古いものとして知られている。アフリカ直系の強烈な鼓動を感じすにはいられない。 故・駒沢敏器の著書『ミシシッピは月まで狂っている』には、オサー・ターナーに関するエピソードが記されている。オサーが初めてファイフを目にした日のことだ。 ある日、葦を手にした老人が丘からやって来た。幼い俺はその老人に聞いたんだ。 「おじさん、それは何ですか?」 「これはファイフだよ、ベイビー」 「僕にも作ってくれませんか」 「お前がいい子にしていて、ママの言うことをよく聞けば、作ってやってもいいぜ」 ある日の夕方のことだ。彼の住む場所へ行ってみた。中を覗くと、「あの坊やだな、こっちへ来い」という声が聞こえてきた。俺は恐る恐る中へ入って行った。するともう、ファイフができていたのさ。 「これがお前のファイフだ。どうせすぐには吹けやしないけどな」 「だめかもしれないけど、一生懸命やってみます」 旅の案内人はコーリー・ハリス。1969年生まれの彼は10代の頃にブルーズに目覚めたという世代。コリーは言う。 僕はブルーズに自分の先祖や歴史との結びつきを感じる。どの曲も歴史の一面を語っていて、ブルーズを演奏することで僕は理解した。自分を知るには過去を知るべきだし、行く道を知るには来た道を知るべきだと。 こうして旅はブルーズの故郷ミシシッピから始まっていく。コーリーはロバート・ナイトホークの息子サム・カーやウィリー..
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ニコ27歳〜ブライアン・ジョーンズが参加したデビューシングル、そしてアンディ・ウォーホルとの出会い

ニコ…本名はクリスタ・ペーフゲン。 彼女は生まれながらの嘘つきだった。 幼い頃からたくさんの嘘をついていたという。 彼女はそれを“お話”と呼んでいた。 その嘘は大人達から“ロマンティックな夢想”と呼ばれ、笑顔で見逃されていた。 友人達は皆、その“ちょっと変わった癖”を許した。 両親がロシア人なのか?それともロシアとトルコのハーフなのか?ロシアとポーランドとドイツとトルコのクオーターなのか? 出生、生い立ち、家族、年齢…彼女はいつも謎のベールに包まれていたという。 10代の頃から身長が180cmあった彼女は、パリを中心に『VOGUE』『ELLE』などの人気ファッション誌のモデルとして活動していた。 1960年(当時21歳)にはフェデリコ・フェリーニ監督の映画『甘い生活』に端役で出演。 彼女はこの頃からニューヨークに移り、しばらくの間はヨーロッパとアメリカを行き来しながら活動を行う。 1965年3月のある夜、彼女はローリング・ストーンズと出会う。 それは彼らのオーストラリアツアーの成功と、2ndアルバムの発売を祝うために、レコード会社が開いたパーティーの席だった。 ストーンズの初代マネージャーとして知られるアンドリュー・ルーグ・ オールダムが「スター候補の女の子を探している」という話の流れから、彼女が紹介されることとなる。 モデルの仕事のこと、フェリーニ監督の映画に出演したこと、ボブ・ディランと友達関係だということ…薄暗いVIP席で煙草を燻らせながら話す彼女に、オールダムはたちまち興味を持った。 オールダムが振り返ると、同じテーブルに座っていたブライアン・ジョーンズが彼女に熱い視線を注いでいたという。 その数秒後…ニコ(当時26歳)とブライアン(当時22歳)は、その場で直接言葉は交わさずとも特別なアイコンタクトを交わすこととなる。 彼女は当時、モデルや女優以外の新しいキャリアを必要としていた。 歌手という肩書きをいかにして手に入れるか? 「ブライアンのセクシーな魅力に惹かれたの…」 “若き大物”の近くに自分の位置を確保するため…彼女はブライアンのサディスティックな性癖や気紛れな行動に耐えた。 オールダムが彼女のために選んだ楽曲は、カナダ人作曲家ゴードン・ライトフットの作品「I’m Not Sayin」だった。 当時のライトフットといえば、エルヴィス・プレスリーやボブ・..
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若者達に捧げられた歌〜すべて時代のせいにして

♪「すべて時代のせいにして」/泉谷しげるwith 藤沼伸一(TV番組スタジオLIVE) 若いときはすべてが他人(ひと)のせい こうなってしまったのも親のせい ひきこもるのも社会のせい 誰を憎んで何を消し去る 泉谷しげると云えば、1970年代に沸き起こった日本のフォークブームの中で小室等、井上陽水、吉田拓郎等と肩を並べる存在だった。 今や(一般的には)ドラマの脇役などで活躍する個性派俳優として知る人の方が多いのかもしれない。 2008年、彼は自身が還暦を迎えるタイミングにあわせて一曲の新曲を書き下ろした。 同年5月11日の誕生日には、全62曲にも及んだ還暦記念LIVEを実施し、圧倒的な存在感と“タフさ”を存分に見せつけた。 そのステージから数日後(5月18日)、彼は自身がMCを務めるTBS深夜の音楽番組『ライブR-ゼロ』の収録のために赤坂にあるTBSのスタジオにいた。 その日、番組収録のために集められたオーディエンスの年齢層は二十代が中心だった。 いつもと違う客層を前に“泉谷流のもてなし”が展開される。 彼の温かい人柄と強面口調の絶妙なバランスに、客席は笑いと期待感に包まれる。 ステージ上に相棒・藤沼伸一(日本屈指のROCK&BLUESギタリスト)が登場し、スタジオ内はピリっとした空気に変わる。 そこで彼は若者達を前に、この新曲「すべて時代のせいにして」を披露した。 曲に合わせてお客が手拍子し始めると、曲をいったん止めて一言。 「待て、手拍子すんな馬鹿!」 2013年のNHK紅白歌合戦でも彼が放った“お約束”の台詞だ。 カメラはじっと聴き入る若者達の表情を映していた。 Ah すべて自分のせいにして Ah すべて生れのせいにして Ah すべて過去のせいにして 自分の命を止めるな 彼らにはどんな風に響いたのだろう? 今、三十代となっているであろう彼らはどんな大人になったのだろう? 今年もまた成人を迎える若者達がいる。 広辞苑で「成人」を引いてみた。 ①幼い者が成長すること。成年に達すること。また、その人。成年以上の人。おとな。 ②心身の発育を終え、一人前となった者。 ※トップの画像はオフィシャルサイトから使用させていたきました 【泉谷しげるオフィシャルサイト】 http://www.wagasha.co.jp ♪「すべて時代のせいにして」/泉谷しげる(アルバムVe..
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ピート・タウンゼンド〜真冬のコテージで綴り始めた『四重人格』

1973年初め。暗く冷たい、冬の週末の夜。 27歳のピート・タウンゼンドは自宅のコテージに一人座り、逆巻く川や隙間風の音を聞きながら記憶の旅に耽っていた。ここ数ヶ月もの間、家族や友人、バンドとステージにいる時でさえ、新しく生まれつつある“音楽と物語”のことが頭と心から離れない。しかし、今夜は違った。 1964年。私はアートスクールの友人と一緒に、ブライトンの桟橋の下で数時間眠ったところだった。友人の名前はリズ・リード。ストロベリー・ブロンドの可愛い子だった。 突如として、19歳だったあの日が蘇ってきた。二階には妻や子供たちが眠っている。ピートはノートをつかむと、何かに取り憑かれるように走り書きを始めた。この悲しくロマンチックな気持ちのまま綴りたかった。ジミーという名のモッズ少年の物語。ロックオペラ『四重人格』の誕生だ。 それは海岸でモッズとロッカーズの乱闘が起きた夜でもあった。まだ暗い中、しょぼしょぼと降る雨を避けながら桟橋の下の浜辺を歩いていると、モッズの一団と出くわした。私たちは一緒になってしばらく腰をおろした。みんな、当時流行していたアッパー系のドラッグ、パープル・ハーツから醒めようとしているところだった。 私たちは恋に落ちていた。なのに私はその後、リズとはデートなどしなかった。ただの一度も。彼女と一緒にいた時間は、あのときのまま静止し、高められ、私にとって永遠に特別なものとなった。 ピート・タウンゼンド。ザ・フーのギタリストであり、バンドのほとんどの曲を生み出すソングライター。ステージに立つと「怒れるゴロツキ」となって、風車のように腕を回すウインドミル奏法や跳躍と破壊のパフォーマンスで観客を魅了する男。 ザ・フーが持つ様々な表情──ハードな「My Generation」、ポップな「The Kids Are Alright」、バラードの「So Sad About Us」といったナンバーを量産したマキシマムR&B/モッズバンド時代。モンタレー、ウッドストック、ワイト島、リーズでは史上最高のライブバンドとして伝説化。ロックオペラ『Tommy』の知的な文学性。シンセサイザーをロックに取り入れた『Who’s Next』の開拓。ピート・タウンゼンドは26歳までにこれらのことすべてをやり遂げてしまった。 しかし、一方でロックスターにはつきもののドラッグやアルコール..
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